「で、なんなの。」
仕事帰り、自宅に戻ろうと会社を出て少し歩いたところでいきなり腕を掴まれ、無理矢理タクシーに押し込まれた。
それから着いた先は腕を掴みここまで拘束してきた男のマンションだった。
マンションの部屋に入り、いつも通りリビングへと向かった。
そして、このように半ば拉致された理由を尋ねてみた。
すると、拉致した男、秋吉は眉間に皺を寄せて息を吐いた。
「なんなのって、こっちの台詞だし。」
こっちの台詞と言われても、それこそこっちの台詞だ、と思う。
そう思いつつ、秋吉は不機嫌そうに続けた。
「今日二十四日なの分かってる?なのに自分ち帰ろうとするし、まじなんなの。」
確かに、今日は自宅に帰るつもりでいた。
今年のクリスマスイブは金曜日で、仕事が終わったら家に帰って寛いで、明日のクリスマスはどうしようかな、なんて考えていたところだった。
そんな考えを余所に秋吉はさらに言葉を続けていた。
「明日休みなのに、」
その言葉に、食い気味に反論した。
「そんなら、誰か、」
「誰かひっかけろとか言う気じゃねぇよな。」
そう言われて、思わず秋吉の顔を見る。
あまりにも声が真剣で、どう聞いても怒っているように聞こえた。
先ほどからの不機嫌さが怒りまできたのだろうか。
少し驚いて、しまったと思った。
「何が悲しくて恋人にそんなこと言われなきゃなんねーんだよ。」
その言葉にまた驚いた。
今、秋吉の口から、とんでもない単語が聞こえた。
何度も、何度も焦がれた単語が出たような気がした。
「セフレ、じゃなくて?」
そう小さく呟いた。
すると、秋吉はさらに眉間に皺を寄せて、先ほどより声を低くした。
「なにそれ。お前、セフレだと思ってたわけ?」
そのまま秋吉はスーツの上着を脱いで、近寄ってきた。
自分のネクタイを少し緩めて、俺のネクタイを引っ張った。
「まさか、俺じゃない別のセフレのとこ行こうとしてたとか言うんじゃねーだろうな。」
秋吉の顔が近づいてきて、さけることも、よけることも出来ずに固まっていると唇を合わせられた。
キスというより、唇に唇を触れさせているだけ。
このまま喋るだけで、気がおかしくなりそうになる。
そんな状態で、秋吉は唇を動かした。
「仮にお前が誰かに抱かれたとしても、赦すよ。お前にお仕置きという名のセックスを死ぬほど味あわせて、快感でおかしくなるほどに、」
唇が触れたまま喋られて、唇と唇が触れ合う。
こんなことするくらいなら、そのままいつものように乱暴なキスをされた方がよかった。
こんな寸前の、息を吹き込むようにされたら、本当に、気がおかしくなりそうだ。
そんなとき、秋吉は言葉を少し切り、俺の唇を舐めた。
「感じさせて。」
ゆるす、なんて、なんて傲慢な言葉なんだろう。
自分が何を言われているのか、分かるようで分からなくて。
分からないようで、分かってしまう。
所詮この身体は、秋吉だけを覚え込んで、秋吉だけを知っていて、秋吉に翻弄される。
秋吉以外の誰かに拓こうと思ったことも、秋吉以外の誰かに拓かれようと思ったこともない。
この身体が知るのは秋吉だけでいい。
この身体が覚えるのは、秋吉だけでいい。
そんな小さな願いは、想いは、秋吉には知られることなく存在している。
秋吉以外に、なんて、絶対ありえないのに。
秋吉は引っ張っていた俺のネクタイを放すと、俺の腕を掴んで寝室の扉を開けた。
そのままベッドへと投げ飛ばされて、ベッドに倒れ込む。
倒れ込んだ俺の上に覆い被さり、触れるだけのキスをした。
離れては触れて、そんな動作を何回も、何回も。
そして、先ほどと同じように、また唇を舐められた。
一通り気が済んだのか、唇を離して視線を絡める。
このまま絡めていたら、どう考えてもこちらが不利だ。
この熱い眼差しに、勝てたことなんてない。
覚悟を決めて、唇を開いた。
「…じゃ、お前は、誰かを抱いた腕で、」
「お前を抱くのか、…って?」
言いたいことが読まれていたのか、最初から用意していた言葉なのかは分からない。
俺が誰かに抱かれることはゆるさないと言った。
では反対に、お前が誰かを抱くとき、俺はなんと言えばいい。
それともお前は、俺は自分の許可なく抱かれることはゆるさないけれど、自分は誰を抱いてもいい、と、言うのだろうか。
俺は、お前に誰も抱くなと、言えるのだろうか。
言うことが、ゆるされるのだろうか。
「遊んだことがないとは言わない。今までセックスした全員を覚えてるかって言われても怪しい。でも、ちゃんとゴム着けて、避妊してる。」
その言葉に、目を見開いた。
前半はどうでもいい。
前半部分は今までにも聞いたことがあることだ。昔の話だと笑いながら話していたけれど、胸が痛くなりながら聞いたことを今でも覚えている。
だが、問題はそこではない。
問題は、後半の部分だ。
そんなことを考えていると、秋吉は俺のネクタイに手を掛け、一気に引き抜いた。
そして、ワイシャツのボタンに手を掛ける。
「お前、ゴム着けんの?」
「必要があれば、絶対。」
「必要が、ってお前、」
「使ったことないのにとかいうのかよ。」
引っかかった部分を聞いてみる。
考えてみれば、俺との行為でそれを使ったことなどないし、持っているところを見たこともない。
「使う必要ないだろ。」
ばっさりと切り捨てられるかのように言われ、胸が痛んだ。
そう言われれば、女ではない男の俺に使う必要など、ないと言われればないのだけれど。
そんな気持ちが顔に出てしまっていたのだろうか。
秋吉はボタンを外したワイシャツを左右に広げ、俺の身体を見つめた。
「お前が男だからじゃなくて、お前を愛してるから。」
秋吉の逞しい指が俺の素肌を撫ぜる。
その指で、身体を這われたら弱い。そのことを知っている指は、もっとだ。
「お前の中に出すとき、すげーきもちい。いつも溢れるまで中に出すのはきもちくて好きだから。」
秋吉の指が素肌を這い、胸の飾りに辿り着いた。
指の腹で押されては撫でられ、弾かれる。
ふと秋吉の顔を見ると、今から楽しみにしていたプレゼントを開けるような。
サンタさんありがとう、って言ってるような、そんな顔をしている。
そんなときに聞こえてくる秋吉の声と言葉は酔いそうだった。
悪酔いしそうな、そんな癖のある声。
「でも、正直その後の後処理もそれなりに気に入ってんだよね。」
指で胸を弄りながら、秋吉は耳元で少し高めの声を出した。
俺が好きな声。
逆らえない声。
好きで堪らない声。
秋吉のずるいところは、俺がこの声に弱いってことを知っててわざと使ってくること。
「後処理してる最中で我慢できなくなって中出ししちゃうのも、お前を愛してるから。」
その声で、全身の力を無くさせて、抵抗する気も力も無くさせて、そしてお前は、俺の心まで掻き乱すんだろう。
そんな言葉で、そんな声で、そんな表情で、俺を封じ込めて。
お前の口から出てくるその言葉も、言葉さえも、恋い焦がれるほど魅力的なものけど。
秋吉は俺の耳に舌を這わせ、ひと撫で舐めてから耳朶を甘噛みした。
その小さな痛みで、辛うじて言葉を発することが出来た。
「本気で愛してるって言うならゴムくらい着けるだろ。」
言い分を、その言葉の裏付けとなるような言い分を、言ってみればいい。
本当にそう思っているなら、納得出来るように言ってみろ。
秋吉の指に弄られている胸の飾りに少しの意識を向けながら、そう言って見せた。
「それ、後から考えた。」
耳元にあった顔を上げて、俺の顔を見る。
ほら、まただ、その、余裕に満ちたような顔。
「でも、お前さ、中で出されるとすげーきもちいし、感じるだろ。」
そう言いつつ、秋吉は俺のベルトのバックルに手を掛ける。
なんだかんだといいつつも、眼で俺を掴んで離さず、視線を合わせたまま器用にスーツをずらし、その先の欲望を手にした。
「俺がゴムのこと気付いた時って、既にお前が中に出されることを快感に思ってからだったの。」
その欲望を手にした秋吉は、大切なものでも包み込むように持ち、ゆっくりとその欲望に口づけた。
ちゅ、と音が出るかのように先端から根元までキスを降らせ、その付近の二つの袋に舌を這わせ、ゆっくりと舐める。
舌先と舌の表面を使い、丁寧に舐めとってゆく。
「だったら、中に出してやりたいじゃん。」
すると袋から舌を離し、その厚めの唇を欲望の先端に持って行き、口の中へ招き入れた。
舌先で先端の窪みを愛撫し、根元までしっかり咥え込み、往復を繰り返す。
これまでの愛撫で欲望が少なからず反応を示していることが伺える。
その反応が、自分のものであるにも関わらず、憎らしい。
秋吉はそんな俺に気付き、視線を絡めてくる。そして少しだけ反応したその欲望から口を離した。
「こんなに愛してるのに、セフレとか…ありえねーだろ。」
当たり前だろう、と言われるように。
当然だろう、と言われるように。
それを全て許容しろと言われるように。
「お前以外を抱くわけねーじゃん。」
そんな、一生聞けないんじゃないかと思っていたような言葉を投げ掛けられて。
頼むから。
頼むから、これ以上、俺の中を掻き乱さないで。
掻き乱すな。
「で、どうなんだよ。」
「…別に、今日はお前、別の誰かのとこ行くと思ってたし…。…他にセフレとか、いねーし…。」
同意を求められ、素直に思っていたことを言葉に出した。
普段はそんなことを自分から言わないし、催促されても言わない。
それでも、秋吉の言葉を聞いた後だと、素直に言えた。
自分の言葉で、秋吉に伝えることが出来た。
「俺にはお前だけなんだけど、お前は?」
そんな秋吉の言葉にも、素直に答えられる気がした。
「…お前だけ。」
小さく、でもはっきりと言った。
それでも、秋吉は次の言葉を待っていた。
いや、次ではなく、その言葉を改めろと言いたいのだろう。
秋吉は、気付いてる。
気付いていて、それに乗っかってくれていた。
会社では、秋吉と呼び、金橋と呼ばれる。それは、ごくごく自然で、当たり前のこと。
だが、この部屋に入ってからは、そんな呼称は無意味なものとなる。
この部屋に入ってからその呼称を使うなんて愚かなことは、いくらなんでも出来ない。
それを行えば機嫌が最上級に悪くなることも、その後のことに支障が出ることも知っている。
だからこそ、敢えて使わなかった、使えなかった、その呼称。
それに秋吉は気付いていて、だから、同じように返してくれていた。
「………迅矢だけ…。」
「俺も、加弦だけ。」
名前を呼ぶ、たったそれだけの行為なのに、今日初めてのことだ。
秋吉と呼べばこちらが不利になる。それを理解した上で、三人称を使っていたことを、見抜かれていた。
名前を呼んで、お互いに見つめ合う。
秋吉は欲望を掴んだまま、身体を上半身の方へ戻し、そのまま唇に唇を合わせた。
今度は触れるだけではなく、貪るような、いつものキス。
意識が飛びそうになるほどの、強烈な激しいキス。
今日は意識が飛ぶことはないけれど、そのまま逃げられない行為に雪崩れ込むことは分かっていた。
そしてそのまま、秋吉に身を預けた。
「つうか、やっぱそうだったか。」
ピロートークの第一声は迅矢のそんな一言だった。
「やっぱってなに。」
思った通りにそのまま聞いて見ると、煙草に手を伸ばした迅矢が少し拗ねたように言った。
「セフレって思われてたわけね。俺恋人のつもりだったのに、すげーショック。」
そんなことを言われても、思っていたものはしょうがない。
本当に今日は、迅矢は別の誰かと過ごすのだろうと疑いもしなかったし、まさか自分と、なんて微塵も思っていなかった。
逆に言うならば、それほど迅矢を信用していなかったのだろう。
迅矢は一つため息をつき、煙草の灰を灰皿に落とした。
「今までにお前にやったプレゼント覚えてる?」
「ピンキーに、ピアス、ブレスにネックレス?」
ふと過去に貰ったものを挙げてみる。
その贈り物たちは、一体いつ貰ったものだっただろうか。
誕生日なのか、記念日なのか、去年のクリスマスなのか。
考えることも出来なかった。
「全部束縛アイテムなんだけどなぁー。」
そういえば、貰ったものは大体こんな系統のもの。
束縛アイテムだと言われて初めて気付いたが、そういえばこれらは束縛アイテムだ。
「で、今年はこれのつもりだったの。」
そう言われ、迅矢を見るとラッピングされた小さな箱を投げられる。
形状からしてプレゼントだ。
小さいからピンキーかピアス、そんなところだろうか。
「開けていいの?」
「お前へのプレゼントなんだから開けろよ。」
言われるままにラッピングを外し、見えてきたのは小さな箱。
その中の箱を更に開けて、眼を見開いた。
「………これ、」
思わず言葉が漏れる。
それを見た迅矢は、俺の方に手を伸ばした。
「ほら貸せ、嵌めてやっから。」
「…ピンキーなら、前に…、」
戸惑いながら言いどもると迅矢は声を高くした。
「本気で言ってんの?どう見てもピンキーじゃねーじゃん。」
本当に、どうみても、ピンキーじゃない。
ピンキーじゃないけど、じゃあ…。
迅矢は箱から俺がピンキーだと言った指輪を取り出し、俺の左手を手に取った。
「これをお前に贈って、一緒に住もうって言ってやるつもりだったの。」
左手を迅矢に預け、なすがままになっていると、迅矢は薬指にその指輪を嵌めた。
サイズがぴったりで、その薬指で堂々と光っているその指輪と迅矢の言葉は、俺の涙腺を崩壊させるには充分すぎた。
「愛してる、加弦。」
迅矢に腕を引かれ、迅矢の腕の中に収まり、胸の音を聞く。
涙腺が崩壊した俺の眼からは大量の涙しか出てこない。
「俺と、一生生きて。」
これは、なに。
愛の告白?
永遠の誓い?
一生の証明?
ううん、なんでもいい。
どれでも構わない。
「迅矢…、好き。」
「もっと。」
「だいすき。」
「もっと。」
「愛してる。」
「分かってる。」
「離さないで。」
「離してなんて、やらない。」
迅矢に抱きしめられながら、ただ泣くことしか出来ない。
でも、幸せだ。
これ以上ないってくらいに、幸せだ。
「離してやれねーよ、もう。」
その一言で、完全に、落ちた。
仕事帰り、自宅に戻ろうと会社を出て少し歩いたところでいきなり腕を掴まれ、無理矢理タクシーに押し込まれた。
それから着いた先は腕を掴みここまで拘束してきた男のマンションだった。
マンションの部屋に入り、いつも通りリビングへと向かった。
そして、このように半ば拉致された理由を尋ねてみた。
すると、拉致した男、秋吉は眉間に皺を寄せて息を吐いた。
「なんなのって、こっちの台詞だし。」
こっちの台詞と言われても、それこそこっちの台詞だ、と思う。
そう思いつつ、秋吉は不機嫌そうに続けた。
「今日二十四日なの分かってる?なのに自分ち帰ろうとするし、まじなんなの。」
確かに、今日は自宅に帰るつもりでいた。
今年のクリスマスイブは金曜日で、仕事が終わったら家に帰って寛いで、明日のクリスマスはどうしようかな、なんて考えていたところだった。
そんな考えを余所に秋吉はさらに言葉を続けていた。
「明日休みなのに、」
その言葉に、食い気味に反論した。
「そんなら、誰か、」
「誰かひっかけろとか言う気じゃねぇよな。」
そう言われて、思わず秋吉の顔を見る。
あまりにも声が真剣で、どう聞いても怒っているように聞こえた。
先ほどからの不機嫌さが怒りまできたのだろうか。
少し驚いて、しまったと思った。
「何が悲しくて恋人にそんなこと言われなきゃなんねーんだよ。」
その言葉にまた驚いた。
今、秋吉の口から、とんでもない単語が聞こえた。
何度も、何度も焦がれた単語が出たような気がした。
「セフレ、じゃなくて?」
そう小さく呟いた。
すると、秋吉はさらに眉間に皺を寄せて、先ほどより声を低くした。
「なにそれ。お前、セフレだと思ってたわけ?」
そのまま秋吉はスーツの上着を脱いで、近寄ってきた。
自分のネクタイを少し緩めて、俺のネクタイを引っ張った。
「まさか、俺じゃない別のセフレのとこ行こうとしてたとか言うんじゃねーだろうな。」
秋吉の顔が近づいてきて、さけることも、よけることも出来ずに固まっていると唇を合わせられた。
キスというより、唇に唇を触れさせているだけ。
このまま喋るだけで、気がおかしくなりそうになる。
そんな状態で、秋吉は唇を動かした。
「仮にお前が誰かに抱かれたとしても、赦すよ。お前にお仕置きという名のセックスを死ぬほど味あわせて、快感でおかしくなるほどに、」
唇が触れたまま喋られて、唇と唇が触れ合う。
こんなことするくらいなら、そのままいつものように乱暴なキスをされた方がよかった。
こんな寸前の、息を吹き込むようにされたら、本当に、気がおかしくなりそうだ。
そんなとき、秋吉は言葉を少し切り、俺の唇を舐めた。
「感じさせて。」
ゆるす、なんて、なんて傲慢な言葉なんだろう。
自分が何を言われているのか、分かるようで分からなくて。
分からないようで、分かってしまう。
所詮この身体は、秋吉だけを覚え込んで、秋吉だけを知っていて、秋吉に翻弄される。
秋吉以外の誰かに拓こうと思ったことも、秋吉以外の誰かに拓かれようと思ったこともない。
この身体が知るのは秋吉だけでいい。
この身体が覚えるのは、秋吉だけでいい。
そんな小さな願いは、想いは、秋吉には知られることなく存在している。
秋吉以外に、なんて、絶対ありえないのに。
秋吉は引っ張っていた俺のネクタイを放すと、俺の腕を掴んで寝室の扉を開けた。
そのままベッドへと投げ飛ばされて、ベッドに倒れ込む。
倒れ込んだ俺の上に覆い被さり、触れるだけのキスをした。
離れては触れて、そんな動作を何回も、何回も。
そして、先ほどと同じように、また唇を舐められた。
一通り気が済んだのか、唇を離して視線を絡める。
このまま絡めていたら、どう考えてもこちらが不利だ。
この熱い眼差しに、勝てたことなんてない。
覚悟を決めて、唇を開いた。
「…じゃ、お前は、誰かを抱いた腕で、」
「お前を抱くのか、…って?」
言いたいことが読まれていたのか、最初から用意していた言葉なのかは分からない。
俺が誰かに抱かれることはゆるさないと言った。
では反対に、お前が誰かを抱くとき、俺はなんと言えばいい。
それともお前は、俺は自分の許可なく抱かれることはゆるさないけれど、自分は誰を抱いてもいい、と、言うのだろうか。
俺は、お前に誰も抱くなと、言えるのだろうか。
言うことが、ゆるされるのだろうか。
「遊んだことがないとは言わない。今までセックスした全員を覚えてるかって言われても怪しい。でも、ちゃんとゴム着けて、避妊してる。」
その言葉に、目を見開いた。
前半はどうでもいい。
前半部分は今までにも聞いたことがあることだ。昔の話だと笑いながら話していたけれど、胸が痛くなりながら聞いたことを今でも覚えている。
だが、問題はそこではない。
問題は、後半の部分だ。
そんなことを考えていると、秋吉は俺のネクタイに手を掛け、一気に引き抜いた。
そして、ワイシャツのボタンに手を掛ける。
「お前、ゴム着けんの?」
「必要があれば、絶対。」
「必要が、ってお前、」
「使ったことないのにとかいうのかよ。」
引っかかった部分を聞いてみる。
考えてみれば、俺との行為でそれを使ったことなどないし、持っているところを見たこともない。
「使う必要ないだろ。」
ばっさりと切り捨てられるかのように言われ、胸が痛んだ。
そう言われれば、女ではない男の俺に使う必要など、ないと言われればないのだけれど。
そんな気持ちが顔に出てしまっていたのだろうか。
秋吉はボタンを外したワイシャツを左右に広げ、俺の身体を見つめた。
「お前が男だからじゃなくて、お前を愛してるから。」
秋吉の逞しい指が俺の素肌を撫ぜる。
その指で、身体を這われたら弱い。そのことを知っている指は、もっとだ。
「お前の中に出すとき、すげーきもちい。いつも溢れるまで中に出すのはきもちくて好きだから。」
秋吉の指が素肌を這い、胸の飾りに辿り着いた。
指の腹で押されては撫でられ、弾かれる。
ふと秋吉の顔を見ると、今から楽しみにしていたプレゼントを開けるような。
サンタさんありがとう、って言ってるような、そんな顔をしている。
そんなときに聞こえてくる秋吉の声と言葉は酔いそうだった。
悪酔いしそうな、そんな癖のある声。
「でも、正直その後の後処理もそれなりに気に入ってんだよね。」
指で胸を弄りながら、秋吉は耳元で少し高めの声を出した。
俺が好きな声。
逆らえない声。
好きで堪らない声。
秋吉のずるいところは、俺がこの声に弱いってことを知っててわざと使ってくること。
「後処理してる最中で我慢できなくなって中出ししちゃうのも、お前を愛してるから。」
その声で、全身の力を無くさせて、抵抗する気も力も無くさせて、そしてお前は、俺の心まで掻き乱すんだろう。
そんな言葉で、そんな声で、そんな表情で、俺を封じ込めて。
お前の口から出てくるその言葉も、言葉さえも、恋い焦がれるほど魅力的なものけど。
秋吉は俺の耳に舌を這わせ、ひと撫で舐めてから耳朶を甘噛みした。
その小さな痛みで、辛うじて言葉を発することが出来た。
「本気で愛してるって言うならゴムくらい着けるだろ。」
言い分を、その言葉の裏付けとなるような言い分を、言ってみればいい。
本当にそう思っているなら、納得出来るように言ってみろ。
秋吉の指に弄られている胸の飾りに少しの意識を向けながら、そう言って見せた。
「それ、後から考えた。」
耳元にあった顔を上げて、俺の顔を見る。
ほら、まただ、その、余裕に満ちたような顔。
「でも、お前さ、中で出されるとすげーきもちいし、感じるだろ。」
そう言いつつ、秋吉は俺のベルトのバックルに手を掛ける。
なんだかんだといいつつも、眼で俺を掴んで離さず、視線を合わせたまま器用にスーツをずらし、その先の欲望を手にした。
「俺がゴムのこと気付いた時って、既にお前が中に出されることを快感に思ってからだったの。」
その欲望を手にした秋吉は、大切なものでも包み込むように持ち、ゆっくりとその欲望に口づけた。
ちゅ、と音が出るかのように先端から根元までキスを降らせ、その付近の二つの袋に舌を這わせ、ゆっくりと舐める。
舌先と舌の表面を使い、丁寧に舐めとってゆく。
「だったら、中に出してやりたいじゃん。」
すると袋から舌を離し、その厚めの唇を欲望の先端に持って行き、口の中へ招き入れた。
舌先で先端の窪みを愛撫し、根元までしっかり咥え込み、往復を繰り返す。
これまでの愛撫で欲望が少なからず反応を示していることが伺える。
その反応が、自分のものであるにも関わらず、憎らしい。
秋吉はそんな俺に気付き、視線を絡めてくる。そして少しだけ反応したその欲望から口を離した。
「こんなに愛してるのに、セフレとか…ありえねーだろ。」
当たり前だろう、と言われるように。
当然だろう、と言われるように。
それを全て許容しろと言われるように。
「お前以外を抱くわけねーじゃん。」
そんな、一生聞けないんじゃないかと思っていたような言葉を投げ掛けられて。
頼むから。
頼むから、これ以上、俺の中を掻き乱さないで。
掻き乱すな。
「で、どうなんだよ。」
「…別に、今日はお前、別の誰かのとこ行くと思ってたし…。…他にセフレとか、いねーし…。」
同意を求められ、素直に思っていたことを言葉に出した。
普段はそんなことを自分から言わないし、催促されても言わない。
それでも、秋吉の言葉を聞いた後だと、素直に言えた。
自分の言葉で、秋吉に伝えることが出来た。
「俺にはお前だけなんだけど、お前は?」
そんな秋吉の言葉にも、素直に答えられる気がした。
「…お前だけ。」
小さく、でもはっきりと言った。
それでも、秋吉は次の言葉を待っていた。
いや、次ではなく、その言葉を改めろと言いたいのだろう。
秋吉は、気付いてる。
気付いていて、それに乗っかってくれていた。
会社では、秋吉と呼び、金橋と呼ばれる。それは、ごくごく自然で、当たり前のこと。
だが、この部屋に入ってからは、そんな呼称は無意味なものとなる。
この部屋に入ってからその呼称を使うなんて愚かなことは、いくらなんでも出来ない。
それを行えば機嫌が最上級に悪くなることも、その後のことに支障が出ることも知っている。
だからこそ、敢えて使わなかった、使えなかった、その呼称。
それに秋吉は気付いていて、だから、同じように返してくれていた。
「………迅矢だけ…。」
「俺も、加弦だけ。」
名前を呼ぶ、たったそれだけの行為なのに、今日初めてのことだ。
秋吉と呼べばこちらが不利になる。それを理解した上で、三人称を使っていたことを、見抜かれていた。
名前を呼んで、お互いに見つめ合う。
秋吉は欲望を掴んだまま、身体を上半身の方へ戻し、そのまま唇に唇を合わせた。
今度は触れるだけではなく、貪るような、いつものキス。
意識が飛びそうになるほどの、強烈な激しいキス。
今日は意識が飛ぶことはないけれど、そのまま逃げられない行為に雪崩れ込むことは分かっていた。
そしてそのまま、秋吉に身を預けた。
「つうか、やっぱそうだったか。」
ピロートークの第一声は迅矢のそんな一言だった。
「やっぱってなに。」
思った通りにそのまま聞いて見ると、煙草に手を伸ばした迅矢が少し拗ねたように言った。
「セフレって思われてたわけね。俺恋人のつもりだったのに、すげーショック。」
そんなことを言われても、思っていたものはしょうがない。
本当に今日は、迅矢は別の誰かと過ごすのだろうと疑いもしなかったし、まさか自分と、なんて微塵も思っていなかった。
逆に言うならば、それほど迅矢を信用していなかったのだろう。
迅矢は一つため息をつき、煙草の灰を灰皿に落とした。
「今までにお前にやったプレゼント覚えてる?」
「ピンキーに、ピアス、ブレスにネックレス?」
ふと過去に貰ったものを挙げてみる。
その贈り物たちは、一体いつ貰ったものだっただろうか。
誕生日なのか、記念日なのか、去年のクリスマスなのか。
考えることも出来なかった。
「全部束縛アイテムなんだけどなぁー。」
そういえば、貰ったものは大体こんな系統のもの。
束縛アイテムだと言われて初めて気付いたが、そういえばこれらは束縛アイテムだ。
「で、今年はこれのつもりだったの。」
そう言われ、迅矢を見るとラッピングされた小さな箱を投げられる。
形状からしてプレゼントだ。
小さいからピンキーかピアス、そんなところだろうか。
「開けていいの?」
「お前へのプレゼントなんだから開けろよ。」
言われるままにラッピングを外し、見えてきたのは小さな箱。
その中の箱を更に開けて、眼を見開いた。
「………これ、」
思わず言葉が漏れる。
それを見た迅矢は、俺の方に手を伸ばした。
「ほら貸せ、嵌めてやっから。」
「…ピンキーなら、前に…、」
戸惑いながら言いどもると迅矢は声を高くした。
「本気で言ってんの?どう見てもピンキーじゃねーじゃん。」
本当に、どうみても、ピンキーじゃない。
ピンキーじゃないけど、じゃあ…。
迅矢は箱から俺がピンキーだと言った指輪を取り出し、俺の左手を手に取った。
「これをお前に贈って、一緒に住もうって言ってやるつもりだったの。」
左手を迅矢に預け、なすがままになっていると、迅矢は薬指にその指輪を嵌めた。
サイズがぴったりで、その薬指で堂々と光っているその指輪と迅矢の言葉は、俺の涙腺を崩壊させるには充分すぎた。
「愛してる、加弦。」
迅矢に腕を引かれ、迅矢の腕の中に収まり、胸の音を聞く。
涙腺が崩壊した俺の眼からは大量の涙しか出てこない。
「俺と、一生生きて。」
これは、なに。
愛の告白?
永遠の誓い?
一生の証明?
ううん、なんでもいい。
どれでも構わない。
「迅矢…、好き。」
「もっと。」
「だいすき。」
「もっと。」
「愛してる。」
「分かってる。」
「離さないで。」
「離してなんて、やらない。」
迅矢に抱きしめられながら、ただ泣くことしか出来ない。
でも、幸せだ。
これ以上ないってくらいに、幸せだ。
「離してやれねーよ、もう。」
その一言で、完全に、落ちた。
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「かね、は?」
食事が終わった昼休み、仲間に教室の前の廊下で言われた言葉を上手く復唱できず、そのまま脳内に送り込むことも出来なかった。
だからなのか、とても不恰好な言葉として出てしまったと思う。
するとそいつは、もう一度さっきの言葉を繰り返した。
「かねはし、かづる。」
「かねはし?」
「そう、金橋。金橋加弦。」
金橋加弦。
人の名前だろうその言葉を聞いても、思い当たる節はない。
分かることは、男の名前だということだけ。
こいつと同じ、自分の仲間だということでもない。
見ず知らずの名前が出てきた理由が、未だに分からなければ、その理由の説明さえもまだ受けていないところだ。
「で、その金橋がなんだって?」
その名前が出てきた理由が分からない、と理由を述べるように追求した。
すると、そいつの口からは、拍子抜けする言葉が飛び出した。
「似てんの、お前に。」
ただ冷静に、今まで通りに言葉を紡ぎ、そのまま言葉を発したのだろう。
だが、その言葉の真意が理解できず、思わず間抜けな声が溢れてしまう。
その間抜けな声を聞き、ふ、と笑ったそいつは、その次の波で笑いを堪えるようにしていた。
「会ってみれば分かる。多分、他の連中が見ても分かんないだろうけどさ。俺だけじゃない、あいつらも同じこと言ってた。俺らが、みんな感じたことだ。一回、会ってみろよ。」
俺らとはまた違う感想を持つかもしれないし?
そう言われ、少し興味が湧いてきた。
次々と仲間の名前を出され、そいつらが揃いも揃って、自分と金橋が似ているというのならば、興味深い。
更に詳しく話を聞くと、似ているというのは一般論で、ということではないことが分かった。
容姿も少しだけど似ている。だが、すごく似ているというほどではないらしい。
雰囲気が、というわけでもないらしく、他人が見ても、似ている箇所など思い当たらないようだ。
それでも、自分を除いた仲間四人が、その金橋加弦を目撃、接触した際に、同じ印象を持ったという。
個々に感じたそれを自分の発見として披露したところ、個々それぞれが同じことを言い、首を傾げながら笑ったとのこと。
何が、と聞かれると、全員がずばりと答えることが出来ないが、何かが、何処かが、似ている、という結果だった。
益々、自分の眼で確かねたくなった。
思い立ったら即実行。
仲間から聞いたクラスの扉を開け、中へと入る。
クラスの半数くらいの視線を浴びていることも分かっている。だが、目的はただ一つ。
奥から二列目の一番前の席。
「金橋?」
奥から二列目の一番前の席に座ってるのがそうだから。
そう言われた通りに足を運び、座っている奴に問い掛けた。
「ちょっといい?」
相手は驚いたような顔をして、こちらを見ている。
こっちが初対面ということは、当然相手も初対面のはず。
急に知らない相手に話し掛けられたら、少しは驚くものだ。
「え、いいけど、なに?」
驚きを隠せないように言葉を返してきた金橋は、目を左右させながら、動揺しつつも要望に答えた。
場所を階段の踊場に移し、壁に凭れ掛かる。
そして、今、街でよく聞く音楽のサビの部分を軽く歌ってみる。
「この歌、知ってる?」
「う、うん。」
「ちょっと、歌ってみて。一緒に歌うから。」
そう告げて、そのまま歌を走り出させた。
最初の出だしが少し遅れたが、ちゃんとついてきている。
主旋律を歌うだろうと判断し、すぐさま自分の歌をハモリに切り替えた。
たった数十秒、三十秒もなかっただろうその歌は、自分の中に革命を起こした。
今までの中で、これまでの人生の中で、一番声が重なって、溶け合って、同調し合っている声は初めてだ、と思った。
今までで一番綺麗な旋律。
練習をしたわけでもなく、ただ単に、偶然知っていた歌を口ずさむように歌っただけなのに、この感覚。
金橋の若干枯れたような擦れた声が、旋律を奏でると、こんなにも耳に心地よく聞こえる。
何より、自分の声とのハーモニーが驚くほど良かった。
「金橋。」
金橋を呼んだ声が、いつもより震えているのが分かる。
歌わせたのは、ほんの思いつきだった。
確かねるも何も、どうしていいかも分からず、第三者が見る眼ではなく、自分の眼で、当事者の眼でみるのは違う、と内心分かっていたのかもしれない。
だからこそ、直感に頼るしかないとも思った。
直感で、自分は金橋と歌うことを選択した。
だが、その結果は予想以上だった。
最早、仲間たちが言っていた似てる似てないはこの際どうでもいい。
こんなにも興奮する人間が、この世に存在するのかと思うほど、自分の興奮が際立った。
「俺、お前に興味があるんだよね。」
如何にも呼び出す前から興味があったかのような言い方をしたが、さっきまでと今では興味の度合いも意味もまるで違う。
たった今、この瞬間から、仲間たちの意味とは違う意味で、興味が湧いてきた。
これほどの興味を人間に対して持つのは、久しぶりの感覚だった。
「俺、秋吉迅矢。よろしく、金橋加弦。」
とりあえず、すっ飛ばしていた自己紹介をしよう。
話は、それからだ。
食事が終わった昼休み、仲間に教室の前の廊下で言われた言葉を上手く復唱できず、そのまま脳内に送り込むことも出来なかった。
だからなのか、とても不恰好な言葉として出てしまったと思う。
するとそいつは、もう一度さっきの言葉を繰り返した。
「かねはし、かづる。」
「かねはし?」
「そう、金橋。金橋加弦。」
金橋加弦。
人の名前だろうその言葉を聞いても、思い当たる節はない。
分かることは、男の名前だということだけ。
こいつと同じ、自分の仲間だということでもない。
見ず知らずの名前が出てきた理由が、未だに分からなければ、その理由の説明さえもまだ受けていないところだ。
「で、その金橋がなんだって?」
その名前が出てきた理由が分からない、と理由を述べるように追求した。
すると、そいつの口からは、拍子抜けする言葉が飛び出した。
「似てんの、お前に。」
ただ冷静に、今まで通りに言葉を紡ぎ、そのまま言葉を発したのだろう。
だが、その言葉の真意が理解できず、思わず間抜けな声が溢れてしまう。
その間抜けな声を聞き、ふ、と笑ったそいつは、その次の波で笑いを堪えるようにしていた。
「会ってみれば分かる。多分、他の連中が見ても分かんないだろうけどさ。俺だけじゃない、あいつらも同じこと言ってた。俺らが、みんな感じたことだ。一回、会ってみろよ。」
俺らとはまた違う感想を持つかもしれないし?
そう言われ、少し興味が湧いてきた。
次々と仲間の名前を出され、そいつらが揃いも揃って、自分と金橋が似ているというのならば、興味深い。
更に詳しく話を聞くと、似ているというのは一般論で、ということではないことが分かった。
容姿も少しだけど似ている。だが、すごく似ているというほどではないらしい。
雰囲気が、というわけでもないらしく、他人が見ても、似ている箇所など思い当たらないようだ。
それでも、自分を除いた仲間四人が、その金橋加弦を目撃、接触した際に、同じ印象を持ったという。
個々に感じたそれを自分の発見として披露したところ、個々それぞれが同じことを言い、首を傾げながら笑ったとのこと。
何が、と聞かれると、全員がずばりと答えることが出来ないが、何かが、何処かが、似ている、という結果だった。
益々、自分の眼で確かねたくなった。
思い立ったら即実行。
仲間から聞いたクラスの扉を開け、中へと入る。
クラスの半数くらいの視線を浴びていることも分かっている。だが、目的はただ一つ。
奥から二列目の一番前の席。
「金橋?」
奥から二列目の一番前の席に座ってるのがそうだから。
そう言われた通りに足を運び、座っている奴に問い掛けた。
「ちょっといい?」
相手は驚いたような顔をして、こちらを見ている。
こっちが初対面ということは、当然相手も初対面のはず。
急に知らない相手に話し掛けられたら、少しは驚くものだ。
「え、いいけど、なに?」
驚きを隠せないように言葉を返してきた金橋は、目を左右させながら、動揺しつつも要望に答えた。
場所を階段の踊場に移し、壁に凭れ掛かる。
そして、今、街でよく聞く音楽のサビの部分を軽く歌ってみる。
「この歌、知ってる?」
「う、うん。」
「ちょっと、歌ってみて。一緒に歌うから。」
そう告げて、そのまま歌を走り出させた。
最初の出だしが少し遅れたが、ちゃんとついてきている。
主旋律を歌うだろうと判断し、すぐさま自分の歌をハモリに切り替えた。
たった数十秒、三十秒もなかっただろうその歌は、自分の中に革命を起こした。
今までの中で、これまでの人生の中で、一番声が重なって、溶け合って、同調し合っている声は初めてだ、と思った。
今までで一番綺麗な旋律。
練習をしたわけでもなく、ただ単に、偶然知っていた歌を口ずさむように歌っただけなのに、この感覚。
金橋の若干枯れたような擦れた声が、旋律を奏でると、こんなにも耳に心地よく聞こえる。
何より、自分の声とのハーモニーが驚くほど良かった。
「金橋。」
金橋を呼んだ声が、いつもより震えているのが分かる。
歌わせたのは、ほんの思いつきだった。
確かねるも何も、どうしていいかも分からず、第三者が見る眼ではなく、自分の眼で、当事者の眼でみるのは違う、と内心分かっていたのかもしれない。
だからこそ、直感に頼るしかないとも思った。
直感で、自分は金橋と歌うことを選択した。
だが、その結果は予想以上だった。
最早、仲間たちが言っていた似てる似てないはこの際どうでもいい。
こんなにも興奮する人間が、この世に存在するのかと思うほど、自分の興奮が際立った。
「俺、お前に興味があるんだよね。」
如何にも呼び出す前から興味があったかのような言い方をしたが、さっきまでと今では興味の度合いも意味もまるで違う。
たった今、この瞬間から、仲間たちの意味とは違う意味で、興味が湧いてきた。
これほどの興味を人間に対して持つのは、久しぶりの感覚だった。
「俺、秋吉迅矢。よろしく、金橋加弦。」
とりあえず、すっ飛ばしていた自己紹介をしよう。
話は、それからだ。
「一大事だ!」
そう叫ぶ、重臣の声が響いた。
今の状況といえば、重臣の会議というものなのだが、その議題はあまりにも深刻な問題であり、国の問題でもあった。
議題の中心は、この国の王について。
否、王の身辺についてもその論内である。
この国の王は、我が儘で気ままな暴君である。
政をすることも他所に、日々、後宮の女を抱いて回るという身勝手ぶり。
後宮の女を抱くにしても、誰か一人を見初め、正室に召し上げるわけでもなく、ただ単に、日替わりに抱くというもの。
同じ女を抱くことは滅多にない。
そのためか、後宮は女が溢れている。
次から次へと女を抱いて、その女たちが同時に懐妊するとなると、それはまた世継ぎ問題や派閥争いなどに繋がる。
それでも、ただ女を抱くだけならば、重臣たちも目を瞑った。
だが、町にまで御忍びで下りたときは、流石に胆を冷やした。
後宮の女たちならば、身元がしっかりとしており、更に加えるならば貴族の娘達である。
懐妊すれば、そのまま正室に召し上げて、王妃にとなるだろう。
御子が無事誕生すれば、その後も国は安泰と言える。
だが、そういったことはなく、また、王の戯れも度を越えてきていた。
そんなとき、王が町に下ったときに出逢ったという男の話を思い出したのだ。
同じような年頃の男で、とても気が合ったのか、王は王宮に戻ってからもその男に逢いたいと言い出した。
だが、重臣たちにとっては、好都合な話であった。
今まで同じ年頃の者と触れ合う機会がなかったからか、王は話し相手を求めた。
ただ、それだけのこと。
重臣たちは直ぐ様その男を王宮へと招き入れた。
王の話し相手としてだ。
だが、それが最大の過ちで、今現在の重臣たちの悩みの種でもあった。
王は、後宮へは行かなくなった。
それと同時に寝所から出てこなくなったのだ。
寝所には、王とその男の二人だけ。
ことあるごとに、王とその男は親密になり、関係性は話し相手から友人へ、友人から更に変化していった。
極め付けに、王はもう女を抱かないとまで言い出した。
それは重臣たちが一番恐れていたことだった。
王は、その男にのめり込み、その男を抱き、その男以外を抱かなくなった。
また、正室を迎える気もない。
生涯をその男と過ごし、世継ぎを作る気も、王を続ける気もないとまで言ってきたのだ。
実際問題、王が行わない政は王の弟である第二皇子が行っている。
王を「王」と言っているのは、最早表面のみであることも確かな事実である。
また、このような状況から、一部関係者の中で王を失脚させる方向へと進んでいることも然りである。
「王様にこの件を進言しなければ。」
そう意気込み、重臣たちは王の寝所へと向かう。
寝所の前まで来ると、中から甲高い声が聞こえる。
それは喘ぎ声であり、男の声でもある。
中でどのようなことが行われているか、ということは、周知も承知の事実であることに何ら変わりはない。
「…んっ、あ、…ふ…ひゃ…!」
「…かづるっ…!」
「…あっ、も、もうむり…やぁ…!」
聞こえてくる声に、重臣たちの気は狂いそうになる。
だが、意を決して、扉に声を掛けた。
「王様、お取り込み中、失礼致します。」
「なんだよ。邪魔すんな。」
重臣の声に王は反応したが、その声は低く、怒りを含んでいた。
今の甘い時間を邪魔されたことに対する不満であることは充分理解できる。
だが、中からは止むことがなく甘い声が零れ続けている。
行動を止めることなく外と会話をしていることが分かる。
「お話がありまして、」
そう切り出すと、次の瞬間、扉の向こうからは思いもよらぬ返事が返ってきた。
「俺、王辞めるから。」
辞めてほしいだろ?
なんて、付け足した。
そして、王は更に言葉を繋げた。
「王なんて辞めて、こいつとずっと一緒にいる。」
いつかは、と重臣たちも覚悟はしていた。
だが、認めたくなかったのだ。
王が、あれほどの女を抱いていたあの王が、たった一人の、男に心を奪われるなんて。
男は、王の御子を身篭ることなど出来ない。
正室を迎えないというのならば、それでも構わない。
本来ならば構わないことなどないが、どうしてもということならばその件としてはどうとでもなる。
王がもう女を抱かないと言うのならば、このままではどの道、世継ぎを期待することは出来ない。
早かれ遅かれという言葉は正しく、このために存在しているのだろう。
そんな重臣たちの考えや心配事を他所に、洩れる声はとても淫猥で、卑猥で、官能的で、男とは思えない声でもある。
その男自体の風貌も、男勝りな方ではなく、どちらかというと、女性的な雰囲気を持っている。
王が心奪われるのも、分からないわけではない。
こうなってしまえば、もう王は止められない。
長い指が、白い肌を這う。
肌への触れ方が、なんとも厭らしい。
触れる度に白い肌は反応し、小刻みに揺れる。
その指を、ゆっくりと動かし、近くに存在した性器をゆっくりと掴んだ。
「………ん、…じんや………。」
「かづる、かわいい。愛してる。」
「お、れも…、愛してる。」
そう会話をすると、その次の瞬間から、また高い喘ぎ声が木霊する。
掴まれた性器をゆっくりと上下させ、徐々に速度を上げてゆく。
「じ、…!も、でちゃっ!あ、ん、っ!」
「いっぱい出してよ、全部出して。」
毎日、毎日、何日でも、同じことを繰り返す。
扱いて、突き上げて、摘んで、銜えて、舐めて、出して、触れて、何度でも同じことを繰り返す。
気が済むことなんてない。
一回で済むわけがない。
三回で済むわけがない。
五回で済むわけがない。
十回で済むわけがない。
一日の間に何度同じことを繰り返すのか。
一週間の間に何度同じことを繰り返すのか。
終わりは見えない。
二人は今日も、また同じことを繰り返す。
そう叫ぶ、重臣の声が響いた。
今の状況といえば、重臣の会議というものなのだが、その議題はあまりにも深刻な問題であり、国の問題でもあった。
議題の中心は、この国の王について。
否、王の身辺についてもその論内である。
この国の王は、我が儘で気ままな暴君である。
政をすることも他所に、日々、後宮の女を抱いて回るという身勝手ぶり。
後宮の女を抱くにしても、誰か一人を見初め、正室に召し上げるわけでもなく、ただ単に、日替わりに抱くというもの。
同じ女を抱くことは滅多にない。
そのためか、後宮は女が溢れている。
次から次へと女を抱いて、その女たちが同時に懐妊するとなると、それはまた世継ぎ問題や派閥争いなどに繋がる。
それでも、ただ女を抱くだけならば、重臣たちも目を瞑った。
だが、町にまで御忍びで下りたときは、流石に胆を冷やした。
後宮の女たちならば、身元がしっかりとしており、更に加えるならば貴族の娘達である。
懐妊すれば、そのまま正室に召し上げて、王妃にとなるだろう。
御子が無事誕生すれば、その後も国は安泰と言える。
だが、そういったことはなく、また、王の戯れも度を越えてきていた。
そんなとき、王が町に下ったときに出逢ったという男の話を思い出したのだ。
同じような年頃の男で、とても気が合ったのか、王は王宮に戻ってからもその男に逢いたいと言い出した。
だが、重臣たちにとっては、好都合な話であった。
今まで同じ年頃の者と触れ合う機会がなかったからか、王は話し相手を求めた。
ただ、それだけのこと。
重臣たちは直ぐ様その男を王宮へと招き入れた。
王の話し相手としてだ。
だが、それが最大の過ちで、今現在の重臣たちの悩みの種でもあった。
王は、後宮へは行かなくなった。
それと同時に寝所から出てこなくなったのだ。
寝所には、王とその男の二人だけ。
ことあるごとに、王とその男は親密になり、関係性は話し相手から友人へ、友人から更に変化していった。
極め付けに、王はもう女を抱かないとまで言い出した。
それは重臣たちが一番恐れていたことだった。
王は、その男にのめり込み、その男を抱き、その男以外を抱かなくなった。
また、正室を迎える気もない。
生涯をその男と過ごし、世継ぎを作る気も、王を続ける気もないとまで言ってきたのだ。
実際問題、王が行わない政は王の弟である第二皇子が行っている。
王を「王」と言っているのは、最早表面のみであることも確かな事実である。
また、このような状況から、一部関係者の中で王を失脚させる方向へと進んでいることも然りである。
「王様にこの件を進言しなければ。」
そう意気込み、重臣たちは王の寝所へと向かう。
寝所の前まで来ると、中から甲高い声が聞こえる。
それは喘ぎ声であり、男の声でもある。
中でどのようなことが行われているか、ということは、周知も承知の事実であることに何ら変わりはない。
「…んっ、あ、…ふ…ひゃ…!」
「…かづるっ…!」
「…あっ、も、もうむり…やぁ…!」
聞こえてくる声に、重臣たちの気は狂いそうになる。
だが、意を決して、扉に声を掛けた。
「王様、お取り込み中、失礼致します。」
「なんだよ。邪魔すんな。」
重臣の声に王は反応したが、その声は低く、怒りを含んでいた。
今の甘い時間を邪魔されたことに対する不満であることは充分理解できる。
だが、中からは止むことがなく甘い声が零れ続けている。
行動を止めることなく外と会話をしていることが分かる。
「お話がありまして、」
そう切り出すと、次の瞬間、扉の向こうからは思いもよらぬ返事が返ってきた。
「俺、王辞めるから。」
辞めてほしいだろ?
なんて、付け足した。
そして、王は更に言葉を繋げた。
「王なんて辞めて、こいつとずっと一緒にいる。」
いつかは、と重臣たちも覚悟はしていた。
だが、認めたくなかったのだ。
王が、あれほどの女を抱いていたあの王が、たった一人の、男に心を奪われるなんて。
男は、王の御子を身篭ることなど出来ない。
正室を迎えないというのならば、それでも構わない。
本来ならば構わないことなどないが、どうしてもということならばその件としてはどうとでもなる。
王がもう女を抱かないと言うのならば、このままではどの道、世継ぎを期待することは出来ない。
早かれ遅かれという言葉は正しく、このために存在しているのだろう。
そんな重臣たちの考えや心配事を他所に、洩れる声はとても淫猥で、卑猥で、官能的で、男とは思えない声でもある。
その男自体の風貌も、男勝りな方ではなく、どちらかというと、女性的な雰囲気を持っている。
王が心奪われるのも、分からないわけではない。
こうなってしまえば、もう王は止められない。
長い指が、白い肌を這う。
肌への触れ方が、なんとも厭らしい。
触れる度に白い肌は反応し、小刻みに揺れる。
その指を、ゆっくりと動かし、近くに存在した性器をゆっくりと掴んだ。
「………ん、…じんや………。」
「かづる、かわいい。愛してる。」
「お、れも…、愛してる。」
そう会話をすると、その次の瞬間から、また高い喘ぎ声が木霊する。
掴まれた性器をゆっくりと上下させ、徐々に速度を上げてゆく。
「じ、…!も、でちゃっ!あ、ん、っ!」
「いっぱい出してよ、全部出して。」
毎日、毎日、何日でも、同じことを繰り返す。
扱いて、突き上げて、摘んで、銜えて、舐めて、出して、触れて、何度でも同じことを繰り返す。
気が済むことなんてない。
一回で済むわけがない。
三回で済むわけがない。
五回で済むわけがない。
十回で済むわけがない。
一日の間に何度同じことを繰り返すのか。
一週間の間に何度同じことを繰り返すのか。
終わりは見えない。
二人は今日も、また同じことを繰り返す。
「きゃー!迅矢くーん!」
スタジオの玄関を出れば、出待ちのファンたちの歓声が飛ぶ。
そういうのを黄色い声というのだろう。
迅矢はそんなことを呆然と考えながらその光景を見ていた。
仕事が終わって疲れたというのも然り、早く家に帰ってゆっくりしたいというのも然り。
この甲高い女の声は疲れが増す。
基本的には、こんなことはルール違反のはずだと、ろくに回らない頭が考える。
そんな中、一際しっかりした声で、その場を一喝する声が聞こえた。
「整列しなさい。」
その声の主は、この集団を纏めるトップ。
膝上の短いスカートに流行のジャケット。
それなりに化粧をして、アクセサリーも欠かさず着ける。
身形を整えた、そんな、今時の女の姿。
少し前までは黒髪だったはずの頭は、最近になり綺麗な栗色に変わった。
変わったというよりか、戻した、というのだろうか。
迅矢が初めて逢った時も、綺麗な栗色の髪をしていた。
だから、迅矢も最初は気付かなかった。
同じ学校だということも、あの金橋加弦だということも、初めて逢ったとき、最初は。
「かね。」
たった一言で整列する他の女たち。
頭を下げ、次の言葉を待っている。
そんな中、迅矢が呼んだ言葉は、他の女たちにどう聞こえただろう。
「お疲れ様でした。迅矢くん。」
頭を下げたまま、かねはそう口にした。
地声より一つか二つ高く上げた声。
迅矢くん。
迅矢はその声でそう言われる瞬間が嫌いだ。
何度も言っているのに、改めようとしない。
改める気がない、そんな呼び方。
今までに何度同じことを言ったか知れない。
この場所でも、他の場所でも。
「これ、ここにいる皆からです。今日はもう遅いので、これで失礼します。ゆっくり休んでください。」
そう言ったのは他でもない、かねで。
確かに時間は夜の九時半を過ぎている。
集団のルールとしては、夜の十時以降は追い掛けないという大前提がある。
この場を後にしたら、もう追いかけるような時間は残っていない。
「かね、来てたのか。」
「はい、迅矢くんのお仕事の日ですから。」
かねが迅矢の初めての仕事の日から、一度も欠かしたことはないことは、迅矢も充分解ってる。
でも、それは初めて逢ったときから今までがついていただけだとも思う。
今のこの状況を踏まえれば、かねがこの場に、迅矢の目の前に存在していることはおかしい。
そう思いながら、迅矢は用意されたタクシーに乗り込んだ。
「おやすみなさい。」
聞こえたかねの声。
その後に、揃った声で言葉を復唱する声が聞こえた。
タクシーに乗り込み、その場所を去ったすぐ、迅矢は携帯電話を取り出し、通話の発信ボタンを押した。
手に入れるのに随分時間が掛かった電話番号。
その番号に電話を掛ける。
コールだけが響き、五コール目でやっとコールが止んだ。
「はい、もしもし。」
聞こえてくる声に、通話の基本である挨拶もすっ飛ばして、文句を言う。
「…お前、なんで来たの。」
怒っているように聞こえていることは迅矢も分かっている。
いつもより、三割り増しで声が低い。
そんなことは、分かっているんだ、充分。
「なんでって、迅矢くんのお仕事の日はいつも行ってるじゃないですか。」
そんな低い声に物怖じせず、かねは先程と同じように話す。
迅矢の嫌いな喋り方で。
この状況でしか使わない、丁寧語で話すことに迅矢は苛立ちを覚える。
「その喋り方止めろ。〝オリキのトップ〟のお前に言ってるんじゃねぇんだよ。」
そう突き放すように言えば、電話口で少しの沈黙が流れた。
その少しを乗り越え、向こう側から声を振り絞るのが分かった。
「…じゃあ…、どうすればいいの…、秋吉くん。」
喋り方を非難すれば、トップの話し方ではなくなった。
だが、それは、プライベートの話し方になったわけではない。
その使い分けですら、今は迅矢に苛立ちを覚えさせる。
「その呼び方も止めろ。迅矢くん、秋吉くん、そう呼ぶ状況じゃねーだろ。」
いつも言ってるよな?
お前には、一つしか呼び方を与えてないはずだ。
そう付け足し、迅矢は更に続けた。
「迅矢って呼べよ。学校では秋吉くんって呼ばれるのを許してる。トップでいるときは迅矢くんって呼ばれるのを許してる。でも今は、プライベートだ。学校でも仕事でもない。個人の時間だ。迅矢って呼べ、加弦。」
迅矢は不本意ながら、学校でも妥協して、仕事のときも妥協している。
仕事が終わった今、プライベートの時間にそんな喋り方、そんな呼び方をされたくはない。
これは、今までに何度も言ってきたことで、何度も議論してきたことでもある。
それでも、毎回それらを無視する。
だから毎回、口を酸っぱくして言うしかないのだ。
そうでなければ、改善など見られない。
改善する気などないことも、知っているけれど。
だからこそ、迅矢はそのことを逆手に取った。
学校にいるときは金橋、仕事のときはかね、プライベートのときは加弦、そう呼ぶようにした。
使い分けるなら、使い分けてやる。
使い分けるから、使い分けてみろ。
「………じ、んや…。」
小さく、聞き逃すかもしれないというほど、小さく小さく、そう呟いた。
やっと、聞けた。
高く変えた声ではなく、いつもの地声で。
その声が聞きたくて、その声で、名前を呼ばれたくて、そう言ったけれど。
「で、なんで来たんだよ、加弦。」
「だって、トップが行かないわけには…。」
「ふざけんな。今日お前、熱あったろ。」
迅矢は今日、午前中は学校に行った。
仕事が午後からで、午前は行けたからだ。
行ったら、見れる。
行ったら、逢える。
だから、迅矢は時間の余裕があるときは、ちゃんと学校に行く。
勉強をしに行っているのか、と問われると、誤魔化すのが大変だけれど。
確かに今日、午前中は学校に行ったし、見れたし、逢えた。
だが、熱があるからと早退したことも確かなことだ。
そんな身体ではさすがに現れないと思っていた。
それでも、かねは、女の格好に化粧をして、あの場所に現れた。
姿を見た瞬間、頭に思い浮かんだのが、あの一言だったのだ。
口にするまでに時間が掛かったが、体調が悪いことは一目瞭然だった。
だからこそ、迅矢は心配になって電話を掛けた。
「下がったもん。」
「嘘吐くな。化粧で誤魔化したつもりかもしんねーけど、俺が分かんねぇわけねぇだろ。明日のテストどうするんだよ。」
「…大丈夫だし。」
「…そこにいろ。迎えに行くから。」
居るところは分かっている。
すぐ近くにあるコンビニだ。
行動範囲、趣向、時間帯、それらを考えたら、近くにあるコンビニしかない。
「いい、帰れる。折角送り出したのに、意味ないじゃん。」
意味ないなんて言わせない。
夜遅くに、熱がある身体でこんなところに出向いて、逢えて数分がいいところだ。
トップだということを踏まえても、長話するほどの時間はない。
だからとはいえ、無理をせずに学校で逢うという選択肢もある。
身体を痛めてまで、そんなことをして欲しくない。
声が聞きたいなら、電話する。
逢いたいなら、逢いに行く。
迅矢はそう言い続けているのに。
「…加弦。」
他に何を言っても無駄だ。
ただ、効力があるとすれば、好きだというこの声で、その名を呼ぶことだけ。
それを迅矢は知っている。
今までの経験上、これが一番効果的で、成功率が高い。
ただ、名前を呼ぶだけ。
この、声で。
好きだと言った、この声で。
たったそれだけでいい。
「………十分だけ、待ってる…。」
すると、消えそうなか細い声で、細く小さく呟いた。
恥ずかしくて、嬉しくて、申し訳なくて。
そんな感情が、今、あの身体の中を熱の熱さと共に駆け巡っているだろうと予測する。
そんな中、迅矢は思った。
勝った。
成功だ。
普段から負けず嫌いで、自分が弱っているところを見せたがらない。
だから、余計に今は嫌なのだろう。
だが、そんなこと構わない。
十分だけ待つというのならば、言い逃れが出来ないように十分以内に行ってみせる。
迅矢は必ず十分以内に着くからと電話を切り、タクシーの運転手に進路変更を告げた。
スタジオの玄関を出れば、出待ちのファンたちの歓声が飛ぶ。
そういうのを黄色い声というのだろう。
迅矢はそんなことを呆然と考えながらその光景を見ていた。
仕事が終わって疲れたというのも然り、早く家に帰ってゆっくりしたいというのも然り。
この甲高い女の声は疲れが増す。
基本的には、こんなことはルール違反のはずだと、ろくに回らない頭が考える。
そんな中、一際しっかりした声で、その場を一喝する声が聞こえた。
「整列しなさい。」
その声の主は、この集団を纏めるトップ。
膝上の短いスカートに流行のジャケット。
それなりに化粧をして、アクセサリーも欠かさず着ける。
身形を整えた、そんな、今時の女の姿。
少し前までは黒髪だったはずの頭は、最近になり綺麗な栗色に変わった。
変わったというよりか、戻した、というのだろうか。
迅矢が初めて逢った時も、綺麗な栗色の髪をしていた。
だから、迅矢も最初は気付かなかった。
同じ学校だということも、あの金橋加弦だということも、初めて逢ったとき、最初は。
「かね。」
たった一言で整列する他の女たち。
頭を下げ、次の言葉を待っている。
そんな中、迅矢が呼んだ言葉は、他の女たちにどう聞こえただろう。
「お疲れ様でした。迅矢くん。」
頭を下げたまま、かねはそう口にした。
地声より一つか二つ高く上げた声。
迅矢くん。
迅矢はその声でそう言われる瞬間が嫌いだ。
何度も言っているのに、改めようとしない。
改める気がない、そんな呼び方。
今までに何度同じことを言ったか知れない。
この場所でも、他の場所でも。
「これ、ここにいる皆からです。今日はもう遅いので、これで失礼します。ゆっくり休んでください。」
そう言ったのは他でもない、かねで。
確かに時間は夜の九時半を過ぎている。
集団のルールとしては、夜の十時以降は追い掛けないという大前提がある。
この場を後にしたら、もう追いかけるような時間は残っていない。
「かね、来てたのか。」
「はい、迅矢くんのお仕事の日ですから。」
かねが迅矢の初めての仕事の日から、一度も欠かしたことはないことは、迅矢も充分解ってる。
でも、それは初めて逢ったときから今までがついていただけだとも思う。
今のこの状況を踏まえれば、かねがこの場に、迅矢の目の前に存在していることはおかしい。
そう思いながら、迅矢は用意されたタクシーに乗り込んだ。
「おやすみなさい。」
聞こえたかねの声。
その後に、揃った声で言葉を復唱する声が聞こえた。
タクシーに乗り込み、その場所を去ったすぐ、迅矢は携帯電話を取り出し、通話の発信ボタンを押した。
手に入れるのに随分時間が掛かった電話番号。
その番号に電話を掛ける。
コールだけが響き、五コール目でやっとコールが止んだ。
「はい、もしもし。」
聞こえてくる声に、通話の基本である挨拶もすっ飛ばして、文句を言う。
「…お前、なんで来たの。」
怒っているように聞こえていることは迅矢も分かっている。
いつもより、三割り増しで声が低い。
そんなことは、分かっているんだ、充分。
「なんでって、迅矢くんのお仕事の日はいつも行ってるじゃないですか。」
そんな低い声に物怖じせず、かねは先程と同じように話す。
迅矢の嫌いな喋り方で。
この状況でしか使わない、丁寧語で話すことに迅矢は苛立ちを覚える。
「その喋り方止めろ。〝オリキのトップ〟のお前に言ってるんじゃねぇんだよ。」
そう突き放すように言えば、電話口で少しの沈黙が流れた。
その少しを乗り越え、向こう側から声を振り絞るのが分かった。
「…じゃあ…、どうすればいいの…、秋吉くん。」
喋り方を非難すれば、トップの話し方ではなくなった。
だが、それは、プライベートの話し方になったわけではない。
その使い分けですら、今は迅矢に苛立ちを覚えさせる。
「その呼び方も止めろ。迅矢くん、秋吉くん、そう呼ぶ状況じゃねーだろ。」
いつも言ってるよな?
お前には、一つしか呼び方を与えてないはずだ。
そう付け足し、迅矢は更に続けた。
「迅矢って呼べよ。学校では秋吉くんって呼ばれるのを許してる。トップでいるときは迅矢くんって呼ばれるのを許してる。でも今は、プライベートだ。学校でも仕事でもない。個人の時間だ。迅矢って呼べ、加弦。」
迅矢は不本意ながら、学校でも妥協して、仕事のときも妥協している。
仕事が終わった今、プライベートの時間にそんな喋り方、そんな呼び方をされたくはない。
これは、今までに何度も言ってきたことで、何度も議論してきたことでもある。
それでも、毎回それらを無視する。
だから毎回、口を酸っぱくして言うしかないのだ。
そうでなければ、改善など見られない。
改善する気などないことも、知っているけれど。
だからこそ、迅矢はそのことを逆手に取った。
学校にいるときは金橋、仕事のときはかね、プライベートのときは加弦、そう呼ぶようにした。
使い分けるなら、使い分けてやる。
使い分けるから、使い分けてみろ。
「………じ、んや…。」
小さく、聞き逃すかもしれないというほど、小さく小さく、そう呟いた。
やっと、聞けた。
高く変えた声ではなく、いつもの地声で。
その声が聞きたくて、その声で、名前を呼ばれたくて、そう言ったけれど。
「で、なんで来たんだよ、加弦。」
「だって、トップが行かないわけには…。」
「ふざけんな。今日お前、熱あったろ。」
迅矢は今日、午前中は学校に行った。
仕事が午後からで、午前は行けたからだ。
行ったら、見れる。
行ったら、逢える。
だから、迅矢は時間の余裕があるときは、ちゃんと学校に行く。
勉強をしに行っているのか、と問われると、誤魔化すのが大変だけれど。
確かに今日、午前中は学校に行ったし、見れたし、逢えた。
だが、熱があるからと早退したことも確かなことだ。
そんな身体ではさすがに現れないと思っていた。
それでも、かねは、女の格好に化粧をして、あの場所に現れた。
姿を見た瞬間、頭に思い浮かんだのが、あの一言だったのだ。
口にするまでに時間が掛かったが、体調が悪いことは一目瞭然だった。
だからこそ、迅矢は心配になって電話を掛けた。
「下がったもん。」
「嘘吐くな。化粧で誤魔化したつもりかもしんねーけど、俺が分かんねぇわけねぇだろ。明日のテストどうするんだよ。」
「…大丈夫だし。」
「…そこにいろ。迎えに行くから。」
居るところは分かっている。
すぐ近くにあるコンビニだ。
行動範囲、趣向、時間帯、それらを考えたら、近くにあるコンビニしかない。
「いい、帰れる。折角送り出したのに、意味ないじゃん。」
意味ないなんて言わせない。
夜遅くに、熱がある身体でこんなところに出向いて、逢えて数分がいいところだ。
トップだということを踏まえても、長話するほどの時間はない。
だからとはいえ、無理をせずに学校で逢うという選択肢もある。
身体を痛めてまで、そんなことをして欲しくない。
声が聞きたいなら、電話する。
逢いたいなら、逢いに行く。
迅矢はそう言い続けているのに。
「…加弦。」
他に何を言っても無駄だ。
ただ、効力があるとすれば、好きだというこの声で、その名を呼ぶことだけ。
それを迅矢は知っている。
今までの経験上、これが一番効果的で、成功率が高い。
ただ、名前を呼ぶだけ。
この、声で。
好きだと言った、この声で。
たったそれだけでいい。
「………十分だけ、待ってる…。」
すると、消えそうなか細い声で、細く小さく呟いた。
恥ずかしくて、嬉しくて、申し訳なくて。
そんな感情が、今、あの身体の中を熱の熱さと共に駆け巡っているだろうと予測する。
そんな中、迅矢は思った。
勝った。
成功だ。
普段から負けず嫌いで、自分が弱っているところを見せたがらない。
だから、余計に今は嫌なのだろう。
だが、そんなこと構わない。
十分だけ待つというのならば、言い逃れが出来ないように十分以内に行ってみせる。
迅矢は必ず十分以内に着くからと電話を切り、タクシーの運転手に進路変更を告げた。
「…じんや。」
そう呟きながら、繋いだ手に力を入れた。
豪邸に負けないくらいの大きな庭の真ん中で、歩くのを止めた。
七月上旬の、よく晴れた日だった。
「心配するな。」
その言葉に、つい先程抑えたばかりの想いが溢れ返る。
本当についさっき、十分も経たないほど少し前に、やっと落ち着かせた気持ちが、感情が、また咽返るほど戻ってくる。
「やだ、やっぱりやだっ!」
手を離し、そのまま胸に飛び込み、抱きつく。
「かづる。」
宥めるように、落ち着かせるように、名前を呼ぶ。
大好きな声が、名前を呼んでくれている。
でも、これはカウントダウンだ。
「や…やだよぉー…。」
眼から溢れる涙は止まらない。
止まってはくれない。
何度必死に止めても、また溢れてくる。
「じんやと一緒にいる。一緒がいい。やだ、行かないで。」
行かないで。
行かないで。
行かないで。
幼子のように何度も同じことを言い続け、嗚咽で何も言えなくなるほど、意気込んだ。
「一年もの長い間、ありがとう。ごめんな。」
一年。
たった一年だ。
長いなんて思わない。
寧ろ、一瞬のようだったとも思う。
「そんなこと言わないで!長くない!短かったよ…。」
一緒に過ごした一年は、とても一瞬で、泡沫のように消えてしまった。
ずっと、これからも、続くと思っていた日常が、突然崩れた。
「ごめんな。」
困ったように、名残惜しそうに、そう言われる。
「謝るくらいなら、一緒にいてよ。今日も明日も、明後日も、いままでと同じように暮らそう。」
「でも、返さなきゃ。」
家族に、お前を。
そう続けられて、益々涙が溢れた。
「返すってッ…!じんや!」
そんなこと、しなくていいのに。
「ほら、泣いてると俺が警察に行けないだろ。」
「行かなくていい!行かないで!ずっと一生、一緒にここで暮らそうって言ったのに!」
「泣かないで。ほんとに、行けないから。」
なら、行かなくていい。
泣けば行かないなら、いつまでだって泣く。
行けば、もう逢えない。
もう、姿を見ることも出来ない。
もう、声を聞くことも出来ない。
もう、触れることも出来ない。
もう、手を握ることも出来ない。
もう、抱き合うことも出来ない。
もう、唇を合わせることも出来ない。
もう、身体を重ねることも出来ない。
もう、愛を囁くことも出来ない。
今までの日常が、全部消えてしまう。
今までの日常が、全部無くなってしまう。
「一年前の今日、かづるに初めて触れて、すごく嬉しかった。自分への誕生日プレゼントに、って連れて帰ったこと、悪かったと思ってる。」
「そんなこと悪く思わなくていいって何回言えば分かるの!」
一年前の今日、この町外れの豪邸に来た。
重い瞼を開けると、頬を上げ嬉しそうに微笑む姿を見た。
誘拐されて、監禁されている、と知ったのは、その直後だった。
一日目、誕生日だと言った男を正面から殴りつけた。
一週間目、無視を決め込み、会話さえしなかった。
一ヶ月目、悲しそうな顔と、寂しそうな顔と、嬉しそうな顔と、笑った顔を一度に見た。
三ヶ月目、友達のように普通に話せるようになった。
六ヶ月目、初めて唇を合わせて、身体を重ねた。
九ヶ月目、毎日幸せで、愛しい時間を過ごした。
十二ヶ月目、誕生日に自首すると告げられた。
十三ヶ月目、今日。
今いるこの場所に来るまで、何時間掛かったことだろう。
今日になった瞬間から、起きた瞬間から、眼が合った瞬間から、何度、動作を止め、泣いたことか。
朝、誕生日だから、と昨夜も激しく重ねた身体を、もう一度重ねた。
表面的には誕生日だから、と誘われたけれど、本当は、最後だから、だと思う。
抱かれながら、何度も、行かないで、離れたくない、と泣いた。
終わった後も、もうこれが最後だと思い、涙が止まらなかった。
未練がましく仕度をし、部屋を出る前にも泣きつく。
お願いだから、考え直して。
傍にいてよ。
離れないで。
お願い、だから。
二人で暮らした部屋を出るまでに二時間。
階段を降りきるまでに三十分。
玄関を出るまでに三十分。
門を出るまでに、現在進行形。
部屋を出るまで、二時間も掛かった。
用意が出来ても、歩き出せない。
もう最後だということがありありと目の前に突きつけられ、ただ、泣くことしか出来なかった。
泣いて、喚いて、叫んで、困らせて、二時間。
階段を降りきるまでに、三十分も掛かった。
一段降りる毎に、徐々に近付いて行く下段。
一段降りる毎に、徐々に近付いて来る別れ。
手を引かれながら降りても、その一段一段が嫌で、一段毎に涙が流れた。
玄関を出るまでに、三十分も掛かった。
階段を降りきってから、立っていられなくなって、しがみついた。
そのまま泣くだけ泣いて、また困らせた。
何度も、嫌だ、と、行かないで、と、離れたくない、と告げながら泣いた。
その間も、涙を指で拭ってくれて、掌で頭を撫でてくれて、腕で身体を抱きしめてくれて。
ふんわり香る匂いに、また涙が止まらなくなった。
門を出るまでに、現在進行形。
玄関から出て、歩き始めた。
でも、やっぱり、立ち止まって、現在進行形。
立ち止まって歩かなくなっても、絶対、無理矢理歩かせようとはしないから、一緒に立ち止まる。
だから、現在進行形。
「かづる。…愛してる。ずっとずっと、愛してる。絶対迎えに行くから、それまで待ってて?かづるが待っててくれるなら、俺、頑張れる。…待ってて、くれる?」
「…っ待ってるっ!ずっと待ってるから!だから、絶対、迎えに来て…。」
「愛してる、かづる。本当に、心から愛してる。」
「じんや、好き、大好き。俺も心から愛してる。」
「かづる、全部終わって、また始められたら、最初に何しよっか。どうしたい?」
そう聞きながら、手を繋ぎ直し、ゆっくりと歩き始める。
何から始める?んー、どうしよっかなー。かづるは何がしたい?
俺ね、一緒に映画も見に行きたいし、一緒にショッピングもしたい。
今までは、この屋敷から出たことないもんね。
だから、かづると、一緒に外に行きたい。
外で、一緒にいろんなことを楽しみたい。
だめ?かづるが嫌じゃなかったら、どこでも行きたいな。
あ、海もいいよね。旅行もいいなー。
かづるはどうしたい?何したい?
かづるがしたいことは全部してあげたいな。
子供は作れないけど、でも、やりたいことはいっぱりあるよね。
子供欲しい?
ううん。じんやがいればそれでいい。
他には、何も要らない。
この先の二人の未来を話しながら歩いていたら、そこはもう、門の外だった。
そう呟きながら、繋いだ手に力を入れた。
豪邸に負けないくらいの大きな庭の真ん中で、歩くのを止めた。
七月上旬の、よく晴れた日だった。
「心配するな。」
その言葉に、つい先程抑えたばかりの想いが溢れ返る。
本当についさっき、十分も経たないほど少し前に、やっと落ち着かせた気持ちが、感情が、また咽返るほど戻ってくる。
「やだ、やっぱりやだっ!」
手を離し、そのまま胸に飛び込み、抱きつく。
「かづる。」
宥めるように、落ち着かせるように、名前を呼ぶ。
大好きな声が、名前を呼んでくれている。
でも、これはカウントダウンだ。
「や…やだよぉー…。」
眼から溢れる涙は止まらない。
止まってはくれない。
何度必死に止めても、また溢れてくる。
「じんやと一緒にいる。一緒がいい。やだ、行かないで。」
行かないで。
行かないで。
行かないで。
幼子のように何度も同じことを言い続け、嗚咽で何も言えなくなるほど、意気込んだ。
「一年もの長い間、ありがとう。ごめんな。」
一年。
たった一年だ。
長いなんて思わない。
寧ろ、一瞬のようだったとも思う。
「そんなこと言わないで!長くない!短かったよ…。」
一緒に過ごした一年は、とても一瞬で、泡沫のように消えてしまった。
ずっと、これからも、続くと思っていた日常が、突然崩れた。
「ごめんな。」
困ったように、名残惜しそうに、そう言われる。
「謝るくらいなら、一緒にいてよ。今日も明日も、明後日も、いままでと同じように暮らそう。」
「でも、返さなきゃ。」
家族に、お前を。
そう続けられて、益々涙が溢れた。
「返すってッ…!じんや!」
そんなこと、しなくていいのに。
「ほら、泣いてると俺が警察に行けないだろ。」
「行かなくていい!行かないで!ずっと一生、一緒にここで暮らそうって言ったのに!」
「泣かないで。ほんとに、行けないから。」
なら、行かなくていい。
泣けば行かないなら、いつまでだって泣く。
行けば、もう逢えない。
もう、姿を見ることも出来ない。
もう、声を聞くことも出来ない。
もう、触れることも出来ない。
もう、手を握ることも出来ない。
もう、抱き合うことも出来ない。
もう、唇を合わせることも出来ない。
もう、身体を重ねることも出来ない。
もう、愛を囁くことも出来ない。
今までの日常が、全部消えてしまう。
今までの日常が、全部無くなってしまう。
「一年前の今日、かづるに初めて触れて、すごく嬉しかった。自分への誕生日プレゼントに、って連れて帰ったこと、悪かったと思ってる。」
「そんなこと悪く思わなくていいって何回言えば分かるの!」
一年前の今日、この町外れの豪邸に来た。
重い瞼を開けると、頬を上げ嬉しそうに微笑む姿を見た。
誘拐されて、監禁されている、と知ったのは、その直後だった。
一日目、誕生日だと言った男を正面から殴りつけた。
一週間目、無視を決め込み、会話さえしなかった。
一ヶ月目、悲しそうな顔と、寂しそうな顔と、嬉しそうな顔と、笑った顔を一度に見た。
三ヶ月目、友達のように普通に話せるようになった。
六ヶ月目、初めて唇を合わせて、身体を重ねた。
九ヶ月目、毎日幸せで、愛しい時間を過ごした。
十二ヶ月目、誕生日に自首すると告げられた。
十三ヶ月目、今日。
今いるこの場所に来るまで、何時間掛かったことだろう。
今日になった瞬間から、起きた瞬間から、眼が合った瞬間から、何度、動作を止め、泣いたことか。
朝、誕生日だから、と昨夜も激しく重ねた身体を、もう一度重ねた。
表面的には誕生日だから、と誘われたけれど、本当は、最後だから、だと思う。
抱かれながら、何度も、行かないで、離れたくない、と泣いた。
終わった後も、もうこれが最後だと思い、涙が止まらなかった。
未練がましく仕度をし、部屋を出る前にも泣きつく。
お願いだから、考え直して。
傍にいてよ。
離れないで。
お願い、だから。
二人で暮らした部屋を出るまでに二時間。
階段を降りきるまでに三十分。
玄関を出るまでに三十分。
門を出るまでに、現在進行形。
部屋を出るまで、二時間も掛かった。
用意が出来ても、歩き出せない。
もう最後だということがありありと目の前に突きつけられ、ただ、泣くことしか出来なかった。
泣いて、喚いて、叫んで、困らせて、二時間。
階段を降りきるまでに、三十分も掛かった。
一段降りる毎に、徐々に近付いて行く下段。
一段降りる毎に、徐々に近付いて来る別れ。
手を引かれながら降りても、その一段一段が嫌で、一段毎に涙が流れた。
玄関を出るまでに、三十分も掛かった。
階段を降りきってから、立っていられなくなって、しがみついた。
そのまま泣くだけ泣いて、また困らせた。
何度も、嫌だ、と、行かないで、と、離れたくない、と告げながら泣いた。
その間も、涙を指で拭ってくれて、掌で頭を撫でてくれて、腕で身体を抱きしめてくれて。
ふんわり香る匂いに、また涙が止まらなくなった。
門を出るまでに、現在進行形。
玄関から出て、歩き始めた。
でも、やっぱり、立ち止まって、現在進行形。
立ち止まって歩かなくなっても、絶対、無理矢理歩かせようとはしないから、一緒に立ち止まる。
だから、現在進行形。
「かづる。…愛してる。ずっとずっと、愛してる。絶対迎えに行くから、それまで待ってて?かづるが待っててくれるなら、俺、頑張れる。…待ってて、くれる?」
「…っ待ってるっ!ずっと待ってるから!だから、絶対、迎えに来て…。」
「愛してる、かづる。本当に、心から愛してる。」
「じんや、好き、大好き。俺も心から愛してる。」
「かづる、全部終わって、また始められたら、最初に何しよっか。どうしたい?」
そう聞きながら、手を繋ぎ直し、ゆっくりと歩き始める。
何から始める?んー、どうしよっかなー。かづるは何がしたい?
俺ね、一緒に映画も見に行きたいし、一緒にショッピングもしたい。
今までは、この屋敷から出たことないもんね。
だから、かづると、一緒に外に行きたい。
外で、一緒にいろんなことを楽しみたい。
だめ?かづるが嫌じゃなかったら、どこでも行きたいな。
あ、海もいいよね。旅行もいいなー。
かづるはどうしたい?何したい?
かづるがしたいことは全部してあげたいな。
子供は作れないけど、でも、やりたいことはいっぱりあるよね。
子供欲しい?
ううん。じんやがいればそれでいい。
他には、何も要らない。
この先の二人の未来を話しながら歩いていたら、そこはもう、門の外だった。
青空が綺麗な五月の中旬、清々しく風が吹き、とても心地がいいある晴れた日。
莎子が紫蓮と祝の通う学園に転校してから、一週間が経ったとされるとき。やっと莎子も学園生活に慣れ初めてきて、物事が順調に進むはずだったある日。昼休みに莎子が教室内の机に落ち着いているとクラスの女子が数名莎子に声をかけてきた。
「南条さん。南条莎子さん。ちょっといいかしら。」
呼ばれて顔を上げると、腕を組み、明らかにプライドが高そうな女子が莎子を睨み付けている。
どれも企業の社長令嬢やその系統の者。
莎子が〝南条〟の姓で呼ばれたのは、莎子自身が紫蓮に本名を聞かれたときに答えなかったからだ。本名の姓より〝南条〟がいいんだ。学校に通うなら〝南条〟で通いたいんだ。と言い張ったのは他ならぬ莎子だ。紫蓮も清芳も莎子がそこまでいうのなら、と〝南条〟で通うことを許した。そのため、学校や自己紹介の時でさえ、莎子は〝南条〟を使う。だが、それを快く思わないのは一人や二人ではなかった。
名を呼ばれて対応すると、複数の女子に半ば強制的に校舎裏に連れて行かれ、壁を背にして中心に莎子、その回りに半円を描くように女子に囲まれた。回りは一流の学園とは思えない程、草が茂っていて、声を上げても気付いてもらえないような、典型的な校舎裏という感じがした。
いつもならば紫蓮や祝と一緒にいる莎子だが、今日は偶然、紫蓮には学年主任からの頼み事、祝には担任からの頼み事があり二人が同時に莎子から離れることを余儀なくされた。学年トップクラスの成績を持つ二人は度々こういう名目で借り出されることがある。今日は莎子が転校して来てから初めてのそういう日だったのだ。
それを見計らってか、女子たちは紫蓮と祝が傍にいない今の時間帯を狙ったのだろう。一番威張っているのは女子の中でも真ん中にいるリーダーのような女子。
「あなた、南条くんとどういった関係なの?」
聞かれたのはやはり紫蓮関係のこと。出逢った当初は分からなかったことだが、学校に来てみれば一発で分かった。紫蓮が校内でも知らない者がいないくらい有名人だということが。だとしたら、呼び出された原因は分かっている。
莎子が何も答えず黙っているのを見て、数名の女子の中の中心にいると思われる女子が痺れを切らせて先の言葉を放つ。
「親戚ではないようだけど、名字が同じなのは気になるし、何より気になるのが、あなたが南条くんを名前で呼んでることよ。」
この学園に通っているのはいずれもある程度の資産家の子息ばかり。勿論長年の付き合いなどで莎子が南条の者でないこと位分かっているのだろう。仮にもし南条の者だったなら、この年になるまで一族が放っておく訳がない。南条の者がこの学園に通っていないなどありえないことだからだ。
「南条くんもあなたのことを名前で呼んでいるし。」
「南条くんを名前で呼ぶのは、校内でも河村くんだけなのよ。」
「親戚ならともかく、個人的に親しくされるのはかなり不愉快よ。」
最初の発言につられてその他の女子も言葉を切りながら言いたいことを言う。だが、莎子には何も言えない。言い返すことが出来ない。莎子は紫蓮と親戚ではないし、つい最近出逢ったばかりだ。それもまだ一ヶ月くらいしか経っていない。付き合いでいえば、相手の方が長いだろう。紫蓮がどう思っているのかは分からないが。だから、何も言えない。だが、ずっと黙っている訳にもいかない。何か言わなければ、そう思った莎子は腹の奥から声を出す。
「………あたしは…。」
「紫蓮っ!」
学校の教室前の廊下、祝は前方に見えた親友の紫蓮を叫び呼んだ。それに気付いた紫蓮は教室に入るのを止め、茶髪を振り乱しながら物凄い速さで向かって来る祝に言った。
「祝…何だよ、そんなに慌てて。」
自分のところまで勢いよく駆け込んで来た、親友の祝を見てそう捨てたが、あまりにも慌てている姿を見たときは驚いたものだ。祝が慌てるところなど、最近は見ていない。そして、何があったのかと思えば、衝撃的な言葉が祝の口から飛び出して来た。
「さ、莎子チャンがクラスの女子数名に絡まれてるって…。」
「――――――!」
莎子…!
莎子に関係があることだと分かった紫蓮は、その瞬間眼の色を変えた。それに即座に気付いた祝は状況を分かる限り紫蓮に伝える。
「多分、お前の取り巻きやファンの奴等だと…。」
自分のファンの仕業だと聞いた瞬間、紫蓮は自分を恨んだ。自分のことで莎子に被害が及ぶなんて、一番紫蓮が嫌なことだ。況してやファンなんて自ら望んだ訳でもない。勝手に出来た存在に莎子が嫌な思いをしていることは聞かずとも分かる。
「場所は!?いつだ!」
場所は何処なのか。それはいつの話なのか。乱暴な聞き方だったが、理性が感情を抑えるということをしてくれなかった。祝はそんな紫蓮のことをちゃんと理解しているため、聞かれたと同時に、また、即座に答える。
「場所は校舎裏で、教室を出てからまだ五分くらいしか経ってない。」
校舎裏―――。
特別、用がなければ誰も立ち入らないところだ。誰かが偶然莎子たちを見つけて対処してくれているという可能性はほぼゼロパーセントに近い。教室から校舎裏までは歩いて三分とちょっと。まだ校舎裏について間もないくらいだろう。紫蓮はちっ、と舌打ちをした後、
「莎子の所に行って来る!」
と、祝に叫ぶように告げて廊下を走る。それを見聞きしていた祝は、何も言わず走り去って行く紫蓮を見送る。
「相変わらず速えーな。」
紫蓮の足の速さは幼少のころからの両親の教育の賜物だと知っている祝は、改めて思い知らされたと言うが如く、茶色の髪をかき上げ、呟く。そして茶色の髪をかき上げながらも、制服のポケットからメモ帳を取り出す。
「さて、こっちはこっちで進めるとするか。」
そう言い、教室の中へと入った。
「………あたしは…。」
あたしは、紫蓮の何…?
紫蓮の何かなんて考えても分からない。紫蓮に何か言われた訳じゃない。紫蓮の気持ちを確かめたことなんて一度もない。そんな資格が自分にあるのかも分からない。戸惑いながらも腹から声を出すと、次の言葉が出て来る気がした。でも、言葉なんか出て来ない。どうすればいいのか、分からない。
「莎子っ!」
その瞬間、耳に入った声に心が疼いたのが分かった。声のする方を見ると、そこには走って来たことが分かる紫蓮の姿。紫蓮の姿を見た女子たちは、咋(あからさま)に驚いた表情をする。
「な、南条くん!」
女子が紫蓮を呼んだが、紫蓮には聞こえていない。紫蓮はその場にいた莎子のみを視界に入れ、莎子に近付く。それを見た莎子は、やっと口から言葉が出て、それは他ならぬ紫蓮の名だった。
「…し、紫蓮…。」
莎子の声を聞き、少し安心した紫蓮だが、完全に不安が消えた訳ではない。
「莎子!大丈夫か!?」
そう声をかけると莎子は
「…うん。」
とだけ言った。それを聞いて、やっと安心することが出来る。
「そうか。」
莎子に向けて柔らかな声で言葉を出したが、莎子をこんなところへ連れ出した他の女子たちへの怒りは収まらない。
「…で、お前等、莎子に何した訳?」
先程まで莎子にかけていた声とは全く違う、鋭くきつい声で女子たちに言葉を捨てる。女子たちを睨み付け、今にも手を上げそうな態度だ。女子たちは紫蓮のその声と視線の鋭さに狼狽える。
「あ…いや…その…。」
「何したんだよ。ほら、言ってみろよ。」
恍(とぼ)けようとする女子たちに対し、更に鋭い声を出す。莎子のことならばどんなことでも妥協しないのが紫蓮だ。このまま女子たちに何をするか分からない。このとき、そんな紫蓮を制止したのは莎子の一声だった。
「紫蓮…いい。」
その言葉に反応し、莎子を見ると、莎子はとても悲しそうな顔をしていて、それを見た紫蓮は莎子の名を呼ぶしかなかった。
「莎子…。」
紫蓮に呼ばれると、莎子は
「あたしは大丈夫だから。」
とだけ告げて、それ以上は何も語ろうとはしなかった。ただ、紫蓮の制服の裾を掴み、離すこともしない。そんな莎子を見て、紫蓮は不安を募らせる。
「祝、今回のこと、詳しく調べてくれ。」
莎子を教室に連れ戻し、落ち着かせてから祝に調査の依頼をする。祝ならばどんな方法を使ってでもこの件の詳細を調べてくれるということが分かっているからだ。だが、祝は紫蓮の言うことが分かっていたのか、その言葉に得意気に返した。
「もう調査済みだ。」
その一言に紫蓮は眼を丸くして祝を見る。するとそれに気付いた祝は制服のポケットからバックアップのメモ帳を取り出す。
「莎子チャンのことだろ。」
そして数えきれないくらい付箋が挟んであるメモ帳を無造作に開け、紫蓮が知りたいことを口にする。
「今回はお前のファンの女子五人。内容はお前とどういう関係か。お前が莎子チャンを名前で呼ぶのと同時に莎子チャンもお前を名前で呼んでるからな。そのことだ。その五人の名前とクラスも分かってるけど、聞くか?」
祝が、調べたことの全てを紫蓮に話すと、紫蓮は何かを考え込んでいて、それが横にいた祝にも分かった。紫蓮は性格上、普段から考え事を人に察知されないように振る舞っているが、今の紫蓮は違う。莎子のこととなると熱くなり、感情的になったりもする。祝はそんな紫蓮も人らしくていいと思っているのだが、紫蓮自身はそんな自分に気付いていないのだろう。
「莎子、本当に大丈夫か?」
放課後、自宅への帰り道、紫蓮は莎子に今日の昼休みに起こったことについて訊ねた。
あのとき莎子から制止の言葉が掛からなければ、恐らくあの場にいた女子たちに制裁を下していただろう。莎子は紫蓮に問われても何も答えない。紫蓮が不安を重ねると、莎子が急に立ち止まり、紫蓮の眼を引いた。
「莎子…?」
どうして止まったのか。やはり昼間のことが嫌だったのか。聞きたいことは山程あった。だが、紫蓮がそれを口にする前に、莎子が口を開いた。
「…紫蓮……あたしは、あたしは紫蓮の何…?」
そう言った莎子は紫蓮の眼を見て、昼間と同じように紫蓮の制服の裾を掴む。
莎子は紫蓮にとって、自分が何なのかという答えが欲しいのだ。紫蓮は莎子の言うことを何でも聞いてくれる。だが、紫蓮の気持ちを聞いたことは一度もない。そのため莎子は不安になる。その思いを紫蓮に伝えると、紫蓮は莎子の肩に手を置き、今度は紫蓮が莎子の眼を見据える。
「形がなくて、不安なのか…?」
それだけ言うと、莎子は感情を抑えられなかったのか、涙を流す。その涙は目から溢れ、頬を伝う。その流れる涙を紫蓮は右手の人差し指で拭い取った。それに促されるように莎子は泣きながらも言葉を出す。
「…紫蓮の、何なのかが分からなくて…怖い…。紫蓮は、あたしを独りにしない…?」
この言葉に、紫蓮の胸が痛んだ。
莎子は両親が殺され、たった一人の姉妹であった姉も無惨な殺され方をした。そして独りになって、あの老人に拾われた。そのため、独りであることにとても敏感だ。そんなことが無意識に分かってしまい、胸が痛くなる。
莎子は泣きながら、肩に置かれた紫蓮の手を振りきり、紫蓮の胸に倒れ込み胸の中で泣き喚く。そんな莎子を、紫蓮はゆっくりと抱き締める。泣き叫ぶ莎子を見ていられなくて抱き締めた紫蓮だが、紫蓮の心は決まっていた。莎子の耳元に唇を持っていき、莎子にしか聞こえないくらい小さな声で莎子への言葉を呟く。その声を聞いた莎子は、一時泣くのを止め、そしてまた泣き出した。今度の泣き声は先程のように痛くはなかった。悲しさの涙から嬉しさの涙に変わったと思えば、痛いはずがなかった。
「…莎子。」
莎子の名を呼び、胸に埋めていた顔を自分に向けさせる。そして莎子に自分の決意を話す。
「形が欲しいなら、来年の俺の誕生日、莎子に形を贈るよ。」
来年の誕生日。紫蓮が十八になる誕生日。
その瞬間、莎子はとても柔らかく幸せそうに笑い、眼に涙を溜めながらも満面の笑みを見せた。その笑顔は今までに一度も見たことがない笑顔で、紫蓮もつられて笑みを溢す。
そして二人は、足を動かし帰宅の帰路へと足を進めた。
自宅である南条邸の門を開け、敷地内へと足を進める。紫蓮が先に入り、そのあとを莎子が付いて行く。門の下のちょっとした段差に莎子の足が掛かる。
「あ、」
躓き、前に倒れそうな莎子を紫蓮が振り返り、莎子の胸元を腕で支える。
「大丈夫か?」
そう優しく声をかけられ、莎子は紫蓮の顔を見る。見れば見るほど、紫蓮の非凡さが分かり、昼間のことを思い出す。
紫蓮は校内でも人気があり、紫蓮のことを好きだという女子が多いことも知っている。だが、紫蓮はどの娘にも興味がないのか、告白をされても丁重に断っている。その紫蓮が莎子には優しい。そのことが莎子には嬉しい反面、不安でたまらなかった。
「大丈夫。ありがと。」
お礼を言い、体勢を立て直す。そして莎子は門を閉め、紫蓮は玄関の扉を開ける。すると、その音を聞いた千代が玄関へとやって来た。二人の前で一礼をして帰宅の挨拶をする。
「お帰りなさいませ。紫蓮さま、莎子お嬢様。」
その言葉にただいま。と返し、二人は玄関から廊下へと上がった。莎子はそのまま階段を上り、自室に行こうとしていた。それを見た紫蓮が莎子を呼び止める。
「莎子…?」
今までならば、帰宅後はいつも紫蓮の後を付いていて、特別なことがない限りはいつも一緒にいた。そのことを踏まえ、紫蓮は莎子を呼び止めたが、莎子は振り返ることもなくただ一言、
「部屋にいるから。」
とだけ告げてその場を後にした。
莎子が部屋に入り、無造作に鞄を置き、そのままベッドに倒れ込む。莎子はいろんなことを考え廻らせていた。
あたしは、紫蓮には相応しくないんだろう…。紫蓮は、約束をしてくれたけど、正直、自信がない。紫蓮は身寄りがいないあたしに同情して、この家に置いてくれただけかもしれない。第一、あたしは赤い蝶。一緒にいるならば、紫の蝶じゃなくて、黒い蝶の方がいいのかもしれない。紫蓮は黒い蝶じゃない。紫蓮の傍にいるのは止めた方がいいのかも、…しれない。
そう思うと、涙が止まらなかった。紫蓮に不釣り合いな自分が嫌になる。だけど、それ以上に紫蓮を信じることが出来ない自分が嫌になる。
「…ふ…っ…ひっ………し、れん…。」
泣きながら紫蓮の名を呼ぶ莎子は、既に感情をコントロール出来なくなっていた。ただ泣き、ただ紫蓮を呼ぶ。
紫蓮はいつもとは様子が違う莎子を気にかけていた。やはり昼間のことなのかと考えさせられる。昨日まではなんともなかったのに、今日に限って様子がおかしいのは昼間のこと以外に思い当たらない。
気になり、二階の部屋にいる莎子に会おうと千代に断り階段を駆け上る。そして莎子の部屋の前まで来て、扉を叩こうとした瞬間、莎子の異変に気付いた。
莎子が泣いている。
やはり、昼間の連中に何か言われたのか。そう思うと紫蓮の手は部屋のドアノブを持っていた。
「莎子!」
そう叫び、部屋に入ると、莎子はいきなりのことに驚きながらもちゃんと紫蓮を見据えた。そして一言呟くように言う。
「………紫蓮…。」
小さく自分の名を呼ぶ莎子に紫蓮は不安の色を浮かべる。莎子が泣いていることに心を痛め、莎子に問いかける。
「莎子、大丈夫か?」
そう聞くと、莎子は紫蓮から視線を反らした。紫蓮の顔を見ることなく俯き、床に敷かれた赤い絨毯を見る。その様子を見届けた紫蓮は感じていたことを口にした。
「泣いて、ただろ。やっぱり昼間の連中に、」
途中、紫蓮が言葉を止めたのは、口にするべきか迷ったからだ。口にすることでより一層莎子を苦しめることになるのではないかと心配になり、少し躊躇いが生じた。
莎子は紫蓮の言葉が終わる前に俯きながら首を振った。
「じゃあ、何で。」
食い付くように紫蓮が莎子に問いかけたが、莎子は紫蓮の問いかけの答えを出さなかった。出したのはまったく違う言葉。
「…あたしは、やっぱり赤い蝶なの、かな…?」
この言葉を聞き、紫蓮は再度心を痛ませた。そして、すぐさま反論をする。
「莎子、それはもう終わったんだ。赤と黒の蝶に囚われるのはやめろ。」
紫蓮の制止の言葉に、莎子は俯いていた顔を上げる。
「でも、」
「莎子。」
更に反論した莎子の言葉を紫蓮は再度遮った。そして莎子の眼を見据え、ゆっくりと、だが確かにしっかりと言う。
「そんなに赤と黒の蝶がいーなら、俺が黒い蝶になってやるよ。」
その言葉に莎子は驚きを隠せなかった。思わず涙を眼に溜めたまま、眼を見開いていた。そして小さく声を出す。
「紫蓮が…?」
「あぁ。」
そう真顔でいう紫蓮を見て、莎子はふと笑みを溢す。莎子が突然笑うため、紫蓮は状況についていけないらしく眼を見開いてただ呆然としている。そんな紫蓮に莎子が掛けた言葉はたった一言。
「…似合わない。」
その一言にまた紫蓮は驚かされる。莎子は笑顔で紫蓮を見た。
「紫蓮は紫だ。黒ってイメージじゃない。」
そう言った莎子が笑顔だったため、紫蓮も笑みを浮かべ、自らの髪を適当に掴む。
「俺の髪が黒でも?」
そう言うと、莎子は笑みを絶やさず一瞬の間を置いて笑いながら答える。
「それならあたしだって黒だ。」
その答えに、紫蓮は重要なことを口にした。
「じゃあ、一緒じゃないか。」
その言葉に莎子は眼を丸くして紫蓮を見た。紫蓮は莎子の丸くなった眼を見据えて唇を動かす。
「赤だろうが黒だろうが、莎子は蝶じゃなくて、人だろ。」
人であることに変わりはない。いくら蝶だと言い張っても、人で、人間であることに変わりはない。
「莎子は自由だ。何でもしたいことをすればいい。」
好きなことを、好きなだけしていい。
それがどんなことであっても、
「何だって叶えてやるよ。」
紫蓮が遊びや冗談ではなく、本気で言ったことが、莎子にも分かった。真剣な眼差しで自分を見て、全てを見透かすような眼をする。思わず吸い込まれてしまいそうなその黒い眼に、自分が写っていることが分かる。莎子は丸くした眼を元に戻し、真剣に紫蓮を見つめる。
「紫蓮、あたしは紫蓮の重荷にはなりたくない。」
重荷になるくらいなら、死んだ方がいい。
そう訴えると、紫蓮はすぐさま反論を口にした。
「重荷じゃないさ。俺には莎子が必要なんだ。」
「…紫蓮。」
その言葉に、どれだけ救われるか。その言葉に、どれだけ癒されるか。紫蓮は莎子を自分の方へ引き寄せ、優しくゆっくりと抱きしめる。澄んだ声で莎子を呼び、優しく抱きしめる。
紫蓮の一言で、不安が飛び去り、莎子に安堵感を持たせた。このとき莎子は心を決めた。どんなことがあっても、紫蓮を信じ、追いて行こうと。紫蓮の傍にいようと。不安を打ち消す、自信を手に入れたように。紫蓮の傍に。
そう決めたとき、莎子は紫蓮の背中に手を回した。
その後、学校にて何があったのか、紫蓮と莎子が二人でいても誰一人として文句を言う者がいなかった。それは紫蓮や祝が何か言ったのかもしれない。だが、莎子からすればそんなことはどうでもよかった。莎子は、紫蓮が思っていることを包み隠さず話してくれたことが嬉しいだけ。
紫蓮と一生いよう。傍にいよう。この先の全てを紫蓮に託そう。そう思ったことは誰にも言わない。莎子の心にだけ止めておくこと。
莎子が紫蓮と祝の通う学園に転校してから、一週間が経ったとされるとき。やっと莎子も学園生活に慣れ初めてきて、物事が順調に進むはずだったある日。昼休みに莎子が教室内の机に落ち着いているとクラスの女子が数名莎子に声をかけてきた。
「南条さん。南条莎子さん。ちょっといいかしら。」
呼ばれて顔を上げると、腕を組み、明らかにプライドが高そうな女子が莎子を睨み付けている。
どれも企業の社長令嬢やその系統の者。
莎子が〝南条〟の姓で呼ばれたのは、莎子自身が紫蓮に本名を聞かれたときに答えなかったからだ。本名の姓より〝南条〟がいいんだ。学校に通うなら〝南条〟で通いたいんだ。と言い張ったのは他ならぬ莎子だ。紫蓮も清芳も莎子がそこまでいうのなら、と〝南条〟で通うことを許した。そのため、学校や自己紹介の時でさえ、莎子は〝南条〟を使う。だが、それを快く思わないのは一人や二人ではなかった。
名を呼ばれて対応すると、複数の女子に半ば強制的に校舎裏に連れて行かれ、壁を背にして中心に莎子、その回りに半円を描くように女子に囲まれた。回りは一流の学園とは思えない程、草が茂っていて、声を上げても気付いてもらえないような、典型的な校舎裏という感じがした。
いつもならば紫蓮や祝と一緒にいる莎子だが、今日は偶然、紫蓮には学年主任からの頼み事、祝には担任からの頼み事があり二人が同時に莎子から離れることを余儀なくされた。学年トップクラスの成績を持つ二人は度々こういう名目で借り出されることがある。今日は莎子が転校して来てから初めてのそういう日だったのだ。
それを見計らってか、女子たちは紫蓮と祝が傍にいない今の時間帯を狙ったのだろう。一番威張っているのは女子の中でも真ん中にいるリーダーのような女子。
「あなた、南条くんとどういった関係なの?」
聞かれたのはやはり紫蓮関係のこと。出逢った当初は分からなかったことだが、学校に来てみれば一発で分かった。紫蓮が校内でも知らない者がいないくらい有名人だということが。だとしたら、呼び出された原因は分かっている。
莎子が何も答えず黙っているのを見て、数名の女子の中の中心にいると思われる女子が痺れを切らせて先の言葉を放つ。
「親戚ではないようだけど、名字が同じなのは気になるし、何より気になるのが、あなたが南条くんを名前で呼んでることよ。」
この学園に通っているのはいずれもある程度の資産家の子息ばかり。勿論長年の付き合いなどで莎子が南条の者でないこと位分かっているのだろう。仮にもし南条の者だったなら、この年になるまで一族が放っておく訳がない。南条の者がこの学園に通っていないなどありえないことだからだ。
「南条くんもあなたのことを名前で呼んでいるし。」
「南条くんを名前で呼ぶのは、校内でも河村くんだけなのよ。」
「親戚ならともかく、個人的に親しくされるのはかなり不愉快よ。」
最初の発言につられてその他の女子も言葉を切りながら言いたいことを言う。だが、莎子には何も言えない。言い返すことが出来ない。莎子は紫蓮と親戚ではないし、つい最近出逢ったばかりだ。それもまだ一ヶ月くらいしか経っていない。付き合いでいえば、相手の方が長いだろう。紫蓮がどう思っているのかは分からないが。だから、何も言えない。だが、ずっと黙っている訳にもいかない。何か言わなければ、そう思った莎子は腹の奥から声を出す。
「………あたしは…。」
「紫蓮っ!」
学校の教室前の廊下、祝は前方に見えた親友の紫蓮を叫び呼んだ。それに気付いた紫蓮は教室に入るのを止め、茶髪を振り乱しながら物凄い速さで向かって来る祝に言った。
「祝…何だよ、そんなに慌てて。」
自分のところまで勢いよく駆け込んで来た、親友の祝を見てそう捨てたが、あまりにも慌てている姿を見たときは驚いたものだ。祝が慌てるところなど、最近は見ていない。そして、何があったのかと思えば、衝撃的な言葉が祝の口から飛び出して来た。
「さ、莎子チャンがクラスの女子数名に絡まれてるって…。」
「――――――!」
莎子…!
莎子に関係があることだと分かった紫蓮は、その瞬間眼の色を変えた。それに即座に気付いた祝は状況を分かる限り紫蓮に伝える。
「多分、お前の取り巻きやファンの奴等だと…。」
自分のファンの仕業だと聞いた瞬間、紫蓮は自分を恨んだ。自分のことで莎子に被害が及ぶなんて、一番紫蓮が嫌なことだ。況してやファンなんて自ら望んだ訳でもない。勝手に出来た存在に莎子が嫌な思いをしていることは聞かずとも分かる。
「場所は!?いつだ!」
場所は何処なのか。それはいつの話なのか。乱暴な聞き方だったが、理性が感情を抑えるということをしてくれなかった。祝はそんな紫蓮のことをちゃんと理解しているため、聞かれたと同時に、また、即座に答える。
「場所は校舎裏で、教室を出てからまだ五分くらいしか経ってない。」
校舎裏―――。
特別、用がなければ誰も立ち入らないところだ。誰かが偶然莎子たちを見つけて対処してくれているという可能性はほぼゼロパーセントに近い。教室から校舎裏までは歩いて三分とちょっと。まだ校舎裏について間もないくらいだろう。紫蓮はちっ、と舌打ちをした後、
「莎子の所に行って来る!」
と、祝に叫ぶように告げて廊下を走る。それを見聞きしていた祝は、何も言わず走り去って行く紫蓮を見送る。
「相変わらず速えーな。」
紫蓮の足の速さは幼少のころからの両親の教育の賜物だと知っている祝は、改めて思い知らされたと言うが如く、茶色の髪をかき上げ、呟く。そして茶色の髪をかき上げながらも、制服のポケットからメモ帳を取り出す。
「さて、こっちはこっちで進めるとするか。」
そう言い、教室の中へと入った。
「………あたしは…。」
あたしは、紫蓮の何…?
紫蓮の何かなんて考えても分からない。紫蓮に何か言われた訳じゃない。紫蓮の気持ちを確かめたことなんて一度もない。そんな資格が自分にあるのかも分からない。戸惑いながらも腹から声を出すと、次の言葉が出て来る気がした。でも、言葉なんか出て来ない。どうすればいいのか、分からない。
「莎子っ!」
その瞬間、耳に入った声に心が疼いたのが分かった。声のする方を見ると、そこには走って来たことが分かる紫蓮の姿。紫蓮の姿を見た女子たちは、咋(あからさま)に驚いた表情をする。
「な、南条くん!」
女子が紫蓮を呼んだが、紫蓮には聞こえていない。紫蓮はその場にいた莎子のみを視界に入れ、莎子に近付く。それを見た莎子は、やっと口から言葉が出て、それは他ならぬ紫蓮の名だった。
「…し、紫蓮…。」
莎子の声を聞き、少し安心した紫蓮だが、完全に不安が消えた訳ではない。
「莎子!大丈夫か!?」
そう声をかけると莎子は
「…うん。」
とだけ言った。それを聞いて、やっと安心することが出来る。
「そうか。」
莎子に向けて柔らかな声で言葉を出したが、莎子をこんなところへ連れ出した他の女子たちへの怒りは収まらない。
「…で、お前等、莎子に何した訳?」
先程まで莎子にかけていた声とは全く違う、鋭くきつい声で女子たちに言葉を捨てる。女子たちを睨み付け、今にも手を上げそうな態度だ。女子たちは紫蓮のその声と視線の鋭さに狼狽える。
「あ…いや…その…。」
「何したんだよ。ほら、言ってみろよ。」
恍(とぼ)けようとする女子たちに対し、更に鋭い声を出す。莎子のことならばどんなことでも妥協しないのが紫蓮だ。このまま女子たちに何をするか分からない。このとき、そんな紫蓮を制止したのは莎子の一声だった。
「紫蓮…いい。」
その言葉に反応し、莎子を見ると、莎子はとても悲しそうな顔をしていて、それを見た紫蓮は莎子の名を呼ぶしかなかった。
「莎子…。」
紫蓮に呼ばれると、莎子は
「あたしは大丈夫だから。」
とだけ告げて、それ以上は何も語ろうとはしなかった。ただ、紫蓮の制服の裾を掴み、離すこともしない。そんな莎子を見て、紫蓮は不安を募らせる。
「祝、今回のこと、詳しく調べてくれ。」
莎子を教室に連れ戻し、落ち着かせてから祝に調査の依頼をする。祝ならばどんな方法を使ってでもこの件の詳細を調べてくれるということが分かっているからだ。だが、祝は紫蓮の言うことが分かっていたのか、その言葉に得意気に返した。
「もう調査済みだ。」
その一言に紫蓮は眼を丸くして祝を見る。するとそれに気付いた祝は制服のポケットからバックアップのメモ帳を取り出す。
「莎子チャンのことだろ。」
そして数えきれないくらい付箋が挟んであるメモ帳を無造作に開け、紫蓮が知りたいことを口にする。
「今回はお前のファンの女子五人。内容はお前とどういう関係か。お前が莎子チャンを名前で呼ぶのと同時に莎子チャンもお前を名前で呼んでるからな。そのことだ。その五人の名前とクラスも分かってるけど、聞くか?」
祝が、調べたことの全てを紫蓮に話すと、紫蓮は何かを考え込んでいて、それが横にいた祝にも分かった。紫蓮は性格上、普段から考え事を人に察知されないように振る舞っているが、今の紫蓮は違う。莎子のこととなると熱くなり、感情的になったりもする。祝はそんな紫蓮も人らしくていいと思っているのだが、紫蓮自身はそんな自分に気付いていないのだろう。
「莎子、本当に大丈夫か?」
放課後、自宅への帰り道、紫蓮は莎子に今日の昼休みに起こったことについて訊ねた。
あのとき莎子から制止の言葉が掛からなければ、恐らくあの場にいた女子たちに制裁を下していただろう。莎子は紫蓮に問われても何も答えない。紫蓮が不安を重ねると、莎子が急に立ち止まり、紫蓮の眼を引いた。
「莎子…?」
どうして止まったのか。やはり昼間のことが嫌だったのか。聞きたいことは山程あった。だが、紫蓮がそれを口にする前に、莎子が口を開いた。
「…紫蓮……あたしは、あたしは紫蓮の何…?」
そう言った莎子は紫蓮の眼を見て、昼間と同じように紫蓮の制服の裾を掴む。
莎子は紫蓮にとって、自分が何なのかという答えが欲しいのだ。紫蓮は莎子の言うことを何でも聞いてくれる。だが、紫蓮の気持ちを聞いたことは一度もない。そのため莎子は不安になる。その思いを紫蓮に伝えると、紫蓮は莎子の肩に手を置き、今度は紫蓮が莎子の眼を見据える。
「形がなくて、不安なのか…?」
それだけ言うと、莎子は感情を抑えられなかったのか、涙を流す。その涙は目から溢れ、頬を伝う。その流れる涙を紫蓮は右手の人差し指で拭い取った。それに促されるように莎子は泣きながらも言葉を出す。
「…紫蓮の、何なのかが分からなくて…怖い…。紫蓮は、あたしを独りにしない…?」
この言葉に、紫蓮の胸が痛んだ。
莎子は両親が殺され、たった一人の姉妹であった姉も無惨な殺され方をした。そして独りになって、あの老人に拾われた。そのため、独りであることにとても敏感だ。そんなことが無意識に分かってしまい、胸が痛くなる。
莎子は泣きながら、肩に置かれた紫蓮の手を振りきり、紫蓮の胸に倒れ込み胸の中で泣き喚く。そんな莎子を、紫蓮はゆっくりと抱き締める。泣き叫ぶ莎子を見ていられなくて抱き締めた紫蓮だが、紫蓮の心は決まっていた。莎子の耳元に唇を持っていき、莎子にしか聞こえないくらい小さな声で莎子への言葉を呟く。その声を聞いた莎子は、一時泣くのを止め、そしてまた泣き出した。今度の泣き声は先程のように痛くはなかった。悲しさの涙から嬉しさの涙に変わったと思えば、痛いはずがなかった。
「…莎子。」
莎子の名を呼び、胸に埋めていた顔を自分に向けさせる。そして莎子に自分の決意を話す。
「形が欲しいなら、来年の俺の誕生日、莎子に形を贈るよ。」
来年の誕生日。紫蓮が十八になる誕生日。
その瞬間、莎子はとても柔らかく幸せそうに笑い、眼に涙を溜めながらも満面の笑みを見せた。その笑顔は今までに一度も見たことがない笑顔で、紫蓮もつられて笑みを溢す。
そして二人は、足を動かし帰宅の帰路へと足を進めた。
自宅である南条邸の門を開け、敷地内へと足を進める。紫蓮が先に入り、そのあとを莎子が付いて行く。門の下のちょっとした段差に莎子の足が掛かる。
「あ、」
躓き、前に倒れそうな莎子を紫蓮が振り返り、莎子の胸元を腕で支える。
「大丈夫か?」
そう優しく声をかけられ、莎子は紫蓮の顔を見る。見れば見るほど、紫蓮の非凡さが分かり、昼間のことを思い出す。
紫蓮は校内でも人気があり、紫蓮のことを好きだという女子が多いことも知っている。だが、紫蓮はどの娘にも興味がないのか、告白をされても丁重に断っている。その紫蓮が莎子には優しい。そのことが莎子には嬉しい反面、不安でたまらなかった。
「大丈夫。ありがと。」
お礼を言い、体勢を立て直す。そして莎子は門を閉め、紫蓮は玄関の扉を開ける。すると、その音を聞いた千代が玄関へとやって来た。二人の前で一礼をして帰宅の挨拶をする。
「お帰りなさいませ。紫蓮さま、莎子お嬢様。」
その言葉にただいま。と返し、二人は玄関から廊下へと上がった。莎子はそのまま階段を上り、自室に行こうとしていた。それを見た紫蓮が莎子を呼び止める。
「莎子…?」
今までならば、帰宅後はいつも紫蓮の後を付いていて、特別なことがない限りはいつも一緒にいた。そのことを踏まえ、紫蓮は莎子を呼び止めたが、莎子は振り返ることもなくただ一言、
「部屋にいるから。」
とだけ告げてその場を後にした。
莎子が部屋に入り、無造作に鞄を置き、そのままベッドに倒れ込む。莎子はいろんなことを考え廻らせていた。
あたしは、紫蓮には相応しくないんだろう…。紫蓮は、約束をしてくれたけど、正直、自信がない。紫蓮は身寄りがいないあたしに同情して、この家に置いてくれただけかもしれない。第一、あたしは赤い蝶。一緒にいるならば、紫の蝶じゃなくて、黒い蝶の方がいいのかもしれない。紫蓮は黒い蝶じゃない。紫蓮の傍にいるのは止めた方がいいのかも、…しれない。
そう思うと、涙が止まらなかった。紫蓮に不釣り合いな自分が嫌になる。だけど、それ以上に紫蓮を信じることが出来ない自分が嫌になる。
「…ふ…っ…ひっ………し、れん…。」
泣きながら紫蓮の名を呼ぶ莎子は、既に感情をコントロール出来なくなっていた。ただ泣き、ただ紫蓮を呼ぶ。
紫蓮はいつもとは様子が違う莎子を気にかけていた。やはり昼間のことなのかと考えさせられる。昨日まではなんともなかったのに、今日に限って様子がおかしいのは昼間のこと以外に思い当たらない。
気になり、二階の部屋にいる莎子に会おうと千代に断り階段を駆け上る。そして莎子の部屋の前まで来て、扉を叩こうとした瞬間、莎子の異変に気付いた。
莎子が泣いている。
やはり、昼間の連中に何か言われたのか。そう思うと紫蓮の手は部屋のドアノブを持っていた。
「莎子!」
そう叫び、部屋に入ると、莎子はいきなりのことに驚きながらもちゃんと紫蓮を見据えた。そして一言呟くように言う。
「………紫蓮…。」
小さく自分の名を呼ぶ莎子に紫蓮は不安の色を浮かべる。莎子が泣いていることに心を痛め、莎子に問いかける。
「莎子、大丈夫か?」
そう聞くと、莎子は紫蓮から視線を反らした。紫蓮の顔を見ることなく俯き、床に敷かれた赤い絨毯を見る。その様子を見届けた紫蓮は感じていたことを口にした。
「泣いて、ただろ。やっぱり昼間の連中に、」
途中、紫蓮が言葉を止めたのは、口にするべきか迷ったからだ。口にすることでより一層莎子を苦しめることになるのではないかと心配になり、少し躊躇いが生じた。
莎子は紫蓮の言葉が終わる前に俯きながら首を振った。
「じゃあ、何で。」
食い付くように紫蓮が莎子に問いかけたが、莎子は紫蓮の問いかけの答えを出さなかった。出したのはまったく違う言葉。
「…あたしは、やっぱり赤い蝶なの、かな…?」
この言葉を聞き、紫蓮は再度心を痛ませた。そして、すぐさま反論をする。
「莎子、それはもう終わったんだ。赤と黒の蝶に囚われるのはやめろ。」
紫蓮の制止の言葉に、莎子は俯いていた顔を上げる。
「でも、」
「莎子。」
更に反論した莎子の言葉を紫蓮は再度遮った。そして莎子の眼を見据え、ゆっくりと、だが確かにしっかりと言う。
「そんなに赤と黒の蝶がいーなら、俺が黒い蝶になってやるよ。」
その言葉に莎子は驚きを隠せなかった。思わず涙を眼に溜めたまま、眼を見開いていた。そして小さく声を出す。
「紫蓮が…?」
「あぁ。」
そう真顔でいう紫蓮を見て、莎子はふと笑みを溢す。莎子が突然笑うため、紫蓮は状況についていけないらしく眼を見開いてただ呆然としている。そんな紫蓮に莎子が掛けた言葉はたった一言。
「…似合わない。」
その一言にまた紫蓮は驚かされる。莎子は笑顔で紫蓮を見た。
「紫蓮は紫だ。黒ってイメージじゃない。」
そう言った莎子が笑顔だったため、紫蓮も笑みを浮かべ、自らの髪を適当に掴む。
「俺の髪が黒でも?」
そう言うと、莎子は笑みを絶やさず一瞬の間を置いて笑いながら答える。
「それならあたしだって黒だ。」
その答えに、紫蓮は重要なことを口にした。
「じゃあ、一緒じゃないか。」
その言葉に莎子は眼を丸くして紫蓮を見た。紫蓮は莎子の丸くなった眼を見据えて唇を動かす。
「赤だろうが黒だろうが、莎子は蝶じゃなくて、人だろ。」
人であることに変わりはない。いくら蝶だと言い張っても、人で、人間であることに変わりはない。
「莎子は自由だ。何でもしたいことをすればいい。」
好きなことを、好きなだけしていい。
それがどんなことであっても、
「何だって叶えてやるよ。」
紫蓮が遊びや冗談ではなく、本気で言ったことが、莎子にも分かった。真剣な眼差しで自分を見て、全てを見透かすような眼をする。思わず吸い込まれてしまいそうなその黒い眼に、自分が写っていることが分かる。莎子は丸くした眼を元に戻し、真剣に紫蓮を見つめる。
「紫蓮、あたしは紫蓮の重荷にはなりたくない。」
重荷になるくらいなら、死んだ方がいい。
そう訴えると、紫蓮はすぐさま反論を口にした。
「重荷じゃないさ。俺には莎子が必要なんだ。」
「…紫蓮。」
その言葉に、どれだけ救われるか。その言葉に、どれだけ癒されるか。紫蓮は莎子を自分の方へ引き寄せ、優しくゆっくりと抱きしめる。澄んだ声で莎子を呼び、優しく抱きしめる。
紫蓮の一言で、不安が飛び去り、莎子に安堵感を持たせた。このとき莎子は心を決めた。どんなことがあっても、紫蓮を信じ、追いて行こうと。紫蓮の傍にいようと。不安を打ち消す、自信を手に入れたように。紫蓮の傍に。
そう決めたとき、莎子は紫蓮の背中に手を回した。
その後、学校にて何があったのか、紫蓮と莎子が二人でいても誰一人として文句を言う者がいなかった。それは紫蓮や祝が何か言ったのかもしれない。だが、莎子からすればそんなことはどうでもよかった。莎子は、紫蓮が思っていることを包み隠さず話してくれたことが嬉しいだけ。
紫蓮と一生いよう。傍にいよう。この先の全てを紫蓮に託そう。そう思ったことは誰にも言わない。莎子の心にだけ止めておくこと。
こんにちは!俺、河村祝です!
楠ヶ丘学園高学部に通う十七歳。髪は茶髪で身長は紫蓮と同じくらい。体重は秘密!
まあ、所謂情報屋で、学校内のことは何でも知ってるつもり。学校外のことも知ってるけどね。
でさ、俺は南条紫蓮の親友なんだけど、今回はその親友、紫蓮と、紫蓮の大事な人の莎子チャンについて、いろいろとお話しようかと思う。個人情報に触れないようにね。ちなみにここは学校の教室。教室好きなんだ。
さて、親友の紫蓮だけど、実は両親がいなくて、前はおっきい家に一人で住んでたんだ。今は、莎子チャンと千代さんと一緒だけどね。莎子チャンはつい最近まで違うところに住んでたんだけど、今は紫蓮の家にいるんだ。長い黒髪がすっごく綺麗なんだよ。
実は、ちょっと前に紫蓮に赤い蝶の浴衣と黒い蝶の帯の噂のことを話したんだけど、その次の日からなんか虚ろで、いっつも恐い顔で考えごとしてた。んで、一週間くらい経ってから、街外れの廃墟で火事だって聞いて、これは行かなきゃ!と思って行ったら騒ぎの中心には紫蓮がいて、それにびっくり。
んで、紫蓮は女の子を連れてて、その女の子は綺麗でかあいいし、名前で呼んでるし?紫蓮が女の子のこと名前で呼んでんの初めて聞いたし、その子にはすっごく優しくって、いつもあんなんだったらもっとモテるのにな。今でもモテすぎるくらいモテてるけど。
俺の調べによると、今までに紫蓮に告白して来たのは一五七人。これは全学年の女子を統計したもので、紫蓮が告白される度に断っても減らない。自分こそは!と逆に燃える子もいるらしい。そのせいで、大半の男子には恨まれてるけど、非のない紫蓮に何も言えない。それと反対に慕われることもあるけど、基本的に紫蓮は顔も名前も覚えてあげない。可哀想にね。
いろんな人が興味を持つ紫蓮だけど、莎子チャンにだけは特別な対応だ。大事にしてるってゆーか、愛してるってゆーか。
莎子チャンを初めて見たときに着てた、噂の浴衣。次に見たときはもう着てなかったから、紫蓮に聞いてみたんだけど、紫蓮曰く
「莎子は燃やして捨ててほしいって言ってたけど、どうするかは決めてない。」
だそうで、実際のところ、どうしたのかは教えてくれなかった。
紫蓮がそう言うから、深く詮索はしなかったけど。
でも、噂は本当だったんだな。それが分かっただけで俺は満足だよ。
俺は紫蓮が駄目だってことは絶対しない。
俺のモノサシは紫蓮で、何でも紫蓮が基準なんだ。だからこそ、消化不良の種は尽きない。
事件後、紫蓮の家に紫蓮と莎子チャンに会いに行ったとき、紫蓮宛に俺の知らない人から電話が掛かってきたんだ。そのとき紫蓮はかなり嫌そうな顔してた。俺の知らない人ってところがアレだけど、紫蓮が関わるなってゆーから何も聞かない。本当は気になって仕方ないけどね。でも言わない。紫蓮が大事だから。
紫蓮は両親が居ないから、何でも一人でやってて人に頼ろうとしないところがあるんだ。だから、余計に心配なんだよね。
そうだ、莎子チャンだけど、楠ヶ丘学園に通うようになったんだよ。紫蓮は行かなくてもいいって言ったみたいだけど、行かなくてもとりあえず入学だけしようってことで。莎子チャンが名字を言いたがらないから紫蓮もどうしようかと思ったんだって。紫蓮だって調べて知ってるのに聞くんだもん。結局、莎子チャンは南条で通うことになったらしい。既に夫婦みたいだよね。そんな二人を見てると微笑ましい。紫蓮は莎子チャンが大事で、莎子チャンも紫蓮が一番大事なんだ。あーあ…莎子チャンに紫蓮取られちゃったー…。…なんてね。
そんなこと言ってたら、教室の扉が開いた。そして眼に映ったのは、黒髪と右耳に付けたつがいの赤と黒の蝶のピアス。
「…紫蓮。」
顔を見せた者の名を呼ぶと、そいつは教室に足を踏み入れた。そして綺麗な黒髪を揺らしながら、俺に言った。
「祝、行くところがある。着いて来い。」
紫蓮に言われるまま紫蓮に着いて行くと、学校の正門前に黒塗りのベンツが停められていて、その車に乗るように言われた。紫蓮はこういうのを好んでないはずなんだけど、どういう風の吹き回しなんだろうか。とにかく言われるままに乗り込むと、そのまま黒塗りベンツは動かされた。途中、紫蓮に何処に行くのか聞いたけど、紫蓮は答えてくれなかったんだ。そして、しばらく大人しくベンツに乗っていると、ベンツが止まって扉が開けられた。着いたところは、高層ビルだった。この場所、この印は、――――――。
「…南条財閥本社…。」
驚きで思わず声が漏れた。紫蓮に連れられて着いた場所は、南条の経営する会社だった。
いくら紫蓮の家の会社でも、紫蓮は今まで会社に直接関わっていなかったから、俺が南条の会社に来るのも初めてだ。紫蓮はそのまま正面玄関を通る。紫蓮に付いて行くしかないから、俺も紫蓮の後を追った。正面玄関を入って受付の前を見ると、そこには紫蓮の保護者をしている、清芳さんがいた。清芳さんは俺と紫蓮に気付くと、すぐに挨拶をしてくれた。
「よぉ、紫蓮。祝も久しぶりだな。」
前に会ったのはいつだっただろうか。多分、紫蓮の両親が死んだときだ。そのとき清芳さんは紫蓮の保護者になって、それ以来一度も会っていない。それはもう何年も前の話なのに清芳さんはよく俺が〝祝〟だって分かったな、と感心してしまう。
「こちらこそお久しぶりです。清芳さん。」
深々と礼と挨拶をすると、清芳さんはにこやかに笑いかけてくれた。俺自身、情報を専門に扱っているため、礼儀作法は一通り勉強している。礼儀がなっていない者を信用して信憑性のある情報をくれる人など、いる訳がない。こういうとき、心底勉強しておいて良かったと思う。紫蓮は俺と違って清芳さんに近付き、軽く挨拶をした。
「兄さん、今日は忙しい中すみません。」
紫蓮はいつも通りの反応で、清芳さんに接する。すると清芳さんは紫蓮と俺について来るように言った後、エレベーターに乗り込んだ。だが、そのエレベーターは豪華な造りになって普通の人が使うことを許されないような風格が漂っている。俺たちがエレベーターに乗り込むときも、他の社員が俺たちを見ていたのが分かった。制服を着ている少年が二人、会社の上層部の人といるのは謎めいたことだろう。実際のところ、俺だって謎だ。
エレベーターからおりると、数多くの社員がいた。どの人も一般社員じゃないのが分かる。すると清芳さんは、その社員の中を堂々と通っていた。社員はすぐさま足を止めて深々と清芳さんに礼をする。その中で一人の男性が清芳さんに近付いて来た。その人はとても温和そうな顔をしていて、菩薩のような顔に眼鏡をかけていた。そして清芳さんに深々と礼をし、発言をする。
「お帰りなさいませ、副社長。そちらの方々は?」
その男性は頭を上げてすぐに俺と紫蓮を見て清芳さんに問いかけた。世界の南条の本社副社長が子供を二人も連れて一体何がしたいのか、皆目検討がつかないらしい。すると清芳さんは薄ら笑いを浮かべ、紫蓮を見てから笑いを含み男性を見直した。
「南条紫蓮。この会社の社長になる男さ。」
清芳さんのその言葉を聞いた男性は呆然とし、驚きを隠しきれず、躊躇うように呟いた。
「南条、紫蓮…?まさか、あの!」
そう言葉が放たれた瞬間、その場にいた社員一同が清芳さんではなく紫蓮に視線を集中させる。そしてざわめきが聞こえ、次第にその声は大きくなってゆく。
「俺なんかとは違って生粋の南条生まれの南条育ちだぜ。」
清芳さんは軽く言ったけど、実はこの言葉には深い意味が込められているんだ。
清芳さんは紫蓮のお祖父さんの妹の息子さんで、紫蓮のお父さんとは従兄弟同士だった。清芳さんのお母さんは一度嫁いだけど、離婚して出戻ってきたという。それは清芳さんが十五歳のとき。それまでの数年間もずっと不仲が続いていて、清芳さんは不仲の両親の間で居た堪れなかっただろう。そのため、清芳さんは小さい頃、南条を名乗ってなかったし育ちも南条ではなかったんだ。でも紫蓮は違う。南条生まれの南条育ちで、紫蓮は直系の当主。本社の社長になり、会社を経営していくには充分な器量を持っている。南条に勤める者なら〝南条紫蓮〟を知らない訳がない。社員の視線を一身に浴びた紫蓮は凛々しくも逞しい姿をし、重荷を感じず軽やかに挨拶をした。
「初めまして、南条紫蓮です。以後お見知りおきを。」
この言葉に社員は深々と礼をして、紫蓮への敬意を表した。それを見ていた清芳さんは満足そうに微笑んでいて、紫蓮を本当に可愛がっているんだと感じた。
そして清芳さんは社員に暫しの別れを告げ、その先を進む。そして秘書室を通り、紫蓮と俺を社長室へ招き入れた。中へ入ると、社長室に相応しいものが並んでいた。社長専用のデスクにふかふかの椅子。そして客を招いたときの長机と対の椅子が四席。清芳さんはその一席に紫蓮を座らせ、その横に俺を座らせてくれた。そして清芳さんは対する方の椅子に座る。
「さて、わざわざ祝にまで来てもらったのは理由がある。」
椅子に座ってすぐ、落ち着く暇もなく清芳さんは本題を切り出した。紫蓮はその理由を知っているらしく、驚いて焦っているのは俺だけだ。まったくもって分からない。だけど清芳さんはそんなことを気にせず話を進める。
「紫蓮は学校を卒業したらこの会社の社長になる。今からはその練習期間だ。」
紫蓮が社長になる!?まぁ、当然と言ったら当然なんだろうけど、学生をしている今はあまり実感が湧かない。というか、それと俺が呼ばれた理由が繋がるのかさえも分からない。このまま分からないのも癪なので、思い切って恐る恐る清芳さんに聞いてみた。
「あの、それと俺はどんな繋がりが…?」
清芳さんは怪しい笑みを浮かべて俺を見ると、決定打を指すように言った。
「そこで、紫蓮は社長秘書にお前を指名した。河村祝を、な。」
清芳さんの話を聞いた後、初めは何も認識出来なかった。でも、紫蓮が俺を秘書にしたいと言ってくれているという事実は嬉しかった。俺は確認の言葉を清芳さんに向ける。
「俺を?…紫蓮?」
そして向けた後、隣にいる紫蓮の名を呼びながら振り向く。すると紫蓮は真剣な顔で俺を見た。
「俺はお前がいい。お前以外の秘書ならいらない。」
真剣な顔で言う紫蓮に、思わず見惚れてしまった。だから俺は、紫蓮に弱いのだということも思い知らされる。大事な紫蓮にここまで言われたら、答えは決まっている。
清芳さんは俺が答えを決めたことを見抜き、素早く返答を仰いだ。答えなんて、聞かなくても分かっているくせに。
「どうだ?祝。やるか?俺がビシビシ鍛えてやるぞ。泣き言は言わせねーからな。」
泣き言なんて言わない。紫蓮と一緒で、紫蓮が俺を選んでくれたなら、泣き言なんて言えるわけない。答えは唯一つ。
「はい。やります!やらせてください!」
勢い良く答えると、清芳さんはにやりと笑い、その答えを快く受理した。そして紫蓮を見て賛同を求める。
「よし。決定、っと。いいな、紫蓮。」
清芳さんに聞かれた紫蓮は、自分の希望通りになったことに、また、清芳さんが了承をしてくれたことに対して深々と礼をした。
「はい。ありがとうございます。」
清芳さんは紫蓮の気持ちが分かっているらしく、その返事に笑顔を向け、紫蓮と俺を見据えた後、今までにない笑顔で言葉を放つ。
「さて、死ぬほど働いてもらうぞ。守るもののためにな。」
そのときの清芳さんの顔はとても嬉しそうで、紫蓮の成長をとても喜んでいるんだと思った。清芳さんは紫蓮の保護者で、紫蓮の成長を一番に考えてる。ついこの間まで、紫蓮は南条系統の会社では働かないと言っていたはずなのに、どういう風の吹き回しなのか。清芳さんの言った言葉で益々疑問は強くなる。
「守るもの?」
思わず視線を清芳さんから紫蓮へと向け、訊ねてしまった。だが紫蓮は近くにあるものではなく、何処か遠くにある物を見るような眼をして、答えた。
「ああ。守るものが出来たからな。」
〝守るもの〟それが莎子チャンのことだと分かるのに時間は掛からなかった。そう言ったときの紫蓮は凛々しくて、俺が大事にしているものだということも分かった。その後、清芳さんに付き添われ社長室を出た俺と紫蓮は、来たときに乗った車を使わず、歩いて帰ることにした。紫蓮がそうしたいって言ったから。
「紫蓮、本当に俺でいいのか?」
帰り道、並んで歩いている紫蓮に質問をした。この問いの答えを聞いたら、もう同じことは聞かない。紫蓮を信じてるし、俺は紫蓮のために存在しているんだから。
問いかけを聞いた紫蓮は俺を見て、ただ一度だけの答えを言った。
「お前以外は考えられない。」
その言葉で、一生分の幸せを貰った気がした。紫蓮が必要としてくれるなら、どんなことだってするよ。紫蓮が俺の全てだから。
そう思った瞬間、もう次の言葉が口から飛び出していた。
「今日泊まってもいい?」
ふと思いついたことだけど、紫蓮は多分いいって言ってくれる。紫蓮の家に泊まるのは今回が初めてではない。紫蓮は俺が聞いたすぐ後に躊躇うことも考え込むこともなく即答した。
「あぁ。着替えとかは、…あるな。」
着替えは以前から泊まっているときに置いておくもの。多いときは一週間に三、四回、長いときは一週間に五日の泊まり。最早半同棲生活と化しているため、最低限の着替えや日用品は自宅と紫蓮の家に置いてある。
この前みたいに、紫蓮を連れず先に帰っても千代さんが何の躊躇いもなく紫蓮の部屋へ入れてくれるのは、こういう諸事情からだったりする。紫蓮が所用でどこかに出掛けていても、部屋で待つように言ってくれる。最初からアポイントメントを取っておけばいいんだけど、それがままならない場合もあるのだ。
「着替えは置いてあるし、洗面用具もあるよな?」
紫蓮が処分していなければ、生活に必要な物は充分足りているはずだ。それも紫蓮がそれらを処分などするはずないだろうという前提からなるもの。
「じゃ、家に寄らなくても大丈夫か?」
紫蓮は俺の自宅に寄ってくれる気だったらしい。でも自宅に寄ってまで必要としている物はない。最低限必要なものは紫蓮の家にある。
「大丈夫。」
陽気に答えると、紫蓮は何を思ったのか急に呟いた。
「…手出すなよ。」
言われた言葉の本意が判らず、ほんの少しの沈黙の後に答える。
「…誰に。」
そう答えた時点で、誰にかが分かってしまった。今の紫蓮は莎子チャンのことで頭がいっぱいだ。
「莎子に。」
やっぱり。予想通りの答えだ。
手を出すな。莎子チャンに。
紫蓮は俺が莎子チャンに手を出すと思っているのだろうか。多分、思っていないだろうけど、念のためなのか。
「出さないよ。」
心配しなくても。
そう答えると、紫蓮は俺がそう答えることを分かっていたらしく、特に変わった表情はしなかった。俺の全てを分かっている気がして、心地好かったけど、その余裕がちょっと悔しくて。面白半分ににっこりと笑いながら戯言を吐いてみた。
「でも、紫蓮には出すかもな。」
莎子チャンには出さなくても、紫蓮には出すかも。
満面の笑みで言ったことは、面白半分、本気半分だった。どう答えてくれるか知りたくて、それ以外のことは考えていなかった。本気混じりの俺の言葉に、紫蓮は少しも驚くような表情をすることもなく、俺に笑顔を向けた。
「言ってろ。」
その言葉は、とても暖かくて、俺が紫蓮の傍を離れられない理由だと思った。もう何年も、紫蓮の傍を離れられない理由。昔からこの笑顔が向けられるのは俺だけの特権で、これからも紫蓮は俺に同じ笑顔を向けてくれる。そう思えることが、とても幸せなこと。それだけで、俺は幸せになれる。俺の全ては紫蓮のものだから。
その日、南条邸に着くまでに一時間くらい歩いたけど、どこの空を見ても紫蓮の隣で見る空は清々しく澄んだ、綺麗な空だった。
楠ヶ丘学園高学部に通う十七歳。髪は茶髪で身長は紫蓮と同じくらい。体重は秘密!
まあ、所謂情報屋で、学校内のことは何でも知ってるつもり。学校外のことも知ってるけどね。
でさ、俺は南条紫蓮の親友なんだけど、今回はその親友、紫蓮と、紫蓮の大事な人の莎子チャンについて、いろいろとお話しようかと思う。個人情報に触れないようにね。ちなみにここは学校の教室。教室好きなんだ。
さて、親友の紫蓮だけど、実は両親がいなくて、前はおっきい家に一人で住んでたんだ。今は、莎子チャンと千代さんと一緒だけどね。莎子チャンはつい最近まで違うところに住んでたんだけど、今は紫蓮の家にいるんだ。長い黒髪がすっごく綺麗なんだよ。
実は、ちょっと前に紫蓮に赤い蝶の浴衣と黒い蝶の帯の噂のことを話したんだけど、その次の日からなんか虚ろで、いっつも恐い顔で考えごとしてた。んで、一週間くらい経ってから、街外れの廃墟で火事だって聞いて、これは行かなきゃ!と思って行ったら騒ぎの中心には紫蓮がいて、それにびっくり。
んで、紫蓮は女の子を連れてて、その女の子は綺麗でかあいいし、名前で呼んでるし?紫蓮が女の子のこと名前で呼んでんの初めて聞いたし、その子にはすっごく優しくって、いつもあんなんだったらもっとモテるのにな。今でもモテすぎるくらいモテてるけど。
俺の調べによると、今までに紫蓮に告白して来たのは一五七人。これは全学年の女子を統計したもので、紫蓮が告白される度に断っても減らない。自分こそは!と逆に燃える子もいるらしい。そのせいで、大半の男子には恨まれてるけど、非のない紫蓮に何も言えない。それと反対に慕われることもあるけど、基本的に紫蓮は顔も名前も覚えてあげない。可哀想にね。
いろんな人が興味を持つ紫蓮だけど、莎子チャンにだけは特別な対応だ。大事にしてるってゆーか、愛してるってゆーか。
莎子チャンを初めて見たときに着てた、噂の浴衣。次に見たときはもう着てなかったから、紫蓮に聞いてみたんだけど、紫蓮曰く
「莎子は燃やして捨ててほしいって言ってたけど、どうするかは決めてない。」
だそうで、実際のところ、どうしたのかは教えてくれなかった。
紫蓮がそう言うから、深く詮索はしなかったけど。
でも、噂は本当だったんだな。それが分かっただけで俺は満足だよ。
俺は紫蓮が駄目だってことは絶対しない。
俺のモノサシは紫蓮で、何でも紫蓮が基準なんだ。だからこそ、消化不良の種は尽きない。
事件後、紫蓮の家に紫蓮と莎子チャンに会いに行ったとき、紫蓮宛に俺の知らない人から電話が掛かってきたんだ。そのとき紫蓮はかなり嫌そうな顔してた。俺の知らない人ってところがアレだけど、紫蓮が関わるなってゆーから何も聞かない。本当は気になって仕方ないけどね。でも言わない。紫蓮が大事だから。
紫蓮は両親が居ないから、何でも一人でやってて人に頼ろうとしないところがあるんだ。だから、余計に心配なんだよね。
そうだ、莎子チャンだけど、楠ヶ丘学園に通うようになったんだよ。紫蓮は行かなくてもいいって言ったみたいだけど、行かなくてもとりあえず入学だけしようってことで。莎子チャンが名字を言いたがらないから紫蓮もどうしようかと思ったんだって。紫蓮だって調べて知ってるのに聞くんだもん。結局、莎子チャンは南条で通うことになったらしい。既に夫婦みたいだよね。そんな二人を見てると微笑ましい。紫蓮は莎子チャンが大事で、莎子チャンも紫蓮が一番大事なんだ。あーあ…莎子チャンに紫蓮取られちゃったー…。…なんてね。
そんなこと言ってたら、教室の扉が開いた。そして眼に映ったのは、黒髪と右耳に付けたつがいの赤と黒の蝶のピアス。
「…紫蓮。」
顔を見せた者の名を呼ぶと、そいつは教室に足を踏み入れた。そして綺麗な黒髪を揺らしながら、俺に言った。
「祝、行くところがある。着いて来い。」
紫蓮に言われるまま紫蓮に着いて行くと、学校の正門前に黒塗りのベンツが停められていて、その車に乗るように言われた。紫蓮はこういうのを好んでないはずなんだけど、どういう風の吹き回しなんだろうか。とにかく言われるままに乗り込むと、そのまま黒塗りベンツは動かされた。途中、紫蓮に何処に行くのか聞いたけど、紫蓮は答えてくれなかったんだ。そして、しばらく大人しくベンツに乗っていると、ベンツが止まって扉が開けられた。着いたところは、高層ビルだった。この場所、この印は、――――――。
「…南条財閥本社…。」
驚きで思わず声が漏れた。紫蓮に連れられて着いた場所は、南条の経営する会社だった。
いくら紫蓮の家の会社でも、紫蓮は今まで会社に直接関わっていなかったから、俺が南条の会社に来るのも初めてだ。紫蓮はそのまま正面玄関を通る。紫蓮に付いて行くしかないから、俺も紫蓮の後を追った。正面玄関を入って受付の前を見ると、そこには紫蓮の保護者をしている、清芳さんがいた。清芳さんは俺と紫蓮に気付くと、すぐに挨拶をしてくれた。
「よぉ、紫蓮。祝も久しぶりだな。」
前に会ったのはいつだっただろうか。多分、紫蓮の両親が死んだときだ。そのとき清芳さんは紫蓮の保護者になって、それ以来一度も会っていない。それはもう何年も前の話なのに清芳さんはよく俺が〝祝〟だって分かったな、と感心してしまう。
「こちらこそお久しぶりです。清芳さん。」
深々と礼と挨拶をすると、清芳さんはにこやかに笑いかけてくれた。俺自身、情報を専門に扱っているため、礼儀作法は一通り勉強している。礼儀がなっていない者を信用して信憑性のある情報をくれる人など、いる訳がない。こういうとき、心底勉強しておいて良かったと思う。紫蓮は俺と違って清芳さんに近付き、軽く挨拶をした。
「兄さん、今日は忙しい中すみません。」
紫蓮はいつも通りの反応で、清芳さんに接する。すると清芳さんは紫蓮と俺について来るように言った後、エレベーターに乗り込んだ。だが、そのエレベーターは豪華な造りになって普通の人が使うことを許されないような風格が漂っている。俺たちがエレベーターに乗り込むときも、他の社員が俺たちを見ていたのが分かった。制服を着ている少年が二人、会社の上層部の人といるのは謎めいたことだろう。実際のところ、俺だって謎だ。
エレベーターからおりると、数多くの社員がいた。どの人も一般社員じゃないのが分かる。すると清芳さんは、その社員の中を堂々と通っていた。社員はすぐさま足を止めて深々と清芳さんに礼をする。その中で一人の男性が清芳さんに近付いて来た。その人はとても温和そうな顔をしていて、菩薩のような顔に眼鏡をかけていた。そして清芳さんに深々と礼をし、発言をする。
「お帰りなさいませ、副社長。そちらの方々は?」
その男性は頭を上げてすぐに俺と紫蓮を見て清芳さんに問いかけた。世界の南条の本社副社長が子供を二人も連れて一体何がしたいのか、皆目検討がつかないらしい。すると清芳さんは薄ら笑いを浮かべ、紫蓮を見てから笑いを含み男性を見直した。
「南条紫蓮。この会社の社長になる男さ。」
清芳さんのその言葉を聞いた男性は呆然とし、驚きを隠しきれず、躊躇うように呟いた。
「南条、紫蓮…?まさか、あの!」
そう言葉が放たれた瞬間、その場にいた社員一同が清芳さんではなく紫蓮に視線を集中させる。そしてざわめきが聞こえ、次第にその声は大きくなってゆく。
「俺なんかとは違って生粋の南条生まれの南条育ちだぜ。」
清芳さんは軽く言ったけど、実はこの言葉には深い意味が込められているんだ。
清芳さんは紫蓮のお祖父さんの妹の息子さんで、紫蓮のお父さんとは従兄弟同士だった。清芳さんのお母さんは一度嫁いだけど、離婚して出戻ってきたという。それは清芳さんが十五歳のとき。それまでの数年間もずっと不仲が続いていて、清芳さんは不仲の両親の間で居た堪れなかっただろう。そのため、清芳さんは小さい頃、南条を名乗ってなかったし育ちも南条ではなかったんだ。でも紫蓮は違う。南条生まれの南条育ちで、紫蓮は直系の当主。本社の社長になり、会社を経営していくには充分な器量を持っている。南条に勤める者なら〝南条紫蓮〟を知らない訳がない。社員の視線を一身に浴びた紫蓮は凛々しくも逞しい姿をし、重荷を感じず軽やかに挨拶をした。
「初めまして、南条紫蓮です。以後お見知りおきを。」
この言葉に社員は深々と礼をして、紫蓮への敬意を表した。それを見ていた清芳さんは満足そうに微笑んでいて、紫蓮を本当に可愛がっているんだと感じた。
そして清芳さんは社員に暫しの別れを告げ、その先を進む。そして秘書室を通り、紫蓮と俺を社長室へ招き入れた。中へ入ると、社長室に相応しいものが並んでいた。社長専用のデスクにふかふかの椅子。そして客を招いたときの長机と対の椅子が四席。清芳さんはその一席に紫蓮を座らせ、その横に俺を座らせてくれた。そして清芳さんは対する方の椅子に座る。
「さて、わざわざ祝にまで来てもらったのは理由がある。」
椅子に座ってすぐ、落ち着く暇もなく清芳さんは本題を切り出した。紫蓮はその理由を知っているらしく、驚いて焦っているのは俺だけだ。まったくもって分からない。だけど清芳さんはそんなことを気にせず話を進める。
「紫蓮は学校を卒業したらこの会社の社長になる。今からはその練習期間だ。」
紫蓮が社長になる!?まぁ、当然と言ったら当然なんだろうけど、学生をしている今はあまり実感が湧かない。というか、それと俺が呼ばれた理由が繋がるのかさえも分からない。このまま分からないのも癪なので、思い切って恐る恐る清芳さんに聞いてみた。
「あの、それと俺はどんな繋がりが…?」
清芳さんは怪しい笑みを浮かべて俺を見ると、決定打を指すように言った。
「そこで、紫蓮は社長秘書にお前を指名した。河村祝を、な。」
清芳さんの話を聞いた後、初めは何も認識出来なかった。でも、紫蓮が俺を秘書にしたいと言ってくれているという事実は嬉しかった。俺は確認の言葉を清芳さんに向ける。
「俺を?…紫蓮?」
そして向けた後、隣にいる紫蓮の名を呼びながら振り向く。すると紫蓮は真剣な顔で俺を見た。
「俺はお前がいい。お前以外の秘書ならいらない。」
真剣な顔で言う紫蓮に、思わず見惚れてしまった。だから俺は、紫蓮に弱いのだということも思い知らされる。大事な紫蓮にここまで言われたら、答えは決まっている。
清芳さんは俺が答えを決めたことを見抜き、素早く返答を仰いだ。答えなんて、聞かなくても分かっているくせに。
「どうだ?祝。やるか?俺がビシビシ鍛えてやるぞ。泣き言は言わせねーからな。」
泣き言なんて言わない。紫蓮と一緒で、紫蓮が俺を選んでくれたなら、泣き言なんて言えるわけない。答えは唯一つ。
「はい。やります!やらせてください!」
勢い良く答えると、清芳さんはにやりと笑い、その答えを快く受理した。そして紫蓮を見て賛同を求める。
「よし。決定、っと。いいな、紫蓮。」
清芳さんに聞かれた紫蓮は、自分の希望通りになったことに、また、清芳さんが了承をしてくれたことに対して深々と礼をした。
「はい。ありがとうございます。」
清芳さんは紫蓮の気持ちが分かっているらしく、その返事に笑顔を向け、紫蓮と俺を見据えた後、今までにない笑顔で言葉を放つ。
「さて、死ぬほど働いてもらうぞ。守るもののためにな。」
そのときの清芳さんの顔はとても嬉しそうで、紫蓮の成長をとても喜んでいるんだと思った。清芳さんは紫蓮の保護者で、紫蓮の成長を一番に考えてる。ついこの間まで、紫蓮は南条系統の会社では働かないと言っていたはずなのに、どういう風の吹き回しなのか。清芳さんの言った言葉で益々疑問は強くなる。
「守るもの?」
思わず視線を清芳さんから紫蓮へと向け、訊ねてしまった。だが紫蓮は近くにあるものではなく、何処か遠くにある物を見るような眼をして、答えた。
「ああ。守るものが出来たからな。」
〝守るもの〟それが莎子チャンのことだと分かるのに時間は掛からなかった。そう言ったときの紫蓮は凛々しくて、俺が大事にしているものだということも分かった。その後、清芳さんに付き添われ社長室を出た俺と紫蓮は、来たときに乗った車を使わず、歩いて帰ることにした。紫蓮がそうしたいって言ったから。
「紫蓮、本当に俺でいいのか?」
帰り道、並んで歩いている紫蓮に質問をした。この問いの答えを聞いたら、もう同じことは聞かない。紫蓮を信じてるし、俺は紫蓮のために存在しているんだから。
問いかけを聞いた紫蓮は俺を見て、ただ一度だけの答えを言った。
「お前以外は考えられない。」
その言葉で、一生分の幸せを貰った気がした。紫蓮が必要としてくれるなら、どんなことだってするよ。紫蓮が俺の全てだから。
そう思った瞬間、もう次の言葉が口から飛び出していた。
「今日泊まってもいい?」
ふと思いついたことだけど、紫蓮は多分いいって言ってくれる。紫蓮の家に泊まるのは今回が初めてではない。紫蓮は俺が聞いたすぐ後に躊躇うことも考え込むこともなく即答した。
「あぁ。着替えとかは、…あるな。」
着替えは以前から泊まっているときに置いておくもの。多いときは一週間に三、四回、長いときは一週間に五日の泊まり。最早半同棲生活と化しているため、最低限の着替えや日用品は自宅と紫蓮の家に置いてある。
この前みたいに、紫蓮を連れず先に帰っても千代さんが何の躊躇いもなく紫蓮の部屋へ入れてくれるのは、こういう諸事情からだったりする。紫蓮が所用でどこかに出掛けていても、部屋で待つように言ってくれる。最初からアポイントメントを取っておけばいいんだけど、それがままならない場合もあるのだ。
「着替えは置いてあるし、洗面用具もあるよな?」
紫蓮が処分していなければ、生活に必要な物は充分足りているはずだ。それも紫蓮がそれらを処分などするはずないだろうという前提からなるもの。
「じゃ、家に寄らなくても大丈夫か?」
紫蓮は俺の自宅に寄ってくれる気だったらしい。でも自宅に寄ってまで必要としている物はない。最低限必要なものは紫蓮の家にある。
「大丈夫。」
陽気に答えると、紫蓮は何を思ったのか急に呟いた。
「…手出すなよ。」
言われた言葉の本意が判らず、ほんの少しの沈黙の後に答える。
「…誰に。」
そう答えた時点で、誰にかが分かってしまった。今の紫蓮は莎子チャンのことで頭がいっぱいだ。
「莎子に。」
やっぱり。予想通りの答えだ。
手を出すな。莎子チャンに。
紫蓮は俺が莎子チャンに手を出すと思っているのだろうか。多分、思っていないだろうけど、念のためなのか。
「出さないよ。」
心配しなくても。
そう答えると、紫蓮は俺がそう答えることを分かっていたらしく、特に変わった表情はしなかった。俺の全てを分かっている気がして、心地好かったけど、その余裕がちょっと悔しくて。面白半分ににっこりと笑いながら戯言を吐いてみた。
「でも、紫蓮には出すかもな。」
莎子チャンには出さなくても、紫蓮には出すかも。
満面の笑みで言ったことは、面白半分、本気半分だった。どう答えてくれるか知りたくて、それ以外のことは考えていなかった。本気混じりの俺の言葉に、紫蓮は少しも驚くような表情をすることもなく、俺に笑顔を向けた。
「言ってろ。」
その言葉は、とても暖かくて、俺が紫蓮の傍を離れられない理由だと思った。もう何年も、紫蓮の傍を離れられない理由。昔からこの笑顔が向けられるのは俺だけの特権で、これからも紫蓮は俺に同じ笑顔を向けてくれる。そう思えることが、とても幸せなこと。それだけで、俺は幸せになれる。俺の全ては紫蓮のものだから。
その日、南条邸に着くまでに一時間くらい歩いたけど、どこの空を見ても紫蓮の隣で見る空は清々しく澄んだ、綺麗な空だった。
空は綺麗に快晴で、とても気持ちのいい春の朝。午前九時、南条邸のインターフォンが鳴り響いた。
「はい。南条でございます。」
千代が相手を待たせぬようにと三回コールでインターフォンの電話に出る。すると向こう側からまだ若い男の声がする。その男は電話先の千代に何か話しかけたらしく、千代はとても懐かしげに
「お久しぶりでございます。」
と対応した。そして門を開け、玄関までの障害物をなくす。すると、その男は南条邸へと入ってきた。玄関先で履いてきた黒い靴を脱ぎ、千代が用意したスリッパを履き、軽く千代に挨拶をする。
「本当に久しぶりですね。前に会ったのはいつでしたっけ?」
男は二十代後半から三十代前半にかけてという見積もりが妥当という姿をしていて、黒い背広に黒い鞄を持っている。その男が来たと分かり、二階の自室から階段を下りて来た紫蓮はその男に向けて柔らかな笑みと言葉を渡す。
「お久しぶりです。兄さん。」
紫蓮はこの男のことを〝兄さん〟と呼んだ。だが、紫蓮に血の繋がった実の兄などはいない。それならば、この男は誰なのか。その答えは出ていない。男は階段を下りてきた紫蓮を見て、珍しいものを見たような顔をした。そして軽く手を上げ、紫蓮に挨拶をする。
「よぉ、紫蓮。久しぶりだな。何年ぶりだ?」
軽く言った男に紫蓮は階段を下りながら問われた問いの解答を放つ。
「両親が死んで、いろいろとあったとき以来ですね。」
つまり、両親が死んでからは一度も会っていないということになる。いろいろというのは、両親が死んで、遺産のことや会社のことや紫蓮の引き取り手のことなど、親族の間でかなりの争いがあった親族戦争のことを指す。紫蓮が階段を下りきり、玄関先にいた男の前に行くと、その男は笑いながら紫蓮の頭に手を置き、何度か叩く。
「そうか。そんなにもか。どーりで紫蓮がでかくなってる訳だ。」
そう言った男の顔は、とても嬉しそうだった。男は散々紫蓮の頭を叩いた後、側にいた千代に〝いつもの〟を応接室に持って来るように頼み、紫蓮と共に応接室へと消えた。
「それで?お前が俺を呼ぶってことは、何かあるんだろ?お前の手に負えないことが。」
応接室に入り、ソファーに座り一息ついたとき、即座に言われた言葉。そしてここぞとばかりに、俺に調べ事までさせて。という嫌味まで付いていた。そう言われるとその通りなので何も言えない。そんなに何もかも見通している男に、調べてもらったこととこちらの事情やあったことの全てを話す。途中、千代が男の〝いつもの〟と紫蓮の〝いつもの〟を持ってやって来たが、その持って来たものを受け取り、話を押し進める。受け取った〝いつもの〟を飲み核心に至る。
「ふーん。そんなことがあったんだ。だから俺に調べさせたんだな。」
「はい。」
足を組んで踏ん反り反っている男に紫蓮は申し訳なさそうに答える。男はそんな紫蓮を見て、少し溜め息を吐き、持って来た鞄の中の書類を出す。そして束になっている書類の一番上の紙を捲り、今から本文を読もうというとき、呟くように声を漏らした。
「お前の知りたいことが全て分かるだろうぜ。」
その後、男は調べて来たことを書類に眼を通しながら話し始める。
紫蓮の両親が盗んだと疑われていたこの赤と黒の蝶は、これを造った彼女自身が恩人である紫蓮の両親に手渡したもので、老人が勝手に盗まれたと勘違いしたのだということ。
紫蓮の両親は彼女に、彼女の両親の死因が、会社の社長をしていた両親の社長の椅子を狙った役員に仕組まれて殺されたのではないか、という疑問があり、調査してほしいという依頼の仕事があり、調査し、無事犯人を逮捕に導いて恩人と思われていたこと。
紫蓮の両親は、盗んだと勘違いしていたあの黒い蝶の老人に依頼と称して呼び出され、殺されたこと。老人がそんな思い込みをしたために、莎子まで巻き込んだこと。
廃墟の跡地に残ったものは小さな金庫が一つ。その中に預金通帳と老人が書いたものと思われる手記が入っていたという。
謎になっていたこと全てが分かり、紫蓮は胸を撫で下ろす。男は書類を机の上に置き、足を組み換え腕を組む。
「それで、事件について知りたいことはここまでだろ。」
今回の一件について、謎は全て解けただろう。紫蓮の両親が赤と黒の蝶を盗んだのではないことや、莎子もあの老人に偽りを教えられていたことが分かった。もう情報で得るものはないと言える。そんなとき男が、不意に紫蓮に違う話を振ってきた。
「お前、警察の事情聴取に行かなかっただろ。」
紫蓮は『後日改めて任意で伺います。』という結論を出した。そして警察の上層部である、警視総監に申し出、許しを得た。
「あ、はい。また後日、改めて行こうかと。」
その一部を男に言うと、男は眼を瞑り、
「その必要はない。既に丁重に断りを入れた。」
と放った。既に南条は関われないということを言ったのだという。いくら警察でも任意を強制することは出来ない。そのための任意なのだ。
男はカップに入っている〝いつもの〟を飲み、紫蓮をじっと見る。その視線に気付いた紫蓮は男の思っていることを先取りして口から出した。
「…もう一つの頼み事の件ですか。」
もう一つ。紫蓮は男にこの事件自体とは別に違うことも調べるように頼んでいたのだという。その紫蓮が頼んだこととは一体何なのか。その答えは意外と早く訪れた。
「あの娘(むすめ)のことを調べてどうするつもりだ?」
男が放った〝あの娘〟とは莎子のことを指している。紫蓮はこの男に事件のことと同時に莎子のことも調べさせていた。莎子の本名、年齢、生年月日、本籍地、親類関係など情報という情報を全て集めるようにと頼んだのだ。紫蓮がなかなか口を開かず言葉を出さないため、男は溜め息を吐いた。
「別に、お前のしたいようにすればいいさ。」
男のこの言葉を聞いて、紫蓮は覚悟を決めた。言おう言おうと思っていてずっと言えなかったこと。この件についての真相と莎子のことを調べてもらい、その結果によっては言おうと思っていたこと。
「兄さん。」
思い切って言う。紫蓮の眼にもう迷いはない。男が何と言うか、それを考えるばかりだ。だが、これだけは譲れない。小さく深呼吸をして、男を見据える。
「莎子の保護者になってもらえませんか。」
この言葉を聞いた男は眉を潜め〝解せない〟という表情をしている。そのまま紫蓮の言葉に耳を傾け、焦らず話の続きを聞こうとする。その意図が理解出来、紫蓮は構わず話を続ける。
「莎子には身寄りが居ません。ですから、この家に住まわせたいんです。」
紫蓮の放ったことに、男は無表情で紫蓮を見据えた。左肘をソファーの手すりに置き、頬に拳をあてる。
「それは、お前の保護者が俺だから、か?」
男は紫蓮の全てを見透かしたように問う。この問いに紫蓮は静かに、だが確かに答える。
「はい。」
紫蓮の両親は既に故人のため、親族は次期当主の肩書きを持つ紫蓮と莫大な財産手に入れたいだけに紫蓮を引き取りたがった。だが、紫蓮にしてみれば血縁関係を述べられても面識のない親族たちばかりで、誰のところにも行きたがらなかったのも事実。そんなとき、一番身近で信頼の置ける唯一の親族が彼だったのだ。実際、紫蓮は彼を選んだが、彼は紫蓮を束縛することもなく、紫蓮の好きなようにさせている。財産を管理するのも彼ではなく全て紫蓮が行い、保護者のサインが必要なときは速達で書類を送り、彼のサインを貰う。彼は紫蓮の親族の一人で姓も〝南条〟を使っているため、不可解に思われることや、怪しまれることもなかった。当時、彼が紫蓮の保護者になったとき、彼はまだ若く、何をするにもこれからというときだったが、彼も紫蓮の保護者になることを快く承諾したため、互いの希望があり彼が紫蓮の保護者に決まった。そんなことがあり、男は紫蓮の意見を一番に尊重する。
「お前がそうしたいなら構わねぇが、それはあの娘を俺の養女にするってことか?」
紫蓮の言葉を確認するとすぐさま次の問いを発した男は、莎子を自分の養女にするのか。と聞いた。すると紫蓮は表情を変えることもなく、素早く問いかけに答えた。
「そこまでは考えていません。」
「嘘を言うな。」
〝嘘〟この言葉に神経が反応する。即座に〝嘘〟と断言する男は紫蓮のことを見透かしているようだ。そして続けざまに核心を突く。
「お前は俺が断らないのを知っている。況してやいつも人を頼らないお前が、そう頼んで来るってことは、あの娘のことをそれほど大事にしているってことだ。…違うか?」
全てを聞いたあと、紫蓮は男から視線を逸らし、俯く。そして張っていた気を抜いたのか、軽く息を吐き、小さく笑い呟く。
「…流石、ですね。」
伊達に経験を積んではいない。南条を名乗る者なら、確実に身に付けておかなければならない技術だ。この技術は普段の会社勤めのときも役に立つ。だが、その教えは並大抵のものではない。男は紫蓮が放った言葉に当然の如く突っ返した。
「当たり前だ。俺だって兄貴に鍛えられたんだからな。」
「父は容赦ない人ですからね。兄さんだって父の従弟(いとこ)じゃなかったらもっと優しく教えてもらえたでしょうに。」
少し呆れるように言う紫蓮の顔には笑みが溢れていた。この言葉で男が紫蓮の父の従弟だということが分かった。紫蓮のいう兄が男のことで、男のいう兄が紫蓮の父のことなのだ。
男は手に持っていた〝いつもの〟を口元へと持って行き、口を湿(しめ)すほどに口にする。
「確かにそうかもな。でも、兄貴のお陰で今の俺があるんだ。兄貴には感謝することばかりさ。」
この男も紫蓮同様、幼いうちから探偵として鍛えられたのだろう。少ない期間で南条と探偵としての力を使い、莎子のことを調べ上げた実力は本物だ。
そして、男は反れていた話を元に戻す。
「…それで、どうするつもりだ。お前のことだからあの娘の意見を尊重するんだろ。」
莎子をどうするのか。養女にするにしても、ただ保護者になるにしても、当事者なのは紫蓮で男でもなく莎子だ。莎子の意見を尊重しなければ何の意味もない。
「莎子に聞いてみます。」
莎子がどう言うかは分からないし、南条に関わることを望まないかもしれない。施設に入ることやそのまま死ぬことを望むかもしれない。莎子の人生だ。莎子に決めさせてやるのが筋というもの。紫蓮は俯き、考え込むような素振りを見せた。全ては莎子に。
男もそんな紫蓮に気付いたのか、〝いつもの〟を飲み干すと立ち上がり、荷物を手に取った。
「そうか。じゃ、とりあえず俺は帰るからな。また何かあったら連絡して来い。」
優しく言われ、とても暖かい気持ちになる。久しぶりに温もりに触れたような、そんな優しい感覚。その感覚は両親の感覚に似ている。
「はい。」
紫蓮がそういうと、男は部屋を出て、近くで違う仕事をしていた千代に軽く挨拶をして南条邸を去った。紫蓮が連絡すればまたすぐに駆けつけるのだろうが、まずは片付けなければならないことを片付けてからだ。男が去ったため、部屋に残ったのは紫蓮一人になる。紫蓮は目に視点を持たず、千代がいれた〝いつもの〟を弄びつつ、ゆっくり飲み干すと、座っていたソファーから立ち上がりその部屋を出た。
先程までいた応接室を出た紫蓮は、そのまま二階に上がり、右手の二つ目の部屋の扉を数回叩くと部屋の中へ入った。部屋はフローリングの床の中央に正方形の赤い絨毯が敷かれている。そこには赤い蝶の浴衣ではなく、普通の浴衣を着た莎子が俯いて座っていた。
「莎子。」
紫蓮のノックに返事はしなかったが、紫蓮が名を呼ぶと、顔を上げて紫蓮を呼んだ。
「紫の蝶。」
紫蓮は〝紫の蝶〟と呼ばれたことには何も言わず、ただ一言、
「話があるんだ。」
とだけ言い、莎子に話をする。
まず、莎子の両親のこと、姉のこと、赤と黒の蝶のこと。
莎子の誤解を解き、真実を伝える。すると莎子はいとも簡単に納得し和解してくれた。老人に教えられたことを丸々鵜呑みにしていた訳ではなかったらしい。紫蓮が告げた真実をしっかりと胸に刻んだ。
そして、紫蓮が莎子に確かめなければならないこと。これからのこと。
引き取り手のない莎子を施設や他の家にはやらず、この南条で面倒をみたいということ。
両親のいない莎子の保護者に紫蓮の保護者がなってくれて、必要ならば養女になること。
保護者は紫蓮の親族で、南条で一番信じられる人物だということ。
住んでいるのは紫蓮だけで、この家に莎子にいてほしいということ。
学校にも話を通し、行きたければ行けるように努力すること。
考えられること全てを莎子に伝えた。そして最後に莎子の意思を問う。
「莎子は、どうしたい?」
紫蓮が問うと、莎子は驚くように眼を見開き、言葉を返した。
「お前と、ここで暮らす…?」
予想外の反応に紫蓮も眼を見開く。紫蓮の予想は、もっと違う反応をすると思っていたのだ。紫蓮は眼を元に戻し、莎子の意見を仰いだ。
「あぁ。嫌?俺なんかと一緒に暮らすのは。」
莎子は女で、紫蓮は男。そういう意味で不安なのは分かる。そして、つい先日まで敵対していた関係だ。そんな相手の家になど、住みたくないかもしれない。莎子は紫蓮の眼を見据え、静かに呟くように言った。
「…あたしには行くところがない。ここにいていいのなら、ここにいたい。あたしは、お前に興味がある。紫の蝶。」
莎子は自らの口でここにいたいと告げる。それを知った紫蓮は安堵の色を浮かべ、優しく笑う。
「じゃあ、決まりだな。…莎子。それと俺の名前は〝紫蓮〟だ。〝紫の蝶〟じゃないからな。」
最初に逢ったときにフルネームを呼ばれたきりで、それからは名前ではなく〝紫の蝶〟と呼ばれていた。そのことを改めて思い出し、莎子に釘を刺す。すると莎子は繰り返し紫蓮の名を呼び続ける。
「し、れん…?…シレン、しれ、ん………紫蓮。」
莎子は紫蓮を名前で呼び、最後には紫蓮を見つめ、優しく笑いながら名を呼んだ。それを見て、紫蓮も再度優しく笑い、満足気な顔をする。そして、莎子の黒く長い髪に触れる。
「そう、紫蓮。さて、他にもしなくちゃいけないことがいっぱいだけど、とりあえず、よろしく。莎子。」
紫蓮が髪を弄びながら言うと、莎子もそれに答える。
「…よろしく、紫蓮。」
そう言う莎子は、とても美しく、紫蓮が見惚(みほ)れるほど凛々しくもあった。その真っ直ぐな強い眼に、吸い込まれてしまいそうなくらい、紫蓮は莎子に囚われている。
「あぁ…そういえば、聞きたいことがまだあるんだ。…俺が三才のとき、階段から落ちたこと、どうして知ってるんだ?」
ずっと疑問に思っていたことを問うと、莎子はしばらく考え込み、記憶の中を旅する。
「落ちたこと…?………あぁ、あれか。」
問いかけの答えを見つけたのか、記憶を辿るように話す。
「あれは、お姉ちゃんがお前の両親に依頼を頼んだとき、あたしを見てお前の両親が漏らしたんだ。『同い年の息子がいて、三才のとき階段から落ちたんだ。』って。」
「そうか。」
今、生(せい)を受けている中では保護者と祝だけだと思っていたが、両親が生きていたうちなら話は別だ。探偵ならば個人情報を漏らすものではないと思うが、今思っても後の祭だ。
そう思っていると、南条宅のインターフォンが鳴り響いた。千代が対応しているが、訪ねて来た来訪者の正体は次の言葉で明らかになった。
「しれーん!」
この声は、明らかに情報屋をしている親友の、河村祝。紫蓮のことを名前で呼び捨てにする人物も、数限られている。
「祝だ。ちょっと待ってて。」
莎子を部屋に残したまま、廊下に出て階段を下りると、玄関先には祝がいて、にこやかに笑っていた。
「どうしたんだよ、祝。」
階段を下りきってから問いかけると祝はにこやかな笑みを変えることなく、
「会いに来たんだよ。紫蓮とあの娘(こ)、莎子チャンだっけ?二人に。」
と告げた。
「俺と莎子に?」
先程下りきった階段を今度は祝を連れて上り始め、問いかけるように言うと、祝は笑顔で答える。
「そぉそ、莎子チャンかあいいよねぇ~。」
〝かあいい〟は〝かわいい〟という意味らしく、祝がよく使う言葉で、紫蓮もよく言われている。実際、莎子はかわいいというより綺麗という分類なのだが、祝は綺麗よりかわいいという印象を得たのだろう。
「祝、莎子のこと、部外者には漏らすなよ。」
紫蓮が茶化すことなく真剣にそう言うと、祝はその気迫を感じたのか、真剣に答えた。
「解ってるよ。もちろん。」
階段を上りきり、莎子がいる部屋の扉を数回軽く叩き、返事が来る前に扉を開ける。それは、莎子が返事をしないと分かっているからだ。扉を開けると窓を見ていた莎子の視線が二人に集中する。
「莎子、河村祝。俺の親友だ。」
「こんにちは、莎子チャン。」
紫蓮が祝を紹介し、その紹介に乗じて祝が挨拶をすると、莎子はまた窓を見て、返事も挨拶もしない。心配になった紫蓮が莎子の名を呼ぶ。
「…莎子?」
紫蓮の声に莎子はただ一言、自分の気持ちを放った。
「あたしは、紫蓮以外の男と話す気はない。」
この言葉に驚いたのは祝だけではなかった。紫蓮ですら驚き、祝に至ってはショックを露にする。
「え!…俺、嫌われた…?」
明らかなショックを受けた祝は、今にも泣きそうな顔をしている。それを見かねた紫蓮は莎子の傍に行き、莎子の目線に合わせ、視線を合わせる。
「そう言うな、莎子。祝は俺が認めた男だ。逆に言えば、俺と祝、それから兄さん以外の男は信じなくていい。」
そう言うと、莎子は渋々了承をした。
「…分かった。」
莎子がそう言った同時に南条邸の電話が鳴り響いた。千代が電話に出て対応しているが、この家に住んでいるのは紫蓮一人のため、必然的に電話の宛人は紫蓮だろう。紫蓮がそれを察し、部屋を出て廊下に姿を現すと、それに気付いた千代が二階の廊下にいる紫蓮を見て上げる。
「紫蓮坊ちゃま、お電話でございます。花山さまと仰る方から…。」
受話器の口を手で覆い、〝花山〟という者からの電話だと伝えた。だが、千代は名前に覚えがないらしく、不安そうな顔をしている。
「花山?花山…?―――!」
紫蓮は名字を口にし、記憶の中を彷徨う。すると、思い当たる人物を見つけたのか、声を張り上げて名を叫ぶ。
「花山来夏!」
思い当たる人物を確信し、階段を使わずそのまま二階の廊下から飛び下り、一階廊下にある電話の受話器を千代から奪うように受け取り、冷たく鋭く話す。
「何の用だ。」
凄むような声を出した紫蓮に驚きながらも、千代は使用人の立場を弁え、その場からゆっくりと去る。電話の相手は紫蓮と然程変わらない年頃の少年のようだ。
『久しぶりだな。南条紫蓮。今回の件、俺の方からも手を回した。いくら南条の力を使っても、国家機関を操るには骨が折れる。こっちで言い包めておいた。これでその娘の転入も難なく可能になっただろう。』
相手の少年は国家機関を操ったかのような口振りで、紫蓮に有無を言わさず話を進める。痛いところを突き、紫蓮の反応を伺う。
「何故そのことを知っている。」
知る限りの機関や考えられる場合を考慮し、出来る限りの暗黙を行使した。少年が何故このことを知っているのか分からない。そういう意味を含み問いかけると、予想が出来た答えが返ってきた。
『俺を嘗めるな。あのとき、あの場所には大勢の野次馬がいた。あの状況からそれくらい知れて訳ない。』
確かにそうだ。この少年を嘗めてしまったのは紫蓮の過失。この少年は得体が知れない。それは紫蓮自身が一番分かっていたはずなのに。紫蓮は自分の失態に唇を甘噛みする。
「じゃあ、何故こんなことをする。頼んだ覚えはない。」
紫蓮がそう突き放すも、少年は動じることなく、ただ一言。
『貸しを作るためさ。』
天下の南条に貸しを作っておくのも悪くない。この貸しはいつか返してもらう。
その一言に言葉が出ない紫蓮は勝てないと思ったのか、妥協案を出した。
「…勝手にしろ。」
それだけ言うと、相手に挨拶もせず勢い良く受話器を置いた。二階から飛び下りたというのに、紫蓮は足を痛めた様子もなく、少々の苛々を隠しきれず、電話を見つめ舌打ちをする。
「紫蓮、今の誰?俺の知らない人だよな。」
二階の廊下から一階にいる紫蓮に問いかけたのは祝だった。紫蓮はその言葉に驚くことはなく階段へ向かい、そのまま祝に言い放った。
「あいつには関わるな。」
紫蓮がいつもとは違い、かなり苛つき、怒っていることが分かり、紫蓮の怒りに触れないために本心を述べた。
「紫蓮がそう言うなら詮索はしないさ。」
紫蓮がそういうなら、俺は従うよ。と言うかのような素振りを見せて、祝はその場を落ち着かせた。階段を上りきった紫蓮は祝と共に莎子のいる扉を開けた。
「莎子。」
そう呼びかけると、莎子は二人を見渡し、紫蓮に視線を向ける。
「紫蓮。」
祝には、今の二人はお互いしか見えていないということが痛いほど分かり、その場から退散することを決めた。
「じゃ、俺帰るな。二人に会いに来ただけだし。」
そういい、笑顔を見せる。
「あぁ、じゃ、」
「いいよ。莎子チャンの傍にいてやれ。じゃ、またな。」
紫蓮が送るという前に、祝はそれを先取り、必要ないと制止する。そして笑顔を残したまま部屋を去り、南条邸を後にする。しばらくは扉を眺めていた紫蓮だが、莎子の一言で我を取り戻す。
「紫蓮。」
呼ばれた瞬間に我を取り戻し、振り返り莎子を見る。そして、無意識のうちに莎子を呼ぶ。
「莎子。」
そして、莎子の傍に寄り、莎子に触れられる所まで近付き、一番近い所に座る。その瞬間、紫蓮の長袖口が揺れ、それにより莎子の眼に入ったものが、莎子の心をこの上ない程揺さぶった。
「これは…、あたしが付けた傷…。」
莎子の眼に映ったのは、あの廃墟で莎子が付けたナイフの切創(せっそう)の痕。それほど深くはないが、量が多く痛々しい。その一部に優しく触れ、なぞりながら聞くと、紫蓮は予想通りのことを言った。
「これくらい平気。」
平然とした顔で言い、余裕そうに笑みも見せる。その顔が、莎子に罪悪感を募らせる。
「…ごめ…ん、なさい。」
莎子は俯き、眼に涙が溢れ始める。紫蓮を殺そうとしたのはあの老人に言われたから。騙されていたのだと分かった今、紫蓮への申し訳ないという負い目で涙が溢れてくる。だが、紫蓮はそんなことを気にしてはいない。莎子には、あの老人しか縋る者がいなかったのだと、割り切っている。
「謝ることない。そうだ。これは莎子に返すよ。」
紫蓮は思いついたように首から架けていた赤と黒の蝶を外し、俯いていた莎子の顔を上げるように促し、顔を上げた莎子に見せる。
「これ…。」
莎子の姉が初めて造り、紫蓮の両親に譲った、赤と黒の蝶。ペンダントと指輪、ピアスの三点セットの作品の一つだ。
「莎子が持ってた方がいい。あと、これも。」
それに引き続き、左手の中指に嵌めていた指輪も外し、莎子に渡そうとする。
「紫蓮!」
莎子は名を呼ぶことで紫蓮を制止しようとした。だが紫蓮はその制止を押しきり、はっきりと告げる。
「いいんだ。でも、これだけはいいか?ないと落ち着かないんだ。莎子は穴開けてないし。」
髪が触れている右耳のピアスに指を添える。それを見た莎子は、紫蓮から眼を逸らすように横を向き、また涙を流す。
「紫蓮…あたしは、紫蓮を傷付けてばかりだ…。」
莎子の紫蓮に対する負い目が消えず、寧ろ強まってしまう。紫蓮が気丈に振る舞えば振る舞う程、罪悪感が生まれる。そんな感覚がとてつもなく嫌になる。泣きながら呟いた言葉に紫蓮は素早く反応し、莎子がこれ以上苦しむことのないように優しく諭す。
「莎子、今までのことは気にするな。新しくここから始めよう。」
その言葉に、莎子の中の何かが変化し、形を変えた。涙を溢れ流しながら紫蓮にしがみつき、長袖の裾を握り締めるように掴む。そして、子供のように泣いた。今までを全て捨てることは出来ないけれど、紫蓮の気遣いが何より嬉しかった。しばらく紫蓮の胸で声を出して泣き、泣き疲れた莎子は静かに眠っていた。紫蓮はそのまま浴衣姿の莎子を抱き抱え部屋のベッドに寝かせ、軽い掛布団を掛けて部屋を出た。部屋を出て、そのまま階段を下りると階段下には心配そうな顔をしている千代がいた。莎子の泣き声が聞こえたらしく、心配を隠しきれない。
「紫蓮坊ちゃま。」
心配そうな様子は紫蓮を呼ぶ声にも出ている程明らかだ。紫蓮は千代と一定の間隔を持った後、千代に言った。
「お願いが…あるんです。…もう一度、この家に住み込んでもらえませんか?」
突然の紫蓮の願いに、千代は呆然と、ただただ紫蓮を見ているだけで、言葉が出ない。紫蓮は今まで以上に真剣な顔をして、千代に正式な願い入れとして接した。真剣な眼差しをし、その眼差しは覚悟の眼差しだった。
「莎子には、あなたが必要なんです。あなたが昔使っていた部屋なら有ります。そこを自由に使っていただいて構いません。…俺じゃ出来ないこともある…。だから、」
紫蓮の真剣な言葉を聞き、千代は話の途中で紫蓮の言葉を遮る。紫蓮の覚悟を感じたのか、それからの言葉を止めた。そしてその言葉に対しての返答をする。
「紫蓮坊ちゃま。…分かりました。坊ちゃまがそこまで仰るのならば、またこの家にご厄介になります。」
そういい、千代は深々と頭を下げる。その行動に習い、紫蓮も深々と頭を下げた。そして礼の一言。
「ありがとうございます。」
互いに頭を上げ一息吐くと、先に言葉を放ったのは千代だった。
「紫蓮さま。…また一回り、ご成長なされましたね。」
その言葉に意表を付かれたかのように驚き、眼を丸くする。そして、千代の紫蓮に対する呼び方が〝紫蓮坊ちゃま〟から〝紫蓮さま〟になっていることに気付き、途端に嬉しくなる。
千代が呼び方を子供向けから一人前のように呼ぶのは、もう成人と認めてくれるからだと代々教わって来た。その千代が、紫蓮を新しく呼び直すことは、成人と認めてくれたということ。先代である紫蓮の父でさえ、二十を越えるまで直してもらえなかったという。この事実が嬉しく、ついつい、紫蓮の顔には笑みが溢れる。そして、振り返り、玄関へと歩き始めながら、千代に向けて言葉を放つ。
「いつまでも子供じゃいられませんからね。」
玄関の扉を明けて、大きく青い空と白い雲を見上げる。そして大きな庭を見渡し、花が列なる花壇の中に、小さくも健気に生きる花を見付ける。名前も知らない花だが、その花を眺めて再び笑みを溢す。
すると、その花壇の花の蜜を求め、蝶が二匹飛んでいた。その二匹の蝶を見て、紫蓮の顔には今まで以上の笑みが溢れる。蜜を求め飛んでいた二匹の蝶は、赤と黒の蝶だった。
「はい。南条でございます。」
千代が相手を待たせぬようにと三回コールでインターフォンの電話に出る。すると向こう側からまだ若い男の声がする。その男は電話先の千代に何か話しかけたらしく、千代はとても懐かしげに
「お久しぶりでございます。」
と対応した。そして門を開け、玄関までの障害物をなくす。すると、その男は南条邸へと入ってきた。玄関先で履いてきた黒い靴を脱ぎ、千代が用意したスリッパを履き、軽く千代に挨拶をする。
「本当に久しぶりですね。前に会ったのはいつでしたっけ?」
男は二十代後半から三十代前半にかけてという見積もりが妥当という姿をしていて、黒い背広に黒い鞄を持っている。その男が来たと分かり、二階の自室から階段を下りて来た紫蓮はその男に向けて柔らかな笑みと言葉を渡す。
「お久しぶりです。兄さん。」
紫蓮はこの男のことを〝兄さん〟と呼んだ。だが、紫蓮に血の繋がった実の兄などはいない。それならば、この男は誰なのか。その答えは出ていない。男は階段を下りてきた紫蓮を見て、珍しいものを見たような顔をした。そして軽く手を上げ、紫蓮に挨拶をする。
「よぉ、紫蓮。久しぶりだな。何年ぶりだ?」
軽く言った男に紫蓮は階段を下りながら問われた問いの解答を放つ。
「両親が死んで、いろいろとあったとき以来ですね。」
つまり、両親が死んでからは一度も会っていないということになる。いろいろというのは、両親が死んで、遺産のことや会社のことや紫蓮の引き取り手のことなど、親族の間でかなりの争いがあった親族戦争のことを指す。紫蓮が階段を下りきり、玄関先にいた男の前に行くと、その男は笑いながら紫蓮の頭に手を置き、何度か叩く。
「そうか。そんなにもか。どーりで紫蓮がでかくなってる訳だ。」
そう言った男の顔は、とても嬉しそうだった。男は散々紫蓮の頭を叩いた後、側にいた千代に〝いつもの〟を応接室に持って来るように頼み、紫蓮と共に応接室へと消えた。
「それで?お前が俺を呼ぶってことは、何かあるんだろ?お前の手に負えないことが。」
応接室に入り、ソファーに座り一息ついたとき、即座に言われた言葉。そしてここぞとばかりに、俺に調べ事までさせて。という嫌味まで付いていた。そう言われるとその通りなので何も言えない。そんなに何もかも見通している男に、調べてもらったこととこちらの事情やあったことの全てを話す。途中、千代が男の〝いつもの〟と紫蓮の〝いつもの〟を持ってやって来たが、その持って来たものを受け取り、話を押し進める。受け取った〝いつもの〟を飲み核心に至る。
「ふーん。そんなことがあったんだ。だから俺に調べさせたんだな。」
「はい。」
足を組んで踏ん反り反っている男に紫蓮は申し訳なさそうに答える。男はそんな紫蓮を見て、少し溜め息を吐き、持って来た鞄の中の書類を出す。そして束になっている書類の一番上の紙を捲り、今から本文を読もうというとき、呟くように声を漏らした。
「お前の知りたいことが全て分かるだろうぜ。」
その後、男は調べて来たことを書類に眼を通しながら話し始める。
紫蓮の両親が盗んだと疑われていたこの赤と黒の蝶は、これを造った彼女自身が恩人である紫蓮の両親に手渡したもので、老人が勝手に盗まれたと勘違いしたのだということ。
紫蓮の両親は彼女に、彼女の両親の死因が、会社の社長をしていた両親の社長の椅子を狙った役員に仕組まれて殺されたのではないか、という疑問があり、調査してほしいという依頼の仕事があり、調査し、無事犯人を逮捕に導いて恩人と思われていたこと。
紫蓮の両親は、盗んだと勘違いしていたあの黒い蝶の老人に依頼と称して呼び出され、殺されたこと。老人がそんな思い込みをしたために、莎子まで巻き込んだこと。
廃墟の跡地に残ったものは小さな金庫が一つ。その中に預金通帳と老人が書いたものと思われる手記が入っていたという。
謎になっていたこと全てが分かり、紫蓮は胸を撫で下ろす。男は書類を机の上に置き、足を組み換え腕を組む。
「それで、事件について知りたいことはここまでだろ。」
今回の一件について、謎は全て解けただろう。紫蓮の両親が赤と黒の蝶を盗んだのではないことや、莎子もあの老人に偽りを教えられていたことが分かった。もう情報で得るものはないと言える。そんなとき男が、不意に紫蓮に違う話を振ってきた。
「お前、警察の事情聴取に行かなかっただろ。」
紫蓮は『後日改めて任意で伺います。』という結論を出した。そして警察の上層部である、警視総監に申し出、許しを得た。
「あ、はい。また後日、改めて行こうかと。」
その一部を男に言うと、男は眼を瞑り、
「その必要はない。既に丁重に断りを入れた。」
と放った。既に南条は関われないということを言ったのだという。いくら警察でも任意を強制することは出来ない。そのための任意なのだ。
男はカップに入っている〝いつもの〟を飲み、紫蓮をじっと見る。その視線に気付いた紫蓮は男の思っていることを先取りして口から出した。
「…もう一つの頼み事の件ですか。」
もう一つ。紫蓮は男にこの事件自体とは別に違うことも調べるように頼んでいたのだという。その紫蓮が頼んだこととは一体何なのか。その答えは意外と早く訪れた。
「あの娘(むすめ)のことを調べてどうするつもりだ?」
男が放った〝あの娘〟とは莎子のことを指している。紫蓮はこの男に事件のことと同時に莎子のことも調べさせていた。莎子の本名、年齢、生年月日、本籍地、親類関係など情報という情報を全て集めるようにと頼んだのだ。紫蓮がなかなか口を開かず言葉を出さないため、男は溜め息を吐いた。
「別に、お前のしたいようにすればいいさ。」
男のこの言葉を聞いて、紫蓮は覚悟を決めた。言おう言おうと思っていてずっと言えなかったこと。この件についての真相と莎子のことを調べてもらい、その結果によっては言おうと思っていたこと。
「兄さん。」
思い切って言う。紫蓮の眼にもう迷いはない。男が何と言うか、それを考えるばかりだ。だが、これだけは譲れない。小さく深呼吸をして、男を見据える。
「莎子の保護者になってもらえませんか。」
この言葉を聞いた男は眉を潜め〝解せない〟という表情をしている。そのまま紫蓮の言葉に耳を傾け、焦らず話の続きを聞こうとする。その意図が理解出来、紫蓮は構わず話を続ける。
「莎子には身寄りが居ません。ですから、この家に住まわせたいんです。」
紫蓮の放ったことに、男は無表情で紫蓮を見据えた。左肘をソファーの手すりに置き、頬に拳をあてる。
「それは、お前の保護者が俺だから、か?」
男は紫蓮の全てを見透かしたように問う。この問いに紫蓮は静かに、だが確かに答える。
「はい。」
紫蓮の両親は既に故人のため、親族は次期当主の肩書きを持つ紫蓮と莫大な財産手に入れたいだけに紫蓮を引き取りたがった。だが、紫蓮にしてみれば血縁関係を述べられても面識のない親族たちばかりで、誰のところにも行きたがらなかったのも事実。そんなとき、一番身近で信頼の置ける唯一の親族が彼だったのだ。実際、紫蓮は彼を選んだが、彼は紫蓮を束縛することもなく、紫蓮の好きなようにさせている。財産を管理するのも彼ではなく全て紫蓮が行い、保護者のサインが必要なときは速達で書類を送り、彼のサインを貰う。彼は紫蓮の親族の一人で姓も〝南条〟を使っているため、不可解に思われることや、怪しまれることもなかった。当時、彼が紫蓮の保護者になったとき、彼はまだ若く、何をするにもこれからというときだったが、彼も紫蓮の保護者になることを快く承諾したため、互いの希望があり彼が紫蓮の保護者に決まった。そんなことがあり、男は紫蓮の意見を一番に尊重する。
「お前がそうしたいなら構わねぇが、それはあの娘を俺の養女にするってことか?」
紫蓮の言葉を確認するとすぐさま次の問いを発した男は、莎子を自分の養女にするのか。と聞いた。すると紫蓮は表情を変えることもなく、素早く問いかけに答えた。
「そこまでは考えていません。」
「嘘を言うな。」
〝嘘〟この言葉に神経が反応する。即座に〝嘘〟と断言する男は紫蓮のことを見透かしているようだ。そして続けざまに核心を突く。
「お前は俺が断らないのを知っている。況してやいつも人を頼らないお前が、そう頼んで来るってことは、あの娘のことをそれほど大事にしているってことだ。…違うか?」
全てを聞いたあと、紫蓮は男から視線を逸らし、俯く。そして張っていた気を抜いたのか、軽く息を吐き、小さく笑い呟く。
「…流石、ですね。」
伊達に経験を積んではいない。南条を名乗る者なら、確実に身に付けておかなければならない技術だ。この技術は普段の会社勤めのときも役に立つ。だが、その教えは並大抵のものではない。男は紫蓮が放った言葉に当然の如く突っ返した。
「当たり前だ。俺だって兄貴に鍛えられたんだからな。」
「父は容赦ない人ですからね。兄さんだって父の従弟(いとこ)じゃなかったらもっと優しく教えてもらえたでしょうに。」
少し呆れるように言う紫蓮の顔には笑みが溢れていた。この言葉で男が紫蓮の父の従弟だということが分かった。紫蓮のいう兄が男のことで、男のいう兄が紫蓮の父のことなのだ。
男は手に持っていた〝いつもの〟を口元へと持って行き、口を湿(しめ)すほどに口にする。
「確かにそうかもな。でも、兄貴のお陰で今の俺があるんだ。兄貴には感謝することばかりさ。」
この男も紫蓮同様、幼いうちから探偵として鍛えられたのだろう。少ない期間で南条と探偵としての力を使い、莎子のことを調べ上げた実力は本物だ。
そして、男は反れていた話を元に戻す。
「…それで、どうするつもりだ。お前のことだからあの娘の意見を尊重するんだろ。」
莎子をどうするのか。養女にするにしても、ただ保護者になるにしても、当事者なのは紫蓮で男でもなく莎子だ。莎子の意見を尊重しなければ何の意味もない。
「莎子に聞いてみます。」
莎子がどう言うかは分からないし、南条に関わることを望まないかもしれない。施設に入ることやそのまま死ぬことを望むかもしれない。莎子の人生だ。莎子に決めさせてやるのが筋というもの。紫蓮は俯き、考え込むような素振りを見せた。全ては莎子に。
男もそんな紫蓮に気付いたのか、〝いつもの〟を飲み干すと立ち上がり、荷物を手に取った。
「そうか。じゃ、とりあえず俺は帰るからな。また何かあったら連絡して来い。」
優しく言われ、とても暖かい気持ちになる。久しぶりに温もりに触れたような、そんな優しい感覚。その感覚は両親の感覚に似ている。
「はい。」
紫蓮がそういうと、男は部屋を出て、近くで違う仕事をしていた千代に軽く挨拶をして南条邸を去った。紫蓮が連絡すればまたすぐに駆けつけるのだろうが、まずは片付けなければならないことを片付けてからだ。男が去ったため、部屋に残ったのは紫蓮一人になる。紫蓮は目に視点を持たず、千代がいれた〝いつもの〟を弄びつつ、ゆっくり飲み干すと、座っていたソファーから立ち上がりその部屋を出た。
先程までいた応接室を出た紫蓮は、そのまま二階に上がり、右手の二つ目の部屋の扉を数回叩くと部屋の中へ入った。部屋はフローリングの床の中央に正方形の赤い絨毯が敷かれている。そこには赤い蝶の浴衣ではなく、普通の浴衣を着た莎子が俯いて座っていた。
「莎子。」
紫蓮のノックに返事はしなかったが、紫蓮が名を呼ぶと、顔を上げて紫蓮を呼んだ。
「紫の蝶。」
紫蓮は〝紫の蝶〟と呼ばれたことには何も言わず、ただ一言、
「話があるんだ。」
とだけ言い、莎子に話をする。
まず、莎子の両親のこと、姉のこと、赤と黒の蝶のこと。
莎子の誤解を解き、真実を伝える。すると莎子はいとも簡単に納得し和解してくれた。老人に教えられたことを丸々鵜呑みにしていた訳ではなかったらしい。紫蓮が告げた真実をしっかりと胸に刻んだ。
そして、紫蓮が莎子に確かめなければならないこと。これからのこと。
引き取り手のない莎子を施設や他の家にはやらず、この南条で面倒をみたいということ。
両親のいない莎子の保護者に紫蓮の保護者がなってくれて、必要ならば養女になること。
保護者は紫蓮の親族で、南条で一番信じられる人物だということ。
住んでいるのは紫蓮だけで、この家に莎子にいてほしいということ。
学校にも話を通し、行きたければ行けるように努力すること。
考えられること全てを莎子に伝えた。そして最後に莎子の意思を問う。
「莎子は、どうしたい?」
紫蓮が問うと、莎子は驚くように眼を見開き、言葉を返した。
「お前と、ここで暮らす…?」
予想外の反応に紫蓮も眼を見開く。紫蓮の予想は、もっと違う反応をすると思っていたのだ。紫蓮は眼を元に戻し、莎子の意見を仰いだ。
「あぁ。嫌?俺なんかと一緒に暮らすのは。」
莎子は女で、紫蓮は男。そういう意味で不安なのは分かる。そして、つい先日まで敵対していた関係だ。そんな相手の家になど、住みたくないかもしれない。莎子は紫蓮の眼を見据え、静かに呟くように言った。
「…あたしには行くところがない。ここにいていいのなら、ここにいたい。あたしは、お前に興味がある。紫の蝶。」
莎子は自らの口でここにいたいと告げる。それを知った紫蓮は安堵の色を浮かべ、優しく笑う。
「じゃあ、決まりだな。…莎子。それと俺の名前は〝紫蓮〟だ。〝紫の蝶〟じゃないからな。」
最初に逢ったときにフルネームを呼ばれたきりで、それからは名前ではなく〝紫の蝶〟と呼ばれていた。そのことを改めて思い出し、莎子に釘を刺す。すると莎子は繰り返し紫蓮の名を呼び続ける。
「し、れん…?…シレン、しれ、ん………紫蓮。」
莎子は紫蓮を名前で呼び、最後には紫蓮を見つめ、優しく笑いながら名を呼んだ。それを見て、紫蓮も再度優しく笑い、満足気な顔をする。そして、莎子の黒く長い髪に触れる。
「そう、紫蓮。さて、他にもしなくちゃいけないことがいっぱいだけど、とりあえず、よろしく。莎子。」
紫蓮が髪を弄びながら言うと、莎子もそれに答える。
「…よろしく、紫蓮。」
そう言う莎子は、とても美しく、紫蓮が見惚(みほ)れるほど凛々しくもあった。その真っ直ぐな強い眼に、吸い込まれてしまいそうなくらい、紫蓮は莎子に囚われている。
「あぁ…そういえば、聞きたいことがまだあるんだ。…俺が三才のとき、階段から落ちたこと、どうして知ってるんだ?」
ずっと疑問に思っていたことを問うと、莎子はしばらく考え込み、記憶の中を旅する。
「落ちたこと…?………あぁ、あれか。」
問いかけの答えを見つけたのか、記憶を辿るように話す。
「あれは、お姉ちゃんがお前の両親に依頼を頼んだとき、あたしを見てお前の両親が漏らしたんだ。『同い年の息子がいて、三才のとき階段から落ちたんだ。』って。」
「そうか。」
今、生(せい)を受けている中では保護者と祝だけだと思っていたが、両親が生きていたうちなら話は別だ。探偵ならば個人情報を漏らすものではないと思うが、今思っても後の祭だ。
そう思っていると、南条宅のインターフォンが鳴り響いた。千代が対応しているが、訪ねて来た来訪者の正体は次の言葉で明らかになった。
「しれーん!」
この声は、明らかに情報屋をしている親友の、河村祝。紫蓮のことを名前で呼び捨てにする人物も、数限られている。
「祝だ。ちょっと待ってて。」
莎子を部屋に残したまま、廊下に出て階段を下りると、玄関先には祝がいて、にこやかに笑っていた。
「どうしたんだよ、祝。」
階段を下りきってから問いかけると祝はにこやかな笑みを変えることなく、
「会いに来たんだよ。紫蓮とあの娘(こ)、莎子チャンだっけ?二人に。」
と告げた。
「俺と莎子に?」
先程下りきった階段を今度は祝を連れて上り始め、問いかけるように言うと、祝は笑顔で答える。
「そぉそ、莎子チャンかあいいよねぇ~。」
〝かあいい〟は〝かわいい〟という意味らしく、祝がよく使う言葉で、紫蓮もよく言われている。実際、莎子はかわいいというより綺麗という分類なのだが、祝は綺麗よりかわいいという印象を得たのだろう。
「祝、莎子のこと、部外者には漏らすなよ。」
紫蓮が茶化すことなく真剣にそう言うと、祝はその気迫を感じたのか、真剣に答えた。
「解ってるよ。もちろん。」
階段を上りきり、莎子がいる部屋の扉を数回軽く叩き、返事が来る前に扉を開ける。それは、莎子が返事をしないと分かっているからだ。扉を開けると窓を見ていた莎子の視線が二人に集中する。
「莎子、河村祝。俺の親友だ。」
「こんにちは、莎子チャン。」
紫蓮が祝を紹介し、その紹介に乗じて祝が挨拶をすると、莎子はまた窓を見て、返事も挨拶もしない。心配になった紫蓮が莎子の名を呼ぶ。
「…莎子?」
紫蓮の声に莎子はただ一言、自分の気持ちを放った。
「あたしは、紫蓮以外の男と話す気はない。」
この言葉に驚いたのは祝だけではなかった。紫蓮ですら驚き、祝に至ってはショックを露にする。
「え!…俺、嫌われた…?」
明らかなショックを受けた祝は、今にも泣きそうな顔をしている。それを見かねた紫蓮は莎子の傍に行き、莎子の目線に合わせ、視線を合わせる。
「そう言うな、莎子。祝は俺が認めた男だ。逆に言えば、俺と祝、それから兄さん以外の男は信じなくていい。」
そう言うと、莎子は渋々了承をした。
「…分かった。」
莎子がそう言った同時に南条邸の電話が鳴り響いた。千代が電話に出て対応しているが、この家に住んでいるのは紫蓮一人のため、必然的に電話の宛人は紫蓮だろう。紫蓮がそれを察し、部屋を出て廊下に姿を現すと、それに気付いた千代が二階の廊下にいる紫蓮を見て上げる。
「紫蓮坊ちゃま、お電話でございます。花山さまと仰る方から…。」
受話器の口を手で覆い、〝花山〟という者からの電話だと伝えた。だが、千代は名前に覚えがないらしく、不安そうな顔をしている。
「花山?花山…?―――!」
紫蓮は名字を口にし、記憶の中を彷徨う。すると、思い当たる人物を見つけたのか、声を張り上げて名を叫ぶ。
「花山来夏!」
思い当たる人物を確信し、階段を使わずそのまま二階の廊下から飛び下り、一階廊下にある電話の受話器を千代から奪うように受け取り、冷たく鋭く話す。
「何の用だ。」
凄むような声を出した紫蓮に驚きながらも、千代は使用人の立場を弁え、その場からゆっくりと去る。電話の相手は紫蓮と然程変わらない年頃の少年のようだ。
『久しぶりだな。南条紫蓮。今回の件、俺の方からも手を回した。いくら南条の力を使っても、国家機関を操るには骨が折れる。こっちで言い包めておいた。これでその娘の転入も難なく可能になっただろう。』
相手の少年は国家機関を操ったかのような口振りで、紫蓮に有無を言わさず話を進める。痛いところを突き、紫蓮の反応を伺う。
「何故そのことを知っている。」
知る限りの機関や考えられる場合を考慮し、出来る限りの暗黙を行使した。少年が何故このことを知っているのか分からない。そういう意味を含み問いかけると、予想が出来た答えが返ってきた。
『俺を嘗めるな。あのとき、あの場所には大勢の野次馬がいた。あの状況からそれくらい知れて訳ない。』
確かにそうだ。この少年を嘗めてしまったのは紫蓮の過失。この少年は得体が知れない。それは紫蓮自身が一番分かっていたはずなのに。紫蓮は自分の失態に唇を甘噛みする。
「じゃあ、何故こんなことをする。頼んだ覚えはない。」
紫蓮がそう突き放すも、少年は動じることなく、ただ一言。
『貸しを作るためさ。』
天下の南条に貸しを作っておくのも悪くない。この貸しはいつか返してもらう。
その一言に言葉が出ない紫蓮は勝てないと思ったのか、妥協案を出した。
「…勝手にしろ。」
それだけ言うと、相手に挨拶もせず勢い良く受話器を置いた。二階から飛び下りたというのに、紫蓮は足を痛めた様子もなく、少々の苛々を隠しきれず、電話を見つめ舌打ちをする。
「紫蓮、今の誰?俺の知らない人だよな。」
二階の廊下から一階にいる紫蓮に問いかけたのは祝だった。紫蓮はその言葉に驚くことはなく階段へ向かい、そのまま祝に言い放った。
「あいつには関わるな。」
紫蓮がいつもとは違い、かなり苛つき、怒っていることが分かり、紫蓮の怒りに触れないために本心を述べた。
「紫蓮がそう言うなら詮索はしないさ。」
紫蓮がそういうなら、俺は従うよ。と言うかのような素振りを見せて、祝はその場を落ち着かせた。階段を上りきった紫蓮は祝と共に莎子のいる扉を開けた。
「莎子。」
そう呼びかけると、莎子は二人を見渡し、紫蓮に視線を向ける。
「紫蓮。」
祝には、今の二人はお互いしか見えていないということが痛いほど分かり、その場から退散することを決めた。
「じゃ、俺帰るな。二人に会いに来ただけだし。」
そういい、笑顔を見せる。
「あぁ、じゃ、」
「いいよ。莎子チャンの傍にいてやれ。じゃ、またな。」
紫蓮が送るという前に、祝はそれを先取り、必要ないと制止する。そして笑顔を残したまま部屋を去り、南条邸を後にする。しばらくは扉を眺めていた紫蓮だが、莎子の一言で我を取り戻す。
「紫蓮。」
呼ばれた瞬間に我を取り戻し、振り返り莎子を見る。そして、無意識のうちに莎子を呼ぶ。
「莎子。」
そして、莎子の傍に寄り、莎子に触れられる所まで近付き、一番近い所に座る。その瞬間、紫蓮の長袖口が揺れ、それにより莎子の眼に入ったものが、莎子の心をこの上ない程揺さぶった。
「これは…、あたしが付けた傷…。」
莎子の眼に映ったのは、あの廃墟で莎子が付けたナイフの切創(せっそう)の痕。それほど深くはないが、量が多く痛々しい。その一部に優しく触れ、なぞりながら聞くと、紫蓮は予想通りのことを言った。
「これくらい平気。」
平然とした顔で言い、余裕そうに笑みも見せる。その顔が、莎子に罪悪感を募らせる。
「…ごめ…ん、なさい。」
莎子は俯き、眼に涙が溢れ始める。紫蓮を殺そうとしたのはあの老人に言われたから。騙されていたのだと分かった今、紫蓮への申し訳ないという負い目で涙が溢れてくる。だが、紫蓮はそんなことを気にしてはいない。莎子には、あの老人しか縋る者がいなかったのだと、割り切っている。
「謝ることない。そうだ。これは莎子に返すよ。」
紫蓮は思いついたように首から架けていた赤と黒の蝶を外し、俯いていた莎子の顔を上げるように促し、顔を上げた莎子に見せる。
「これ…。」
莎子の姉が初めて造り、紫蓮の両親に譲った、赤と黒の蝶。ペンダントと指輪、ピアスの三点セットの作品の一つだ。
「莎子が持ってた方がいい。あと、これも。」
それに引き続き、左手の中指に嵌めていた指輪も外し、莎子に渡そうとする。
「紫蓮!」
莎子は名を呼ぶことで紫蓮を制止しようとした。だが紫蓮はその制止を押しきり、はっきりと告げる。
「いいんだ。でも、これだけはいいか?ないと落ち着かないんだ。莎子は穴開けてないし。」
髪が触れている右耳のピアスに指を添える。それを見た莎子は、紫蓮から眼を逸らすように横を向き、また涙を流す。
「紫蓮…あたしは、紫蓮を傷付けてばかりだ…。」
莎子の紫蓮に対する負い目が消えず、寧ろ強まってしまう。紫蓮が気丈に振る舞えば振る舞う程、罪悪感が生まれる。そんな感覚がとてつもなく嫌になる。泣きながら呟いた言葉に紫蓮は素早く反応し、莎子がこれ以上苦しむことのないように優しく諭す。
「莎子、今までのことは気にするな。新しくここから始めよう。」
その言葉に、莎子の中の何かが変化し、形を変えた。涙を溢れ流しながら紫蓮にしがみつき、長袖の裾を握り締めるように掴む。そして、子供のように泣いた。今までを全て捨てることは出来ないけれど、紫蓮の気遣いが何より嬉しかった。しばらく紫蓮の胸で声を出して泣き、泣き疲れた莎子は静かに眠っていた。紫蓮はそのまま浴衣姿の莎子を抱き抱え部屋のベッドに寝かせ、軽い掛布団を掛けて部屋を出た。部屋を出て、そのまま階段を下りると階段下には心配そうな顔をしている千代がいた。莎子の泣き声が聞こえたらしく、心配を隠しきれない。
「紫蓮坊ちゃま。」
心配そうな様子は紫蓮を呼ぶ声にも出ている程明らかだ。紫蓮は千代と一定の間隔を持った後、千代に言った。
「お願いが…あるんです。…もう一度、この家に住み込んでもらえませんか?」
突然の紫蓮の願いに、千代は呆然と、ただただ紫蓮を見ているだけで、言葉が出ない。紫蓮は今まで以上に真剣な顔をして、千代に正式な願い入れとして接した。真剣な眼差しをし、その眼差しは覚悟の眼差しだった。
「莎子には、あなたが必要なんです。あなたが昔使っていた部屋なら有ります。そこを自由に使っていただいて構いません。…俺じゃ出来ないこともある…。だから、」
紫蓮の真剣な言葉を聞き、千代は話の途中で紫蓮の言葉を遮る。紫蓮の覚悟を感じたのか、それからの言葉を止めた。そしてその言葉に対しての返答をする。
「紫蓮坊ちゃま。…分かりました。坊ちゃまがそこまで仰るのならば、またこの家にご厄介になります。」
そういい、千代は深々と頭を下げる。その行動に習い、紫蓮も深々と頭を下げた。そして礼の一言。
「ありがとうございます。」
互いに頭を上げ一息吐くと、先に言葉を放ったのは千代だった。
「紫蓮さま。…また一回り、ご成長なされましたね。」
その言葉に意表を付かれたかのように驚き、眼を丸くする。そして、千代の紫蓮に対する呼び方が〝紫蓮坊ちゃま〟から〝紫蓮さま〟になっていることに気付き、途端に嬉しくなる。
千代が呼び方を子供向けから一人前のように呼ぶのは、もう成人と認めてくれるからだと代々教わって来た。その千代が、紫蓮を新しく呼び直すことは、成人と認めてくれたということ。先代である紫蓮の父でさえ、二十を越えるまで直してもらえなかったという。この事実が嬉しく、ついつい、紫蓮の顔には笑みが溢れる。そして、振り返り、玄関へと歩き始めながら、千代に向けて言葉を放つ。
「いつまでも子供じゃいられませんからね。」
玄関の扉を明けて、大きく青い空と白い雲を見上げる。そして大きな庭を見渡し、花が列なる花壇の中に、小さくも健気に生きる花を見付ける。名前も知らない花だが、その花を眺めて再び笑みを溢す。
すると、その花壇の花の蜜を求め、蝶が二匹飛んでいた。その二匹の蝶を見て、紫蓮の顔には今まで以上の笑みが溢れる。蜜を求め飛んでいた二匹の蝶は、赤と黒の蝶だった。
紫蓮が莎子を連れて廃墟を出てから約数時間後。
辺りはすっかり暗くなっていて、場所は人通りの多い都市部に移っていた。
夜の街、夜中でも光が消えることなく街中がざわめきを持っているこの街の、とある高層ビルの一室。そこには、大企業の副社長室がおかれている。その部屋にいるのは二人の男で、二人とも黒い背広に黒板ネクタイをしている。一人は窓際にいて、もう一人は部屋に置かれたデスクの側にいる。デスクの書類を整理しており、かけている眼鏡を指で上げつつ仕事をする。その部屋の主である男が、夜の街の放つ光を眺めつつ、眠気覚ましのブラックコーヒーを口に運ぶと、突然部屋の電話が鳴り響いた。すぐに、仕事をしていた秘書が電話の受話器を持ち上げ、通話に応じる。電話を受けた秘書は相手が誰であるかを確認し、窓際でコーヒーに舌鼓している男に声をかけた。
「副社長、お電話が。」
秘書のその言葉に反応し、男は身体を翻しながら夜の街から室内へと視線を移す。
「誰だ。もうすぐ最終会議が、」
会議まであと十分。本来ならばもうこの部屋自体を出なければならない時間になっている。そんな中、たった今掛かってきた電話に対応することは出来ない。とあしらうところだった。
だが、言葉の途中でその言葉を遮ってまで秘書が相手の名を告げる。
「南条紫蓮さま、と仰って…。」
相手の名が出た瞬間、男は全ての動作を一時中断した。そして相手を再度確認する。
「…紫蓮?」
相手を確認した後、秘書から受話器を受け取る。そして電話の向こう側にいる人物に話の内容を促す。
「紫蓮、どうした。」
電話の相手は滅多に連絡を寄越さない者だが、寄越したら寄越したで何か付属品を持っている。それにしても連絡を寄越すこと自体が珍しい。何かあったのか、と心配をしてしまう。
『兄さん、お忙しい中すみません。携帯が繋がらなかったもので、こちらに…。』
すぐに自分の用件を言わず、初めに会社の電話に掛けてきたことを謝罪する。だが、今時分と連絡を取るならば、ここに電話を掛ける以外に方法はなかったはずだ。それを瞬時に思い出し、相手を宥める。
「別に構わない。こっちこそ昼の会議から電源を切っててな。悪かった。」
昼過ぎに行なった会議の際に携帯電話の電源を切って以来、携帯電話の電源を入れ直していなかった。普段ならば会議が終わり次第すぐに入れ直すところだが、今日はその後に欠かすことの出来ない会社絡みの会食が入っており、携帯電話をそのままにしていた。そのため、携帯電話が繋がらなかった原因や落ち度はこちらにある。手早く連絡を取りたいならばここに連絡するべきだと考えたのだろう。いつもならば人に頼ろうとはしない者が、自ら連絡を取ろうとしたのは何か自分の手には負えない訳があるはず。
「…で、どうした。」
用件は一体何なのか。核心を突くと、相手は言い難そうに引け目な態度の物言いをする。
『実は、…お願いがあります。』
〝お願い〟など珍しい。いつもならば自分でするであろうことを態々人に頼むということは、何かあるのかと思考を巡らせる。話を聞くと、相手が何を考えているかが何となく分かる。
「…分かった。調べる。」
一通り話を聞き、了解の相槌を打つ。
口調、雰囲気、癖、ちょっとした仕草。いろんなところに〝あの人〟の面影を感じて、思い出す。成長するにつれ段々〝あの人〟に似てきて、そんなとき改めてこいつは〝あの人〟の子なのだと実感する。
「…紫蓮。」
『はい。』
声すらも〝あの人〟に似ている。
不用意に名を呼んでも、何か言いたいことがある訳ではない。今まで職業柄、仕事が忙しくなかなか会う機会を作れなかった。もう何年も会っていないが、元気にしているだろうか。我が子を心配する親心とはこういったものなのか。
「いや、何でもない。」
そう言い、軽く挨拶をしてから通話を終え、受話器を元の場所へ戻した。
そして、ふと自分の中の全てが虚ろになる。
「………今でも思い出すな…。」
感傷に浸っている訳にはいかないけれど、思い出すのは、遠い日の〝あの人〟との記憶。
***
「兄貴!」
突然、書斎の扉が大きな音を立てて勢い良く開かれた。
自分を呼び、書斎に入って来たのは年の離れた自分の従弟(いとこ)。
いつもなら家の教育上、扉をノックし、返事を聞いてから入室するようにしているが、今日はそんな粗相を咎めるような日ではなかった。
「どうしたんだ、清芳(さやか)。」
机に向かい書類整理をしていた手を止め、勢い良く飛び込んで来た理由を問うと、今年十二になる従弟の清芳は太陽のような笑顔を向ける。
「子供!生まれたんだって!?」
子供とは、妻が妊娠していた胎児のことだ。今日、無事この世に生を受けた愛しい我が子。
産まれた胎児が男児であることは、出産までの定期検診で分かっていたが、誰にも話してはいない。我が家の、我が一族の大事な跡取りのため、親戚中が吉報を心待ちにしており、一人に報せると一時間後には一族全体に広がっていたようだ。
従弟の清芳がこの家を訪れたのはそのためだろう。
本来ならば、明日以降に正式な出生を報せる案内を出すため、今日挨拶に来る者はいない。皆、出産祝いの引出物などの手配に追われている。そんなことをまったく気にせず飛び込んで来るのは、清芳がまだ子供だということと、南条ではないということ。
「あぁ、今日の日付が回ってすぐな。丁度お前と一回り違う。」
干支が同じだな。
そう付け足し微笑むと、清芳は嬉しそうに返す。
「兄貴とは二回りだよね。」
干支、一緒だね。
その言葉を聞き、再度笑みが溢れる。
「俺とお前が一回りだからな。」
従弟の清芳とは丁度一回り違いのため、十二歳違うことになり、干支は同じだ。そしてそこに産まれたばかりの子供も加わることになる。丁度清芳と一回り違いだ。
「一回りずつ違うんだ。」
子供と清芳が一回り、清芳と自分が一回り。一回りずつという偶然に運命を感じたりもする。
「そっかぁー。…生まれたんだー。」
再度子供が産まれたことを実感する。母体の中にいたときから、産まれるのを純粋に誰より心待ちにしていたのは清芳だ。
「お前は俺の従弟(じゅうてい)だから、紫蓮は甥じゃなくて従甥(じゅうせい)だな。」
兄弟ならば甥だが、清芳との血縁関係は父と清芳の母が兄妹で従兄弟(いとこ)ということになり、名称としては〝従甥〟が当てはまる。そう言った後、清芳を見ると、きょとんとした顔をしていた。そして、そのまま口を開く。
「〝紫蓮〟?」
清芳は初めまして聞く名に多少の驚きを表したが、納得する事柄を述べるとすぐに馴染んだ。
「あぁ、名前だ。」
名前は前から決めていた。誰にも話していないとはいえ、産まれる前から男であることは判っていたのだから。
「〝紫蓮〟ってゆーのかぁー…男?」
清芳は産まれたばかりの胎児の名を呼び、性別を確かめた。名前の感じから性別を判断したのではなく、文脈から性別を導き出した。
「〝従甥(じゅうせい)〟って言ったってことは男だよね。」
この場合、男なら従甥(じゅうせい)、女なら従姪(じゅうてつ)と呼ぶことになる。これと同類の言葉で清芳を表すならば、従弟(じゅうてい)になる。一族が多いこともあり、直系から繋がる身辺関係や血縁関係は特によく教え込まれている。従甥や従姪など、十二歳の子が理解し、使えるものではない。それらのことを考慮して、それなりの教育を受けさせたため、文脈から答えを導き出すことは然程難しいことではない。頭の回転も悪くない。
「その通り。」
年の割によく勉強をしていて、よく回る頭を持っている。端から見れば生意気に見えるかもしれない。だが、壮大な家名にはそれくらいの度胸がなければならない。実質上、清芳は南条の者ではないが、一族の血を引いていることは確かで、両家の教育方針に従う謂れはある。まだ十二歳だが、不仲で今にも離婚届に印を押しそうな両親の間でさぞ苦しんでいるだろう。清芳は安らぎを求めてこの南条邸に顔を出すといっても過言ではない。幼いながらに苦しみながら、言われたことは全てこなしている。勉学も運動も作法もあらゆることを。そんな中、まだ芽生えたばかりの小さなものだが、行く末は期待できる。
「まだ会えないんだよね。楽しみだなー紫蓮。」
清芳は笑みを溢しながらそういうと、部屋の中央に位置する会談用の対するソファーの一つに座り込む。産まれたばかりの胎児のことを考えながら会える日を心待ちにしている。その姿がとても微笑ましい。清芳は今までずっと年上の大人に混ざって過ごして来たため、年下の血縁者が生まれることが未知数のことで楽しみなのだろう。
清芳の顔から笑みがなくなることがない。少しでも長く、笑顔でいてほしい。
そのために今出来ること。
「…清芳。」
小さくもはっきりと放った言葉に、重苦しさはなかっただろうか。とても大事な話があり、清芳の名を呼んだ。その呼びかけに、清芳は明るく聞き返す。
「何?」
微笑ましさを残している清芳を見て、話すための最終決意をした。
「紫蓮を頼むぞ。」
突然脈絡のない言葉を放ったが、清芳は思いの他、動揺していなかった。驚いてはいるようだが、動揺している様子はない。この言葉に込められた〝本意〟を瞬時に理解したのか。
清芳は驚いた顔を元に戻し、ただ一言、問いかけた。
「…兄貴?」
〝本意〟を理解したのか、していないのか、それは定かではないが、初めからあれだけの言葉で済ませるつもりはなかった。ちゃんと、はっきり言わなければならない。相手は未だ十二の子供。遠回しに言って通じさせるには若すぎる。
「俺に何かあったら、紫蓮を頼む。」
いつ、何があるか分からない。特にこの柵(しがらみ)の中、直系である自分や我が子はどんな〝事故〟に見舞われるか分からない。それが本当に事故なのか、仕組まれた事故なのか、分からなくなる程壮大な〝事故〟に。
直系が亡き者になれば喜ぶ一族はどれ程いるだろう。芽生えたばかりの小さな芽に対する悦びの祝辞を述べたその口で、その小さな芽を握り潰す算段を模索し、弔辞をも準備する。芽は早い内に摘み取っておかなければならないという原理であり、その時期はいつ来るか分からない。
だからこそ―――。
「紫蓮の支えになってやってくれ。」
この先、親がいつまでも護ってやれるとは限らない。一族内の直系という孤独の中で、親以外に頼れる者を作っておかねばならない。何かあったとき、心の拠り処になるように。
〝心意〟を理解したのか、放った言葉に重みを感じたのか、清芳はしばらくの沈黙の後にいつも以上の笑顔で返す。
「…分かった。兄貴には世話になってるからな。」
その笑顔が、いつもの素の笑顔ではなく、無理をして作った作り笑いだと分かっていた。余りにも重い物を背負わせてしまった罪悪感が身体中に残る。
だが、これからは清芳のこの笑顔に頼るしかない。
そう思い、そっと眼を閉じた。
「副社長、会議の時間です。」
秘書のその言葉に記憶の中から呼び戻される。
あの日から早くももう十七年が経った。あのとき産まれた直系がもう十七歳になった。月日が早く流れていても、どれだけの刻が流れても、あの日の〝あの人〟の顔が眼に焼き付いている。覚悟を決めた〝あの人〟を見た、最初で最後の日。
もう会議の時間。会社で行う本日最後の仕事だ。これが終われば、やっと自宅へ帰ることが出来る。
待っている人の元へ帰ることが出来る。
「あぁ、今行く。」
身辺の必要書類を手に持ち、秘書の待っている扉の近くへ行ったときだった。秘書が男を呼び止める。
「清芳。」
呼ばれたのは、会社の役職名ではなく、男個人の名前。
そう呼び止められ、少々驚いたような顔をしたが、その顔はすぐに元の顔に戻った。会社にいるときは極力名前で呼ばないようにしていて、呼ばれないようにもしている。会社にいるときは副社長と秘書だからだ。だが、その優しくも柔らかな呼び方は学生時代と何一つ変わらない。
そんな彼が好きだから、仕事をする際も秘書として傍に置いた。秘書は半分呆れたように口を開く。
「あまり無理をするなよ。」
その優しげな声と顔に、心地好さを覚えるが、そう言ってもいられない。ふと笑みを返し、ちょっとした可愛い愚痴を溢してみる。
「無理せずに頑張りたいが、無理せずにはいられねーんだよ。」
その小さな愚痴は、仕事上だと思わず、学生時代からの友人の労いの言葉に聞こえたことを、合うように言っただけ。学生時代ならすぐにこう言っただろう言葉。学生時代から続いていた友人関係も、仕事上ではないも同じ。それを承知で秘書になることを承諾してくれた。そのことがとても嬉しく、有難い。
その小さな愚痴に遊び心を加え、宥めるように言った。
「…その辺は解ってくれよ。」
解っていないという訳はないけれど、誰よりも解ってくれているだろうけれど。その言葉と同時に秘書の横を通り過ぎる。すると、秘書は眼を閉じ、軽く会釈をした。
「解っていますよ、副社長。」
友人としての会話はここまで。たった一時でも〝友人〟として息抜きをさせてくれてありがとう。ここからまた仕事上の関係に戻ることになる。でも、不思議と身体が軽くなった気がする。
「さて、行こうか。」
残すところ、大きな仕事はあと二つ。その内の一つを今から片付けに行かなければならない。
二人は今までいた副社長室を出て、会議室へと向かう。
辺りはすっかり暗くなっていて、場所は人通りの多い都市部に移っていた。
夜の街、夜中でも光が消えることなく街中がざわめきを持っているこの街の、とある高層ビルの一室。そこには、大企業の副社長室がおかれている。その部屋にいるのは二人の男で、二人とも黒い背広に黒板ネクタイをしている。一人は窓際にいて、もう一人は部屋に置かれたデスクの側にいる。デスクの書類を整理しており、かけている眼鏡を指で上げつつ仕事をする。その部屋の主である男が、夜の街の放つ光を眺めつつ、眠気覚ましのブラックコーヒーを口に運ぶと、突然部屋の電話が鳴り響いた。すぐに、仕事をしていた秘書が電話の受話器を持ち上げ、通話に応じる。電話を受けた秘書は相手が誰であるかを確認し、窓際でコーヒーに舌鼓している男に声をかけた。
「副社長、お電話が。」
秘書のその言葉に反応し、男は身体を翻しながら夜の街から室内へと視線を移す。
「誰だ。もうすぐ最終会議が、」
会議まであと十分。本来ならばもうこの部屋自体を出なければならない時間になっている。そんな中、たった今掛かってきた電話に対応することは出来ない。とあしらうところだった。
だが、言葉の途中でその言葉を遮ってまで秘書が相手の名を告げる。
「南条紫蓮さま、と仰って…。」
相手の名が出た瞬間、男は全ての動作を一時中断した。そして相手を再度確認する。
「…紫蓮?」
相手を確認した後、秘書から受話器を受け取る。そして電話の向こう側にいる人物に話の内容を促す。
「紫蓮、どうした。」
電話の相手は滅多に連絡を寄越さない者だが、寄越したら寄越したで何か付属品を持っている。それにしても連絡を寄越すこと自体が珍しい。何かあったのか、と心配をしてしまう。
『兄さん、お忙しい中すみません。携帯が繋がらなかったもので、こちらに…。』
すぐに自分の用件を言わず、初めに会社の電話に掛けてきたことを謝罪する。だが、今時分と連絡を取るならば、ここに電話を掛ける以外に方法はなかったはずだ。それを瞬時に思い出し、相手を宥める。
「別に構わない。こっちこそ昼の会議から電源を切っててな。悪かった。」
昼過ぎに行なった会議の際に携帯電話の電源を切って以来、携帯電話の電源を入れ直していなかった。普段ならば会議が終わり次第すぐに入れ直すところだが、今日はその後に欠かすことの出来ない会社絡みの会食が入っており、携帯電話をそのままにしていた。そのため、携帯電話が繋がらなかった原因や落ち度はこちらにある。手早く連絡を取りたいならばここに連絡するべきだと考えたのだろう。いつもならば人に頼ろうとはしない者が、自ら連絡を取ろうとしたのは何か自分の手には負えない訳があるはず。
「…で、どうした。」
用件は一体何なのか。核心を突くと、相手は言い難そうに引け目な態度の物言いをする。
『実は、…お願いがあります。』
〝お願い〟など珍しい。いつもならば自分でするであろうことを態々人に頼むということは、何かあるのかと思考を巡らせる。話を聞くと、相手が何を考えているかが何となく分かる。
「…分かった。調べる。」
一通り話を聞き、了解の相槌を打つ。
口調、雰囲気、癖、ちょっとした仕草。いろんなところに〝あの人〟の面影を感じて、思い出す。成長するにつれ段々〝あの人〟に似てきて、そんなとき改めてこいつは〝あの人〟の子なのだと実感する。
「…紫蓮。」
『はい。』
声すらも〝あの人〟に似ている。
不用意に名を呼んでも、何か言いたいことがある訳ではない。今まで職業柄、仕事が忙しくなかなか会う機会を作れなかった。もう何年も会っていないが、元気にしているだろうか。我が子を心配する親心とはこういったものなのか。
「いや、何でもない。」
そう言い、軽く挨拶をしてから通話を終え、受話器を元の場所へ戻した。
そして、ふと自分の中の全てが虚ろになる。
「………今でも思い出すな…。」
感傷に浸っている訳にはいかないけれど、思い出すのは、遠い日の〝あの人〟との記憶。
***
「兄貴!」
突然、書斎の扉が大きな音を立てて勢い良く開かれた。
自分を呼び、書斎に入って来たのは年の離れた自分の従弟(いとこ)。
いつもなら家の教育上、扉をノックし、返事を聞いてから入室するようにしているが、今日はそんな粗相を咎めるような日ではなかった。
「どうしたんだ、清芳(さやか)。」
机に向かい書類整理をしていた手を止め、勢い良く飛び込んで来た理由を問うと、今年十二になる従弟の清芳は太陽のような笑顔を向ける。
「子供!生まれたんだって!?」
子供とは、妻が妊娠していた胎児のことだ。今日、無事この世に生を受けた愛しい我が子。
産まれた胎児が男児であることは、出産までの定期検診で分かっていたが、誰にも話してはいない。我が家の、我が一族の大事な跡取りのため、親戚中が吉報を心待ちにしており、一人に報せると一時間後には一族全体に広がっていたようだ。
従弟の清芳がこの家を訪れたのはそのためだろう。
本来ならば、明日以降に正式な出生を報せる案内を出すため、今日挨拶に来る者はいない。皆、出産祝いの引出物などの手配に追われている。そんなことをまったく気にせず飛び込んで来るのは、清芳がまだ子供だということと、南条ではないということ。
「あぁ、今日の日付が回ってすぐな。丁度お前と一回り違う。」
干支が同じだな。
そう付け足し微笑むと、清芳は嬉しそうに返す。
「兄貴とは二回りだよね。」
干支、一緒だね。
その言葉を聞き、再度笑みが溢れる。
「俺とお前が一回りだからな。」
従弟の清芳とは丁度一回り違いのため、十二歳違うことになり、干支は同じだ。そしてそこに産まれたばかりの子供も加わることになる。丁度清芳と一回り違いだ。
「一回りずつ違うんだ。」
子供と清芳が一回り、清芳と自分が一回り。一回りずつという偶然に運命を感じたりもする。
「そっかぁー。…生まれたんだー。」
再度子供が産まれたことを実感する。母体の中にいたときから、産まれるのを純粋に誰より心待ちにしていたのは清芳だ。
「お前は俺の従弟(じゅうてい)だから、紫蓮は甥じゃなくて従甥(じゅうせい)だな。」
兄弟ならば甥だが、清芳との血縁関係は父と清芳の母が兄妹で従兄弟(いとこ)ということになり、名称としては〝従甥〟が当てはまる。そう言った後、清芳を見ると、きょとんとした顔をしていた。そして、そのまま口を開く。
「〝紫蓮〟?」
清芳は初めまして聞く名に多少の驚きを表したが、納得する事柄を述べるとすぐに馴染んだ。
「あぁ、名前だ。」
名前は前から決めていた。誰にも話していないとはいえ、産まれる前から男であることは判っていたのだから。
「〝紫蓮〟ってゆーのかぁー…男?」
清芳は産まれたばかりの胎児の名を呼び、性別を確かめた。名前の感じから性別を判断したのではなく、文脈から性別を導き出した。
「〝従甥(じゅうせい)〟って言ったってことは男だよね。」
この場合、男なら従甥(じゅうせい)、女なら従姪(じゅうてつ)と呼ぶことになる。これと同類の言葉で清芳を表すならば、従弟(じゅうてい)になる。一族が多いこともあり、直系から繋がる身辺関係や血縁関係は特によく教え込まれている。従甥や従姪など、十二歳の子が理解し、使えるものではない。それらのことを考慮して、それなりの教育を受けさせたため、文脈から答えを導き出すことは然程難しいことではない。頭の回転も悪くない。
「その通り。」
年の割によく勉強をしていて、よく回る頭を持っている。端から見れば生意気に見えるかもしれない。だが、壮大な家名にはそれくらいの度胸がなければならない。実質上、清芳は南条の者ではないが、一族の血を引いていることは確かで、両家の教育方針に従う謂れはある。まだ十二歳だが、不仲で今にも離婚届に印を押しそうな両親の間でさぞ苦しんでいるだろう。清芳は安らぎを求めてこの南条邸に顔を出すといっても過言ではない。幼いながらに苦しみながら、言われたことは全てこなしている。勉学も運動も作法もあらゆることを。そんな中、まだ芽生えたばかりの小さなものだが、行く末は期待できる。
「まだ会えないんだよね。楽しみだなー紫蓮。」
清芳は笑みを溢しながらそういうと、部屋の中央に位置する会談用の対するソファーの一つに座り込む。産まれたばかりの胎児のことを考えながら会える日を心待ちにしている。その姿がとても微笑ましい。清芳は今までずっと年上の大人に混ざって過ごして来たため、年下の血縁者が生まれることが未知数のことで楽しみなのだろう。
清芳の顔から笑みがなくなることがない。少しでも長く、笑顔でいてほしい。
そのために今出来ること。
「…清芳。」
小さくもはっきりと放った言葉に、重苦しさはなかっただろうか。とても大事な話があり、清芳の名を呼んだ。その呼びかけに、清芳は明るく聞き返す。
「何?」
微笑ましさを残している清芳を見て、話すための最終決意をした。
「紫蓮を頼むぞ。」
突然脈絡のない言葉を放ったが、清芳は思いの他、動揺していなかった。驚いてはいるようだが、動揺している様子はない。この言葉に込められた〝本意〟を瞬時に理解したのか。
清芳は驚いた顔を元に戻し、ただ一言、問いかけた。
「…兄貴?」
〝本意〟を理解したのか、していないのか、それは定かではないが、初めからあれだけの言葉で済ませるつもりはなかった。ちゃんと、はっきり言わなければならない。相手は未だ十二の子供。遠回しに言って通じさせるには若すぎる。
「俺に何かあったら、紫蓮を頼む。」
いつ、何があるか分からない。特にこの柵(しがらみ)の中、直系である自分や我が子はどんな〝事故〟に見舞われるか分からない。それが本当に事故なのか、仕組まれた事故なのか、分からなくなる程壮大な〝事故〟に。
直系が亡き者になれば喜ぶ一族はどれ程いるだろう。芽生えたばかりの小さな芽に対する悦びの祝辞を述べたその口で、その小さな芽を握り潰す算段を模索し、弔辞をも準備する。芽は早い内に摘み取っておかなければならないという原理であり、その時期はいつ来るか分からない。
だからこそ―――。
「紫蓮の支えになってやってくれ。」
この先、親がいつまでも護ってやれるとは限らない。一族内の直系という孤独の中で、親以外に頼れる者を作っておかねばならない。何かあったとき、心の拠り処になるように。
〝心意〟を理解したのか、放った言葉に重みを感じたのか、清芳はしばらくの沈黙の後にいつも以上の笑顔で返す。
「…分かった。兄貴には世話になってるからな。」
その笑顔が、いつもの素の笑顔ではなく、無理をして作った作り笑いだと分かっていた。余りにも重い物を背負わせてしまった罪悪感が身体中に残る。
だが、これからは清芳のこの笑顔に頼るしかない。
そう思い、そっと眼を閉じた。
「副社長、会議の時間です。」
秘書のその言葉に記憶の中から呼び戻される。
あの日から早くももう十七年が経った。あのとき産まれた直系がもう十七歳になった。月日が早く流れていても、どれだけの刻が流れても、あの日の〝あの人〟の顔が眼に焼き付いている。覚悟を決めた〝あの人〟を見た、最初で最後の日。
もう会議の時間。会社で行う本日最後の仕事だ。これが終われば、やっと自宅へ帰ることが出来る。
待っている人の元へ帰ることが出来る。
「あぁ、今行く。」
身辺の必要書類を手に持ち、秘書の待っている扉の近くへ行ったときだった。秘書が男を呼び止める。
「清芳。」
呼ばれたのは、会社の役職名ではなく、男個人の名前。
そう呼び止められ、少々驚いたような顔をしたが、その顔はすぐに元の顔に戻った。会社にいるときは極力名前で呼ばないようにしていて、呼ばれないようにもしている。会社にいるときは副社長と秘書だからだ。だが、その優しくも柔らかな呼び方は学生時代と何一つ変わらない。
そんな彼が好きだから、仕事をする際も秘書として傍に置いた。秘書は半分呆れたように口を開く。
「あまり無理をするなよ。」
その優しげな声と顔に、心地好さを覚えるが、そう言ってもいられない。ふと笑みを返し、ちょっとした可愛い愚痴を溢してみる。
「無理せずに頑張りたいが、無理せずにはいられねーんだよ。」
その小さな愚痴は、仕事上だと思わず、学生時代からの友人の労いの言葉に聞こえたことを、合うように言っただけ。学生時代ならすぐにこう言っただろう言葉。学生時代から続いていた友人関係も、仕事上ではないも同じ。それを承知で秘書になることを承諾してくれた。そのことがとても嬉しく、有難い。
その小さな愚痴に遊び心を加え、宥めるように言った。
「…その辺は解ってくれよ。」
解っていないという訳はないけれど、誰よりも解ってくれているだろうけれど。その言葉と同時に秘書の横を通り過ぎる。すると、秘書は眼を閉じ、軽く会釈をした。
「解っていますよ、副社長。」
友人としての会話はここまで。たった一時でも〝友人〟として息抜きをさせてくれてありがとう。ここからまた仕事上の関係に戻ることになる。でも、不思議と身体が軽くなった気がする。
「さて、行こうか。」
残すところ、大きな仕事はあと二つ。その内の一つを今から片付けに行かなければならない。
二人は今までいた副社長室を出て、会議室へと向かう。
連日の雨で湿った空気、今にも雨が降りそうな環境の中、人の通らない街外れの廃墟の前に来たのは、南条紫蓮だった。
黒のシャツの上に黒の羽織物を着崩し、パンク系のパンツ。胸には赤と黒の蝶つがいのペンダントが光り、右耳にも同じデザインのピアス。左手の中指にも同じデザインの指輪が嵌められている。約束通り、紫蓮は〝一週間後の金曜日〟この場所を訪れた。
廃墟は錆び付いていて、所々大きく欠けている。図体は意外に大きく、数多とある全南条邸総面積の十分の一ほどはある。だが、鉄の錆び付いた臭いと廃墟独特の臭いが鼻を突く。長年雨風に晒されていたせいか、今にも崩れてしまいそうな出で立ちだ。
「ここか…。」
この独特の雰囲気に飲み込まれそうだが、そう言ってもいられない。この場所に来れば両親の〝本当〟の死因が分かるというのだ。自分が知っている両親の死因は焼死。両親は火事の家の人を助けようと見知らぬ家に入り、炎に身体を蝕まれて死んだ。顔も判らないほど焼けていてやっと残った歯で歯形を調べ、両親であることが判った…と、これだけだ。
勿論、こんな理由をそのまま鵜呑みにしていた訳ではない。だからこそ、真実が知りたかった。雨雲がゆっくり北北西に進む中、紫蓮は決意を新たにした。ここは立ち止まるべき場所ではない、と。そして足を進めた。
廃墟の中に入ると外に居たとき以上に錆び付いた鉄の臭いがした。このきつい悪臭のせいで、既に鼻の感覚がない。辺りは見るからに廃墟というに相応しいものだった。この悪天候の中、灯りも点いていないため、廃墟の中は薄暗い。だが、一歩先が見えない訳ではない。最低限分かることもある。廃墟は横にも奥にも広い。高さもそれなりにはある。広く大きい横幅は全てを見渡すのに時間がいるほどだ。見渡してみると、辺りには硝子が割れて落ちているものがあった。よく見ると、その原形はフラスコや試験管のようで、元薬品会社という肩書きは嘘ではないらしい。奥はどこまでも続いている印象があり、先は暗がりの闇に覆われて見えない。ただ、扉があってもおかしくないところに扉はなく、わざと外してあるようにも見えた。柱も錆び付いていて、屋根も黒ずみ、ひび割れもある。外にいるときは気付かなかったが、中に入ると錆びに混じりまた違った異臭がする。薬品の臭いなのか、若しくは故意に放っている臭いなのか。鼻の感覚がないため、錆びと共にする臭いの正体が判らない。
いつも人の行動を観察する紫蓮は、人だけではなく辺りの建物や動植物にまで観察の眼を向けるようになった。その観察力が今、本当に活かされた自分をこんなところに誘った誘い主は何故この場所を指定したのだろうか。こんな廃墟、この地区に住んでいる人でも存在を知らない。そんな廃墟だ。この錆びきった古い廃墟の中に誘い込み、急に落ちて来た屋根の下敷きになれと言う気なのか。得体の知れない奴だ。いきなりそう言い、こちらを動揺させるつもりなのかもしれない。
いろいろと考えていると、前方先五十メートルの地点に人がいるのが見えた。観察力を養っている紫蓮にはそれが〝あの少女〟とは別人だと判別することが出来た。身長百五十センチ前後の痩せ型で浴衣を着ており、杖をついている老人。性別は男。これらのことを瞬時に頭の中に入れ、相手を見極めた。
こいつが莎子の言った爺様…〝黒い蝶〟か…。
そう思ったのも束の間で、紫蓮の予想以上に早く、老人ははっきりと視界に入って来た。老人の歩く歩幅は紫蓮が思っていた老人という枠の中から飛び出すものだったからだ。その老人は紫蓮の前方十メートル地点で止まり、早々に口を開いた。
「待っていたよ。紫の蝶。」
唐突に挨拶をされたが、それは挨拶と呼べるものではなく、紫蓮の不快感を誘うものだ。故意なのか自然に出たものなのかは定かではないが、紫蓮が反撃をするには充分の要素があった。紫蓮は露骨に嫌な顔をして前髪をかき上げながら言った。
「俺は〝紫の蝶〟ではなく〝南条紫蓮〟なんだが。」
この言葉に目の前の老人は紫蓮を嘲笑うかのように返答した。
「勿論分かっている。そしてお前が今日ここに来た理由は、」
「あんたが知っている俺の両親のことを包み隠さず全て話せ。」
老人の言葉を遮ってまで自分でその続きを述べた。
何よりも、自分の両親の秘密を知っているというのが気に入らない。両親は紫蓮にとって数少ない尊敬する存在だった。それに、紫蓮の両親は各界で知られた著名人、そんな両親をこの世から奪い去ったものが憎くて堪らない。
紫蓮に台詞を先読みされた老人は次の言葉を用意していたのか、紫蓮の行動に動じず淡々と話を進めた。
「まぁいい。教えてやろう。」
明らかに紫蓮より優位に立ったように振る舞う。この態度も紫蓮の怒りを逆撫でするのには充分過ぎた。紫蓮は怒りと苛立ちを押さえ切れなかった。
「お前が全て仕組んだことなのか!」
思わず口から出てしまった言葉。だが紫蓮はこの言葉を出したことを後悔はしていないし、むしろもっと言ってやりたいと思っているくらいだ。紫蓮の勢い付いた問いかけに老人はゆっくりと答えた。
「お前の両親を殺したのは儂だ。」
この一言で、老人が放ったたった一言で、紫蓮の思考回路は冷静沈着から素早く〝違うもの〟に切り替わってしまった。こんなことを言われて落ち着いて居られるほど、紫蓮は人間が出来ていない。普段の紫蓮はどこかに消えてしまっている。
そういう状態になることが相手の思う壺だとしても、何気なく放っていた手が拳になる。怒りが全身から溢れ出し、抑えが利かない。もう制御することが出来ない。
「お前が…、お前がっ!」
意味がないと解っていながらも、二人称を何度も続ける。両親を殺した奴が、今、目の前に。抑え切れない感情を無理矢理抑えつけ、獣が吠えるような低い声で言葉を放った。
「理由は何だ…!」
意味もなくだなんて言わせない。言わせるものか。金か、南条家の莫大な財産か。
だが両親が死んだ後、南条家の金が必要以上に動いたことはない。それに腑に落ちないのは両親が死んで四年も経っているということ。死後直後ならともかく、もう四年も経っている。何故今頃になってなのか、その意図が解らない。だが、そんなことに気をかけられるほど、紫蓮は冷静ではない。今にも目の前の老人に殴り掛かるかというときだった。老人が紫蓮の予想外のことを口走った。
「呪われた浴衣の話を聞いたのだろう?」
呪われた浴衣…?河村が言っていた…あの浴衣!
最初はこのことの意味を理解するのに少し時間が掛かった。だが、すぐにそれが祝の言っていた〝赤い蝶の浴衣〟のことだと解り、この話に反応する。
「あの浴衣は呪われた浴衣だ。」
老人がそう言ったのが、頭の中に強く残った。
「浴衣…赤い、蝶の、浴衣…。」
何か、引っ掛かる。何か。何処かで、赤い浴衣を…。
「あ!」
そう思った瞬間、思い出した。
赤い浴衣。あの日、〝赤い蝶〟と名乗った少女、莎子は赤い浴衣を着ていた。そして、莎子は自分のことを〝紫の蝶〟と呼んだ。莎子とこの老人に繋がりがあることは分かっていたはずなのに。そう思ったとき、この場に莎子がいないことに改めて気付く。
「あの娘(こ)は、莎子は!莎子はどうした!?」
大きく叫び散らしたことに老人が深く感心していたのが分かった。そして紫蓮を嘲笑うかのように笑い、紫蓮に言った。
「紫の蝶よ。赤い蝶は自分の名を名乗ったのか?」
その言葉の意味は聞かなくても分かる。この老人は紫蓮の両親が本業と共に探偵も兼業していたことを知っているのだ。
紫蓮の両親が初めて出会ったのは探偵としての会合があるときだったらしい。既に祖父の息子として各界に知られていた父は、各界の南条の仕事を必要以上にこなし、探偵業もしていた。南条という家の肩書きを捨ててでも探偵をしたいから。と祖父を説得したらしい。そして同じ探偵業をしていた母と出会い、結ばれたのだと聞いた。両親が探偵をしていたという事実から、紫蓮は探偵の心得を持っていて、尚且つ、探偵の知り合いもいる。
そのため、〝赤い蝶〟から莎子を導き出したのか。という意味だったのだ。
だが、そんなことはしていない。明らかに情報不足だったからだ。その事実を隠すつもりはなかったが、老人はそのことを先読みしていたらしく、含んだ笑みを見せていた。
「まあ、いくら南条でも情報が少な過ぎたか。」
最早、少な過ぎたという問題ではない。手掛かりすらないのだ。探せる訳がない。老人とのやり取りで、紫蓮の中に冷静ないつもの紫蓮が少しずつ戻って来る。
「…何が言いたい。」
そう凄みを利かせて言うと、老人はそれを軽く受け流した。やはり亀の甲より年の甲というだけあって、かなりの山場を乗り越えて来たのか、人生のいろはも知らない子供一人の凄みなど恐るるに足らん。と思っているのだろう。
「何でもないさ。」
と軽く嘲笑った。老人はそう言ったが、紫蓮にはとてもそうだとは思えない。すると老人は紫蓮の様子を観察し、言葉を放つ。
「莎子が着ているのは正真正銘、呪われた赤い蝶の浴衣だ。」
この言葉を聞いた紫蓮は莎子と初めて会ったとき、莎子が赤い浴衣を着ていたことを再度思い出した。あのときは夜で辺りも暗く、蝶の模様が判別出来なかったため、蝶の浴衣だとは知らなかった。あの呪われた浴衣。情報屋の祝ですら現在所在が分からないという浴衣を莎子が着ている。恐らく、莎子が着ている浴衣を留めている黒い帯も噂の黒い帯なのだろう。
ふと老人を見ると、先程からは想像もつかない悲しげな顔をしていた。そのときは何が理由なのか分からなかったが、その後すぐに聞いたあの言葉が真実なのだろう。とても悲しそうな顔の理由は。
「儂の息子が作った…な。」
「息子…?」
紫蓮が問いかけると、老人は一度紫蓮を睨むように見た後、静かに口を開いた。
「お前は南条の息子だ。全てを話してやろう。」
そう言い、老人は赤い蝶の浴衣のことを話した。まるで祖父母が孫に聞かせる、昔話のように。
赤い蝶の浴衣を作った浴衣職人は〝黒い蝶〟と名乗る老人の一人息子だった。
老人は息子が貴金属業者の娘と婚約し、結婚するのを心待ちにしていた。
だが、婚約者の女性が強盗の人質になり、理不尽な最期を迎えてしまった。そのため、浴衣職人である息子は怒り狂い、彼女との思い出が深く残った赤と黒の蝶を象った浴衣を作った。
何故、赤と黒の蝶なのか、それは彼女が貴金属を扱う職人として。初めて自分で造った貴金属の品が〝赤と黒の蝶〟というものだったからだ。まだ試作品でこの世にひとつしかないもので、彼女がその試作品を浴衣職人に見せた後、何者かに盗まれたのだという。
そのことから、本当は結婚したら自分用の黒の蝶の浴衣と彼女用の赤い蝶の浴衣を作り、二人で縁日に出掛けようと思う。と語っていたのだ。だが、婚約者である彼女が死んでしまい、生きる希望を失った浴衣職人は、彼女が死んでから想いを繋ぎ留めるために赤い蝶の浴衣を必死に作った。彼女が着るように。と。そのため、浴衣職人が死に浴衣が人手に渡ると、怨念が染み込んだ浴衣は災いを呼んだ。
その後、いろんなところを回った浴衣は、所有してから一ヶ月以内に持ち主を呪い殺す浴衣として有名になり、その直後行方が分からなくなっていた。
話を一通り聞き終わり、謎は全て解けたかのように見えた。だが紫蓮にはまだ解せないことがあった。深く考え込み、使える頭を精いっぱい回転させ、ゆっくりと言葉を放つ。
「まだ解らないことがある。何故着た者が次々死ぬ中、莎子は死なないのか。まさかまだ一ヶ月未満だからという訳じゃないだろう。それともう一つ、浴衣職人が自分の作品に付けるという印、あれは複製出来ない物だと聞いた。それは何故だ。」
紫蓮は少しの間も空けず、素早く疑問を突き付けたが、紫蓮のこの問いに老人はゆっくりと重い口を開く。
「複製が出来ないのは、血がついているからだ。」
老人のこの言葉に紫蓮は驚きを隠せなかった。血がどうした。という顔をしている。すると老人は続けてこう言った。
「印は、白い布を自分の血で染め、そこにサインの刺繍をし、それを作品に縫い付けていたのだ。」
血…血は世界中にいる全ての生物が違う血を持っている。同じ血を持つ者は居ない。その例外となるのは双子や三つ子といった、産まれながらに持つ自然型クローンだけとなる。そのただ一つの例外である自然型クローンがいなければ複製は不可能だ。
「DNA鑑定をすれば一発で判るということか。」
結論に達し、自分で口に出して言った後、今度は納得の意を表した。
「なるほど。DNAばっかりは誤魔化せないからな。」
血液系の遺伝子だけではなく染色体や身体全体に関わってくることだ。現在の最先端の技術を要しても誤魔化すことは出来ないだろう。だが、浴衣の件が分かっても、莎子が死なない理由はまだ分かっていない。紫蓮は放っていた手を上げ、腕を組む。
「じゃあ、莎子の件は。」
莎子の件が分からなければ、この話に終結はない。老人は返答を止まり、すぐに答えを表に出さなかった。だが、今更隠すこともないと思ったのか、溜め息混じりに言う。
「…莎子は息子の婚約者の妹だ。」
この発言に紫蓮は息を飲んだ。
息子の婚約者の―――。
「妹…!」
紫蓮の驚きとは裏腹に、老人は事情聴取の決定打を見せ付けたかのように言った。
「あの浴衣は彼女と同じ血が流れている莎子には、全く拒絶反応を起こさない。」
一拍置いて、核心を突く発言をする。
「そのため、莎子が死ぬことはない。…現に莎子は一ヶ月以上あの浴衣を着ているが死なない。」
そして、現在状況を含め結論付ける。だが、紫蓮にはまだ納得出来ないことばかりが残る。組んでいた腕を組み直し頭の中を整理する。
「…その話が全て本当だとしよう。じゃあ疑問が残らないか?」
頭の中を整理した結果、このことに気がついた。
「莎子はどうしてあんたと行動を共にしている。姉が死のうが生きようが両親と一緒に暮らせばいいことだろ。」
この老人と一緒にいる意味はない。況してや、姉が死んだショックで余計に両親を求めたりするものだ。そのことを突いてみると、老人は思いがけないことを口走った。
「莎子の両親は莎子が十のときに死んでいる。…莎子は姉である彼女と二人で暮らしていたのだ。」
数秒という間を空け、次の言葉を出したとき、紫蓮は莎子との繋がりを感じた。
両親が居ない。残されたのは自分だけ。
紫蓮の側には千代がいて、莎子の側にはこの老人がいたが、それでも埋められない悲しさや寂しさがあるものだ。紫蓮は元々一人っ子で兄弟が居ない寂しさがあり、莎子は莎子で姉妹として姉がいたにも関わらず、急に死んだ寂しさがある。
そう思っているときに、老人の顔付きが変わってきたのが分かった。顔だけではなく、眼までもが、何か夥しいものを感じさせる。何か、良くないものが来る。探偵をしていた両親の元で育ったためか、洞察力には優れている紫蓮だからこそ、分かった感覚かもしれない。老人が紫蓮を睨みつける。その眼は如何にも人を一人殺したような、恐ろしく冷たい眼をしている。
「そして、その彼女の試作品を盗んだのが、お前の両親だ。」
老人が放ったこの一言に動揺が隠せなかった。嘘だという可能性も充分にある。老人の言葉が全て真実とは限らない。だが、面と向かってそう断言されると、流石に苦しいものがある。頭の中で老人に言われたことが木霊する。
そして、口から飛び出した言葉は、老人の放った言葉を自分の立場に置き換えたものだった。
「俺の両親…!」
この言葉を聞いた老人は、ここぞとばかりに紫蓮を攻め立てる。鬼の形相で紫蓮を見ては、怒りをオーラとして醸し出している。
「そして、今、お前が身に着けているそれが彼女の造った試作品〝赤と黒の蝶〟だ。」
この言葉に紫蓮が今まで以上の反応を示す。
先程両親が盗んだと言われたものは、息子の婚約者が造ったという作品は、両親の遺品として、財産の一部として相続した、この赤と黒の蝶だったのか。つがいの赤と黒の蝶のピアスに、ペンダント、そして指輪。この蝶たちが。
そう思い、胸の前で組んでいた腕を自由にし、左手を目の前に持って来て、中指に嵌めてある指輪を見つめる。そして右手は右耳にしているピアスに触れさせる。そして改めて実感するのだ。
「赤…と、黒、の…、―――蝶…!」
この蝶たちが、赤と黒の蝶だということを。
この蝶たちが、両親の物だったということを。
この蝶たちが…―――!
パニックになりながら、身に着けている蝶たちを眺めていると、妙な感覚に襲われた。その感覚を感じたのは直感だったが、自分の直感には自信がある。探偵をしていた両親に鍛えられた直感だ。外れる訳がない。と。
その瞬間、老人が着ていた着物から即座にナイフを取り出した。本数は三本。そう認識した直後、老人は勢いよく振りかぶった。
「紫の蝶。その蝶たち、返してもらうぞ!」
そして紫蓮に向けて振りかぶったナイフを投げた。紫蓮は咄嗟の判断でその三本のナイフを避け、後方に飛び逃げる。老人が投げた三本の内、一本は捨て駒で最初から紫蓮に当たるはずがないものだったが、あとの二本は違った。その内の一本は確実に紫蓮の身体、心臓を狙っていた。そしてあとの一本は紫蓮の足を。
老人は若い頃にスポーツをしていたのか、咄嗟の判断で避ける力と両親に鍛えられた直感、そしてずば抜けた運動神経、この中の一つでも紫蓮に欠けていたら、紫蓮は負傷していただろうというほど、正確な投げ口だった。すぐに後退し、身を守った紫蓮だが、予期していなかったいきなりの事態に戸惑い気味だ。
だが、先方は紫蓮の気持ちなど考えてはくれない。すぐさま体制を立て直したそのとき、老人の叫ぶような声がこの広い廃墟に響き渡った。
「紫の蝶を殺せ!」
このとき、再び紫蓮を只ならぬ妙な感覚が襲った。それは、両親から何度も教わった、殺気立った気配。誰かが殺気を持ちながら自分を見ている。そんな気配がした。そして、先程の老人の叫ぶような言葉から一秒も経たないうちに、違う言葉が紫蓮の耳に入り込んで来た。
「莎子!」
この言葉に、必死に感覚と。両親に教え込まれた技術の部屋にいた紫蓮は一気に我に返ることとなった。最初に老人が出て来たこの部屋の向こう側とこの部屋との境界線に、殺気を立てた莎子が俯き、右手にはナイフを持ち紫蓮に姿を見せる。長い黒髪に赤い蝶の浴衣。莎子の身体は赤と黒で埋め尽くされている。部屋と部屋の境界線に立っているのが莎子であることを認識するのに、大して時間は掛からなかった。
「莎子…。」
紫蓮がそう呟くと、莎子は少しの反応を見せた。長い黒髪が廃墟の中に通る風で揺れている。すると莎子は俯いたまま一言呟いた。
「久しぶりだな。」
そして、俯いていた顔を上げ、紫蓮をじっと睨み、囁くような小さな声で言った。
「紫の蝶。」
それだけ言うと、莎子は紫蓮に向けて一直線に走り、ナイフの刃先を紫蓮の顔へ向けた。紫蓮はそんな莎子の攻撃を交わしながら後ろへ向けて後退りする。莎子は無差別に紫蓮を攻撃して、紫蓮の髪の毛先を切り落とし、服を切り裂いてゆく。莎子の無差別な攻撃に上手く対応して身は守っているものの、いつ怪我をしてもおかしくはない状態まで来ている。持久戦になれば、圧倒的に紫蓮の方が不利になる。ただでさえ、莎子はナイフを持っているが、紫蓮は身一つだけ。この状況でも圧倒的に不利なのは紫蓮の方だ。莎子の無差別攻撃を避けながら、余裕のない状態でも紫蓮は莎子に叫ぶ。
「止めろ!莎子!」
だが、その呼びかけが通じる相手ではない。莎子は今、紫の蝶を殺す。ということしか頭にない。それ以外のことが考えられないのだろう。莎子の眼は真剣そのもので、その眼にまで殺気が漂っていた。やっと口が開いたかと思えば言うことはたった一つ。
「死ね!紫の蝶!」
そう言う莎子を何とかするには、気を失わせて戦闘能力を無くさせるのが一番良い方法なのだが、紫蓮には莎子に手を出したくないがために逃げるだけの戦法しかない。だが、紫蓮はこのとき、莎子と戦いながらもある状況の変化に気付いた。
老人がいない。先程まで自分と話をしていた老人が、この場にいない。それと同時に老人と莎子が出て来た奥の部屋から先程までは感じなかった異臭がする。この独特な鼻につく臭いは、――――――!!
「ガソリン!」
異臭の正体が分かった紫蓮は思わずそう叫ぶ。これで老人の考えていることが解った。あの老人はこの錆びきった廃墟に大量のガソリンを撒き散らし、火を放つつもりなのだ。莎子を道連れにしてまで、紫蓮と心中する気なのだと。そんなこと、させる訳にはいかない。況してや自分たちだけならまだしも、莎子まで道連れにするなんて。そう考えているうちに老人はポリタンクを持ち、再び紫蓮と莎子のいるこの部屋に戻って来た。そしてポリタンクの中身を部屋中にぶち撒けていく。
「おい!止めろッ!」
莎子の無差別攻撃を交わしつつ、老人に向けて声を張り上げたが、老人は紫蓮の声が聞こえているにも関わらず、ポリタンクに入ったガソリンを部屋に撒くことを止めはしない。人の声が耳に入らない屍人形のように、ポリタンクを逆さにし、部屋中を駆け摺り回る。
「止めろっつってんだろーがっ!おい!」
言葉遣いが荒くなりつつも必至にそう叫び続ける紫蓮だが、老人に紫蓮の声は届かず、老人はこの状況の最も、最悪なパターンを選ぼうとしていた。
部屋中に撒き尽くしたガソリンの上で、老人は浴衣の袂からマッチ箱を取り出し、その箱の中からマッチを一本取り出す。そしてマッチ箱の背中でマッチを擦る。紫蓮が莎子の対応に追われ、莎子の相手をしているうちにここまでの作業が済んでいて、次に紫蓮が老人を見たとき、既にマッチの先には火が点いていた。この瞬間、紫蓮は全てを理解し、老人に向けて叫ぶ。
「止めろぉーッッ!!」
紫蓮のその言葉と共に、老人は火の点いたマッチをガソリンでいっぱいになった廃墟の床に落とした。
一瞬の出来事だった。
廃墟は一気に燃え上がり、辺り一面を火の海と化す程の燃え上がり方をする。南条邸の総面積の十分の一程ある、錆びきったこの廃墟を丸々燃やし尽くすのに一時間もかからないのではないか。と思える程の炎。
火を点けた張本人である老人は、壊れた人形のように大声で笑い、我を失っていた。最早、自分が何をしたのかも分からないのだろう。ただ燃え上がる炎の中、不気味に笑い続けている。
そしてこの炎の中でも莎子は紫蓮を狙い続ける。ナイフを振り乱しては至るところを切り裂いてゆくのだ。ただ、紫蓮がバランス良く避けているため、未だ致命傷となる大きな怪我や傷はなく、服と共に切り裂かれた肌が数多く存在し、赤く毒々しい血が流れるだけだ。無差別に振りかざす莎子の刃を掻い潜り、多くても切創(きりきず)だけで済むのは日頃訓練受けてきた紫蓮だからだろう。だが、炎が建物をどんどん蝕んでいくため、錆びきった廃墟はいつ崩壊するか分からない。それに燃え盛る炎の中では酸素も限られてくる。早くこの場から逃げないと、一酸化炭素中毒で死ぬという笑えない死に方をすることになるかも知れない。炎に蝕まれて死ぬなど、両親と一緒だ。考えたくはないが、紫蓮の頭にそのことがよぎる。
いち早くこの場から逃げようとするが、莎子はこの場から逃げるよりも紫蓮を殺すことに全神経を集中させている。そのせいか、上手く逃げられない。廃墟の角の方まで逃げるとフラスコや試験管の割れた硝子が落ちている。
「ちっ!」
この危険な廃墟に思わず舌打ちが出る。早くこの場を何とかしたい紫蓮だが、莎子の止まぬ攻撃に顔を歪めるばかりだ。角に行ったのは少しでも休息をするため。角を使って一定の距離感が生まれれば、それこそ攻撃がしにくくなる。そして紫蓮の思い通り、莎子は一定の距離感を持ち立ち止まった。二人が向かい合う。炎が燃え上がり、徐々に酸素が少なくなる。そうなると殺される前に死んでしまう。この状況を何とかするためには、紫蓮がどうしてもしたくなかったことをしなくてはならない。どうしてもしたくなかったが、覚悟を決めた。
「莎子!」
息を精いっぱい吸い込み大声で莎子の名を呼ぶ。莎子は呼ばれたことにより改めて紫蓮を殺すことに集中する。だが、莎子が全神経を紫蓮に集中させることよりも早く、紫蓮が莎子との間合いを縮め、莎子の腹部を拳で殴る。
「う…!」
莎子の呻き声が小さく聞こえ、そのまま莎子は眼を閉じた。そして力の抜けた莎子の身体を紫蓮が優しく包み込むように抱き、出口へと急ぐ。段々と呼吸がし難くなり苦しい。これは早くしないと本当に死にかねない。出口に向かい、廃墟から出ようとしたそのとき、後方から声が聞こえた。
「紫の蝶!」
その声は明らかに老人のもので紫蓮が振り返ると壊れたかのように叫び散らした。
「お前はここで死ぬのだ!」
だが、こんな所で死ぬ気もなければこの老人の言う通りにする気もない。莎子を抱えながら燃え盛る炎の中、紫蓮は老人に向けて、どうしても言いたかったことを言おうと思った。
紫蓮は狂いかけている老人に、冷たく鋭い眼を突きつけ、言葉を放った。
「俺の両親はあんたの思ってるような卑怯な人間じゃないんだ。」
そして、早く逃げた方がいい。とも言い残して燃え盛る廃墟を後にした。
苦しながらもやっとのことで廃墟を出ると、炎とは違った赤い消防車が見えた。そして、警察とロープで仕切られた向こう側には多くの人だかり。その人だかりの中に親友の河村祝の姿がある。祝は廃墟から出て来た紫蓮を確認すると、大声を上げて警察の制止を突っ切り紫蓮の元へ駆け寄った。
「紫蓮!!」
「河村…。」
名を呼んだと同時に紫蓮は地面に膝を付く。そして莎子をゆっくりと地面に寝かせる。再度息の切れた声で祝を呼ぶと、祝は心配の色と安心の色を見せた。そして紫蓮が抱き抱えている莎子に眼が行く。
「…紫蓮、この娘(こ)は…。」
紫蓮が知らない女の子をこの炎の中、どういう経緯で運んで来たのか、また、どうして女の子と一緒にこんな廃墟にいたのか、疑問は尽きない。だが、紫蓮は祝の多々ある疑問に答えることなく、着ていた上着を脱ぎ始めた。
「気絶しているだけだ。すぐに気が付く。」
紫蓮が上着を脱いでいるのを見ると、祝は急に何かを察したのか、勢いよく紫蓮の腕を掴む。
「紫蓮!まさか、中に入る気じゃないだろうな!?」
祝の言葉に違いはない。紫蓮はもう一度中に入るつもりだったのだ。あの老人を連れ出すために。廃墟にガソリンを撒き、火を放った張本人だが、まだ分からないことがある。自分の両親のことを悪く思われたまま死なせる訳には行かない。そう思い、あぁ、行く。とだけ返し、燃え盛る炎の元である廃墟に再び入ろうとしたが、すぐに制止の言葉が掛かった。廃墟に入ることを止めたのは、祝ではなくその場に来ていた消防士だった。
「君!何を言っているんだ!こんな火の海に行こうなんて!」
一般常識からいって、そう言う人の方が多いだろう。こんな炎の中に戻るなんて正気の沙汰とは思えない。
「今、救急車を呼ぶから、君もその娘(こ)も。」
消防士は紫蓮を見ていた眼を斜め下に持っていき、〝その娘(こ)〟に眼を移した。
その娘(こ)というのは地面に横たわっている莎子のことだ。莎子は紫蓮が気絶させたため、意識はないがどこも怪我はしていない。寧ろ莎子の無差別攻撃を受けて怪我をしているのは紫蓮の方なのだ。致命的な傷はないが、かなりの量の切創(せっそう)があり、血が出ているものもが数多くある。
だが、紫蓮の意思は変わらない。早く中に行かないと助からないかもしれない。況してやあの老人は正気を失っていた。あのままこの廃墟の中では焼死してしまう可能性も捨てきれない。
「中にまだ人がいるんだ!行かないと…!」
紫蓮がそう言い、廃墟を見上げると、消防士は紫蓮の前に立ちはだかった。
「駄目だ!中に入ることは許さない!」
「でも中に!中に人がいるんだ!」
「もうすぐ突入班が助けに行く!それまで待て!」
この言い争いの声で、紫蓮に腹部を殴られ気絶していた莎子が眼を覚ます。それに最初に気付いたのは祝だった。そしてすぐさま紫蓮に報告する。
「紫蓮!この娘(こ)が…。」
莎子が眼を覚ましたのを確認すると、寝ている体制から起き上がろうとした莎子の側に行き、莎子の様子を伺う。
「莎子、大丈夫か。」
「お前は…。」
紫蓮の姿を見た莎子は一言呟くと、自分の置かれている立場と状況が飲み込めたのか、燃え盛る廃墟を見上げて大声を上げた。
「爺様!」
その後辺りを見渡すが、老人の姿はない。このとき、すぐに莎子の直感がものを云った。
「まさか…!」
そう言い、近くにいた初対面の祝には眼もくれず、祝の側にいた紫蓮の服を掴んで叫ぶ。
「爺様はどうした!」
どうしたと言われても、老人はまだ燃え盛る廃墟の中だ。しかし、そんなことを言えば、莎子は後先を考えない行動を取るのだろう。そんなことが分かっている莎子に本当のことは言えない。
「答えろ!答えろ!!」
紫蓮が何も答えないため、莎子は何度も紫蓮に回答を促した。だが、紫蓮はずっと黙ったままだ。
答えられる訳がない。老人はまだあの中にいるなんて。
だが、莎子もそれ程馬鹿ではない。周りの状況を見て、物事を正確に判断することが出来る。先程の直感も外れているとは思えない。そんな莎子が、廃墟の中に老人がいるということに気付くのに、然程時間は掛からなかった。
「まさか、本当に…?」
自分の考えと直感を信じ、掴んでいた紫蓮の服を放し、廃墟の中に入ろうとした。莎子の考えと行動に即座に反応した紫蓮が、先程消防士にされたように、今度は莎子の前に立ちはだかる。
「駄目だ。莎子。」
紫蓮が莎子に制止の言葉をかける。だが、莎子はそのことに耳を傾けず、確認のためだけに紫蓮に話しかけた。
「…爺様は、この中にいるのか…?」
そこには、今までの強気な莎子とは違い、不安と恐怖に包まれた弱気な莎子の姿があった。今聞くことは、問いかけることは、それしかないというように。そのときの莎子はとても切なく悲しい顔をしていた。莎子にそんな顔をされたら、紫蓮も黙り続ける訳にも行かない。覚悟を決めて、莎子の問いに素直に答える。
「あぁ、まだ出てきていない。」
紫蓮の答えを聞き、自分の前に立ちはだかる紫蓮を煩わしく思ったのか、無理矢理退かせようとしたときだった。誰かの声がその場にいた全員の耳に入る。
「建物が崩れるぞ!」
誰が放ったか分からないその言葉で、その場はとてつもない混乱に陥る。逃げ惑う者、叫び散らす者、と様々だ。一応、野次馬である一般人は、警察によって施された間合いにより崩れても支障のない距離にいるが、紫蓮たちは違う。
紫蓮はこの言葉を聞いて、自分と祝、そして莎子と自分を止めに入った消防士を含む約四人が、崩れそうな廃墟の一番近くにいるのだと直感で認識し、目の前にいた莎子を抱き抱えて前方へ走る。そして近くにいた祝も、消防士もすかさず前方へと走る。しばらく走っていると、後ろから爆音に近い音が大きな音として聞こえて来た。恐らく、燃え盛る廃墟の柱が炎に耐えきれなくなり、崩れた音。走っているときに、廃墟を見ながら遠ざかった莎子だけが、大声を上げ、泣き崩れていた。
「放せ!爺様ッ!爺様ぁ!」
大勢の野次馬はこの莎子の声を正確に聞き取れただろうか。いや、混乱したこの場で、莎子の声が耳に届いた者がいたかどうかというところだろうか。それ程この場は野次馬と廃墟の崩れ去る爆音で乱れきっていた。
その後、無事消防士たちにより火が鎮火され、辺りは静まり返っていた。ただ鉄の焼ける臭いが鼻に付き、警察により野次馬を仕切るロープが立ち入り禁止の黄色いテープに変化し、張り巡らされているだけで、それ以外は何もない、ただの荒地だ。
この火災事件の当事者である紫蓮は、病院に治療を受けに行くことも、警察に任意で事情聴取を受けることもなかった。
「一体どんな手を使ったんだ?紫蓮。」
「…河村。」
かけられた言葉に反応して後ろを振り返るとそこには親友の祝がいて、祝は紫蓮の左横に並んで立った。
事件の翌日の早朝、まだ日も出ていないこんな朝早くに、一人で来たはずの跡地にいつの間にか祝がいて、二人で跡地を眺めていた。どんな手を使ったのか。と聞かれれば、南条の力を使ったと言うしかないだろう。
南条は日本有数の企業で大滝や浅草寺と共に各界ではずば抜けて名を馳せている。南条の名を使えば、大体のことは全て思い通りになる。実際は紫蓮の父が死んでからは紫蓮が南条家の当主であり、学生で未成年だからという理由で紫蓮が傲って来なかっただけで、南条全体を動かすのに紫蓮の一声があれば充分なくらいだ。だが、警察という国家機関は南条の名を使っても骨を折るものがある。そういうときには、少し悔しいが親の七光りを借りるしかない。紫蓮の両親は南条の家業を守りながら探偵をしていた凄腕の強者だ。探偵として警察に依頼され解決した事件も少なくはない。紫蓮は今回の事件で使えるものは全て使ったのだと言える。
祝の問いには、
「警視総監に連絡して『後日、こちらの問題が片付き次第、日を改めて任意の事情聴取に伺います。』と言っただけだ。」
と全てを言わず、軽く流すだけに留めた。たったそれだけで、祝は満足したのか、それとも紫蓮の語らなかった部分をちゃんと理解しているのか、微笑むように笑い、右横にいる紫蓮の首に右腕をかけた。
「珍しいじゃんか。俺の気配に気付かないなんて。」
そう言われると、改めて自分が呆けながら燃えきった廃墟を見ていたのだと思い知らされる。いつもなら半径十メートル以内にいる人の気配には気付くはずなのに、今日は半径十メートル以内どころか、話しかけられるまで気付かなかった。
「何か、吹っ切れたのか?」
吹っ切れた。確かにそうかもしれない。
両親のことを今まで以上によく考え、何かが吹っ切れた気がする。その吹っ切れたものが何なのかと聞かれると困るが、何かは何かだ。
「で、お前は何で、俺がここにいるって分かったんだ?」
笑いながら祝の方を向き、そう問いかけてみる。すると祝は紫蓮の顔をしっかりと見た後、満面の笑みを見せる。
「何でって、決まってるだろ。紫蓮のことだから、」
「何でも分かる。ってか?」
そう先取って言うと、祝は先程より満足げに笑い、ただ一言、
「あぁ。」
とだけ返した。そのときの祝は普段とは違う嬉しそうな顔をしていた。これを機にもう一つ驚かしてやろうと思いついた紫蓮は、祝の喜ぶことを言ってみた。
「…はじめ。」
久しぶりに親友の名前を呼んだ。名前を呼んだのは何年ぶりだろうか。両親が死んでからは人に関わらないようにしていたため、親友の祝すら名前で呼ぶのを止めていたのだ。祝はどんな顔をしているだろうか。見るまでもないだろうけれど、見てみようか。
祝を見てみると、眼をぱちくりとさせていた。予想はしていたけれど。
「…祝。」
紫蓮は再び祝の名を呼ぶ。二度目でやっと実感が湧いたのか、祝は今までにないほどの満面の笑みを紫蓮に向ける。その笑顔に紫蓮も笑顔を返す。
多分紫蓮は、これから親友のことを昔のように〝祝〟と名前で呼ぶのだろう。紫蓮たちのこれからが楽しみだ。
黒のシャツの上に黒の羽織物を着崩し、パンク系のパンツ。胸には赤と黒の蝶つがいのペンダントが光り、右耳にも同じデザインのピアス。左手の中指にも同じデザインの指輪が嵌められている。約束通り、紫蓮は〝一週間後の金曜日〟この場所を訪れた。
廃墟は錆び付いていて、所々大きく欠けている。図体は意外に大きく、数多とある全南条邸総面積の十分の一ほどはある。だが、鉄の錆び付いた臭いと廃墟独特の臭いが鼻を突く。長年雨風に晒されていたせいか、今にも崩れてしまいそうな出で立ちだ。
「ここか…。」
この独特の雰囲気に飲み込まれそうだが、そう言ってもいられない。この場所に来れば両親の〝本当〟の死因が分かるというのだ。自分が知っている両親の死因は焼死。両親は火事の家の人を助けようと見知らぬ家に入り、炎に身体を蝕まれて死んだ。顔も判らないほど焼けていてやっと残った歯で歯形を調べ、両親であることが判った…と、これだけだ。
勿論、こんな理由をそのまま鵜呑みにしていた訳ではない。だからこそ、真実が知りたかった。雨雲がゆっくり北北西に進む中、紫蓮は決意を新たにした。ここは立ち止まるべき場所ではない、と。そして足を進めた。
廃墟の中に入ると外に居たとき以上に錆び付いた鉄の臭いがした。このきつい悪臭のせいで、既に鼻の感覚がない。辺りは見るからに廃墟というに相応しいものだった。この悪天候の中、灯りも点いていないため、廃墟の中は薄暗い。だが、一歩先が見えない訳ではない。最低限分かることもある。廃墟は横にも奥にも広い。高さもそれなりにはある。広く大きい横幅は全てを見渡すのに時間がいるほどだ。見渡してみると、辺りには硝子が割れて落ちているものがあった。よく見ると、その原形はフラスコや試験管のようで、元薬品会社という肩書きは嘘ではないらしい。奥はどこまでも続いている印象があり、先は暗がりの闇に覆われて見えない。ただ、扉があってもおかしくないところに扉はなく、わざと外してあるようにも見えた。柱も錆び付いていて、屋根も黒ずみ、ひび割れもある。外にいるときは気付かなかったが、中に入ると錆びに混じりまた違った異臭がする。薬品の臭いなのか、若しくは故意に放っている臭いなのか。鼻の感覚がないため、錆びと共にする臭いの正体が判らない。
いつも人の行動を観察する紫蓮は、人だけではなく辺りの建物や動植物にまで観察の眼を向けるようになった。その観察力が今、本当に活かされた自分をこんなところに誘った誘い主は何故この場所を指定したのだろうか。こんな廃墟、この地区に住んでいる人でも存在を知らない。そんな廃墟だ。この錆びきった古い廃墟の中に誘い込み、急に落ちて来た屋根の下敷きになれと言う気なのか。得体の知れない奴だ。いきなりそう言い、こちらを動揺させるつもりなのかもしれない。
いろいろと考えていると、前方先五十メートルの地点に人がいるのが見えた。観察力を養っている紫蓮にはそれが〝あの少女〟とは別人だと判別することが出来た。身長百五十センチ前後の痩せ型で浴衣を着ており、杖をついている老人。性別は男。これらのことを瞬時に頭の中に入れ、相手を見極めた。
こいつが莎子の言った爺様…〝黒い蝶〟か…。
そう思ったのも束の間で、紫蓮の予想以上に早く、老人ははっきりと視界に入って来た。老人の歩く歩幅は紫蓮が思っていた老人という枠の中から飛び出すものだったからだ。その老人は紫蓮の前方十メートル地点で止まり、早々に口を開いた。
「待っていたよ。紫の蝶。」
唐突に挨拶をされたが、それは挨拶と呼べるものではなく、紫蓮の不快感を誘うものだ。故意なのか自然に出たものなのかは定かではないが、紫蓮が反撃をするには充分の要素があった。紫蓮は露骨に嫌な顔をして前髪をかき上げながら言った。
「俺は〝紫の蝶〟ではなく〝南条紫蓮〟なんだが。」
この言葉に目の前の老人は紫蓮を嘲笑うかのように返答した。
「勿論分かっている。そしてお前が今日ここに来た理由は、」
「あんたが知っている俺の両親のことを包み隠さず全て話せ。」
老人の言葉を遮ってまで自分でその続きを述べた。
何よりも、自分の両親の秘密を知っているというのが気に入らない。両親は紫蓮にとって数少ない尊敬する存在だった。それに、紫蓮の両親は各界で知られた著名人、そんな両親をこの世から奪い去ったものが憎くて堪らない。
紫蓮に台詞を先読みされた老人は次の言葉を用意していたのか、紫蓮の行動に動じず淡々と話を進めた。
「まぁいい。教えてやろう。」
明らかに紫蓮より優位に立ったように振る舞う。この態度も紫蓮の怒りを逆撫でするのには充分過ぎた。紫蓮は怒りと苛立ちを押さえ切れなかった。
「お前が全て仕組んだことなのか!」
思わず口から出てしまった言葉。だが紫蓮はこの言葉を出したことを後悔はしていないし、むしろもっと言ってやりたいと思っているくらいだ。紫蓮の勢い付いた問いかけに老人はゆっくりと答えた。
「お前の両親を殺したのは儂だ。」
この一言で、老人が放ったたった一言で、紫蓮の思考回路は冷静沈着から素早く〝違うもの〟に切り替わってしまった。こんなことを言われて落ち着いて居られるほど、紫蓮は人間が出来ていない。普段の紫蓮はどこかに消えてしまっている。
そういう状態になることが相手の思う壺だとしても、何気なく放っていた手が拳になる。怒りが全身から溢れ出し、抑えが利かない。もう制御することが出来ない。
「お前が…、お前がっ!」
意味がないと解っていながらも、二人称を何度も続ける。両親を殺した奴が、今、目の前に。抑え切れない感情を無理矢理抑えつけ、獣が吠えるような低い声で言葉を放った。
「理由は何だ…!」
意味もなくだなんて言わせない。言わせるものか。金か、南条家の莫大な財産か。
だが両親が死んだ後、南条家の金が必要以上に動いたことはない。それに腑に落ちないのは両親が死んで四年も経っているということ。死後直後ならともかく、もう四年も経っている。何故今頃になってなのか、その意図が解らない。だが、そんなことに気をかけられるほど、紫蓮は冷静ではない。今にも目の前の老人に殴り掛かるかというときだった。老人が紫蓮の予想外のことを口走った。
「呪われた浴衣の話を聞いたのだろう?」
呪われた浴衣…?河村が言っていた…あの浴衣!
最初はこのことの意味を理解するのに少し時間が掛かった。だが、すぐにそれが祝の言っていた〝赤い蝶の浴衣〟のことだと解り、この話に反応する。
「あの浴衣は呪われた浴衣だ。」
老人がそう言ったのが、頭の中に強く残った。
「浴衣…赤い、蝶の、浴衣…。」
何か、引っ掛かる。何か。何処かで、赤い浴衣を…。
「あ!」
そう思った瞬間、思い出した。
赤い浴衣。あの日、〝赤い蝶〟と名乗った少女、莎子は赤い浴衣を着ていた。そして、莎子は自分のことを〝紫の蝶〟と呼んだ。莎子とこの老人に繋がりがあることは分かっていたはずなのに。そう思ったとき、この場に莎子がいないことに改めて気付く。
「あの娘(こ)は、莎子は!莎子はどうした!?」
大きく叫び散らしたことに老人が深く感心していたのが分かった。そして紫蓮を嘲笑うかのように笑い、紫蓮に言った。
「紫の蝶よ。赤い蝶は自分の名を名乗ったのか?」
その言葉の意味は聞かなくても分かる。この老人は紫蓮の両親が本業と共に探偵も兼業していたことを知っているのだ。
紫蓮の両親が初めて出会ったのは探偵としての会合があるときだったらしい。既に祖父の息子として各界に知られていた父は、各界の南条の仕事を必要以上にこなし、探偵業もしていた。南条という家の肩書きを捨ててでも探偵をしたいから。と祖父を説得したらしい。そして同じ探偵業をしていた母と出会い、結ばれたのだと聞いた。両親が探偵をしていたという事実から、紫蓮は探偵の心得を持っていて、尚且つ、探偵の知り合いもいる。
そのため、〝赤い蝶〟から莎子を導き出したのか。という意味だったのだ。
だが、そんなことはしていない。明らかに情報不足だったからだ。その事実を隠すつもりはなかったが、老人はそのことを先読みしていたらしく、含んだ笑みを見せていた。
「まあ、いくら南条でも情報が少な過ぎたか。」
最早、少な過ぎたという問題ではない。手掛かりすらないのだ。探せる訳がない。老人とのやり取りで、紫蓮の中に冷静ないつもの紫蓮が少しずつ戻って来る。
「…何が言いたい。」
そう凄みを利かせて言うと、老人はそれを軽く受け流した。やはり亀の甲より年の甲というだけあって、かなりの山場を乗り越えて来たのか、人生のいろはも知らない子供一人の凄みなど恐るるに足らん。と思っているのだろう。
「何でもないさ。」
と軽く嘲笑った。老人はそう言ったが、紫蓮にはとてもそうだとは思えない。すると老人は紫蓮の様子を観察し、言葉を放つ。
「莎子が着ているのは正真正銘、呪われた赤い蝶の浴衣だ。」
この言葉を聞いた紫蓮は莎子と初めて会ったとき、莎子が赤い浴衣を着ていたことを再度思い出した。あのときは夜で辺りも暗く、蝶の模様が判別出来なかったため、蝶の浴衣だとは知らなかった。あの呪われた浴衣。情報屋の祝ですら現在所在が分からないという浴衣を莎子が着ている。恐らく、莎子が着ている浴衣を留めている黒い帯も噂の黒い帯なのだろう。
ふと老人を見ると、先程からは想像もつかない悲しげな顔をしていた。そのときは何が理由なのか分からなかったが、その後すぐに聞いたあの言葉が真実なのだろう。とても悲しそうな顔の理由は。
「儂の息子が作った…な。」
「息子…?」
紫蓮が問いかけると、老人は一度紫蓮を睨むように見た後、静かに口を開いた。
「お前は南条の息子だ。全てを話してやろう。」
そう言い、老人は赤い蝶の浴衣のことを話した。まるで祖父母が孫に聞かせる、昔話のように。
赤い蝶の浴衣を作った浴衣職人は〝黒い蝶〟と名乗る老人の一人息子だった。
老人は息子が貴金属業者の娘と婚約し、結婚するのを心待ちにしていた。
だが、婚約者の女性が強盗の人質になり、理不尽な最期を迎えてしまった。そのため、浴衣職人である息子は怒り狂い、彼女との思い出が深く残った赤と黒の蝶を象った浴衣を作った。
何故、赤と黒の蝶なのか、それは彼女が貴金属を扱う職人として。初めて自分で造った貴金属の品が〝赤と黒の蝶〟というものだったからだ。まだ試作品でこの世にひとつしかないもので、彼女がその試作品を浴衣職人に見せた後、何者かに盗まれたのだという。
そのことから、本当は結婚したら自分用の黒の蝶の浴衣と彼女用の赤い蝶の浴衣を作り、二人で縁日に出掛けようと思う。と語っていたのだ。だが、婚約者である彼女が死んでしまい、生きる希望を失った浴衣職人は、彼女が死んでから想いを繋ぎ留めるために赤い蝶の浴衣を必死に作った。彼女が着るように。と。そのため、浴衣職人が死に浴衣が人手に渡ると、怨念が染み込んだ浴衣は災いを呼んだ。
その後、いろんなところを回った浴衣は、所有してから一ヶ月以内に持ち主を呪い殺す浴衣として有名になり、その直後行方が分からなくなっていた。
話を一通り聞き終わり、謎は全て解けたかのように見えた。だが紫蓮にはまだ解せないことがあった。深く考え込み、使える頭を精いっぱい回転させ、ゆっくりと言葉を放つ。
「まだ解らないことがある。何故着た者が次々死ぬ中、莎子は死なないのか。まさかまだ一ヶ月未満だからという訳じゃないだろう。それともう一つ、浴衣職人が自分の作品に付けるという印、あれは複製出来ない物だと聞いた。それは何故だ。」
紫蓮は少しの間も空けず、素早く疑問を突き付けたが、紫蓮のこの問いに老人はゆっくりと重い口を開く。
「複製が出来ないのは、血がついているからだ。」
老人のこの言葉に紫蓮は驚きを隠せなかった。血がどうした。という顔をしている。すると老人は続けてこう言った。
「印は、白い布を自分の血で染め、そこにサインの刺繍をし、それを作品に縫い付けていたのだ。」
血…血は世界中にいる全ての生物が違う血を持っている。同じ血を持つ者は居ない。その例外となるのは双子や三つ子といった、産まれながらに持つ自然型クローンだけとなる。そのただ一つの例外である自然型クローンがいなければ複製は不可能だ。
「DNA鑑定をすれば一発で判るということか。」
結論に達し、自分で口に出して言った後、今度は納得の意を表した。
「なるほど。DNAばっかりは誤魔化せないからな。」
血液系の遺伝子だけではなく染色体や身体全体に関わってくることだ。現在の最先端の技術を要しても誤魔化すことは出来ないだろう。だが、浴衣の件が分かっても、莎子が死なない理由はまだ分かっていない。紫蓮は放っていた手を上げ、腕を組む。
「じゃあ、莎子の件は。」
莎子の件が分からなければ、この話に終結はない。老人は返答を止まり、すぐに答えを表に出さなかった。だが、今更隠すこともないと思ったのか、溜め息混じりに言う。
「…莎子は息子の婚約者の妹だ。」
この発言に紫蓮は息を飲んだ。
息子の婚約者の―――。
「妹…!」
紫蓮の驚きとは裏腹に、老人は事情聴取の決定打を見せ付けたかのように言った。
「あの浴衣は彼女と同じ血が流れている莎子には、全く拒絶反応を起こさない。」
一拍置いて、核心を突く発言をする。
「そのため、莎子が死ぬことはない。…現に莎子は一ヶ月以上あの浴衣を着ているが死なない。」
そして、現在状況を含め結論付ける。だが、紫蓮にはまだ納得出来ないことばかりが残る。組んでいた腕を組み直し頭の中を整理する。
「…その話が全て本当だとしよう。じゃあ疑問が残らないか?」
頭の中を整理した結果、このことに気がついた。
「莎子はどうしてあんたと行動を共にしている。姉が死のうが生きようが両親と一緒に暮らせばいいことだろ。」
この老人と一緒にいる意味はない。況してや、姉が死んだショックで余計に両親を求めたりするものだ。そのことを突いてみると、老人は思いがけないことを口走った。
「莎子の両親は莎子が十のときに死んでいる。…莎子は姉である彼女と二人で暮らしていたのだ。」
数秒という間を空け、次の言葉を出したとき、紫蓮は莎子との繋がりを感じた。
両親が居ない。残されたのは自分だけ。
紫蓮の側には千代がいて、莎子の側にはこの老人がいたが、それでも埋められない悲しさや寂しさがあるものだ。紫蓮は元々一人っ子で兄弟が居ない寂しさがあり、莎子は莎子で姉妹として姉がいたにも関わらず、急に死んだ寂しさがある。
そう思っているときに、老人の顔付きが変わってきたのが分かった。顔だけではなく、眼までもが、何か夥しいものを感じさせる。何か、良くないものが来る。探偵をしていた両親の元で育ったためか、洞察力には優れている紫蓮だからこそ、分かった感覚かもしれない。老人が紫蓮を睨みつける。その眼は如何にも人を一人殺したような、恐ろしく冷たい眼をしている。
「そして、その彼女の試作品を盗んだのが、お前の両親だ。」
老人が放ったこの一言に動揺が隠せなかった。嘘だという可能性も充分にある。老人の言葉が全て真実とは限らない。だが、面と向かってそう断言されると、流石に苦しいものがある。頭の中で老人に言われたことが木霊する。
そして、口から飛び出した言葉は、老人の放った言葉を自分の立場に置き換えたものだった。
「俺の両親…!」
この言葉を聞いた老人は、ここぞとばかりに紫蓮を攻め立てる。鬼の形相で紫蓮を見ては、怒りをオーラとして醸し出している。
「そして、今、お前が身に着けているそれが彼女の造った試作品〝赤と黒の蝶〟だ。」
この言葉に紫蓮が今まで以上の反応を示す。
先程両親が盗んだと言われたものは、息子の婚約者が造ったという作品は、両親の遺品として、財産の一部として相続した、この赤と黒の蝶だったのか。つがいの赤と黒の蝶のピアスに、ペンダント、そして指輪。この蝶たちが。
そう思い、胸の前で組んでいた腕を自由にし、左手を目の前に持って来て、中指に嵌めてある指輪を見つめる。そして右手は右耳にしているピアスに触れさせる。そして改めて実感するのだ。
「赤…と、黒、の…、―――蝶…!」
この蝶たちが、赤と黒の蝶だということを。
この蝶たちが、両親の物だったということを。
この蝶たちが…―――!
パニックになりながら、身に着けている蝶たちを眺めていると、妙な感覚に襲われた。その感覚を感じたのは直感だったが、自分の直感には自信がある。探偵をしていた両親に鍛えられた直感だ。外れる訳がない。と。
その瞬間、老人が着ていた着物から即座にナイフを取り出した。本数は三本。そう認識した直後、老人は勢いよく振りかぶった。
「紫の蝶。その蝶たち、返してもらうぞ!」
そして紫蓮に向けて振りかぶったナイフを投げた。紫蓮は咄嗟の判断でその三本のナイフを避け、後方に飛び逃げる。老人が投げた三本の内、一本は捨て駒で最初から紫蓮に当たるはずがないものだったが、あとの二本は違った。その内の一本は確実に紫蓮の身体、心臓を狙っていた。そしてあとの一本は紫蓮の足を。
老人は若い頃にスポーツをしていたのか、咄嗟の判断で避ける力と両親に鍛えられた直感、そしてずば抜けた運動神経、この中の一つでも紫蓮に欠けていたら、紫蓮は負傷していただろうというほど、正確な投げ口だった。すぐに後退し、身を守った紫蓮だが、予期していなかったいきなりの事態に戸惑い気味だ。
だが、先方は紫蓮の気持ちなど考えてはくれない。すぐさま体制を立て直したそのとき、老人の叫ぶような声がこの広い廃墟に響き渡った。
「紫の蝶を殺せ!」
このとき、再び紫蓮を只ならぬ妙な感覚が襲った。それは、両親から何度も教わった、殺気立った気配。誰かが殺気を持ちながら自分を見ている。そんな気配がした。そして、先程の老人の叫ぶような言葉から一秒も経たないうちに、違う言葉が紫蓮の耳に入り込んで来た。
「莎子!」
この言葉に、必死に感覚と。両親に教え込まれた技術の部屋にいた紫蓮は一気に我に返ることとなった。最初に老人が出て来たこの部屋の向こう側とこの部屋との境界線に、殺気を立てた莎子が俯き、右手にはナイフを持ち紫蓮に姿を見せる。長い黒髪に赤い蝶の浴衣。莎子の身体は赤と黒で埋め尽くされている。部屋と部屋の境界線に立っているのが莎子であることを認識するのに、大して時間は掛からなかった。
「莎子…。」
紫蓮がそう呟くと、莎子は少しの反応を見せた。長い黒髪が廃墟の中に通る風で揺れている。すると莎子は俯いたまま一言呟いた。
「久しぶりだな。」
そして、俯いていた顔を上げ、紫蓮をじっと睨み、囁くような小さな声で言った。
「紫の蝶。」
それだけ言うと、莎子は紫蓮に向けて一直線に走り、ナイフの刃先を紫蓮の顔へ向けた。紫蓮はそんな莎子の攻撃を交わしながら後ろへ向けて後退りする。莎子は無差別に紫蓮を攻撃して、紫蓮の髪の毛先を切り落とし、服を切り裂いてゆく。莎子の無差別な攻撃に上手く対応して身は守っているものの、いつ怪我をしてもおかしくはない状態まで来ている。持久戦になれば、圧倒的に紫蓮の方が不利になる。ただでさえ、莎子はナイフを持っているが、紫蓮は身一つだけ。この状況でも圧倒的に不利なのは紫蓮の方だ。莎子の無差別攻撃を避けながら、余裕のない状態でも紫蓮は莎子に叫ぶ。
「止めろ!莎子!」
だが、その呼びかけが通じる相手ではない。莎子は今、紫の蝶を殺す。ということしか頭にない。それ以外のことが考えられないのだろう。莎子の眼は真剣そのもので、その眼にまで殺気が漂っていた。やっと口が開いたかと思えば言うことはたった一つ。
「死ね!紫の蝶!」
そう言う莎子を何とかするには、気を失わせて戦闘能力を無くさせるのが一番良い方法なのだが、紫蓮には莎子に手を出したくないがために逃げるだけの戦法しかない。だが、紫蓮はこのとき、莎子と戦いながらもある状況の変化に気付いた。
老人がいない。先程まで自分と話をしていた老人が、この場にいない。それと同時に老人と莎子が出て来た奥の部屋から先程までは感じなかった異臭がする。この独特な鼻につく臭いは、――――――!!
「ガソリン!」
異臭の正体が分かった紫蓮は思わずそう叫ぶ。これで老人の考えていることが解った。あの老人はこの錆びきった廃墟に大量のガソリンを撒き散らし、火を放つつもりなのだ。莎子を道連れにしてまで、紫蓮と心中する気なのだと。そんなこと、させる訳にはいかない。況してや自分たちだけならまだしも、莎子まで道連れにするなんて。そう考えているうちに老人はポリタンクを持ち、再び紫蓮と莎子のいるこの部屋に戻って来た。そしてポリタンクの中身を部屋中にぶち撒けていく。
「おい!止めろッ!」
莎子の無差別攻撃を交わしつつ、老人に向けて声を張り上げたが、老人は紫蓮の声が聞こえているにも関わらず、ポリタンクに入ったガソリンを部屋に撒くことを止めはしない。人の声が耳に入らない屍人形のように、ポリタンクを逆さにし、部屋中を駆け摺り回る。
「止めろっつってんだろーがっ!おい!」
言葉遣いが荒くなりつつも必至にそう叫び続ける紫蓮だが、老人に紫蓮の声は届かず、老人はこの状況の最も、最悪なパターンを選ぼうとしていた。
部屋中に撒き尽くしたガソリンの上で、老人は浴衣の袂からマッチ箱を取り出し、その箱の中からマッチを一本取り出す。そしてマッチ箱の背中でマッチを擦る。紫蓮が莎子の対応に追われ、莎子の相手をしているうちにここまでの作業が済んでいて、次に紫蓮が老人を見たとき、既にマッチの先には火が点いていた。この瞬間、紫蓮は全てを理解し、老人に向けて叫ぶ。
「止めろぉーッッ!!」
紫蓮のその言葉と共に、老人は火の点いたマッチをガソリンでいっぱいになった廃墟の床に落とした。
一瞬の出来事だった。
廃墟は一気に燃え上がり、辺り一面を火の海と化す程の燃え上がり方をする。南条邸の総面積の十分の一程ある、錆びきったこの廃墟を丸々燃やし尽くすのに一時間もかからないのではないか。と思える程の炎。
火を点けた張本人である老人は、壊れた人形のように大声で笑い、我を失っていた。最早、自分が何をしたのかも分からないのだろう。ただ燃え上がる炎の中、不気味に笑い続けている。
そしてこの炎の中でも莎子は紫蓮を狙い続ける。ナイフを振り乱しては至るところを切り裂いてゆくのだ。ただ、紫蓮がバランス良く避けているため、未だ致命傷となる大きな怪我や傷はなく、服と共に切り裂かれた肌が数多く存在し、赤く毒々しい血が流れるだけだ。無差別に振りかざす莎子の刃を掻い潜り、多くても切創(きりきず)だけで済むのは日頃訓練受けてきた紫蓮だからだろう。だが、炎が建物をどんどん蝕んでいくため、錆びきった廃墟はいつ崩壊するか分からない。それに燃え盛る炎の中では酸素も限られてくる。早くこの場から逃げないと、一酸化炭素中毒で死ぬという笑えない死に方をすることになるかも知れない。炎に蝕まれて死ぬなど、両親と一緒だ。考えたくはないが、紫蓮の頭にそのことがよぎる。
いち早くこの場から逃げようとするが、莎子はこの場から逃げるよりも紫蓮を殺すことに全神経を集中させている。そのせいか、上手く逃げられない。廃墟の角の方まで逃げるとフラスコや試験管の割れた硝子が落ちている。
「ちっ!」
この危険な廃墟に思わず舌打ちが出る。早くこの場を何とかしたい紫蓮だが、莎子の止まぬ攻撃に顔を歪めるばかりだ。角に行ったのは少しでも休息をするため。角を使って一定の距離感が生まれれば、それこそ攻撃がしにくくなる。そして紫蓮の思い通り、莎子は一定の距離感を持ち立ち止まった。二人が向かい合う。炎が燃え上がり、徐々に酸素が少なくなる。そうなると殺される前に死んでしまう。この状況を何とかするためには、紫蓮がどうしてもしたくなかったことをしなくてはならない。どうしてもしたくなかったが、覚悟を決めた。
「莎子!」
息を精いっぱい吸い込み大声で莎子の名を呼ぶ。莎子は呼ばれたことにより改めて紫蓮を殺すことに集中する。だが、莎子が全神経を紫蓮に集中させることよりも早く、紫蓮が莎子との間合いを縮め、莎子の腹部を拳で殴る。
「う…!」
莎子の呻き声が小さく聞こえ、そのまま莎子は眼を閉じた。そして力の抜けた莎子の身体を紫蓮が優しく包み込むように抱き、出口へと急ぐ。段々と呼吸がし難くなり苦しい。これは早くしないと本当に死にかねない。出口に向かい、廃墟から出ようとしたそのとき、後方から声が聞こえた。
「紫の蝶!」
その声は明らかに老人のもので紫蓮が振り返ると壊れたかのように叫び散らした。
「お前はここで死ぬのだ!」
だが、こんな所で死ぬ気もなければこの老人の言う通りにする気もない。莎子を抱えながら燃え盛る炎の中、紫蓮は老人に向けて、どうしても言いたかったことを言おうと思った。
紫蓮は狂いかけている老人に、冷たく鋭い眼を突きつけ、言葉を放った。
「俺の両親はあんたの思ってるような卑怯な人間じゃないんだ。」
そして、早く逃げた方がいい。とも言い残して燃え盛る廃墟を後にした。
苦しながらもやっとのことで廃墟を出ると、炎とは違った赤い消防車が見えた。そして、警察とロープで仕切られた向こう側には多くの人だかり。その人だかりの中に親友の河村祝の姿がある。祝は廃墟から出て来た紫蓮を確認すると、大声を上げて警察の制止を突っ切り紫蓮の元へ駆け寄った。
「紫蓮!!」
「河村…。」
名を呼んだと同時に紫蓮は地面に膝を付く。そして莎子をゆっくりと地面に寝かせる。再度息の切れた声で祝を呼ぶと、祝は心配の色と安心の色を見せた。そして紫蓮が抱き抱えている莎子に眼が行く。
「…紫蓮、この娘(こ)は…。」
紫蓮が知らない女の子をこの炎の中、どういう経緯で運んで来たのか、また、どうして女の子と一緒にこんな廃墟にいたのか、疑問は尽きない。だが、紫蓮は祝の多々ある疑問に答えることなく、着ていた上着を脱ぎ始めた。
「気絶しているだけだ。すぐに気が付く。」
紫蓮が上着を脱いでいるのを見ると、祝は急に何かを察したのか、勢いよく紫蓮の腕を掴む。
「紫蓮!まさか、中に入る気じゃないだろうな!?」
祝の言葉に違いはない。紫蓮はもう一度中に入るつもりだったのだ。あの老人を連れ出すために。廃墟にガソリンを撒き、火を放った張本人だが、まだ分からないことがある。自分の両親のことを悪く思われたまま死なせる訳には行かない。そう思い、あぁ、行く。とだけ返し、燃え盛る炎の元である廃墟に再び入ろうとしたが、すぐに制止の言葉が掛かった。廃墟に入ることを止めたのは、祝ではなくその場に来ていた消防士だった。
「君!何を言っているんだ!こんな火の海に行こうなんて!」
一般常識からいって、そう言う人の方が多いだろう。こんな炎の中に戻るなんて正気の沙汰とは思えない。
「今、救急車を呼ぶから、君もその娘(こ)も。」
消防士は紫蓮を見ていた眼を斜め下に持っていき、〝その娘(こ)〟に眼を移した。
その娘(こ)というのは地面に横たわっている莎子のことだ。莎子は紫蓮が気絶させたため、意識はないがどこも怪我はしていない。寧ろ莎子の無差別攻撃を受けて怪我をしているのは紫蓮の方なのだ。致命的な傷はないが、かなりの量の切創(せっそう)があり、血が出ているものもが数多くある。
だが、紫蓮の意思は変わらない。早く中に行かないと助からないかもしれない。況してやあの老人は正気を失っていた。あのままこの廃墟の中では焼死してしまう可能性も捨てきれない。
「中にまだ人がいるんだ!行かないと…!」
紫蓮がそう言い、廃墟を見上げると、消防士は紫蓮の前に立ちはだかった。
「駄目だ!中に入ることは許さない!」
「でも中に!中に人がいるんだ!」
「もうすぐ突入班が助けに行く!それまで待て!」
この言い争いの声で、紫蓮に腹部を殴られ気絶していた莎子が眼を覚ます。それに最初に気付いたのは祝だった。そしてすぐさま紫蓮に報告する。
「紫蓮!この娘(こ)が…。」
莎子が眼を覚ましたのを確認すると、寝ている体制から起き上がろうとした莎子の側に行き、莎子の様子を伺う。
「莎子、大丈夫か。」
「お前は…。」
紫蓮の姿を見た莎子は一言呟くと、自分の置かれている立場と状況が飲み込めたのか、燃え盛る廃墟を見上げて大声を上げた。
「爺様!」
その後辺りを見渡すが、老人の姿はない。このとき、すぐに莎子の直感がものを云った。
「まさか…!」
そう言い、近くにいた初対面の祝には眼もくれず、祝の側にいた紫蓮の服を掴んで叫ぶ。
「爺様はどうした!」
どうしたと言われても、老人はまだ燃え盛る廃墟の中だ。しかし、そんなことを言えば、莎子は後先を考えない行動を取るのだろう。そんなことが分かっている莎子に本当のことは言えない。
「答えろ!答えろ!!」
紫蓮が何も答えないため、莎子は何度も紫蓮に回答を促した。だが、紫蓮はずっと黙ったままだ。
答えられる訳がない。老人はまだあの中にいるなんて。
だが、莎子もそれ程馬鹿ではない。周りの状況を見て、物事を正確に判断することが出来る。先程の直感も外れているとは思えない。そんな莎子が、廃墟の中に老人がいるということに気付くのに、然程時間は掛からなかった。
「まさか、本当に…?」
自分の考えと直感を信じ、掴んでいた紫蓮の服を放し、廃墟の中に入ろうとした。莎子の考えと行動に即座に反応した紫蓮が、先程消防士にされたように、今度は莎子の前に立ちはだかる。
「駄目だ。莎子。」
紫蓮が莎子に制止の言葉をかける。だが、莎子はそのことに耳を傾けず、確認のためだけに紫蓮に話しかけた。
「…爺様は、この中にいるのか…?」
そこには、今までの強気な莎子とは違い、不安と恐怖に包まれた弱気な莎子の姿があった。今聞くことは、問いかけることは、それしかないというように。そのときの莎子はとても切なく悲しい顔をしていた。莎子にそんな顔をされたら、紫蓮も黙り続ける訳にも行かない。覚悟を決めて、莎子の問いに素直に答える。
「あぁ、まだ出てきていない。」
紫蓮の答えを聞き、自分の前に立ちはだかる紫蓮を煩わしく思ったのか、無理矢理退かせようとしたときだった。誰かの声がその場にいた全員の耳に入る。
「建物が崩れるぞ!」
誰が放ったか分からないその言葉で、その場はとてつもない混乱に陥る。逃げ惑う者、叫び散らす者、と様々だ。一応、野次馬である一般人は、警察によって施された間合いにより崩れても支障のない距離にいるが、紫蓮たちは違う。
紫蓮はこの言葉を聞いて、自分と祝、そして莎子と自分を止めに入った消防士を含む約四人が、崩れそうな廃墟の一番近くにいるのだと直感で認識し、目の前にいた莎子を抱き抱えて前方へ走る。そして近くにいた祝も、消防士もすかさず前方へと走る。しばらく走っていると、後ろから爆音に近い音が大きな音として聞こえて来た。恐らく、燃え盛る廃墟の柱が炎に耐えきれなくなり、崩れた音。走っているときに、廃墟を見ながら遠ざかった莎子だけが、大声を上げ、泣き崩れていた。
「放せ!爺様ッ!爺様ぁ!」
大勢の野次馬はこの莎子の声を正確に聞き取れただろうか。いや、混乱したこの場で、莎子の声が耳に届いた者がいたかどうかというところだろうか。それ程この場は野次馬と廃墟の崩れ去る爆音で乱れきっていた。
その後、無事消防士たちにより火が鎮火され、辺りは静まり返っていた。ただ鉄の焼ける臭いが鼻に付き、警察により野次馬を仕切るロープが立ち入り禁止の黄色いテープに変化し、張り巡らされているだけで、それ以外は何もない、ただの荒地だ。
この火災事件の当事者である紫蓮は、病院に治療を受けに行くことも、警察に任意で事情聴取を受けることもなかった。
「一体どんな手を使ったんだ?紫蓮。」
「…河村。」
かけられた言葉に反応して後ろを振り返るとそこには親友の祝がいて、祝は紫蓮の左横に並んで立った。
事件の翌日の早朝、まだ日も出ていないこんな朝早くに、一人で来たはずの跡地にいつの間にか祝がいて、二人で跡地を眺めていた。どんな手を使ったのか。と聞かれれば、南条の力を使ったと言うしかないだろう。
南条は日本有数の企業で大滝や浅草寺と共に各界ではずば抜けて名を馳せている。南条の名を使えば、大体のことは全て思い通りになる。実際は紫蓮の父が死んでからは紫蓮が南条家の当主であり、学生で未成年だからという理由で紫蓮が傲って来なかっただけで、南条全体を動かすのに紫蓮の一声があれば充分なくらいだ。だが、警察という国家機関は南条の名を使っても骨を折るものがある。そういうときには、少し悔しいが親の七光りを借りるしかない。紫蓮の両親は南条の家業を守りながら探偵をしていた凄腕の強者だ。探偵として警察に依頼され解決した事件も少なくはない。紫蓮は今回の事件で使えるものは全て使ったのだと言える。
祝の問いには、
「警視総監に連絡して『後日、こちらの問題が片付き次第、日を改めて任意の事情聴取に伺います。』と言っただけだ。」
と全てを言わず、軽く流すだけに留めた。たったそれだけで、祝は満足したのか、それとも紫蓮の語らなかった部分をちゃんと理解しているのか、微笑むように笑い、右横にいる紫蓮の首に右腕をかけた。
「珍しいじゃんか。俺の気配に気付かないなんて。」
そう言われると、改めて自分が呆けながら燃えきった廃墟を見ていたのだと思い知らされる。いつもなら半径十メートル以内にいる人の気配には気付くはずなのに、今日は半径十メートル以内どころか、話しかけられるまで気付かなかった。
「何か、吹っ切れたのか?」
吹っ切れた。確かにそうかもしれない。
両親のことを今まで以上によく考え、何かが吹っ切れた気がする。その吹っ切れたものが何なのかと聞かれると困るが、何かは何かだ。
「で、お前は何で、俺がここにいるって分かったんだ?」
笑いながら祝の方を向き、そう問いかけてみる。すると祝は紫蓮の顔をしっかりと見た後、満面の笑みを見せる。
「何でって、決まってるだろ。紫蓮のことだから、」
「何でも分かる。ってか?」
そう先取って言うと、祝は先程より満足げに笑い、ただ一言、
「あぁ。」
とだけ返した。そのときの祝は普段とは違う嬉しそうな顔をしていた。これを機にもう一つ驚かしてやろうと思いついた紫蓮は、祝の喜ぶことを言ってみた。
「…はじめ。」
久しぶりに親友の名前を呼んだ。名前を呼んだのは何年ぶりだろうか。両親が死んでからは人に関わらないようにしていたため、親友の祝すら名前で呼ぶのを止めていたのだ。祝はどんな顔をしているだろうか。見るまでもないだろうけれど、見てみようか。
祝を見てみると、眼をぱちくりとさせていた。予想はしていたけれど。
「…祝。」
紫蓮は再び祝の名を呼ぶ。二度目でやっと実感が湧いたのか、祝は今までにないほどの満面の笑みを紫蓮に向ける。その笑顔に紫蓮も笑顔を返す。
多分紫蓮は、これから親友のことを昔のように〝祝〟と名前で呼ぶのだろう。紫蓮たちのこれからが楽しみだ。