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2026/04/04 23:04 |
赤と黒の蝶  其の玖 莎子 【外伝】
青空が綺麗な五月の中旬、清々しく風が吹き、とても心地がいいある晴れた日。
莎子が紫蓮と祝の通う学園に転校してから、一週間が経ったとされるとき。やっと莎子も学園生活に慣れ初めてきて、物事が順調に進むはずだったある日。昼休みに莎子が教室内の机に落ち着いているとクラスの女子が数名莎子に声をかけてきた。
「南条さん。南条莎子さん。ちょっといいかしら。」
呼ばれて顔を上げると、腕を組み、明らかにプライドが高そうな女子が莎子を睨み付けている。
どれも企業の社長令嬢やその系統の者。
莎子が〝南条〟の姓で呼ばれたのは、莎子自身が紫蓮に本名を聞かれたときに答えなかったからだ。本名の姓より〝南条〟がいいんだ。学校に通うなら〝南条〟で通いたいんだ。と言い張ったのは他ならぬ莎子だ。紫蓮も清芳も莎子がそこまでいうのなら、と〝南条〟で通うことを許した。そのため、学校や自己紹介の時でさえ、莎子は〝南条〟を使う。だが、それを快く思わないのは一人や二人ではなかった。
名を呼ばれて対応すると、複数の女子に半ば強制的に校舎裏に連れて行かれ、壁を背にして中心に莎子、その回りに半円を描くように女子に囲まれた。回りは一流の学園とは思えない程、草が茂っていて、声を上げても気付いてもらえないような、典型的な校舎裏という感じがした。
いつもならば紫蓮や祝と一緒にいる莎子だが、今日は偶然、紫蓮には学年主任からの頼み事、祝には担任からの頼み事があり二人が同時に莎子から離れることを余儀なくされた。学年トップクラスの成績を持つ二人は度々こういう名目で借り出されることがある。今日は莎子が転校して来てから初めてのそういう日だったのだ。
それを見計らってか、女子たちは紫蓮と祝が傍にいない今の時間帯を狙ったのだろう。一番威張っているのは女子の中でも真ん中にいるリーダーのような女子。
「あなた、南条くんとどういった関係なの?」
聞かれたのはやはり紫蓮関係のこと。出逢った当初は分からなかったことだが、学校に来てみれば一発で分かった。紫蓮が校内でも知らない者がいないくらい有名人だということが。だとしたら、呼び出された原因は分かっている。
莎子が何も答えず黙っているのを見て、数名の女子の中の中心にいると思われる女子が痺れを切らせて先の言葉を放つ。
「親戚ではないようだけど、名字が同じなのは気になるし、何より気になるのが、あなたが南条くんを名前で呼んでることよ。」
この学園に通っているのはいずれもある程度の資産家の子息ばかり。勿論長年の付き合いなどで莎子が南条の者でないこと位分かっているのだろう。仮にもし南条の者だったなら、この年になるまで一族が放っておく訳がない。南条の者がこの学園に通っていないなどありえないことだからだ。
「南条くんもあなたのことを名前で呼んでいるし。」
「南条くんを名前で呼ぶのは、校内でも河村くんだけなのよ。」
「親戚ならともかく、個人的に親しくされるのはかなり不愉快よ。」
最初の発言につられてその他の女子も言葉を切りながら言いたいことを言う。だが、莎子には何も言えない。言い返すことが出来ない。莎子は紫蓮と親戚ではないし、つい最近出逢ったばかりだ。それもまだ一ヶ月くらいしか経っていない。付き合いでいえば、相手の方が長いだろう。紫蓮がどう思っているのかは分からないが。だから、何も言えない。だが、ずっと黙っている訳にもいかない。何か言わなければ、そう思った莎子は腹の奥から声を出す。
「………あたしは…。」

「紫蓮っ!」
学校の教室前の廊下、祝は前方に見えた親友の紫蓮を叫び呼んだ。それに気付いた紫蓮は教室に入るのを止め、茶髪を振り乱しながら物凄い速さで向かって来る祝に言った。
「祝…何だよ、そんなに慌てて。」
自分のところまで勢いよく駆け込んで来た、親友の祝を見てそう捨てたが、あまりにも慌てている姿を見たときは驚いたものだ。祝が慌てるところなど、最近は見ていない。そして、何があったのかと思えば、衝撃的な言葉が祝の口から飛び出して来た。
「さ、莎子チャンがクラスの女子数名に絡まれてるって…。」
「――――――!」
莎子…!
莎子に関係があることだと分かった紫蓮は、その瞬間眼の色を変えた。それに即座に気付いた祝は状況を分かる限り紫蓮に伝える。
「多分、お前の取り巻きやファンの奴等だと…。」
自分のファンの仕業だと聞いた瞬間、紫蓮は自分を恨んだ。自分のことで莎子に被害が及ぶなんて、一番紫蓮が嫌なことだ。況してやファンなんて自ら望んだ訳でもない。勝手に出来た存在に莎子が嫌な思いをしていることは聞かずとも分かる。
「場所は!?いつだ!」
場所は何処なのか。それはいつの話なのか。乱暴な聞き方だったが、理性が感情を抑えるということをしてくれなかった。祝はそんな紫蓮のことをちゃんと理解しているため、聞かれたと同時に、また、即座に答える。
「場所は校舎裏で、教室を出てからまだ五分くらいしか経ってない。」
校舎裏―――。
特別、用がなければ誰も立ち入らないところだ。誰かが偶然莎子たちを見つけて対処してくれているという可能性はほぼゼロパーセントに近い。教室から校舎裏までは歩いて三分とちょっと。まだ校舎裏について間もないくらいだろう。紫蓮はちっ、と舌打ちをした後、
「莎子の所に行って来る!」
と、祝に叫ぶように告げて廊下を走る。それを見聞きしていた祝は、何も言わず走り去って行く紫蓮を見送る。
「相変わらず速えーな。」
紫蓮の足の速さは幼少のころからの両親の教育の賜物だと知っている祝は、改めて思い知らされたと言うが如く、茶色の髪をかき上げ、呟く。そして茶色の髪をかき上げながらも、制服のポケットからメモ帳を取り出す。
「さて、こっちはこっちで進めるとするか。」
そう言い、教室の中へと入った。

「………あたしは…。」
あたしは、紫蓮の何…?
紫蓮の何かなんて考えても分からない。紫蓮に何か言われた訳じゃない。紫蓮の気持ちを確かめたことなんて一度もない。そんな資格が自分にあるのかも分からない。戸惑いながらも腹から声を出すと、次の言葉が出て来る気がした。でも、言葉なんか出て来ない。どうすればいいのか、分からない。
「莎子っ!」
その瞬間、耳に入った声に心が疼いたのが分かった。声のする方を見ると、そこには走って来たことが分かる紫蓮の姿。紫蓮の姿を見た女子たちは、咋(あからさま)に驚いた表情をする。
「な、南条くん!」
女子が紫蓮を呼んだが、紫蓮には聞こえていない。紫蓮はその場にいた莎子のみを視界に入れ、莎子に近付く。それを見た莎子は、やっと口から言葉が出て、それは他ならぬ紫蓮の名だった。
「…し、紫蓮…。」
莎子の声を聞き、少し安心した紫蓮だが、完全に不安が消えた訳ではない。
「莎子!大丈夫か!?」
そう声をかけると莎子は
「…うん。」
とだけ言った。それを聞いて、やっと安心することが出来る。
「そうか。」
莎子に向けて柔らかな声で言葉を出したが、莎子をこんなところへ連れ出した他の女子たちへの怒りは収まらない。
「…で、お前等、莎子に何した訳?」
先程まで莎子にかけていた声とは全く違う、鋭くきつい声で女子たちに言葉を捨てる。女子たちを睨み付け、今にも手を上げそうな態度だ。女子たちは紫蓮のその声と視線の鋭さに狼狽える。
「あ…いや…その…。」
「何したんだよ。ほら、言ってみろよ。」
恍(とぼ)けようとする女子たちに対し、更に鋭い声を出す。莎子のことならばどんなことでも妥協しないのが紫蓮だ。このまま女子たちに何をするか分からない。このとき、そんな紫蓮を制止したのは莎子の一声だった。
「紫蓮…いい。」
その言葉に反応し、莎子を見ると、莎子はとても悲しそうな顔をしていて、それを見た紫蓮は莎子の名を呼ぶしかなかった。
「莎子…。」
紫蓮に呼ばれると、莎子は
「あたしは大丈夫だから。」
とだけ告げて、それ以上は何も語ろうとはしなかった。ただ、紫蓮の制服の裾を掴み、離すこともしない。そんな莎子を見て、紫蓮は不安を募らせる。

「祝、今回のこと、詳しく調べてくれ。」
莎子を教室に連れ戻し、落ち着かせてから祝に調査の依頼をする。祝ならばどんな方法を使ってでもこの件の詳細を調べてくれるということが分かっているからだ。だが、祝は紫蓮の言うことが分かっていたのか、その言葉に得意気に返した。
「もう調査済みだ。」
その一言に紫蓮は眼を丸くして祝を見る。するとそれに気付いた祝は制服のポケットからバックアップのメモ帳を取り出す。
「莎子チャンのことだろ。」
そして数えきれないくらい付箋が挟んであるメモ帳を無造作に開け、紫蓮が知りたいことを口にする。
「今回はお前のファンの女子五人。内容はお前とどういう関係か。お前が莎子チャンを名前で呼ぶのと同時に莎子チャンもお前を名前で呼んでるからな。そのことだ。その五人の名前とクラスも分かってるけど、聞くか?」
祝が、調べたことの全てを紫蓮に話すと、紫蓮は何かを考え込んでいて、それが横にいた祝にも分かった。紫蓮は性格上、普段から考え事を人に察知されないように振る舞っているが、今の紫蓮は違う。莎子のこととなると熱くなり、感情的になったりもする。祝はそんな紫蓮も人らしくていいと思っているのだが、紫蓮自身はそんな自分に気付いていないのだろう。

「莎子、本当に大丈夫か?」
放課後、自宅への帰り道、紫蓮は莎子に今日の昼休みに起こったことについて訊ねた。
あのとき莎子から制止の言葉が掛からなければ、恐らくあの場にいた女子たちに制裁を下していただろう。莎子は紫蓮に問われても何も答えない。紫蓮が不安を重ねると、莎子が急に立ち止まり、紫蓮の眼を引いた。
「莎子…?」
どうして止まったのか。やはり昼間のことが嫌だったのか。聞きたいことは山程あった。だが、紫蓮がそれを口にする前に、莎子が口を開いた。
「…紫蓮……あたしは、あたしは紫蓮の何…?」
そう言った莎子は紫蓮の眼を見て、昼間と同じように紫蓮の制服の裾を掴む。
莎子は紫蓮にとって、自分が何なのかという答えが欲しいのだ。紫蓮は莎子の言うことを何でも聞いてくれる。だが、紫蓮の気持ちを聞いたことは一度もない。そのため莎子は不安になる。その思いを紫蓮に伝えると、紫蓮は莎子の肩に手を置き、今度は紫蓮が莎子の眼を見据える。
「形がなくて、不安なのか…?」
それだけ言うと、莎子は感情を抑えられなかったのか、涙を流す。その涙は目から溢れ、頬を伝う。その流れる涙を紫蓮は右手の人差し指で拭い取った。それに促されるように莎子は泣きながらも言葉を出す。
「…紫蓮の、何なのかが分からなくて…怖い…。紫蓮は、あたしを独りにしない…?」
この言葉に、紫蓮の胸が痛んだ。
莎子は両親が殺され、たった一人の姉妹であった姉も無惨な殺され方をした。そして独りになって、あの老人に拾われた。そのため、独りであることにとても敏感だ。そんなことが無意識に分かってしまい、胸が痛くなる。
莎子は泣きながら、肩に置かれた紫蓮の手を振りきり、紫蓮の胸に倒れ込み胸の中で泣き喚く。そんな莎子を、紫蓮はゆっくりと抱き締める。泣き叫ぶ莎子を見ていられなくて抱き締めた紫蓮だが、紫蓮の心は決まっていた。莎子の耳元に唇を持っていき、莎子にしか聞こえないくらい小さな声で莎子への言葉を呟く。その声を聞いた莎子は、一時泣くのを止め、そしてまた泣き出した。今度の泣き声は先程のように痛くはなかった。悲しさの涙から嬉しさの涙に変わったと思えば、痛いはずがなかった。
「…莎子。」
莎子の名を呼び、胸に埋めていた顔を自分に向けさせる。そして莎子に自分の決意を話す。
「形が欲しいなら、来年の俺の誕生日、莎子に形を贈るよ。」
来年の誕生日。紫蓮が十八になる誕生日。
その瞬間、莎子はとても柔らかく幸せそうに笑い、眼に涙を溜めながらも満面の笑みを見せた。その笑顔は今までに一度も見たことがない笑顔で、紫蓮もつられて笑みを溢す。
そして二人は、足を動かし帰宅の帰路へと足を進めた。
自宅である南条邸の門を開け、敷地内へと足を進める。紫蓮が先に入り、そのあとを莎子が付いて行く。門の下のちょっとした段差に莎子の足が掛かる。
「あ、」
躓き、前に倒れそうな莎子を紫蓮が振り返り、莎子の胸元を腕で支える。
「大丈夫か?」
そう優しく声をかけられ、莎子は紫蓮の顔を見る。見れば見るほど、紫蓮の非凡さが分かり、昼間のことを思い出す。
紫蓮は校内でも人気があり、紫蓮のことを好きだという女子が多いことも知っている。だが、紫蓮はどの娘にも興味がないのか、告白をされても丁重に断っている。その紫蓮が莎子には優しい。そのことが莎子には嬉しい反面、不安でたまらなかった。
「大丈夫。ありがと。」
お礼を言い、体勢を立て直す。そして莎子は門を閉め、紫蓮は玄関の扉を開ける。すると、その音を聞いた千代が玄関へとやって来た。二人の前で一礼をして帰宅の挨拶をする。
「お帰りなさいませ。紫蓮さま、莎子お嬢様。」
その言葉にただいま。と返し、二人は玄関から廊下へと上がった。莎子はそのまま階段を上り、自室に行こうとしていた。それを見た紫蓮が莎子を呼び止める。
「莎子…?」
今までならば、帰宅後はいつも紫蓮の後を付いていて、特別なことがない限りはいつも一緒にいた。そのことを踏まえ、紫蓮は莎子を呼び止めたが、莎子は振り返ることもなくただ一言、
「部屋にいるから。」
とだけ告げてその場を後にした。
莎子が部屋に入り、無造作に鞄を置き、そのままベッドに倒れ込む。莎子はいろんなことを考え廻らせていた。
あたしは、紫蓮には相応しくないんだろう…。紫蓮は、約束をしてくれたけど、正直、自信がない。紫蓮は身寄りがいないあたしに同情して、この家に置いてくれただけかもしれない。第一、あたしは赤い蝶。一緒にいるならば、紫の蝶じゃなくて、黒い蝶の方がいいのかもしれない。紫蓮は黒い蝶じゃない。紫蓮の傍にいるのは止めた方がいいのかも、…しれない。
そう思うと、涙が止まらなかった。紫蓮に不釣り合いな自分が嫌になる。だけど、それ以上に紫蓮を信じることが出来ない自分が嫌になる。
「…ふ…っ…ひっ………し、れん…。」
泣きながら紫蓮の名を呼ぶ莎子は、既に感情をコントロール出来なくなっていた。ただ泣き、ただ紫蓮を呼ぶ。

紫蓮はいつもとは様子が違う莎子を気にかけていた。やはり昼間のことなのかと考えさせられる。昨日まではなんともなかったのに、今日に限って様子がおかしいのは昼間のこと以外に思い当たらない。
気になり、二階の部屋にいる莎子に会おうと千代に断り階段を駆け上る。そして莎子の部屋の前まで来て、扉を叩こうとした瞬間、莎子の異変に気付いた。
莎子が泣いている。
やはり、昼間の連中に何か言われたのか。そう思うと紫蓮の手は部屋のドアノブを持っていた。
「莎子!」
そう叫び、部屋に入ると、莎子はいきなりのことに驚きながらもちゃんと紫蓮を見据えた。そして一言呟くように言う。
「………紫蓮…。」
小さく自分の名を呼ぶ莎子に紫蓮は不安の色を浮かべる。莎子が泣いていることに心を痛め、莎子に問いかける。
「莎子、大丈夫か?」
そう聞くと、莎子は紫蓮から視線を反らした。紫蓮の顔を見ることなく俯き、床に敷かれた赤い絨毯を見る。その様子を見届けた紫蓮は感じていたことを口にした。
「泣いて、ただろ。やっぱり昼間の連中に、」
途中、紫蓮が言葉を止めたのは、口にするべきか迷ったからだ。口にすることでより一層莎子を苦しめることになるのではないかと心配になり、少し躊躇いが生じた。
莎子は紫蓮の言葉が終わる前に俯きながら首を振った。
「じゃあ、何で。」
食い付くように紫蓮が莎子に問いかけたが、莎子は紫蓮の問いかけの答えを出さなかった。出したのはまったく違う言葉。
「…あたしは、やっぱり赤い蝶なの、かな…?」
この言葉を聞き、紫蓮は再度心を痛ませた。そして、すぐさま反論をする。
「莎子、それはもう終わったんだ。赤と黒の蝶に囚われるのはやめろ。」
紫蓮の制止の言葉に、莎子は俯いていた顔を上げる。
「でも、」
「莎子。」
更に反論した莎子の言葉を紫蓮は再度遮った。そして莎子の眼を見据え、ゆっくりと、だが確かにしっかりと言う。
「そんなに赤と黒の蝶がいーなら、俺が黒い蝶になってやるよ。」
その言葉に莎子は驚きを隠せなかった。思わず涙を眼に溜めたまま、眼を見開いていた。そして小さく声を出す。
「紫蓮が…?」
「あぁ。」
そう真顔でいう紫蓮を見て、莎子はふと笑みを溢す。莎子が突然笑うため、紫蓮は状況についていけないらしく眼を見開いてただ呆然としている。そんな紫蓮に莎子が掛けた言葉はたった一言。
「…似合わない。」
その一言にまた紫蓮は驚かされる。莎子は笑顔で紫蓮を見た。
「紫蓮は紫だ。黒ってイメージじゃない。」
そう言った莎子が笑顔だったため、紫蓮も笑みを浮かべ、自らの髪を適当に掴む。
「俺の髪が黒でも?」
そう言うと、莎子は笑みを絶やさず一瞬の間を置いて笑いながら答える。
「それならあたしだって黒だ。」
その答えに、紫蓮は重要なことを口にした。
「じゃあ、一緒じゃないか。」
その言葉に莎子は眼を丸くして紫蓮を見た。紫蓮は莎子の丸くなった眼を見据えて唇を動かす。
「赤だろうが黒だろうが、莎子は蝶じゃなくて、人だろ。」
人であることに変わりはない。いくら蝶だと言い張っても、人で、人間であることに変わりはない。
「莎子は自由だ。何でもしたいことをすればいい。」
好きなことを、好きなだけしていい。
それがどんなことであっても、
「何だって叶えてやるよ。」
紫蓮が遊びや冗談ではなく、本気で言ったことが、莎子にも分かった。真剣な眼差しで自分を見て、全てを見透かすような眼をする。思わず吸い込まれてしまいそうなその黒い眼に、自分が写っていることが分かる。莎子は丸くした眼を元に戻し、真剣に紫蓮を見つめる。
「紫蓮、あたしは紫蓮の重荷にはなりたくない。」
重荷になるくらいなら、死んだ方がいい。
そう訴えると、紫蓮はすぐさま反論を口にした。
「重荷じゃないさ。俺には莎子が必要なんだ。」
「…紫蓮。」
その言葉に、どれだけ救われるか。その言葉に、どれだけ癒されるか。紫蓮は莎子を自分の方へ引き寄せ、優しくゆっくりと抱きしめる。澄んだ声で莎子を呼び、優しく抱きしめる。
紫蓮の一言で、不安が飛び去り、莎子に安堵感を持たせた。このとき莎子は心を決めた。どんなことがあっても、紫蓮を信じ、追いて行こうと。紫蓮の傍にいようと。不安を打ち消す、自信を手に入れたように。紫蓮の傍に。
そう決めたとき、莎子は紫蓮の背中に手を回した。
その後、学校にて何があったのか、紫蓮と莎子が二人でいても誰一人として文句を言う者がいなかった。それは紫蓮や祝が何か言ったのかもしれない。だが、莎子からすればそんなことはどうでもよかった。莎子は、紫蓮が思っていることを包み隠さず話してくれたことが嬉しいだけ。
紫蓮と一生いよう。傍にいよう。この先の全てを紫蓮に託そう。そう思ったことは誰にも言わない。莎子の心にだけ止めておくこと。
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2017/05/24 19:35 | 創作男女 / 赤と黒の蝶
赤と黒の蝶  其の捌 親友 【外伝】
こんにちは!俺、河村祝です!
楠ヶ丘学園高学部に通う十七歳。髪は茶髪で身長は紫蓮と同じくらい。体重は秘密!
まあ、所謂情報屋で、学校内のことは何でも知ってるつもり。学校外のことも知ってるけどね。
でさ、俺は南条紫蓮の親友なんだけど、今回はその親友、紫蓮と、紫蓮の大事な人の莎子チャンについて、いろいろとお話しようかと思う。個人情報に触れないようにね。ちなみにここは学校の教室。教室好きなんだ。
さて、親友の紫蓮だけど、実は両親がいなくて、前はおっきい家に一人で住んでたんだ。今は、莎子チャンと千代さんと一緒だけどね。莎子チャンはつい最近まで違うところに住んでたんだけど、今は紫蓮の家にいるんだ。長い黒髪がすっごく綺麗なんだよ。
実は、ちょっと前に紫蓮に赤い蝶の浴衣と黒い蝶の帯の噂のことを話したんだけど、その次の日からなんか虚ろで、いっつも恐い顔で考えごとしてた。んで、一週間くらい経ってから、街外れの廃墟で火事だって聞いて、これは行かなきゃ!と思って行ったら騒ぎの中心には紫蓮がいて、それにびっくり。
んで、紫蓮は女の子を連れてて、その女の子は綺麗でかあいいし、名前で呼んでるし?紫蓮が女の子のこと名前で呼んでんの初めて聞いたし、その子にはすっごく優しくって、いつもあんなんだったらもっとモテるのにな。今でもモテすぎるくらいモテてるけど。
俺の調べによると、今までに紫蓮に告白して来たのは一五七人。これは全学年の女子を統計したもので、紫蓮が告白される度に断っても減らない。自分こそは!と逆に燃える子もいるらしい。そのせいで、大半の男子には恨まれてるけど、非のない紫蓮に何も言えない。それと反対に慕われることもあるけど、基本的に紫蓮は顔も名前も覚えてあげない。可哀想にね。
いろんな人が興味を持つ紫蓮だけど、莎子チャンにだけは特別な対応だ。大事にしてるってゆーか、愛してるってゆーか。
莎子チャンを初めて見たときに着てた、噂の浴衣。次に見たときはもう着てなかったから、紫蓮に聞いてみたんだけど、紫蓮曰く
「莎子は燃やして捨ててほしいって言ってたけど、どうするかは決めてない。」
だそうで、実際のところ、どうしたのかは教えてくれなかった。
紫蓮がそう言うから、深く詮索はしなかったけど。
でも、噂は本当だったんだな。それが分かっただけで俺は満足だよ。
俺は紫蓮が駄目だってことは絶対しない。
俺のモノサシは紫蓮で、何でも紫蓮が基準なんだ。だからこそ、消化不良の種は尽きない。
事件後、紫蓮の家に紫蓮と莎子チャンに会いに行ったとき、紫蓮宛に俺の知らない人から電話が掛かってきたんだ。そのとき紫蓮はかなり嫌そうな顔してた。俺の知らない人ってところがアレだけど、紫蓮が関わるなってゆーから何も聞かない。本当は気になって仕方ないけどね。でも言わない。紫蓮が大事だから。
紫蓮は両親が居ないから、何でも一人でやってて人に頼ろうとしないところがあるんだ。だから、余計に心配なんだよね。
そうだ、莎子チャンだけど、楠ヶ丘学園に通うようになったんだよ。紫蓮は行かなくてもいいって言ったみたいだけど、行かなくてもとりあえず入学だけしようってことで。莎子チャンが名字を言いたがらないから紫蓮もどうしようかと思ったんだって。紫蓮だって調べて知ってるのに聞くんだもん。結局、莎子チャンは南条で通うことになったらしい。既に夫婦みたいだよね。そんな二人を見てると微笑ましい。紫蓮は莎子チャンが大事で、莎子チャンも紫蓮が一番大事なんだ。あーあ…莎子チャンに紫蓮取られちゃったー…。…なんてね。
そんなこと言ってたら、教室の扉が開いた。そして眼に映ったのは、黒髪と右耳に付けたつがいの赤と黒の蝶のピアス。
「…紫蓮。」
顔を見せた者の名を呼ぶと、そいつは教室に足を踏み入れた。そして綺麗な黒髪を揺らしながら、俺に言った。
「祝、行くところがある。着いて来い。」
紫蓮に言われるまま紫蓮に着いて行くと、学校の正門前に黒塗りのベンツが停められていて、その車に乗るように言われた。紫蓮はこういうのを好んでないはずなんだけど、どういう風の吹き回しなんだろうか。とにかく言われるままに乗り込むと、そのまま黒塗りベンツは動かされた。途中、紫蓮に何処に行くのか聞いたけど、紫蓮は答えてくれなかったんだ。そして、しばらく大人しくベンツに乗っていると、ベンツが止まって扉が開けられた。着いたところは、高層ビルだった。この場所、この印は、――――――。
「…南条財閥本社…。」
驚きで思わず声が漏れた。紫蓮に連れられて着いた場所は、南条の経営する会社だった。
いくら紫蓮の家の会社でも、紫蓮は今まで会社に直接関わっていなかったから、俺が南条の会社に来るのも初めてだ。紫蓮はそのまま正面玄関を通る。紫蓮に付いて行くしかないから、俺も紫蓮の後を追った。正面玄関を入って受付の前を見ると、そこには紫蓮の保護者をしている、清芳さんがいた。清芳さんは俺と紫蓮に気付くと、すぐに挨拶をしてくれた。
「よぉ、紫蓮。祝も久しぶりだな。」
前に会ったのはいつだっただろうか。多分、紫蓮の両親が死んだときだ。そのとき清芳さんは紫蓮の保護者になって、それ以来一度も会っていない。それはもう何年も前の話なのに清芳さんはよく俺が〝祝〟だって分かったな、と感心してしまう。
「こちらこそお久しぶりです。清芳さん。」
深々と礼と挨拶をすると、清芳さんはにこやかに笑いかけてくれた。俺自身、情報を専門に扱っているため、礼儀作法は一通り勉強している。礼儀がなっていない者を信用して信憑性のある情報をくれる人など、いる訳がない。こういうとき、心底勉強しておいて良かったと思う。紫蓮は俺と違って清芳さんに近付き、軽く挨拶をした。
「兄さん、今日は忙しい中すみません。」
紫蓮はいつも通りの反応で、清芳さんに接する。すると清芳さんは紫蓮と俺について来るように言った後、エレベーターに乗り込んだ。だが、そのエレベーターは豪華な造りになって普通の人が使うことを許されないような風格が漂っている。俺たちがエレベーターに乗り込むときも、他の社員が俺たちを見ていたのが分かった。制服を着ている少年が二人、会社の上層部の人といるのは謎めいたことだろう。実際のところ、俺だって謎だ。
エレベーターからおりると、数多くの社員がいた。どの人も一般社員じゃないのが分かる。すると清芳さんは、その社員の中を堂々と通っていた。社員はすぐさま足を止めて深々と清芳さんに礼をする。その中で一人の男性が清芳さんに近付いて来た。その人はとても温和そうな顔をしていて、菩薩のような顔に眼鏡をかけていた。そして清芳さんに深々と礼をし、発言をする。
「お帰りなさいませ、副社長。そちらの方々は?」
その男性は頭を上げてすぐに俺と紫蓮を見て清芳さんに問いかけた。世界の南条の本社副社長が子供を二人も連れて一体何がしたいのか、皆目検討がつかないらしい。すると清芳さんは薄ら笑いを浮かべ、紫蓮を見てから笑いを含み男性を見直した。
「南条紫蓮。この会社の社長になる男さ。」
清芳さんのその言葉を聞いた男性は呆然とし、驚きを隠しきれず、躊躇うように呟いた。
「南条、紫蓮…?まさか、あの!」
そう言葉が放たれた瞬間、その場にいた社員一同が清芳さんではなく紫蓮に視線を集中させる。そしてざわめきが聞こえ、次第にその声は大きくなってゆく。
「俺なんかとは違って生粋の南条生まれの南条育ちだぜ。」
清芳さんは軽く言ったけど、実はこの言葉には深い意味が込められているんだ。
清芳さんは紫蓮のお祖父さんの妹の息子さんで、紫蓮のお父さんとは従兄弟同士だった。清芳さんのお母さんは一度嫁いだけど、離婚して出戻ってきたという。それは清芳さんが十五歳のとき。それまでの数年間もずっと不仲が続いていて、清芳さんは不仲の両親の間で居た堪れなかっただろう。そのため、清芳さんは小さい頃、南条を名乗ってなかったし育ちも南条ではなかったんだ。でも紫蓮は違う。南条生まれの南条育ちで、紫蓮は直系の当主。本社の社長になり、会社を経営していくには充分な器量を持っている。南条に勤める者なら〝南条紫蓮〟を知らない訳がない。社員の視線を一身に浴びた紫蓮は凛々しくも逞しい姿をし、重荷を感じず軽やかに挨拶をした。
「初めまして、南条紫蓮です。以後お見知りおきを。」
この言葉に社員は深々と礼をして、紫蓮への敬意を表した。それを見ていた清芳さんは満足そうに微笑んでいて、紫蓮を本当に可愛がっているんだと感じた。
そして清芳さんは社員に暫しの別れを告げ、その先を進む。そして秘書室を通り、紫蓮と俺を社長室へ招き入れた。中へ入ると、社長室に相応しいものが並んでいた。社長専用のデスクにふかふかの椅子。そして客を招いたときの長机と対の椅子が四席。清芳さんはその一席に紫蓮を座らせ、その横に俺を座らせてくれた。そして清芳さんは対する方の椅子に座る。
「さて、わざわざ祝にまで来てもらったのは理由がある。」
椅子に座ってすぐ、落ち着く暇もなく清芳さんは本題を切り出した。紫蓮はその理由を知っているらしく、驚いて焦っているのは俺だけだ。まったくもって分からない。だけど清芳さんはそんなことを気にせず話を進める。
「紫蓮は学校を卒業したらこの会社の社長になる。今からはその練習期間だ。」
紫蓮が社長になる!?まぁ、当然と言ったら当然なんだろうけど、学生をしている今はあまり実感が湧かない。というか、それと俺が呼ばれた理由が繋がるのかさえも分からない。このまま分からないのも癪なので、思い切って恐る恐る清芳さんに聞いてみた。
「あの、それと俺はどんな繋がりが…?」
清芳さんは怪しい笑みを浮かべて俺を見ると、決定打を指すように言った。
「そこで、紫蓮は社長秘書にお前を指名した。河村祝を、な。」
清芳さんの話を聞いた後、初めは何も認識出来なかった。でも、紫蓮が俺を秘書にしたいと言ってくれているという事実は嬉しかった。俺は確認の言葉を清芳さんに向ける。
「俺を?…紫蓮?」
そして向けた後、隣にいる紫蓮の名を呼びながら振り向く。すると紫蓮は真剣な顔で俺を見た。
「俺はお前がいい。お前以外の秘書ならいらない。」
真剣な顔で言う紫蓮に、思わず見惚れてしまった。だから俺は、紫蓮に弱いのだということも思い知らされる。大事な紫蓮にここまで言われたら、答えは決まっている。
清芳さんは俺が答えを決めたことを見抜き、素早く返答を仰いだ。答えなんて、聞かなくても分かっているくせに。
「どうだ?祝。やるか?俺がビシビシ鍛えてやるぞ。泣き言は言わせねーからな。」
泣き言なんて言わない。紫蓮と一緒で、紫蓮が俺を選んでくれたなら、泣き言なんて言えるわけない。答えは唯一つ。
「はい。やります!やらせてください!」
勢い良く答えると、清芳さんはにやりと笑い、その答えを快く受理した。そして紫蓮を見て賛同を求める。
「よし。決定、っと。いいな、紫蓮。」
清芳さんに聞かれた紫蓮は、自分の希望通りになったことに、また、清芳さんが了承をしてくれたことに対して深々と礼をした。
「はい。ありがとうございます。」
清芳さんは紫蓮の気持ちが分かっているらしく、その返事に笑顔を向け、紫蓮と俺を見据えた後、今までにない笑顔で言葉を放つ。
「さて、死ぬほど働いてもらうぞ。守るもののためにな。」
そのときの清芳さんの顔はとても嬉しそうで、紫蓮の成長をとても喜んでいるんだと思った。清芳さんは紫蓮の保護者で、紫蓮の成長を一番に考えてる。ついこの間まで、紫蓮は南条系統の会社では働かないと言っていたはずなのに、どういう風の吹き回しなのか。清芳さんの言った言葉で益々疑問は強くなる。
「守るもの?」
思わず視線を清芳さんから紫蓮へと向け、訊ねてしまった。だが紫蓮は近くにあるものではなく、何処か遠くにある物を見るような眼をして、答えた。
「ああ。守るものが出来たからな。」
〝守るもの〟それが莎子チャンのことだと分かるのに時間は掛からなかった。そう言ったときの紫蓮は凛々しくて、俺が大事にしているものだということも分かった。その後、清芳さんに付き添われ社長室を出た俺と紫蓮は、来たときに乗った車を使わず、歩いて帰ることにした。紫蓮がそうしたいって言ったから。
「紫蓮、本当に俺でいいのか?」
帰り道、並んで歩いている紫蓮に質問をした。この問いの答えを聞いたら、もう同じことは聞かない。紫蓮を信じてるし、俺は紫蓮のために存在しているんだから。
問いかけを聞いた紫蓮は俺を見て、ただ一度だけの答えを言った。
「お前以外は考えられない。」
その言葉で、一生分の幸せを貰った気がした。紫蓮が必要としてくれるなら、どんなことだってするよ。紫蓮が俺の全てだから。
そう思った瞬間、もう次の言葉が口から飛び出していた。
「今日泊まってもいい?」
ふと思いついたことだけど、紫蓮は多分いいって言ってくれる。紫蓮の家に泊まるのは今回が初めてではない。紫蓮は俺が聞いたすぐ後に躊躇うことも考え込むこともなく即答した。
「あぁ。着替えとかは、…あるな。」
着替えは以前から泊まっているときに置いておくもの。多いときは一週間に三、四回、長いときは一週間に五日の泊まり。最早半同棲生活と化しているため、最低限の着替えや日用品は自宅と紫蓮の家に置いてある。
この前みたいに、紫蓮を連れず先に帰っても千代さんが何の躊躇いもなく紫蓮の部屋へ入れてくれるのは、こういう諸事情からだったりする。紫蓮が所用でどこかに出掛けていても、部屋で待つように言ってくれる。最初からアポイントメントを取っておけばいいんだけど、それがままならない場合もあるのだ。
「着替えは置いてあるし、洗面用具もあるよな?」
紫蓮が処分していなければ、生活に必要な物は充分足りているはずだ。それも紫蓮がそれらを処分などするはずないだろうという前提からなるもの。
「じゃ、家に寄らなくても大丈夫か?」
紫蓮は俺の自宅に寄ってくれる気だったらしい。でも自宅に寄ってまで必要としている物はない。最低限必要なものは紫蓮の家にある。
「大丈夫。」
陽気に答えると、紫蓮は何を思ったのか急に呟いた。
「…手出すなよ。」
言われた言葉の本意が判らず、ほんの少しの沈黙の後に答える。
「…誰に。」
そう答えた時点で、誰にかが分かってしまった。今の紫蓮は莎子チャンのことで頭がいっぱいだ。
「莎子に。」
やっぱり。予想通りの答えだ。
手を出すな。莎子チャンに。
紫蓮は俺が莎子チャンに手を出すと思っているのだろうか。多分、思っていないだろうけど、念のためなのか。
「出さないよ。」
心配しなくても。
そう答えると、紫蓮は俺がそう答えることを分かっていたらしく、特に変わった表情はしなかった。俺の全てを分かっている気がして、心地好かったけど、その余裕がちょっと悔しくて。面白半分ににっこりと笑いながら戯言を吐いてみた。
「でも、紫蓮には出すかもな。」
莎子チャンには出さなくても、紫蓮には出すかも。
満面の笑みで言ったことは、面白半分、本気半分だった。どう答えてくれるか知りたくて、それ以外のことは考えていなかった。本気混じりの俺の言葉に、紫蓮は少しも驚くような表情をすることもなく、俺に笑顔を向けた。
「言ってろ。」
その言葉は、とても暖かくて、俺が紫蓮の傍を離れられない理由だと思った。もう何年も、紫蓮の傍を離れられない理由。昔からこの笑顔が向けられるのは俺だけの特権で、これからも紫蓮は俺に同じ笑顔を向けてくれる。そう思えることが、とても幸せなこと。それだけで、俺は幸せになれる。俺の全ては紫蓮のものだから。
その日、南条邸に着くまでに一時間くらい歩いたけど、どこの空を見ても紫蓮の隣で見る空は清々しく澄んだ、綺麗な空だった。

2017/05/24 19:33 | 創作男女 / 赤と黒の蝶
赤と黒の蝶  其の漆 終始
空は綺麗に快晴で、とても気持ちのいい春の朝。午前九時、南条邸のインターフォンが鳴り響いた。
「はい。南条でございます。」
千代が相手を待たせぬようにと三回コールでインターフォンの電話に出る。すると向こう側からまだ若い男の声がする。その男は電話先の千代に何か話しかけたらしく、千代はとても懐かしげに
「お久しぶりでございます。」
と対応した。そして門を開け、玄関までの障害物をなくす。すると、その男は南条邸へと入ってきた。玄関先で履いてきた黒い靴を脱ぎ、千代が用意したスリッパを履き、軽く千代に挨拶をする。
「本当に久しぶりですね。前に会ったのはいつでしたっけ?」
男は二十代後半から三十代前半にかけてという見積もりが妥当という姿をしていて、黒い背広に黒い鞄を持っている。その男が来たと分かり、二階の自室から階段を下りて来た紫蓮はその男に向けて柔らかな笑みと言葉を渡す。
「お久しぶりです。兄さん。」
紫蓮はこの男のことを〝兄さん〟と呼んだ。だが、紫蓮に血の繋がった実の兄などはいない。それならば、この男は誰なのか。その答えは出ていない。男は階段を下りてきた紫蓮を見て、珍しいものを見たような顔をした。そして軽く手を上げ、紫蓮に挨拶をする。
「よぉ、紫蓮。久しぶりだな。何年ぶりだ?」
軽く言った男に紫蓮は階段を下りながら問われた問いの解答を放つ。
「両親が死んで、いろいろとあったとき以来ですね。」
つまり、両親が死んでからは一度も会っていないということになる。いろいろというのは、両親が死んで、遺産のことや会社のことや紫蓮の引き取り手のことなど、親族の間でかなりの争いがあった親族戦争のことを指す。紫蓮が階段を下りきり、玄関先にいた男の前に行くと、その男は笑いながら紫蓮の頭に手を置き、何度か叩く。
「そうか。そんなにもか。どーりで紫蓮がでかくなってる訳だ。」
そう言った男の顔は、とても嬉しそうだった。男は散々紫蓮の頭を叩いた後、側にいた千代に〝いつもの〟を応接室に持って来るように頼み、紫蓮と共に応接室へと消えた。

「それで?お前が俺を呼ぶってことは、何かあるんだろ?お前の手に負えないことが。」
応接室に入り、ソファーに座り一息ついたとき、即座に言われた言葉。そしてここぞとばかりに、俺に調べ事までさせて。という嫌味まで付いていた。そう言われるとその通りなので何も言えない。そんなに何もかも見通している男に、調べてもらったこととこちらの事情やあったことの全てを話す。途中、千代が男の〝いつもの〟と紫蓮の〝いつもの〟を持ってやって来たが、その持って来たものを受け取り、話を押し進める。受け取った〝いつもの〟を飲み核心に至る。
「ふーん。そんなことがあったんだ。だから俺に調べさせたんだな。」
「はい。」
足を組んで踏ん反り反っている男に紫蓮は申し訳なさそうに答える。男はそんな紫蓮を見て、少し溜め息を吐き、持って来た鞄の中の書類を出す。そして束になっている書類の一番上の紙を捲り、今から本文を読もうというとき、呟くように声を漏らした。
「お前の知りたいことが全て分かるだろうぜ。」
その後、男は調べて来たことを書類に眼を通しながら話し始める。
紫蓮の両親が盗んだと疑われていたこの赤と黒の蝶は、これを造った彼女自身が恩人である紫蓮の両親に手渡したもので、老人が勝手に盗まれたと勘違いしたのだということ。
紫蓮の両親は彼女に、彼女の両親の死因が、会社の社長をしていた両親の社長の椅子を狙った役員に仕組まれて殺されたのではないか、という疑問があり、調査してほしいという依頼の仕事があり、調査し、無事犯人を逮捕に導いて恩人と思われていたこと。
紫蓮の両親は、盗んだと勘違いしていたあの黒い蝶の老人に依頼と称して呼び出され、殺されたこと。老人がそんな思い込みをしたために、莎子まで巻き込んだこと。
廃墟の跡地に残ったものは小さな金庫が一つ。その中に預金通帳と老人が書いたものと思われる手記が入っていたという。
謎になっていたこと全てが分かり、紫蓮は胸を撫で下ろす。男は書類を机の上に置き、足を組み換え腕を組む。
「それで、事件について知りたいことはここまでだろ。」
今回の一件について、謎は全て解けただろう。紫蓮の両親が赤と黒の蝶を盗んだのではないことや、莎子もあの老人に偽りを教えられていたことが分かった。もう情報で得るものはないと言える。そんなとき男が、不意に紫蓮に違う話を振ってきた。
「お前、警察の事情聴取に行かなかっただろ。」
紫蓮は『後日改めて任意で伺います。』という結論を出した。そして警察の上層部である、警視総監に申し出、許しを得た。
「あ、はい。また後日、改めて行こうかと。」
その一部を男に言うと、男は眼を瞑り、
「その必要はない。既に丁重に断りを入れた。」
と放った。既に南条は関われないということを言ったのだという。いくら警察でも任意を強制することは出来ない。そのための任意なのだ。
男はカップに入っている〝いつもの〟を飲み、紫蓮をじっと見る。その視線に気付いた紫蓮は男の思っていることを先取りして口から出した。
「…もう一つの頼み事の件ですか。」
もう一つ。紫蓮は男にこの事件自体とは別に違うことも調べるように頼んでいたのだという。その紫蓮が頼んだこととは一体何なのか。その答えは意外と早く訪れた。
「あの娘(むすめ)のことを調べてどうするつもりだ?」
男が放った〝あの娘〟とは莎子のことを指している。紫蓮はこの男に事件のことと同時に莎子のことも調べさせていた。莎子の本名、年齢、生年月日、本籍地、親類関係など情報という情報を全て集めるようにと頼んだのだ。紫蓮がなかなか口を開かず言葉を出さないため、男は溜め息を吐いた。
「別に、お前のしたいようにすればいいさ。」
男のこの言葉を聞いて、紫蓮は覚悟を決めた。言おう言おうと思っていてずっと言えなかったこと。この件についての真相と莎子のことを調べてもらい、その結果によっては言おうと思っていたこと。
「兄さん。」
思い切って言う。紫蓮の眼にもう迷いはない。男が何と言うか、それを考えるばかりだ。だが、これだけは譲れない。小さく深呼吸をして、男を見据える。
「莎子の保護者になってもらえませんか。」
この言葉を聞いた男は眉を潜め〝解せない〟という表情をしている。そのまま紫蓮の言葉に耳を傾け、焦らず話の続きを聞こうとする。その意図が理解出来、紫蓮は構わず話を続ける。
「莎子には身寄りが居ません。ですから、この家に住まわせたいんです。」
紫蓮の放ったことに、男は無表情で紫蓮を見据えた。左肘をソファーの手すりに置き、頬に拳をあてる。
「それは、お前の保護者が俺だから、か?」
男は紫蓮の全てを見透かしたように問う。この問いに紫蓮は静かに、だが確かに答える。
「はい。」
紫蓮の両親は既に故人のため、親族は次期当主の肩書きを持つ紫蓮と莫大な財産手に入れたいだけに紫蓮を引き取りたがった。だが、紫蓮にしてみれば血縁関係を述べられても面識のない親族たちばかりで、誰のところにも行きたがらなかったのも事実。そんなとき、一番身近で信頼の置ける唯一の親族が彼だったのだ。実際、紫蓮は彼を選んだが、彼は紫蓮を束縛することもなく、紫蓮の好きなようにさせている。財産を管理するのも彼ではなく全て紫蓮が行い、保護者のサインが必要なときは速達で書類を送り、彼のサインを貰う。彼は紫蓮の親族の一人で姓も〝南条〟を使っているため、不可解に思われることや、怪しまれることもなかった。当時、彼が紫蓮の保護者になったとき、彼はまだ若く、何をするにもこれからというときだったが、彼も紫蓮の保護者になることを快く承諾したため、互いの希望があり彼が紫蓮の保護者に決まった。そんなことがあり、男は紫蓮の意見を一番に尊重する。
「お前がそうしたいなら構わねぇが、それはあの娘を俺の養女にするってことか?」
紫蓮の言葉を確認するとすぐさま次の問いを発した男は、莎子を自分の養女にするのか。と聞いた。すると紫蓮は表情を変えることもなく、素早く問いかけに答えた。
「そこまでは考えていません。」
「嘘を言うな。」
〝嘘〟この言葉に神経が反応する。即座に〝嘘〟と断言する男は紫蓮のことを見透かしているようだ。そして続けざまに核心を突く。
「お前は俺が断らないのを知っている。況してやいつも人を頼らないお前が、そう頼んで来るってことは、あの娘のことをそれほど大事にしているってことだ。…違うか?」
全てを聞いたあと、紫蓮は男から視線を逸らし、俯く。そして張っていた気を抜いたのか、軽く息を吐き、小さく笑い呟く。
「…流石、ですね。」
伊達に経験を積んではいない。南条を名乗る者なら、確実に身に付けておかなければならない技術だ。この技術は普段の会社勤めのときも役に立つ。だが、その教えは並大抵のものではない。男は紫蓮が放った言葉に当然の如く突っ返した。
「当たり前だ。俺だって兄貴に鍛えられたんだからな。」
「父は容赦ない人ですからね。兄さんだって父の従弟(いとこ)じゃなかったらもっと優しく教えてもらえたでしょうに。」
少し呆れるように言う紫蓮の顔には笑みが溢れていた。この言葉で男が紫蓮の父の従弟だということが分かった。紫蓮のいう兄が男のことで、男のいう兄が紫蓮の父のことなのだ。
男は手に持っていた〝いつもの〟を口元へと持って行き、口を湿(しめ)すほどに口にする。
「確かにそうかもな。でも、兄貴のお陰で今の俺があるんだ。兄貴には感謝することばかりさ。」
この男も紫蓮同様、幼いうちから探偵として鍛えられたのだろう。少ない期間で南条と探偵としての力を使い、莎子のことを調べ上げた実力は本物だ。
そして、男は反れていた話を元に戻す。
「…それで、どうするつもりだ。お前のことだからあの娘の意見を尊重するんだろ。」
莎子をどうするのか。養女にするにしても、ただ保護者になるにしても、当事者なのは紫蓮で男でもなく莎子だ。莎子の意見を尊重しなければ何の意味もない。
「莎子に聞いてみます。」
莎子がどう言うかは分からないし、南条に関わることを望まないかもしれない。施設に入ることやそのまま死ぬことを望むかもしれない。莎子の人生だ。莎子に決めさせてやるのが筋というもの。紫蓮は俯き、考え込むような素振りを見せた。全ては莎子に。
男もそんな紫蓮に気付いたのか、〝いつもの〟を飲み干すと立ち上がり、荷物を手に取った。
「そうか。じゃ、とりあえず俺は帰るからな。また何かあったら連絡して来い。」
優しく言われ、とても暖かい気持ちになる。久しぶりに温もりに触れたような、そんな優しい感覚。その感覚は両親の感覚に似ている。
「はい。」
紫蓮がそういうと、男は部屋を出て、近くで違う仕事をしていた千代に軽く挨拶をして南条邸を去った。紫蓮が連絡すればまたすぐに駆けつけるのだろうが、まずは片付けなければならないことを片付けてからだ。男が去ったため、部屋に残ったのは紫蓮一人になる。紫蓮は目に視点を持たず、千代がいれた〝いつもの〟を弄びつつ、ゆっくり飲み干すと、座っていたソファーから立ち上がりその部屋を出た。
先程までいた応接室を出た紫蓮は、そのまま二階に上がり、右手の二つ目の部屋の扉を数回叩くと部屋の中へ入った。部屋はフローリングの床の中央に正方形の赤い絨毯が敷かれている。そこには赤い蝶の浴衣ではなく、普通の浴衣を着た莎子が俯いて座っていた。
「莎子。」
紫蓮のノックに返事はしなかったが、紫蓮が名を呼ぶと、顔を上げて紫蓮を呼んだ。
「紫の蝶。」
紫蓮は〝紫の蝶〟と呼ばれたことには何も言わず、ただ一言、
「話があるんだ。」
とだけ言い、莎子に話をする。
まず、莎子の両親のこと、姉のこと、赤と黒の蝶のこと。
莎子の誤解を解き、真実を伝える。すると莎子はいとも簡単に納得し和解してくれた。老人に教えられたことを丸々鵜呑みにしていた訳ではなかったらしい。紫蓮が告げた真実をしっかりと胸に刻んだ。
そして、紫蓮が莎子に確かめなければならないこと。これからのこと。
引き取り手のない莎子を施設や他の家にはやらず、この南条で面倒をみたいということ。
両親のいない莎子の保護者に紫蓮の保護者がなってくれて、必要ならば養女になること。
保護者は紫蓮の親族で、南条で一番信じられる人物だということ。
住んでいるのは紫蓮だけで、この家に莎子にいてほしいということ。
学校にも話を通し、行きたければ行けるように努力すること。
考えられること全てを莎子に伝えた。そして最後に莎子の意思を問う。
「莎子は、どうしたい?」
紫蓮が問うと、莎子は驚くように眼を見開き、言葉を返した。
「お前と、ここで暮らす…?」
予想外の反応に紫蓮も眼を見開く。紫蓮の予想は、もっと違う反応をすると思っていたのだ。紫蓮は眼を元に戻し、莎子の意見を仰いだ。
「あぁ。嫌?俺なんかと一緒に暮らすのは。」
莎子は女で、紫蓮は男。そういう意味で不安なのは分かる。そして、つい先日まで敵対していた関係だ。そんな相手の家になど、住みたくないかもしれない。莎子は紫蓮の眼を見据え、静かに呟くように言った。
「…あたしには行くところがない。ここにいていいのなら、ここにいたい。あたしは、お前に興味がある。紫の蝶。」
莎子は自らの口でここにいたいと告げる。それを知った紫蓮は安堵の色を浮かべ、優しく笑う。
「じゃあ、決まりだな。…莎子。それと俺の名前は〝紫蓮〟だ。〝紫の蝶〟じゃないからな。」
最初に逢ったときにフルネームを呼ばれたきりで、それからは名前ではなく〝紫の蝶〟と呼ばれていた。そのことを改めて思い出し、莎子に釘を刺す。すると莎子は繰り返し紫蓮の名を呼び続ける。
「し、れん…?…シレン、しれ、ん………紫蓮。」
莎子は紫蓮を名前で呼び、最後には紫蓮を見つめ、優しく笑いながら名を呼んだ。それを見て、紫蓮も再度優しく笑い、満足気な顔をする。そして、莎子の黒く長い髪に触れる。
「そう、紫蓮。さて、他にもしなくちゃいけないことがいっぱいだけど、とりあえず、よろしく。莎子。」
紫蓮が髪を弄びながら言うと、莎子もそれに答える。
「…よろしく、紫蓮。」
そう言う莎子は、とても美しく、紫蓮が見惚(みほ)れるほど凛々しくもあった。その真っ直ぐな強い眼に、吸い込まれてしまいそうなくらい、紫蓮は莎子に囚われている。
「あぁ…そういえば、聞きたいことがまだあるんだ。…俺が三才のとき、階段から落ちたこと、どうして知ってるんだ?」
ずっと疑問に思っていたことを問うと、莎子はしばらく考え込み、記憶の中を旅する。
「落ちたこと…?………あぁ、あれか。」
問いかけの答えを見つけたのか、記憶を辿るように話す。
「あれは、お姉ちゃんがお前の両親に依頼を頼んだとき、あたしを見てお前の両親が漏らしたんだ。『同い年の息子がいて、三才のとき階段から落ちたんだ。』って。」
「そうか。」
今、生(せい)を受けている中では保護者と祝だけだと思っていたが、両親が生きていたうちなら話は別だ。探偵ならば個人情報を漏らすものではないと思うが、今思っても後の祭だ。
そう思っていると、南条宅のインターフォンが鳴り響いた。千代が対応しているが、訪ねて来た来訪者の正体は次の言葉で明らかになった。
「しれーん!」
この声は、明らかに情報屋をしている親友の、河村祝。紫蓮のことを名前で呼び捨てにする人物も、数限られている。
「祝だ。ちょっと待ってて。」
莎子を部屋に残したまま、廊下に出て階段を下りると、玄関先には祝がいて、にこやかに笑っていた。
「どうしたんだよ、祝。」
階段を下りきってから問いかけると祝はにこやかな笑みを変えることなく、
「会いに来たんだよ。紫蓮とあの娘(こ)、莎子チャンだっけ?二人に。」
と告げた。
「俺と莎子に?」
先程下りきった階段を今度は祝を連れて上り始め、問いかけるように言うと、祝は笑顔で答える。
「そぉそ、莎子チャンかあいいよねぇ~。」
〝かあいい〟は〝かわいい〟という意味らしく、祝がよく使う言葉で、紫蓮もよく言われている。実際、莎子はかわいいというより綺麗という分類なのだが、祝は綺麗よりかわいいという印象を得たのだろう。
「祝、莎子のこと、部外者には漏らすなよ。」
紫蓮が茶化すことなく真剣にそう言うと、祝はその気迫を感じたのか、真剣に答えた。
「解ってるよ。もちろん。」
階段を上りきり、莎子がいる部屋の扉を数回軽く叩き、返事が来る前に扉を開ける。それは、莎子が返事をしないと分かっているからだ。扉を開けると窓を見ていた莎子の視線が二人に集中する。
「莎子、河村祝。俺の親友だ。」
「こんにちは、莎子チャン。」
紫蓮が祝を紹介し、その紹介に乗じて祝が挨拶をすると、莎子はまた窓を見て、返事も挨拶もしない。心配になった紫蓮が莎子の名を呼ぶ。
「…莎子?」
紫蓮の声に莎子はただ一言、自分の気持ちを放った。
「あたしは、紫蓮以外の男と話す気はない。」
この言葉に驚いたのは祝だけではなかった。紫蓮ですら驚き、祝に至ってはショックを露にする。
「え!…俺、嫌われた…?」
明らかなショックを受けた祝は、今にも泣きそうな顔をしている。それを見かねた紫蓮は莎子の傍に行き、莎子の目線に合わせ、視線を合わせる。
「そう言うな、莎子。祝は俺が認めた男だ。逆に言えば、俺と祝、それから兄さん以外の男は信じなくていい。」
そう言うと、莎子は渋々了承をした。
「…分かった。」
莎子がそう言った同時に南条邸の電話が鳴り響いた。千代が電話に出て対応しているが、この家に住んでいるのは紫蓮一人のため、必然的に電話の宛人は紫蓮だろう。紫蓮がそれを察し、部屋を出て廊下に姿を現すと、それに気付いた千代が二階の廊下にいる紫蓮を見て上げる。
「紫蓮坊ちゃま、お電話でございます。花山さまと仰る方から…。」
受話器の口を手で覆い、〝花山〟という者からの電話だと伝えた。だが、千代は名前に覚えがないらしく、不安そうな顔をしている。
「花山?花山…?―――!」
紫蓮は名字を口にし、記憶の中を彷徨う。すると、思い当たる人物を見つけたのか、声を張り上げて名を叫ぶ。
「花山来夏!」
思い当たる人物を確信し、階段を使わずそのまま二階の廊下から飛び下り、一階廊下にある電話の受話器を千代から奪うように受け取り、冷たく鋭く話す。
「何の用だ。」
凄むような声を出した紫蓮に驚きながらも、千代は使用人の立場を弁え、その場からゆっくりと去る。電話の相手は紫蓮と然程変わらない年頃の少年のようだ。
『久しぶりだな。南条紫蓮。今回の件、俺の方からも手を回した。いくら南条の力を使っても、国家機関を操るには骨が折れる。こっちで言い包めておいた。これでその娘の転入も難なく可能になっただろう。』
相手の少年は国家機関を操ったかのような口振りで、紫蓮に有無を言わさず話を進める。痛いところを突き、紫蓮の反応を伺う。
「何故そのことを知っている。」
知る限りの機関や考えられる場合を考慮し、出来る限りの暗黙を行使した。少年が何故このことを知っているのか分からない。そういう意味を含み問いかけると、予想が出来た答えが返ってきた。
『俺を嘗めるな。あのとき、あの場所には大勢の野次馬がいた。あの状況からそれくらい知れて訳ない。』
確かにそうだ。この少年を嘗めてしまったのは紫蓮の過失。この少年は得体が知れない。それは紫蓮自身が一番分かっていたはずなのに。紫蓮は自分の失態に唇を甘噛みする。
「じゃあ、何故こんなことをする。頼んだ覚えはない。」
紫蓮がそう突き放すも、少年は動じることなく、ただ一言。
『貸しを作るためさ。』
天下の南条に貸しを作っておくのも悪くない。この貸しはいつか返してもらう。
その一言に言葉が出ない紫蓮は勝てないと思ったのか、妥協案を出した。
「…勝手にしろ。」
それだけ言うと、相手に挨拶もせず勢い良く受話器を置いた。二階から飛び下りたというのに、紫蓮は足を痛めた様子もなく、少々の苛々を隠しきれず、電話を見つめ舌打ちをする。
「紫蓮、今の誰?俺の知らない人だよな。」
二階の廊下から一階にいる紫蓮に問いかけたのは祝だった。紫蓮はその言葉に驚くことはなく階段へ向かい、そのまま祝に言い放った。
「あいつには関わるな。」
紫蓮がいつもとは違い、かなり苛つき、怒っていることが分かり、紫蓮の怒りに触れないために本心を述べた。
「紫蓮がそう言うなら詮索はしないさ。」
紫蓮がそういうなら、俺は従うよ。と言うかのような素振りを見せて、祝はその場を落ち着かせた。階段を上りきった紫蓮は祝と共に莎子のいる扉を開けた。
「莎子。」
そう呼びかけると、莎子は二人を見渡し、紫蓮に視線を向ける。
「紫蓮。」
祝には、今の二人はお互いしか見えていないということが痛いほど分かり、その場から退散することを決めた。
「じゃ、俺帰るな。二人に会いに来ただけだし。」
そういい、笑顔を見せる。
「あぁ、じゃ、」
「いいよ。莎子チャンの傍にいてやれ。じゃ、またな。」
紫蓮が送るという前に、祝はそれを先取り、必要ないと制止する。そして笑顔を残したまま部屋を去り、南条邸を後にする。しばらくは扉を眺めていた紫蓮だが、莎子の一言で我を取り戻す。
「紫蓮。」
呼ばれた瞬間に我を取り戻し、振り返り莎子を見る。そして、無意識のうちに莎子を呼ぶ。
「莎子。」
そして、莎子の傍に寄り、莎子に触れられる所まで近付き、一番近い所に座る。その瞬間、紫蓮の長袖口が揺れ、それにより莎子の眼に入ったものが、莎子の心をこの上ない程揺さぶった。
「これは…、あたしが付けた傷…。」
莎子の眼に映ったのは、あの廃墟で莎子が付けたナイフの切創(せっそう)の痕。それほど深くはないが、量が多く痛々しい。その一部に優しく触れ、なぞりながら聞くと、紫蓮は予想通りのことを言った。
「これくらい平気。」
平然とした顔で言い、余裕そうに笑みも見せる。その顔が、莎子に罪悪感を募らせる。
「…ごめ…ん、なさい。」
莎子は俯き、眼に涙が溢れ始める。紫蓮を殺そうとしたのはあの老人に言われたから。騙されていたのだと分かった今、紫蓮への申し訳ないという負い目で涙が溢れてくる。だが、紫蓮はそんなことを気にしてはいない。莎子には、あの老人しか縋る者がいなかったのだと、割り切っている。
「謝ることない。そうだ。これは莎子に返すよ。」
紫蓮は思いついたように首から架けていた赤と黒の蝶を外し、俯いていた莎子の顔を上げるように促し、顔を上げた莎子に見せる。
「これ…。」
莎子の姉が初めて造り、紫蓮の両親に譲った、赤と黒の蝶。ペンダントと指輪、ピアスの三点セットの作品の一つだ。
「莎子が持ってた方がいい。あと、これも。」
それに引き続き、左手の中指に嵌めていた指輪も外し、莎子に渡そうとする。
「紫蓮!」
莎子は名を呼ぶことで紫蓮を制止しようとした。だが紫蓮はその制止を押しきり、はっきりと告げる。
「いいんだ。でも、これだけはいいか?ないと落ち着かないんだ。莎子は穴開けてないし。」
髪が触れている右耳のピアスに指を添える。それを見た莎子は、紫蓮から眼を逸らすように横を向き、また涙を流す。
「紫蓮…あたしは、紫蓮を傷付けてばかりだ…。」
莎子の紫蓮に対する負い目が消えず、寧ろ強まってしまう。紫蓮が気丈に振る舞えば振る舞う程、罪悪感が生まれる。そんな感覚がとてつもなく嫌になる。泣きながら呟いた言葉に紫蓮は素早く反応し、莎子がこれ以上苦しむことのないように優しく諭す。
「莎子、今までのことは気にするな。新しくここから始めよう。」
その言葉に、莎子の中の何かが変化し、形を変えた。涙を溢れ流しながら紫蓮にしがみつき、長袖の裾を握り締めるように掴む。そして、子供のように泣いた。今までを全て捨てることは出来ないけれど、紫蓮の気遣いが何より嬉しかった。しばらく紫蓮の胸で声を出して泣き、泣き疲れた莎子は静かに眠っていた。紫蓮はそのまま浴衣姿の莎子を抱き抱え部屋のベッドに寝かせ、軽い掛布団を掛けて部屋を出た。部屋を出て、そのまま階段を下りると階段下には心配そうな顔をしている千代がいた。莎子の泣き声が聞こえたらしく、心配を隠しきれない。
「紫蓮坊ちゃま。」
心配そうな様子は紫蓮を呼ぶ声にも出ている程明らかだ。紫蓮は千代と一定の間隔を持った後、千代に言った。
「お願いが…あるんです。…もう一度、この家に住み込んでもらえませんか?」
突然の紫蓮の願いに、千代は呆然と、ただただ紫蓮を見ているだけで、言葉が出ない。紫蓮は今まで以上に真剣な顔をして、千代に正式な願い入れとして接した。真剣な眼差しをし、その眼差しは覚悟の眼差しだった。
「莎子には、あなたが必要なんです。あなたが昔使っていた部屋なら有ります。そこを自由に使っていただいて構いません。…俺じゃ出来ないこともある…。だから、」
紫蓮の真剣な言葉を聞き、千代は話の途中で紫蓮の言葉を遮る。紫蓮の覚悟を感じたのか、それからの言葉を止めた。そしてその言葉に対しての返答をする。
「紫蓮坊ちゃま。…分かりました。坊ちゃまがそこまで仰るのならば、またこの家にご厄介になります。」
そういい、千代は深々と頭を下げる。その行動に習い、紫蓮も深々と頭を下げた。そして礼の一言。
「ありがとうございます。」
互いに頭を上げ一息吐くと、先に言葉を放ったのは千代だった。
「紫蓮さま。…また一回り、ご成長なされましたね。」
その言葉に意表を付かれたかのように驚き、眼を丸くする。そして、千代の紫蓮に対する呼び方が〝紫蓮坊ちゃま〟から〝紫蓮さま〟になっていることに気付き、途端に嬉しくなる。
千代が呼び方を子供向けから一人前のように呼ぶのは、もう成人と認めてくれるからだと代々教わって来た。その千代が、紫蓮を新しく呼び直すことは、成人と認めてくれたということ。先代である紫蓮の父でさえ、二十を越えるまで直してもらえなかったという。この事実が嬉しく、ついつい、紫蓮の顔には笑みが溢れる。そして、振り返り、玄関へと歩き始めながら、千代に向けて言葉を放つ。
「いつまでも子供じゃいられませんからね。」
玄関の扉を明けて、大きく青い空と白い雲を見上げる。そして大きな庭を見渡し、花が列なる花壇の中に、小さくも健気に生きる花を見付ける。名前も知らない花だが、その花を眺めて再び笑みを溢す。
すると、その花壇の花の蜜を求め、蝶が二匹飛んでいた。その二匹の蝶を見て、紫蓮の顔には今まで以上の笑みが溢れる。蜜を求め飛んでいた二匹の蝶は、赤と黒の蝶だった。

2017/05/24 19:27 | 創作男女 / 赤と黒の蝶
赤と黒の蝶  其の陸 懇願
紫蓮が莎子を連れて廃墟を出てから約数時間後。
辺りはすっかり暗くなっていて、場所は人通りの多い都市部に移っていた。
夜の街、夜中でも光が消えることなく街中がざわめきを持っているこの街の、とある高層ビルの一室。そこには、大企業の副社長室がおかれている。その部屋にいるのは二人の男で、二人とも黒い背広に黒板ネクタイをしている。一人は窓際にいて、もう一人は部屋に置かれたデスクの側にいる。デスクの書類を整理しており、かけている眼鏡を指で上げつつ仕事をする。その部屋の主である男が、夜の街の放つ光を眺めつつ、眠気覚ましのブラックコーヒーを口に運ぶと、突然部屋の電話が鳴り響いた。すぐに、仕事をしていた秘書が電話の受話器を持ち上げ、通話に応じる。電話を受けた秘書は相手が誰であるかを確認し、窓際でコーヒーに舌鼓している男に声をかけた。
「副社長、お電話が。」
秘書のその言葉に反応し、男は身体を翻しながら夜の街から室内へと視線を移す。
「誰だ。もうすぐ最終会議が、」
会議まであと十分。本来ならばもうこの部屋自体を出なければならない時間になっている。そんな中、たった今掛かってきた電話に対応することは出来ない。とあしらうところだった。
だが、言葉の途中でその言葉を遮ってまで秘書が相手の名を告げる。
「南条紫蓮さま、と仰って…。」
相手の名が出た瞬間、男は全ての動作を一時中断した。そして相手を再度確認する。
「…紫蓮?」
相手を確認した後、秘書から受話器を受け取る。そして電話の向こう側にいる人物に話の内容を促す。
「紫蓮、どうした。」
電話の相手は滅多に連絡を寄越さない者だが、寄越したら寄越したで何か付属品を持っている。それにしても連絡を寄越すこと自体が珍しい。何かあったのか、と心配をしてしまう。
『兄さん、お忙しい中すみません。携帯が繋がらなかったもので、こちらに…。』
すぐに自分の用件を言わず、初めに会社の電話に掛けてきたことを謝罪する。だが、今時分と連絡を取るならば、ここに電話を掛ける以外に方法はなかったはずだ。それを瞬時に思い出し、相手を宥める。
「別に構わない。こっちこそ昼の会議から電源を切っててな。悪かった。」
昼過ぎに行なった会議の際に携帯電話の電源を切って以来、携帯電話の電源を入れ直していなかった。普段ならば会議が終わり次第すぐに入れ直すところだが、今日はその後に欠かすことの出来ない会社絡みの会食が入っており、携帯電話をそのままにしていた。そのため、携帯電話が繋がらなかった原因や落ち度はこちらにある。手早く連絡を取りたいならばここに連絡するべきだと考えたのだろう。いつもならば人に頼ろうとはしない者が、自ら連絡を取ろうとしたのは何か自分の手には負えない訳があるはず。
「…で、どうした。」
用件は一体何なのか。核心を突くと、相手は言い難そうに引け目な態度の物言いをする。
『実は、…お願いがあります。』
〝お願い〟など珍しい。いつもならば自分でするであろうことを態々人に頼むということは、何かあるのかと思考を巡らせる。話を聞くと、相手が何を考えているかが何となく分かる。
「…分かった。調べる。」
一通り話を聞き、了解の相槌を打つ。
口調、雰囲気、癖、ちょっとした仕草。いろんなところに〝あの人〟の面影を感じて、思い出す。成長するにつれ段々〝あの人〟に似てきて、そんなとき改めてこいつは〝あの人〟の子なのだと実感する。
「…紫蓮。」
『はい。』
声すらも〝あの人〟に似ている。
不用意に名を呼んでも、何か言いたいことがある訳ではない。今まで職業柄、仕事が忙しくなかなか会う機会を作れなかった。もう何年も会っていないが、元気にしているだろうか。我が子を心配する親心とはこういったものなのか。
「いや、何でもない。」
そう言い、軽く挨拶をしてから通話を終え、受話器を元の場所へ戻した。
そして、ふと自分の中の全てが虚ろになる。
「………今でも思い出すな…。」
感傷に浸っている訳にはいかないけれど、思い出すのは、遠い日の〝あの人〟との記憶。



***


「兄貴!」
突然、書斎の扉が大きな音を立てて勢い良く開かれた。
自分を呼び、書斎に入って来たのは年の離れた自分の従弟(いとこ)。
いつもなら家の教育上、扉をノックし、返事を聞いてから入室するようにしているが、今日はそんな粗相を咎めるような日ではなかった。
「どうしたんだ、清芳(さやか)。」
机に向かい書類整理をしていた手を止め、勢い良く飛び込んで来た理由を問うと、今年十二になる従弟の清芳は太陽のような笑顔を向ける。
「子供!生まれたんだって!?」
子供とは、妻が妊娠していた胎児のことだ。今日、無事この世に生を受けた愛しい我が子。
産まれた胎児が男児であることは、出産までの定期検診で分かっていたが、誰にも話してはいない。我が家の、我が一族の大事な跡取りのため、親戚中が吉報を心待ちにしており、一人に報せると一時間後には一族全体に広がっていたようだ。
従弟の清芳がこの家を訪れたのはそのためだろう。
本来ならば、明日以降に正式な出生を報せる案内を出すため、今日挨拶に来る者はいない。皆、出産祝いの引出物などの手配に追われている。そんなことをまったく気にせず飛び込んで来るのは、清芳がまだ子供だということと、南条ではないということ。
「あぁ、今日の日付が回ってすぐな。丁度お前と一回り違う。」
干支が同じだな。
そう付け足し微笑むと、清芳は嬉しそうに返す。
「兄貴とは二回りだよね。」
干支、一緒だね。
その言葉を聞き、再度笑みが溢れる。
「俺とお前が一回りだからな。」
従弟の清芳とは丁度一回り違いのため、十二歳違うことになり、干支は同じだ。そしてそこに産まれたばかりの子供も加わることになる。丁度清芳と一回り違いだ。
「一回りずつ違うんだ。」
子供と清芳が一回り、清芳と自分が一回り。一回りずつという偶然に運命を感じたりもする。
「そっかぁー。…生まれたんだー。」
再度子供が産まれたことを実感する。母体の中にいたときから、産まれるのを純粋に誰より心待ちにしていたのは清芳だ。
「お前は俺の従弟(じゅうてい)だから、紫蓮は甥じゃなくて従甥(じゅうせい)だな。」
兄弟ならば甥だが、清芳との血縁関係は父と清芳の母が兄妹で従兄弟(いとこ)ということになり、名称としては〝従甥〟が当てはまる。そう言った後、清芳を見ると、きょとんとした顔をしていた。そして、そのまま口を開く。
「〝紫蓮〟?」
清芳は初めまして聞く名に多少の驚きを表したが、納得する事柄を述べるとすぐに馴染んだ。
「あぁ、名前だ。」
名前は前から決めていた。誰にも話していないとはいえ、産まれる前から男であることは判っていたのだから。
「〝紫蓮〟ってゆーのかぁー…男?」
清芳は産まれたばかりの胎児の名を呼び、性別を確かめた。名前の感じから性別を判断したのではなく、文脈から性別を導き出した。
「〝従甥(じゅうせい)〟って言ったってことは男だよね。」
この場合、男なら従甥(じゅうせい)、女なら従姪(じゅうてつ)と呼ぶことになる。これと同類の言葉で清芳を表すならば、従弟(じゅうてい)になる。一族が多いこともあり、直系から繋がる身辺関係や血縁関係は特によく教え込まれている。従甥や従姪など、十二歳の子が理解し、使えるものではない。それらのことを考慮して、それなりの教育を受けさせたため、文脈から答えを導き出すことは然程難しいことではない。頭の回転も悪くない。
「その通り。」
年の割によく勉強をしていて、よく回る頭を持っている。端から見れば生意気に見えるかもしれない。だが、壮大な家名にはそれくらいの度胸がなければならない。実質上、清芳は南条の者ではないが、一族の血を引いていることは確かで、両家の教育方針に従う謂れはある。まだ十二歳だが、不仲で今にも離婚届に印を押しそうな両親の間でさぞ苦しんでいるだろう。清芳は安らぎを求めてこの南条邸に顔を出すといっても過言ではない。幼いながらに苦しみながら、言われたことは全てこなしている。勉学も運動も作法もあらゆることを。そんな中、まだ芽生えたばかりの小さなものだが、行く末は期待できる。
「まだ会えないんだよね。楽しみだなー紫蓮。」
清芳は笑みを溢しながらそういうと、部屋の中央に位置する会談用の対するソファーの一つに座り込む。産まれたばかりの胎児のことを考えながら会える日を心待ちにしている。その姿がとても微笑ましい。清芳は今までずっと年上の大人に混ざって過ごして来たため、年下の血縁者が生まれることが未知数のことで楽しみなのだろう。
清芳の顔から笑みがなくなることがない。少しでも長く、笑顔でいてほしい。
そのために今出来ること。
「…清芳。」
小さくもはっきりと放った言葉に、重苦しさはなかっただろうか。とても大事な話があり、清芳の名を呼んだ。その呼びかけに、清芳は明るく聞き返す。
「何?」
微笑ましさを残している清芳を見て、話すための最終決意をした。
「紫蓮を頼むぞ。」
突然脈絡のない言葉を放ったが、清芳は思いの他、動揺していなかった。驚いてはいるようだが、動揺している様子はない。この言葉に込められた〝本意〟を瞬時に理解したのか。
清芳は驚いた顔を元に戻し、ただ一言、問いかけた。
「…兄貴?」
〝本意〟を理解したのか、していないのか、それは定かではないが、初めからあれだけの言葉で済ませるつもりはなかった。ちゃんと、はっきり言わなければならない。相手は未だ十二の子供。遠回しに言って通じさせるには若すぎる。
「俺に何かあったら、紫蓮を頼む。」
いつ、何があるか分からない。特にこの柵(しがらみ)の中、直系である自分や我が子はどんな〝事故〟に見舞われるか分からない。それが本当に事故なのか、仕組まれた事故なのか、分からなくなる程壮大な〝事故〟に。
直系が亡き者になれば喜ぶ一族はどれ程いるだろう。芽生えたばかりの小さな芽に対する悦びの祝辞を述べたその口で、その小さな芽を握り潰す算段を模索し、弔辞をも準備する。芽は早い内に摘み取っておかなければならないという原理であり、その時期はいつ来るか分からない。
だからこそ―――。
「紫蓮の支えになってやってくれ。」
この先、親がいつまでも護ってやれるとは限らない。一族内の直系という孤独の中で、親以外に頼れる者を作っておかねばならない。何かあったとき、心の拠り処になるように。
〝心意〟を理解したのか、放った言葉に重みを感じたのか、清芳はしばらくの沈黙の後にいつも以上の笑顔で返す。
「…分かった。兄貴には世話になってるからな。」
その笑顔が、いつもの素の笑顔ではなく、無理をして作った作り笑いだと分かっていた。余りにも重い物を背負わせてしまった罪悪感が身体中に残る。
だが、これからは清芳のこの笑顔に頼るしかない。
そう思い、そっと眼を閉じた。

「副社長、会議の時間です。」
秘書のその言葉に記憶の中から呼び戻される。
あの日から早くももう十七年が経った。あのとき産まれた直系がもう十七歳になった。月日が早く流れていても、どれだけの刻が流れても、あの日の〝あの人〟の顔が眼に焼き付いている。覚悟を決めた〝あの人〟を見た、最初で最後の日。
もう会議の時間。会社で行う本日最後の仕事だ。これが終われば、やっと自宅へ帰ることが出来る。
待っている人の元へ帰ることが出来る。
「あぁ、今行く。」
身辺の必要書類を手に持ち、秘書の待っている扉の近くへ行ったときだった。秘書が男を呼び止める。
「清芳。」
呼ばれたのは、会社の役職名ではなく、男個人の名前。
そう呼び止められ、少々驚いたような顔をしたが、その顔はすぐに元の顔に戻った。会社にいるときは極力名前で呼ばないようにしていて、呼ばれないようにもしている。会社にいるときは副社長と秘書だからだ。だが、その優しくも柔らかな呼び方は学生時代と何一つ変わらない。
そんな彼が好きだから、仕事をする際も秘書として傍に置いた。秘書は半分呆れたように口を開く。
「あまり無理をするなよ。」
その優しげな声と顔に、心地好さを覚えるが、そう言ってもいられない。ふと笑みを返し、ちょっとした可愛い愚痴を溢してみる。
「無理せずに頑張りたいが、無理せずにはいられねーんだよ。」
その小さな愚痴は、仕事上だと思わず、学生時代からの友人の労いの言葉に聞こえたことを、合うように言っただけ。学生時代ならすぐにこう言っただろう言葉。学生時代から続いていた友人関係も、仕事上ではないも同じ。それを承知で秘書になることを承諾してくれた。そのことがとても嬉しく、有難い。
その小さな愚痴に遊び心を加え、宥めるように言った。
「…その辺は解ってくれよ。」
解っていないという訳はないけれど、誰よりも解ってくれているだろうけれど。その言葉と同時に秘書の横を通り過ぎる。すると、秘書は眼を閉じ、軽く会釈をした。
「解っていますよ、副社長。」
友人としての会話はここまで。たった一時でも〝友人〟として息抜きをさせてくれてありがとう。ここからまた仕事上の関係に戻ることになる。でも、不思議と身体が軽くなった気がする。
「さて、行こうか。」
残すところ、大きな仕事はあと二つ。その内の一つを今から片付けに行かなければならない。
二人は今までいた副社長室を出て、会議室へと向かう。

2017/05/24 19:26 | 創作男女 / 赤と黒の蝶
赤と黒の蝶  其の伍 決戦
連日の雨で湿った空気、今にも雨が降りそうな環境の中、人の通らない街外れの廃墟の前に来たのは、南条紫蓮だった。
黒のシャツの上に黒の羽織物を着崩し、パンク系のパンツ。胸には赤と黒の蝶つがいのペンダントが光り、右耳にも同じデザインのピアス。左手の中指にも同じデザインの指輪が嵌められている。約束通り、紫蓮は〝一週間後の金曜日〟この場所を訪れた。
廃墟は錆び付いていて、所々大きく欠けている。図体は意外に大きく、数多とある全南条邸総面積の十分の一ほどはある。だが、鉄の錆び付いた臭いと廃墟独特の臭いが鼻を突く。長年雨風に晒されていたせいか、今にも崩れてしまいそうな出で立ちだ。
「ここか…。」
この独特の雰囲気に飲み込まれそうだが、そう言ってもいられない。この場所に来れば両親の〝本当〟の死因が分かるというのだ。自分が知っている両親の死因は焼死。両親は火事の家の人を助けようと見知らぬ家に入り、炎に身体を蝕まれて死んだ。顔も判らないほど焼けていてやっと残った歯で歯形を調べ、両親であることが判った…と、これだけだ。
勿論、こんな理由をそのまま鵜呑みにしていた訳ではない。だからこそ、真実が知りたかった。雨雲がゆっくり北北西に進む中、紫蓮は決意を新たにした。ここは立ち止まるべき場所ではない、と。そして足を進めた。
廃墟の中に入ると外に居たとき以上に錆び付いた鉄の臭いがした。このきつい悪臭のせいで、既に鼻の感覚がない。辺りは見るからに廃墟というに相応しいものだった。この悪天候の中、灯りも点いていないため、廃墟の中は薄暗い。だが、一歩先が見えない訳ではない。最低限分かることもある。廃墟は横にも奥にも広い。高さもそれなりにはある。広く大きい横幅は全てを見渡すのに時間がいるほどだ。見渡してみると、辺りには硝子が割れて落ちているものがあった。よく見ると、その原形はフラスコや試験管のようで、元薬品会社という肩書きは嘘ではないらしい。奥はどこまでも続いている印象があり、先は暗がりの闇に覆われて見えない。ただ、扉があってもおかしくないところに扉はなく、わざと外してあるようにも見えた。柱も錆び付いていて、屋根も黒ずみ、ひび割れもある。外にいるときは気付かなかったが、中に入ると錆びに混じりまた違った異臭がする。薬品の臭いなのか、若しくは故意に放っている臭いなのか。鼻の感覚がないため、錆びと共にする臭いの正体が判らない。
いつも人の行動を観察する紫蓮は、人だけではなく辺りの建物や動植物にまで観察の眼を向けるようになった。その観察力が今、本当に活かされた自分をこんなところに誘った誘い主は何故この場所を指定したのだろうか。こんな廃墟、この地区に住んでいる人でも存在を知らない。そんな廃墟だ。この錆びきった古い廃墟の中に誘い込み、急に落ちて来た屋根の下敷きになれと言う気なのか。得体の知れない奴だ。いきなりそう言い、こちらを動揺させるつもりなのかもしれない。
いろいろと考えていると、前方先五十メートルの地点に人がいるのが見えた。観察力を養っている紫蓮にはそれが〝あの少女〟とは別人だと判別することが出来た。身長百五十センチ前後の痩せ型で浴衣を着ており、杖をついている老人。性別は男。これらのことを瞬時に頭の中に入れ、相手を見極めた。
こいつが莎子の言った爺様…〝黒い蝶〟か…。
そう思ったのも束の間で、紫蓮の予想以上に早く、老人ははっきりと視界に入って来た。老人の歩く歩幅は紫蓮が思っていた老人という枠の中から飛び出すものだったからだ。その老人は紫蓮の前方十メートル地点で止まり、早々に口を開いた。
「待っていたよ。紫の蝶。」
唐突に挨拶をされたが、それは挨拶と呼べるものではなく、紫蓮の不快感を誘うものだ。故意なのか自然に出たものなのかは定かではないが、紫蓮が反撃をするには充分の要素があった。紫蓮は露骨に嫌な顔をして前髪をかき上げながら言った。
「俺は〝紫の蝶〟ではなく〝南条紫蓮〟なんだが。」
この言葉に目の前の老人は紫蓮を嘲笑うかのように返答した。
「勿論分かっている。そしてお前が今日ここに来た理由は、」
「あんたが知っている俺の両親のことを包み隠さず全て話せ。」
老人の言葉を遮ってまで自分でその続きを述べた。
何よりも、自分の両親の秘密を知っているというのが気に入らない。両親は紫蓮にとって数少ない尊敬する存在だった。それに、紫蓮の両親は各界で知られた著名人、そんな両親をこの世から奪い去ったものが憎くて堪らない。
紫蓮に台詞を先読みされた老人は次の言葉を用意していたのか、紫蓮の行動に動じず淡々と話を進めた。
「まぁいい。教えてやろう。」
明らかに紫蓮より優位に立ったように振る舞う。この態度も紫蓮の怒りを逆撫でするのには充分過ぎた。紫蓮は怒りと苛立ちを押さえ切れなかった。
「お前が全て仕組んだことなのか!」
思わず口から出てしまった言葉。だが紫蓮はこの言葉を出したことを後悔はしていないし、むしろもっと言ってやりたいと思っているくらいだ。紫蓮の勢い付いた問いかけに老人はゆっくりと答えた。
「お前の両親を殺したのは儂だ。」
この一言で、老人が放ったたった一言で、紫蓮の思考回路は冷静沈着から素早く〝違うもの〟に切り替わってしまった。こんなことを言われて落ち着いて居られるほど、紫蓮は人間が出来ていない。普段の紫蓮はどこかに消えてしまっている。
そういう状態になることが相手の思う壺だとしても、何気なく放っていた手が拳になる。怒りが全身から溢れ出し、抑えが利かない。もう制御することが出来ない。
「お前が…、お前がっ!」
意味がないと解っていながらも、二人称を何度も続ける。両親を殺した奴が、今、目の前に。抑え切れない感情を無理矢理抑えつけ、獣が吠えるような低い声で言葉を放った。
「理由は何だ…!」
意味もなくだなんて言わせない。言わせるものか。金か、南条家の莫大な財産か。
だが両親が死んだ後、南条家の金が必要以上に動いたことはない。それに腑に落ちないのは両親が死んで四年も経っているということ。死後直後ならともかく、もう四年も経っている。何故今頃になってなのか、その意図が解らない。だが、そんなことに気をかけられるほど、紫蓮は冷静ではない。今にも目の前の老人に殴り掛かるかというときだった。老人が紫蓮の予想外のことを口走った。
「呪われた浴衣の話を聞いたのだろう?」
呪われた浴衣…?河村が言っていた…あの浴衣!
最初はこのことの意味を理解するのに少し時間が掛かった。だが、すぐにそれが祝の言っていた〝赤い蝶の浴衣〟のことだと解り、この話に反応する。
「あの浴衣は呪われた浴衣だ。」
老人がそう言ったのが、頭の中に強く残った。
「浴衣…赤い、蝶の、浴衣…。」
何か、引っ掛かる。何か。何処かで、赤い浴衣を…。
「あ!」
そう思った瞬間、思い出した。
赤い浴衣。あの日、〝赤い蝶〟と名乗った少女、莎子は赤い浴衣を着ていた。そして、莎子は自分のことを〝紫の蝶〟と呼んだ。莎子とこの老人に繋がりがあることは分かっていたはずなのに。そう思ったとき、この場に莎子がいないことに改めて気付く。
「あの娘(こ)は、莎子は!莎子はどうした!?」
大きく叫び散らしたことに老人が深く感心していたのが分かった。そして紫蓮を嘲笑うかのように笑い、紫蓮に言った。
「紫の蝶よ。赤い蝶は自分の名を名乗ったのか?」
その言葉の意味は聞かなくても分かる。この老人は紫蓮の両親が本業と共に探偵も兼業していたことを知っているのだ。
紫蓮の両親が初めて出会ったのは探偵としての会合があるときだったらしい。既に祖父の息子として各界に知られていた父は、各界の南条の仕事を必要以上にこなし、探偵業もしていた。南条という家の肩書きを捨ててでも探偵をしたいから。と祖父を説得したらしい。そして同じ探偵業をしていた母と出会い、結ばれたのだと聞いた。両親が探偵をしていたという事実から、紫蓮は探偵の心得を持っていて、尚且つ、探偵の知り合いもいる。
そのため、〝赤い蝶〟から莎子を導き出したのか。という意味だったのだ。
だが、そんなことはしていない。明らかに情報不足だったからだ。その事実を隠すつもりはなかったが、老人はそのことを先読みしていたらしく、含んだ笑みを見せていた。
「まあ、いくら南条でも情報が少な過ぎたか。」
最早、少な過ぎたという問題ではない。手掛かりすらないのだ。探せる訳がない。老人とのやり取りで、紫蓮の中に冷静ないつもの紫蓮が少しずつ戻って来る。
「…何が言いたい。」
そう凄みを利かせて言うと、老人はそれを軽く受け流した。やはり亀の甲より年の甲というだけあって、かなりの山場を乗り越えて来たのか、人生のいろはも知らない子供一人の凄みなど恐るるに足らん。と思っているのだろう。
「何でもないさ。」
と軽く嘲笑った。老人はそう言ったが、紫蓮にはとてもそうだとは思えない。すると老人は紫蓮の様子を観察し、言葉を放つ。
「莎子が着ているのは正真正銘、呪われた赤い蝶の浴衣だ。」
この言葉を聞いた紫蓮は莎子と初めて会ったとき、莎子が赤い浴衣を着ていたことを再度思い出した。あのときは夜で辺りも暗く、蝶の模様が判別出来なかったため、蝶の浴衣だとは知らなかった。あの呪われた浴衣。情報屋の祝ですら現在所在が分からないという浴衣を莎子が着ている。恐らく、莎子が着ている浴衣を留めている黒い帯も噂の黒い帯なのだろう。
ふと老人を見ると、先程からは想像もつかない悲しげな顔をしていた。そのときは何が理由なのか分からなかったが、その後すぐに聞いたあの言葉が真実なのだろう。とても悲しそうな顔の理由は。
「儂の息子が作った…な。」

「息子…?」
紫蓮が問いかけると、老人は一度紫蓮を睨むように見た後、静かに口を開いた。
「お前は南条の息子だ。全てを話してやろう。」
そう言い、老人は赤い蝶の浴衣のことを話した。まるで祖父母が孫に聞かせる、昔話のように。

赤い蝶の浴衣を作った浴衣職人は〝黒い蝶〟と名乗る老人の一人息子だった。
老人は息子が貴金属業者の娘と婚約し、結婚するのを心待ちにしていた。
だが、婚約者の女性が強盗の人質になり、理不尽な最期を迎えてしまった。そのため、浴衣職人である息子は怒り狂い、彼女との思い出が深く残った赤と黒の蝶を象った浴衣を作った。
何故、赤と黒の蝶なのか、それは彼女が貴金属を扱う職人として。初めて自分で造った貴金属の品が〝赤と黒の蝶〟というものだったからだ。まだ試作品でこの世にひとつしかないもので、彼女がその試作品を浴衣職人に見せた後、何者かに盗まれたのだという。
そのことから、本当は結婚したら自分用の黒の蝶の浴衣と彼女用の赤い蝶の浴衣を作り、二人で縁日に出掛けようと思う。と語っていたのだ。だが、婚約者である彼女が死んでしまい、生きる希望を失った浴衣職人は、彼女が死んでから想いを繋ぎ留めるために赤い蝶の浴衣を必死に作った。彼女が着るように。と。そのため、浴衣職人が死に浴衣が人手に渡ると、怨念が染み込んだ浴衣は災いを呼んだ。
その後、いろんなところを回った浴衣は、所有してから一ヶ月以内に持ち主を呪い殺す浴衣として有名になり、その直後行方が分からなくなっていた。

話を一通り聞き終わり、謎は全て解けたかのように見えた。だが紫蓮にはまだ解せないことがあった。深く考え込み、使える頭を精いっぱい回転させ、ゆっくりと言葉を放つ。
「まだ解らないことがある。何故着た者が次々死ぬ中、莎子は死なないのか。まさかまだ一ヶ月未満だからという訳じゃないだろう。それともう一つ、浴衣職人が自分の作品に付けるという印、あれは複製出来ない物だと聞いた。それは何故だ。」
紫蓮は少しの間も空けず、素早く疑問を突き付けたが、紫蓮のこの問いに老人はゆっくりと重い口を開く。
「複製が出来ないのは、血がついているからだ。」
老人のこの言葉に紫蓮は驚きを隠せなかった。血がどうした。という顔をしている。すると老人は続けてこう言った。
「印は、白い布を自分の血で染め、そこにサインの刺繍をし、それを作品に縫い付けていたのだ。」
血…血は世界中にいる全ての生物が違う血を持っている。同じ血を持つ者は居ない。その例外となるのは双子や三つ子といった、産まれながらに持つ自然型クローンだけとなる。そのただ一つの例外である自然型クローンがいなければ複製は不可能だ。
「DNA鑑定をすれば一発で判るということか。」
結論に達し、自分で口に出して言った後、今度は納得の意を表した。
「なるほど。DNAばっかりは誤魔化せないからな。」
血液系の遺伝子だけではなく染色体や身体全体に関わってくることだ。現在の最先端の技術を要しても誤魔化すことは出来ないだろう。だが、浴衣の件が分かっても、莎子が死なない理由はまだ分かっていない。紫蓮は放っていた手を上げ、腕を組む。
「じゃあ、莎子の件は。」
莎子の件が分からなければ、この話に終結はない。老人は返答を止まり、すぐに答えを表に出さなかった。だが、今更隠すこともないと思ったのか、溜め息混じりに言う。
「…莎子は息子の婚約者の妹だ。」
この発言に紫蓮は息を飲んだ。
息子の婚約者の―――。
「妹…!」
紫蓮の驚きとは裏腹に、老人は事情聴取の決定打を見せ付けたかのように言った。
「あの浴衣は彼女と同じ血が流れている莎子には、全く拒絶反応を起こさない。」
一拍置いて、核心を突く発言をする。
「そのため、莎子が死ぬことはない。…現に莎子は一ヶ月以上あの浴衣を着ているが死なない。」
そして、現在状況を含め結論付ける。だが、紫蓮にはまだ納得出来ないことばかりが残る。組んでいた腕を組み直し頭の中を整理する。
「…その話が全て本当だとしよう。じゃあ疑問が残らないか?」
頭の中を整理した結果、このことに気がついた。
「莎子はどうしてあんたと行動を共にしている。姉が死のうが生きようが両親と一緒に暮らせばいいことだろ。」
この老人と一緒にいる意味はない。況してや、姉が死んだショックで余計に両親を求めたりするものだ。そのことを突いてみると、老人は思いがけないことを口走った。
「莎子の両親は莎子が十のときに死んでいる。…莎子は姉である彼女と二人で暮らしていたのだ。」
数秒という間を空け、次の言葉を出したとき、紫蓮は莎子との繋がりを感じた。
両親が居ない。残されたのは自分だけ。
紫蓮の側には千代がいて、莎子の側にはこの老人がいたが、それでも埋められない悲しさや寂しさがあるものだ。紫蓮は元々一人っ子で兄弟が居ない寂しさがあり、莎子は莎子で姉妹として姉がいたにも関わらず、急に死んだ寂しさがある。
そう思っているときに、老人の顔付きが変わってきたのが分かった。顔だけではなく、眼までもが、何か夥しいものを感じさせる。何か、良くないものが来る。探偵をしていた両親の元で育ったためか、洞察力には優れている紫蓮だからこそ、分かった感覚かもしれない。老人が紫蓮を睨みつける。その眼は如何にも人を一人殺したような、恐ろしく冷たい眼をしている。
「そして、その彼女の試作品を盗んだのが、お前の両親だ。」
老人が放ったこの一言に動揺が隠せなかった。嘘だという可能性も充分にある。老人の言葉が全て真実とは限らない。だが、面と向かってそう断言されると、流石に苦しいものがある。頭の中で老人に言われたことが木霊する。
そして、口から飛び出した言葉は、老人の放った言葉を自分の立場に置き換えたものだった。
「俺の両親…!」
この言葉を聞いた老人は、ここぞとばかりに紫蓮を攻め立てる。鬼の形相で紫蓮を見ては、怒りをオーラとして醸し出している。
「そして、今、お前が身に着けているそれが彼女の造った試作品〝赤と黒の蝶〟だ。」
この言葉に紫蓮が今まで以上の反応を示す。
先程両親が盗んだと言われたものは、息子の婚約者が造ったという作品は、両親の遺品として、財産の一部として相続した、この赤と黒の蝶だったのか。つがいの赤と黒の蝶のピアスに、ペンダント、そして指輪。この蝶たちが。
そう思い、胸の前で組んでいた腕を自由にし、左手を目の前に持って来て、中指に嵌めてある指輪を見つめる。そして右手は右耳にしているピアスに触れさせる。そして改めて実感するのだ。
「赤…と、黒、の…、―――蝶…!」
この蝶たちが、赤と黒の蝶だということを。
この蝶たちが、両親の物だったということを。
この蝶たちが…―――!
パニックになりながら、身に着けている蝶たちを眺めていると、妙な感覚に襲われた。その感覚を感じたのは直感だったが、自分の直感には自信がある。探偵をしていた両親に鍛えられた直感だ。外れる訳がない。と。
その瞬間、老人が着ていた着物から即座にナイフを取り出した。本数は三本。そう認識した直後、老人は勢いよく振りかぶった。
「紫の蝶。その蝶たち、返してもらうぞ!」
そして紫蓮に向けて振りかぶったナイフを投げた。紫蓮は咄嗟の判断でその三本のナイフを避け、後方に飛び逃げる。老人が投げた三本の内、一本は捨て駒で最初から紫蓮に当たるはずがないものだったが、あとの二本は違った。その内の一本は確実に紫蓮の身体、心臓を狙っていた。そしてあとの一本は紫蓮の足を。
老人は若い頃にスポーツをしていたのか、咄嗟の判断で避ける力と両親に鍛えられた直感、そしてずば抜けた運動神経、この中の一つでも紫蓮に欠けていたら、紫蓮は負傷していただろうというほど、正確な投げ口だった。すぐに後退し、身を守った紫蓮だが、予期していなかったいきなりの事態に戸惑い気味だ。
だが、先方は紫蓮の気持ちなど考えてはくれない。すぐさま体制を立て直したそのとき、老人の叫ぶような声がこの広い廃墟に響き渡った。
「紫の蝶を殺せ!」
このとき、再び紫蓮を只ならぬ妙な感覚が襲った。それは、両親から何度も教わった、殺気立った気配。誰かが殺気を持ちながら自分を見ている。そんな気配がした。そして、先程の老人の叫ぶような言葉から一秒も経たないうちに、違う言葉が紫蓮の耳に入り込んで来た。
「莎子!」
この言葉に、必死に感覚と。両親に教え込まれた技術の部屋にいた紫蓮は一気に我に返ることとなった。最初に老人が出て来たこの部屋の向こう側とこの部屋との境界線に、殺気を立てた莎子が俯き、右手にはナイフを持ち紫蓮に姿を見せる。長い黒髪に赤い蝶の浴衣。莎子の身体は赤と黒で埋め尽くされている。部屋と部屋の境界線に立っているのが莎子であることを認識するのに、大して時間は掛からなかった。
「莎子…。」
紫蓮がそう呟くと、莎子は少しの反応を見せた。長い黒髪が廃墟の中に通る風で揺れている。すると莎子は俯いたまま一言呟いた。
「久しぶりだな。」
そして、俯いていた顔を上げ、紫蓮をじっと睨み、囁くような小さな声で言った。
「紫の蝶。」
それだけ言うと、莎子は紫蓮に向けて一直線に走り、ナイフの刃先を紫蓮の顔へ向けた。紫蓮はそんな莎子の攻撃を交わしながら後ろへ向けて後退りする。莎子は無差別に紫蓮を攻撃して、紫蓮の髪の毛先を切り落とし、服を切り裂いてゆく。莎子の無差別な攻撃に上手く対応して身は守っているものの、いつ怪我をしてもおかしくはない状態まで来ている。持久戦になれば、圧倒的に紫蓮の方が不利になる。ただでさえ、莎子はナイフを持っているが、紫蓮は身一つだけ。この状況でも圧倒的に不利なのは紫蓮の方だ。莎子の無差別攻撃を避けながら、余裕のない状態でも紫蓮は莎子に叫ぶ。
「止めろ!莎子!」
だが、その呼びかけが通じる相手ではない。莎子は今、紫の蝶を殺す。ということしか頭にない。それ以外のことが考えられないのだろう。莎子の眼は真剣そのもので、その眼にまで殺気が漂っていた。やっと口が開いたかと思えば言うことはたった一つ。
「死ね!紫の蝶!」
そう言う莎子を何とかするには、気を失わせて戦闘能力を無くさせるのが一番良い方法なのだが、紫蓮には莎子に手を出したくないがために逃げるだけの戦法しかない。だが、紫蓮はこのとき、莎子と戦いながらもある状況の変化に気付いた。
老人がいない。先程まで自分と話をしていた老人が、この場にいない。それと同時に老人と莎子が出て来た奥の部屋から先程までは感じなかった異臭がする。この独特な鼻につく臭いは、――――――!!
「ガソリン!」
異臭の正体が分かった紫蓮は思わずそう叫ぶ。これで老人の考えていることが解った。あの老人はこの錆びきった廃墟に大量のガソリンを撒き散らし、火を放つつもりなのだ。莎子を道連れにしてまで、紫蓮と心中する気なのだと。そんなこと、させる訳にはいかない。況してや自分たちだけならまだしも、莎子まで道連れにするなんて。そう考えているうちに老人はポリタンクを持ち、再び紫蓮と莎子のいるこの部屋に戻って来た。そしてポリタンクの中身を部屋中にぶち撒けていく。
「おい!止めろッ!」
莎子の無差別攻撃を交わしつつ、老人に向けて声を張り上げたが、老人は紫蓮の声が聞こえているにも関わらず、ポリタンクに入ったガソリンを部屋に撒くことを止めはしない。人の声が耳に入らない屍人形のように、ポリタンクを逆さにし、部屋中を駆け摺り回る。
「止めろっつってんだろーがっ!おい!」
言葉遣いが荒くなりつつも必至にそう叫び続ける紫蓮だが、老人に紫蓮の声は届かず、老人はこの状況の最も、最悪なパターンを選ぼうとしていた。
部屋中に撒き尽くしたガソリンの上で、老人は浴衣の袂からマッチ箱を取り出し、その箱の中からマッチを一本取り出す。そしてマッチ箱の背中でマッチを擦る。紫蓮が莎子の対応に追われ、莎子の相手をしているうちにここまでの作業が済んでいて、次に紫蓮が老人を見たとき、既にマッチの先には火が点いていた。この瞬間、紫蓮は全てを理解し、老人に向けて叫ぶ。
「止めろぉーッッ!!」
紫蓮のその言葉と共に、老人は火の点いたマッチをガソリンでいっぱいになった廃墟の床に落とした。

一瞬の出来事だった。
廃墟は一気に燃え上がり、辺り一面を火の海と化す程の燃え上がり方をする。南条邸の総面積の十分の一程ある、錆びきったこの廃墟を丸々燃やし尽くすのに一時間もかからないのではないか。と思える程の炎。
火を点けた張本人である老人は、壊れた人形のように大声で笑い、我を失っていた。最早、自分が何をしたのかも分からないのだろう。ただ燃え上がる炎の中、不気味に笑い続けている。
そしてこの炎の中でも莎子は紫蓮を狙い続ける。ナイフを振り乱しては至るところを切り裂いてゆくのだ。ただ、紫蓮がバランス良く避けているため、未だ致命傷となる大きな怪我や傷はなく、服と共に切り裂かれた肌が数多く存在し、赤く毒々しい血が流れるだけだ。無差別に振りかざす莎子の刃を掻い潜り、多くても切創(きりきず)だけで済むのは日頃訓練受けてきた紫蓮だからだろう。だが、炎が建物をどんどん蝕んでいくため、錆びきった廃墟はいつ崩壊するか分からない。それに燃え盛る炎の中では酸素も限られてくる。早くこの場から逃げないと、一酸化炭素中毒で死ぬという笑えない死に方をすることになるかも知れない。炎に蝕まれて死ぬなど、両親と一緒だ。考えたくはないが、紫蓮の頭にそのことがよぎる。
いち早くこの場から逃げようとするが、莎子はこの場から逃げるよりも紫蓮を殺すことに全神経を集中させている。そのせいか、上手く逃げられない。廃墟の角の方まで逃げるとフラスコや試験管の割れた硝子が落ちている。
「ちっ!」
この危険な廃墟に思わず舌打ちが出る。早くこの場を何とかしたい紫蓮だが、莎子の止まぬ攻撃に顔を歪めるばかりだ。角に行ったのは少しでも休息をするため。角を使って一定の距離感が生まれれば、それこそ攻撃がしにくくなる。そして紫蓮の思い通り、莎子は一定の距離感を持ち立ち止まった。二人が向かい合う。炎が燃え上がり、徐々に酸素が少なくなる。そうなると殺される前に死んでしまう。この状況を何とかするためには、紫蓮がどうしてもしたくなかったことをしなくてはならない。どうしてもしたくなかったが、覚悟を決めた。
「莎子!」
息を精いっぱい吸い込み大声で莎子の名を呼ぶ。莎子は呼ばれたことにより改めて紫蓮を殺すことに集中する。だが、莎子が全神経を紫蓮に集中させることよりも早く、紫蓮が莎子との間合いを縮め、莎子の腹部を拳で殴る。
「う…!」
莎子の呻き声が小さく聞こえ、そのまま莎子は眼を閉じた。そして力の抜けた莎子の身体を紫蓮が優しく包み込むように抱き、出口へと急ぐ。段々と呼吸がし難くなり苦しい。これは早くしないと本当に死にかねない。出口に向かい、廃墟から出ようとしたそのとき、後方から声が聞こえた。
「紫の蝶!」
その声は明らかに老人のもので紫蓮が振り返ると壊れたかのように叫び散らした。
「お前はここで死ぬのだ!」
だが、こんな所で死ぬ気もなければこの老人の言う通りにする気もない。莎子を抱えながら燃え盛る炎の中、紫蓮は老人に向けて、どうしても言いたかったことを言おうと思った。
紫蓮は狂いかけている老人に、冷たく鋭い眼を突きつけ、言葉を放った。
「俺の両親はあんたの思ってるような卑怯な人間じゃないんだ。」
そして、早く逃げた方がいい。とも言い残して燃え盛る廃墟を後にした。
苦しながらもやっとのことで廃墟を出ると、炎とは違った赤い消防車が見えた。そして、警察とロープで仕切られた向こう側には多くの人だかり。その人だかりの中に親友の河村祝の姿がある。祝は廃墟から出て来た紫蓮を確認すると、大声を上げて警察の制止を突っ切り紫蓮の元へ駆け寄った。
「紫蓮!!」
「河村…。」
名を呼んだと同時に紫蓮は地面に膝を付く。そして莎子をゆっくりと地面に寝かせる。再度息の切れた声で祝を呼ぶと、祝は心配の色と安心の色を見せた。そして紫蓮が抱き抱えている莎子に眼が行く。
「…紫蓮、この娘(こ)は…。」
紫蓮が知らない女の子をこの炎の中、どういう経緯で運んで来たのか、また、どうして女の子と一緒にこんな廃墟にいたのか、疑問は尽きない。だが、紫蓮は祝の多々ある疑問に答えることなく、着ていた上着を脱ぎ始めた。
「気絶しているだけだ。すぐに気が付く。」
紫蓮が上着を脱いでいるのを見ると、祝は急に何かを察したのか、勢いよく紫蓮の腕を掴む。
「紫蓮!まさか、中に入る気じゃないだろうな!?」
祝の言葉に違いはない。紫蓮はもう一度中に入るつもりだったのだ。あの老人を連れ出すために。廃墟にガソリンを撒き、火を放った張本人だが、まだ分からないことがある。自分の両親のことを悪く思われたまま死なせる訳には行かない。そう思い、あぁ、行く。とだけ返し、燃え盛る炎の元である廃墟に再び入ろうとしたが、すぐに制止の言葉が掛かった。廃墟に入ることを止めたのは、祝ではなくその場に来ていた消防士だった。
「君!何を言っているんだ!こんな火の海に行こうなんて!」
一般常識からいって、そう言う人の方が多いだろう。こんな炎の中に戻るなんて正気の沙汰とは思えない。
「今、救急車を呼ぶから、君もその娘(こ)も。」
消防士は紫蓮を見ていた眼を斜め下に持っていき、〝その娘(こ)〟に眼を移した。
その娘(こ)というのは地面に横たわっている莎子のことだ。莎子は紫蓮が気絶させたため、意識はないがどこも怪我はしていない。寧ろ莎子の無差別攻撃を受けて怪我をしているのは紫蓮の方なのだ。致命的な傷はないが、かなりの量の切創(せっそう)があり、血が出ているものもが数多くある。
だが、紫蓮の意思は変わらない。早く中に行かないと助からないかもしれない。況してやあの老人は正気を失っていた。あのままこの廃墟の中では焼死してしまう可能性も捨てきれない。
「中にまだ人がいるんだ!行かないと…!」
紫蓮がそう言い、廃墟を見上げると、消防士は紫蓮の前に立ちはだかった。
「駄目だ!中に入ることは許さない!」
「でも中に!中に人がいるんだ!」
「もうすぐ突入班が助けに行く!それまで待て!」
この言い争いの声で、紫蓮に腹部を殴られ気絶していた莎子が眼を覚ます。それに最初に気付いたのは祝だった。そしてすぐさま紫蓮に報告する。
「紫蓮!この娘(こ)が…。」
莎子が眼を覚ましたのを確認すると、寝ている体制から起き上がろうとした莎子の側に行き、莎子の様子を伺う。
「莎子、大丈夫か。」
「お前は…。」
紫蓮の姿を見た莎子は一言呟くと、自分の置かれている立場と状況が飲み込めたのか、燃え盛る廃墟を見上げて大声を上げた。
「爺様!」
その後辺りを見渡すが、老人の姿はない。このとき、すぐに莎子の直感がものを云った。
「まさか…!」
そう言い、近くにいた初対面の祝には眼もくれず、祝の側にいた紫蓮の服を掴んで叫ぶ。
「爺様はどうした!」
どうしたと言われても、老人はまだ燃え盛る廃墟の中だ。しかし、そんなことを言えば、莎子は後先を考えない行動を取るのだろう。そんなことが分かっている莎子に本当のことは言えない。
「答えろ!答えろ!!」
紫蓮が何も答えないため、莎子は何度も紫蓮に回答を促した。だが、紫蓮はずっと黙ったままだ。
答えられる訳がない。老人はまだあの中にいるなんて。
だが、莎子もそれ程馬鹿ではない。周りの状況を見て、物事を正確に判断することが出来る。先程の直感も外れているとは思えない。そんな莎子が、廃墟の中に老人がいるということに気付くのに、然程時間は掛からなかった。
「まさか、本当に…?」
自分の考えと直感を信じ、掴んでいた紫蓮の服を放し、廃墟の中に入ろうとした。莎子の考えと行動に即座に反応した紫蓮が、先程消防士にされたように、今度は莎子の前に立ちはだかる。
「駄目だ。莎子。」
紫蓮が莎子に制止の言葉をかける。だが、莎子はそのことに耳を傾けず、確認のためだけに紫蓮に話しかけた。
「…爺様は、この中にいるのか…?」
そこには、今までの強気な莎子とは違い、不安と恐怖に包まれた弱気な莎子の姿があった。今聞くことは、問いかけることは、それしかないというように。そのときの莎子はとても切なく悲しい顔をしていた。莎子にそんな顔をされたら、紫蓮も黙り続ける訳にも行かない。覚悟を決めて、莎子の問いに素直に答える。
「あぁ、まだ出てきていない。」
紫蓮の答えを聞き、自分の前に立ちはだかる紫蓮を煩わしく思ったのか、無理矢理退かせようとしたときだった。誰かの声がその場にいた全員の耳に入る。
「建物が崩れるぞ!」
誰が放ったか分からないその言葉で、その場はとてつもない混乱に陥る。逃げ惑う者、叫び散らす者、と様々だ。一応、野次馬である一般人は、警察によって施された間合いにより崩れても支障のない距離にいるが、紫蓮たちは違う。
紫蓮はこの言葉を聞いて、自分と祝、そして莎子と自分を止めに入った消防士を含む約四人が、崩れそうな廃墟の一番近くにいるのだと直感で認識し、目の前にいた莎子を抱き抱えて前方へ走る。そして近くにいた祝も、消防士もすかさず前方へと走る。しばらく走っていると、後ろから爆音に近い音が大きな音として聞こえて来た。恐らく、燃え盛る廃墟の柱が炎に耐えきれなくなり、崩れた音。走っているときに、廃墟を見ながら遠ざかった莎子だけが、大声を上げ、泣き崩れていた。
「放せ!爺様ッ!爺様ぁ!」
大勢の野次馬はこの莎子の声を正確に聞き取れただろうか。いや、混乱したこの場で、莎子の声が耳に届いた者がいたかどうかというところだろうか。それ程この場は野次馬と廃墟の崩れ去る爆音で乱れきっていた。

その後、無事消防士たちにより火が鎮火され、辺りは静まり返っていた。ただ鉄の焼ける臭いが鼻に付き、警察により野次馬を仕切るロープが立ち入り禁止の黄色いテープに変化し、張り巡らされているだけで、それ以外は何もない、ただの荒地だ。
この火災事件の当事者である紫蓮は、病院に治療を受けに行くことも、警察に任意で事情聴取を受けることもなかった。
「一体どんな手を使ったんだ?紫蓮。」
「…河村。」
かけられた言葉に反応して後ろを振り返るとそこには親友の祝がいて、祝は紫蓮の左横に並んで立った。
事件の翌日の早朝、まだ日も出ていないこんな朝早くに、一人で来たはずの跡地にいつの間にか祝がいて、二人で跡地を眺めていた。どんな手を使ったのか。と聞かれれば、南条の力を使ったと言うしかないだろう。
南条は日本有数の企業で大滝や浅草寺と共に各界ではずば抜けて名を馳せている。南条の名を使えば、大体のことは全て思い通りになる。実際は紫蓮の父が死んでからは紫蓮が南条家の当主であり、学生で未成年だからという理由で紫蓮が傲って来なかっただけで、南条全体を動かすのに紫蓮の一声があれば充分なくらいだ。だが、警察という国家機関は南条の名を使っても骨を折るものがある。そういうときには、少し悔しいが親の七光りを借りるしかない。紫蓮の両親は南条の家業を守りながら探偵をしていた凄腕の強者だ。探偵として警察に依頼され解決した事件も少なくはない。紫蓮は今回の事件で使えるものは全て使ったのだと言える。
祝の問いには、
「警視総監に連絡して『後日、こちらの問題が片付き次第、日を改めて任意の事情聴取に伺います。』と言っただけだ。」
と全てを言わず、軽く流すだけに留めた。たったそれだけで、祝は満足したのか、それとも紫蓮の語らなかった部分をちゃんと理解しているのか、微笑むように笑い、右横にいる紫蓮の首に右腕をかけた。
「珍しいじゃんか。俺の気配に気付かないなんて。」
そう言われると、改めて自分が呆けながら燃えきった廃墟を見ていたのだと思い知らされる。いつもなら半径十メートル以内にいる人の気配には気付くはずなのに、今日は半径十メートル以内どころか、話しかけられるまで気付かなかった。
「何か、吹っ切れたのか?」
吹っ切れた。確かにそうかもしれない。
両親のことを今まで以上によく考え、何かが吹っ切れた気がする。その吹っ切れたものが何なのかと聞かれると困るが、何かは何かだ。
「で、お前は何で、俺がここにいるって分かったんだ?」
笑いながら祝の方を向き、そう問いかけてみる。すると祝は紫蓮の顔をしっかりと見た後、満面の笑みを見せる。
「何でって、決まってるだろ。紫蓮のことだから、」
「何でも分かる。ってか?」
そう先取って言うと、祝は先程より満足げに笑い、ただ一言、
「あぁ。」
とだけ返した。そのときの祝は普段とは違う嬉しそうな顔をしていた。これを機にもう一つ驚かしてやろうと思いついた紫蓮は、祝の喜ぶことを言ってみた。
「…はじめ。」
久しぶりに親友の名前を呼んだ。名前を呼んだのは何年ぶりだろうか。両親が死んでからは人に関わらないようにしていたため、親友の祝すら名前で呼ぶのを止めていたのだ。祝はどんな顔をしているだろうか。見るまでもないだろうけれど、見てみようか。
祝を見てみると、眼をぱちくりとさせていた。予想はしていたけれど。
「…祝。」
紫蓮は再び祝の名を呼ぶ。二度目でやっと実感が湧いたのか、祝は今までにないほどの満面の笑みを紫蓮に向ける。その笑顔に紫蓮も笑顔を返す。
多分紫蓮は、これから親友のことを昔のように〝祝〟と名前で呼ぶのだろう。紫蓮たちのこれからが楽しみだ。

2017/05/24 19:24 | 創作男女 / 赤と黒の蝶
赤と黒の蝶  其の肆 対面
「あのときのあいつの眼を見て改めて確信した。こいつは大物になる、ってな。」
紫蓮の並々ならぬ貫禄や存在感、知性に聡明さ。同じ年頃の者より遥かに秀でているこれらのものを昔から持っている。磨けばもっと光を増すだろうこれらを、磨くものをも紫蓮は持っている。紫蓮が本気になれば、その力は計り知れない。
「それより、」
来夏は紫蓮との話を切り上げ、自らの目的を果たすための話に入った。その言葉に反応して飛乃が先を言う。
「探し物のこと?」
来夏の探し物。
来夏は昔から何かを探している。その探し物が何であるかということさえも、判らないのにずっと探しているのだ。四年前、来夏が紫蓮に拘っていたのは探し物をするために有利な立場にいることが出来るからだろう。一体何なのか、正体不明の来夏の探し物の名。
「〝ai61号ファイル〟。」
来夏がそう呼ぶだけで、これが正式名称かは判らない。だが、来夏が探しているものであることは確かだ。来夏はこの探しているものを見つけるために大滝や浅草寺、そして南条までもコネにしようとしているのだから。
その名称が出ただけで、来夏が反応を表す。飛乃はその後、口元にあった手の人差し指を立てた。そして嘲笑うように言う。
「それなりの物をもらうわ。」
「――――――!!」
この瞬間、来夏の顔色が変わった。飛乃が調べたことの中に、新しく分かったことがあるのだろう。来夏はその事実に食らい付く。
「何か分かったのか?」
即座にそう言葉を放ち、先を急がせる。新しいことが分かったならば、早くその情報を得たい。来夏が急かすように言っても飛乃は核心を話そうとはしない。
「えぇ。」
淡々と相槌を打つことはあっても、先には進まない。来夏はすぐにそのことを察し、腕を組みながら飛乃が望んでいる言葉を出した。
「望みは何だ。」
Give and take. No paine, no gain.
一方的に何かを得ることは出来ない。来夏はその情報に見合う何か、見返りを飛乃に与えなくてはならない。そのために見返りに何を求めるか問う。すると飛乃は一度眼を閉じ、再度開いた。そして呼吸を整えて毅然とした態度で来夏を見る。
「望みは―――、」
飛乃の唇がゆっくりと動く。赤く潤った唇で言葉を一つ一つ正しく出す。
「縁(えにし)よ。」
〝縁(えにし)〟…。つまりは縁(えん)や縁(ゆかり)のこと。
来夏の持つ企業レベルの情報網や機関との繋がり。
飛乃の言いたいことを正しくしっかりと理解した来夏は飛乃の発言から少し間を置いて結論を出した。
「…いいだろう。必要なときに言え。」
これで情報が手に入るならば安いものだという判断基準。
来夏にとって、それほど大事なもの。それほど手に入れたいもの。
「だが、何の為に使う。お前には必要ないものじゃないのか。」
縁など不要に思える程の、権力と資金繰りを持っているのに、縁を必要とする理由が分からない。何か求めているのなら、今持っているものを駆使すれば充分足りるはず。来夏がそう言いたがるのも無理はない。来夏と同等の後ろ盾が有るにも関わらず、その幅を広げるための取引を交わす。飛乃がその繋がりを求めているのは、飛乃にも何かしらの理由があるからだ。
「あなたに〝探し物〟があるように、私にも〝探し物〟があるのよ。そのために使わせてもらうわ。」
手に持っている扇子を持て余して弄ぶ。少し体制を変えるだけで足元の砂利が音を立てる。来夏にとって、飛乃の発言は初耳だったが、それは大した問題ではない。自らの目的に支障をきたさなければ、何処で何が起こっていようと関係ないのだ。
少しの沈黙を置いて、来夏は少しの溜め息を交えて答える。
「まぁ、いい。詳細は聞くものではないからな。」
それと同時に眼を閉じて頭の中で何かを模索する。
「…それにしても…〝赤と黒の蝶〟か。皮肉なものだ。」
眼を開けてからふと来夏の口から出てきた言葉はそれだった。意味があって言ったことであるかは分からない。自然と口から言葉が飛び出した。その発言に飛乃が反応し、耳を傾ける。そしてその発言の意味を問う。
「何か知っているの?蝶について。」
深い意味はなかったのだろう。ただ、何かを知っているのかと聞いただけだ。すると来夏は深く息を吸い、何かを言う準備をした。そしてわざと違う回答をする。
「イタリア語で蝶は〝farfalla〟フランス語では〝papillon〟。」
予想外の回答で飛乃は思わず放たれた言葉を復唱する。
「ファルファッラ?パピヨン…?」
来夏は飛乃の疑問符を他所にそのまま続ける。
「………スペイン語で蝶は〝mariposa〟で、ポルトガル語なら〝porboleta〟。ドイツ語ならば〝schmetterling〟と称されるがこれは蝶と蛾の区別をつけないもので、敢えて区別をつけるなら〝tagfalter〟だ。」
「翠月。」
一段落置いてから、来夏を表す別の呼称で来夏を制止した。別名を呼ばれても来夏は動じない。普段から〝花山来夏〟と呼ばれるより〝翠月〟と呼ばれる方が呼ばれ慣れているからだ。そして、飛乃が自分を制止した理由も分かっている。
「そんなことを聞いているんじゃないのは判っているはずよ。」
飛乃は怒っている訳ではないが、多少の苛つきは感じているようだ。声がいつも以上に鋭さを増している。飛乃の態度に来夏は一息の溜め息を吐く。そして重い口を開いた。
「…調べれば分かることだ。ただ、血は争えないとはこのことを言うのだろうな。」
〝調べれば分かること〟は来夏が誰かを使って調べさせたということ。花山来夏という男は自分で調べ事をするような男ではない。誰かに命じて調べさせたのだろう。それくらいの人員と権威を持っているのがこの男。
「井の中の蛙大海を知らず。されど空の深さを知る。」
来夏は何を思ったのか、脈絡のないことを口にする。発したのは故事で、一般にはあまり普及していない続きまで発せられている。
そして、その故事は昔、来夏がある男に言われたものだった。蝶とも紫蓮とも莎子とも関係のない、来夏個人のことだが、この故事が記憶の隅に残っていた。

『井蛙不可以語於海者。而知空深。』
『俺はずっと井の中にいた蛙だった。その分空の深さは知ったが、やっぱり井の中から出たいことに変わりはない。』
『俺は、お前とは違うからな。』
『お前もそう思うだろう?翠月。』

その男は来夏を別名の〝翠月〟と呼んでいた。それは〝花山来夏〟という呼称を知らなかったからだ。
来夏の中に、当時の記憶が鮮明に蘇る。
そして、その故事を聞いた日から長い月日が流れたが、その日を境に一度も逢っていない。
「昔、ある男が俺に言った故事だ。あれは十三ときだから、もう彼此四年になるか。もう何処に行ったのか分からないがな。」
当時を振り返るように懐かしながら空を見上げると、目の前にいる飛乃が溜め息混じりに毒つく。
「また四年前…。それに調べる気がないだけで、調べようと思えば簡単に現在の所在は掴めるんでしょ。」
確かに来夏にとっては、その男のことを調べて現在の所在を知ることなど造作もないことだ。命じれば小一時間で現在の所在地が分かるだろう。来夏もそのこと自体を否定はしない。だが、それをしないのはそれ相応の正当な理由があるからだ。来夏は空を見上げていた眼を飛乃に戻した。
「あぁ。だが、調べはしない。それが〝約束〟だからな。」
〝約束〟だから、調べることはしない、と結論付けた来夏の言葉に飛乃は驚きを表した。そして、多少嫌味の意味を込めて来夏に冷たい視線を向けながら冷たく言い放つ。
「約束を守るという概念があなたにあったの。」
飛乃の予想以上の冷たい言葉に一瞬来夏が怯む。だが、一瞬の怯みを即座に修正し、微笑で気丈に返した。
「それくらいあるさ。」
淡々と答えると、飛乃の鋭い眼が来夏を刺した。飛乃には別の言い分があるらしく、何か言いたげだ。そして口を開く。
「私と逢うときは〝約束〟じゃなくて〝強制〟じゃない。否定はさせないわ。」
それを聞いた来夏は眼を丸くし、飛乃を見る。そして、ふと微笑を表した。飛乃が言った通り否定はしないが、否定の代わりに出て来たのは故事ではない別の物。
「かくとだに、えやはいぶきの、さしも草、さしも知らじな、燃ゆる思ひを。」
来夏が述べたのは小倉百人一首のひとつで藤原実方朝臣の詠んだ五十一番の首だ。
それを一通り言い終わると、飛乃を睨むように見た。すると、その視線に気付いた飛乃は頭の中を彷徨(ほうこう)する。そして思い当たるものを瞬時に見つけ出し、長文を口から出した。
「こんなにも恋募っているといいたくても、口に出すことが出来ません。この燃えるような私の想いをあなたはきっとご存知ないでしょう。」
飛乃が発した長文はこの句の解かりやすく簡潔にされた意味だ。飛乃の頭の中にはこの類のことが数億単位で収められている。百人一首の一首の意味を述べることも大した手間ではない。
来夏に誘導されたように意味を放った飛乃はそのまま来夏に問う。
「…何が言いたいの。」
自分に意味を言うように誘導して、意味を言わせて何の意味があるのか。そう言いたげな飛乃の問いを来夏は何事もないように淡々と流す。だが、その来夏の顔は心なしか、悲しげに見える。来夏はその顔を刹那に止め、表情を戻した。恐らく、そのこと自体、飛乃は気付いていないだろう。
「別に。ただ、お前は全然変わらないな。」
来夏が溜め息を吐くように言うと、飛乃は眉をつり上げた。艶やかな姿を変化させることなく、美しながら来夏を睨み付ける。
「それはお互い様でしょ。あなたは私以上に変わっていないわ。」
来夏は飛乃を通してどこか遠くを見ている。そして何を思ったのか、飛乃の発言にあっさりと理解を示す。
「それもそうか。………さて、行くか。」
話が落ち着くと来夏は身を翻し、路地から別の場所へ移動するように促した。飛乃もその言葉に反応し、ある問いかけをする。
「大滝ホテルへ?」
大滝ホテルは三大財閥のうちの一つ、大滝財閥の経営するホテルで超一流の者が宿泊するという超一流ホテル。
来夏と飛乃が二人で逢ったときは必ず足を運ぶ場所でもある。そのため飛乃は行く場所が分かっているにも関わらず確認を行なった。すると来夏は当然というような態度で傲って見せた。
「あぁ、いつもの部屋を使う。」
来夏が大滝ホテルでいつも使ういつもの部屋とは超一流特製の特別室。
勿論、来夏が前もって予約をしているとも思えない。それほどの部屋を今から押さえることなど出来るのだろうか。
「…今から空いているか聞くの?」
飛乃が聞いてみると、来夏は少し自慢気に確信を持っている。空いているということが分かるのか、思い込んでいるのか、その辺の詳しいことは分からないが、来夏は自信満々だ。
「空いてるさ。いや、常に空けさせてある。」
「…大滝星流に?」
大滝ホテルの責任者は大滝財閥代表総取締役である大滝星流だ。逆に言うと、大滝星流を使えばホテルの一室を常に空けさせておくことなど、造作もない。そして、大滝星流に連絡を取ることが、来夏には出来る。
「―――あぁ。」
上を見上げると、そこには青く綺麗な空がある。

「なんだったんだ。さっきの…。」
思わず溢れた言葉には紫蓮の本意が現れていた。
紫蓮は南条の直系とはいえ、南条の会社には一切干渉していない。今の経営者でいいと考え、交流もあまり持たない。そのため、暁と面と向かって直接話すのは初めてだったりする。
同じ学校だといっても、紫蓮は祝以外の者とは極力話さない。交流も持たないので、学校で暁と話すこともない。建前の挨拶はあっても中身のある話をしたことはなかった。今回の話も紫蓮にとっては中身のある話とは言えないが。
紫蓮が自宅に着くと、既にいつもの帰宅時間より遅く、多少のズレが生じている。門を開け、そのまま玄関の扉も開けた。
「ただいま。」
「おかえりなさいませ。」
紫蓮が帰宅の挨拶をすると、待ち構えていた千代がすぐさまその返事を返す。そして、祝が紫蓮の自室にいると伝え、それを知った紫蓮が階段を上るところを見送った。紫蓮は階段を上りきり、自室の扉を開け、部屋の中を見た。そして、部屋の隅に置かれた机の前に座り、本を読む祝を確認すると、ふと祝を呼んだ。
「河村。」
「んー…?」
祝は読んでいる本から眼を離すことなく、扉を開けた紫蓮の言葉に生返事をし、話の続きを促す。だが、紫蓮はその生返事から少しの間を置き、答えを出した。
「…いや、いい。」
「なんだよ。」
途中で話を止めた紫蓮に対し、祝はさらに話を促した。だが、紫蓮は答えることなく、祝から眼を逸らす。
「…別に。」
淡々と返事を返し、鞄を机の横に置き、制服を着替えることなく部屋の隅に置かれたベッドに寝転んだ。すると、祝は今までいた紫蓮の机から離れる。そしてベッドに寝転んでいる紫蓮の上に覆い被さり、膝を支えにし、手を紫蓮の両首横に付く。紫蓮と祝の二人が乗ったため、ベッドは紫蓮一人のときよりも少し深く沈んだ。紫蓮を逃がさないように手足を付いた祝は明らかに確信犯だ。紫蓮の自由を奪うと、紫蓮の眼を見て小さくもはっきりとした声で呟いた。
「…紫蓮。」
名を呼ばれたことについては特に何も感じなかった。紫蓮が祝に名を呼ばれるなんていつものことで、特別なことではない。
祝は真剣な眼差しをして紫蓮を見つめる。そして、重い口を開いた。
「俺さ、ここらじゃ結構、情報屋として名が知れてるけど、お前の情報をネタにするつもりはこれっぽっちもないぜ?」
祝は紫蓮のことを一番に考え、紫蓮を特別に想っている。そんなことは紫蓮だって充分分かっている。紫蓮は、祝の言葉から少し間を置いて答えた。
「………知ってる。」
そんなこと、分かっている。言ってしまえれば楽だけど、迷惑はかけたくない。
「俺はお前を信用してるし、信じてるよ。誰よりも。」
祝の眼を見て言った言葉はいつも以上に強かった。
「…そう。お前の意思がそこまで固いとは思わなかった。」
祝はそれだけ言うと、紫蓮の上から退いた。そして紫蓮から視線を外し、俯く。
「俺の負けだ。本当にこれ以上はもう詮索しねーよ。」
祝はいつも通り、普通に言ったつもりだろうが、明らかに様子が違う。それは紫蓮も分かる。紫蓮は祝に隠し事をすることなど滅多にない。だからそこ、今回のことはお互いにとっても痛く、辛いことだ。紫蓮はベッドから起き上がると俯き、祝と視線を合わせないようにし、小さい声を出した。
「…河村。俺、」
「―――紫蓮。」
話し始めた紫蓮を、名を呼ぶことで制止する。そして祝は、今までより少し強い口調で言い放った。
「俺はお前の情報を売る気はない。でも、お前の安全が脅かされるようなことがあれば、他の奴の情報はすぐにでも投げ渡すからな。」
俯いた顔を上げて振り返る。紫蓮の顔をしっかりと見た。
「それが俺だ。」
紫蓮の身に危険が及ぶようなことがあれば、他の奴の情報くらい簡単に売れる。
紫蓮は、自分を見つめる祝に応えるかのようにしっかりと祝を見た。そしてしばらくしてから返事をする。
「………分かってるよ。」
それを見た祝は、何も言わず前髪をかき上げた。そして深い溜め息を吐く。
紫蓮は一度決めたことは覆さない。それが大事なことであればあるほど、覆さない。そんなことは端から承知のはず。改めて思い出し、自分自身に言い聞かせ、再度溜め息を吐いた。
「…ならいい。」
無造作置かれていた自分の鞄を後ろ手に持ち、紫蓮に背を向けた。
「今日はもう帰るよ。」
首だけを後ろへ向け、紫蓮に別れの挨拶をする。そして早々に身支度を始めた。
それを聞いた紫蓮はこの上なく小さな声で呟く。
「………やっていかないのか。」
祝が来ると八割の確率で行なっていることをせず、早々に帰ろうとする言葉に思わず紫蓮の口から本音が溢れた。その言葉や紫蓮の意思に従いたかったが、祝は気持ちを押し殺した。そしてゆっくりと再度振り返り、紫蓮に精一杯の作り笑顔を見せる。
「…また今度な。」
身支度を終えた祝は作り笑顔を見せてからすぐに部屋から出て行き、千代に軽く挨拶をすると南条邸からも早々に出て行った。
部屋には部屋の主である紫蓮が一人。
祝が吐いた二つの溜め息より遥かに大きく深い溜め息を吐いた。

無造作にジーンズのポケットから携帯電話を取り出した来夏は徐(おもむろ)にどこかへ電話を掛け始めた。
『…はい。』
相手が電話に出たらしく、若い男の声がした。声の主は来夏と同年代ほど。比較的若い。
「―――大滝星流、今から行く。いつもの部屋だ。」
来夏は相手を〝大滝星流〟と呼んだ。
この電話の主こそ、先程から頻繁に話に出てくる、大滝財閥代表総取締役社長の大滝星流本人である。
『今から?また急だな。』
来夏は予約もなしに、今から行くとの一言で大滝財閥経営の大滝ホテルに行こうとしている。来夏が星流に自ら電話を掛けるときは大体がそうだ。今回も例外ではない。一流企業の大滝財閥の経営ホテルは高額であると評判だ。そんなホテルの一室を、来夏は星流に連絡することで利用出来る。逆に言えば、利用出来るようにさせている。
「用意出来ないのか?」
来夏の問いかけに星流は間を空けず、社長らしく冷静に対応する。
『十分待て。すぐに用意させる。』
毎日清掃を行い、常に使える状態にはなっているものの、客が入る直前にしか出来ない準備というものはある。その作業に要する時間を星流は十分と提案した。
「丁度いい。今から向かう。」
来夏も星流のその提案に乗る。来夏と飛乃がいるこの場所から大滝ホテルまでは車で三十分程掛かる。十分で用意が出来るならば来夏たちが待たされることはない。来夏が最後に言葉を纏めようとしたとき、星流が予想外のことを口にした。
『………また、あの女か。』
来夏は星流に〝また〟と言われたことが少し癪に触ったが、事実〝また〟なので何も言い返すことが出来ない。そのため来夏は半分流すように相槌を打つ。
「まぁな。」
星流にはその相槌ですら、来夏が〝あの女〟に溺れているように感じた。お前が溺れる程良い女なのか。と、思わず言ってしまいそうな程。
敢えてそれを言わなかったのは、妙なことを口走り、自分の身を危険に曝したくはないからだ。一流企業の代表総取締役が恐れる程、来夏の影響力は多大なものだと言える。
『お前はあの女しか連れて来ないからな。』
来夏は大滝ホテルに飛乃以外の女と行ったことはない。飛乃以外の女とホテルに行くこと自体ない。それは、来夏の判断基準によるものだ。来夏は電話越しに星流に向かい、嘲笑うかのような微笑を送る。
「俺が唯一認めた女だからな。」
その微笑は誇らしくあり、自分が認めた女を高く評価するものだった。
星流は来夏の認めた女が何かしら秀でたものを持っていることが分かっている。そうでなければ、あの〝花山来夏〟が誰かを認めないことも知っている。星流に例えるなら、多額の資産と経営会社。そして、経営者としての資質。
来夏は利用価値のあるものにしか興味はない。来夏が〝唯一〟認めた女はそれに相応しいものを持っているのだろう。それでなければ、本当に来夏が溺れているのか。
何にせよ、星流は〝花山来夏〟には逆らわない方が賢明だということをよく理解している。星流は電話越しに小さな溜め息を吐き、話の纏めに入った。
『…お前の邪魔はしないさ。じゃ、待ってるよ。』
「あぁ。」
用件が済むと、星流はすぐさま乱暴に電話を切った。それを確認した来夏も携帯電話をジーンズのポケットに入れる。通話が終了したことに気付いた飛乃は来夏に問う。
「空いてるって?」
少々不安げな飛乃とは違い、来夏は再び嘲笑うかのような怪しげな笑みで答える。
「空いてない訳ないさ。」
そう言い、来夏は路地から出た。その後を飛乃がゆっくりと歩いて付いて行く。そして少し離れた所に待たせておいた黒塗りのベンツに近寄ると、それに気付いた運転手が後部座席の扉を開ける。来夏はそのまま車に乗らず、少し遅れて来た飛乃を先に乗せた。そのときの仕草はまるで紳士。普段の来夏からは想像出来ない程、紳士的な態度だ。飛乃が車に乗り込み、来夏もその後に続く。そして運転手が扉を閉めて運転席に乗り込む。そしてそれを確認した来夏は口を開いた。
「大滝ホテルだ。」

大滝ホテルに到着すると、入口にはホテルのボーイたちが並び、総支配人の肩書きを持つ男と背広を着た長い金髪の姿がある。それを見ながら、来夏は車に乗り込んだときと同じく飛乃をエスコートしながら、車から下りる。そして飛乃を連れ、予め用意されていた赤絨毯の上を歩く。すると来夏は長い金髪の少年の前に来て立ち止まった。
「お待ちしておりました、花山さま。」
その言葉と同時にその場の者たちが頭を下げる。その言葉に来夏は怪しげな笑みを浮かべた。今日何度目かの怪しげな笑みだ。
「らしくないことするなよ。」
お前はそんなキャラじゃないだろ。
嘲笑うかのように言った言葉に金髪の少年は頭を上げた。
「まぁ、そう言うな。これも仕事なんだよ。」
皮肉を言うような顔に話し方。その対応は〝客〟に対するものではなく、親しみのある友人に話すような口振りで、先程の電話のときと何一つ変わらない。
「では、ごゆっくり。」
その言葉と共に再度会釈をし、来夏の入室を促す。そして来夏はそれに反応し、飛乃を連れてホテルの中へと入って行った。
「社長、今の方はあの部屋の…。」
〝社長〟…。つまり、この大滝ホテルの社長。それは大滝財閥代表総取締役であることを表している。大滝財閥代表総取締役は大滝星流だ。
そう、この長い金髪少年こそ、あの大滝星流である。
総支配人が人に聞かれぬように星流の耳元で小さく話した。だが、星流は周りなど気にせず声を潜めることなく吐き捨てる。
「あぁ、この大滝ホテルの一番良い部屋を常に使える唯一の男だ。」
あの男を敵に回すことなど出来ない。逆に返り討ちになる可能性がある。そんなメリットのない危険な賭けは出来ず、今現在も数々の要望にも答えてきた。だが、油断は出来ない。かなり鋭い男で、少しの変化も見逃さない神経をしている。逆らえば容赦はない。そのことを充分に分かっているため、あえて注意を促す。
「―――あの男には絶対逆らうな。」
逆らえば、例え大滝財閥でも不利な状況になることが星流には分かりきっている。だから手は出すな、と伝えるのだ。それは星流と来夏の今までの付き合いと来夏自身を見ていれば分かる。
だが、総支配人にはそれらを感じ、読み取る力はない。そのため、経営者の責任として星流が注意を促さなければならない。総支配人も、若年の代表総取締役でありながらも星流の実力は認めており、経営者だと思い接している。
そんな総支配人は星流の注意に素直に会釈をしながら返事を返す。
「かしこまりました。」
星流はそのまま身を翻し、長い金髪を振り乱しながらホテルの中へと姿を消した。

2017/05/24 19:23 | 創作男女 / 赤と黒の蝶
赤と黒の蝶  其の参 過去
- 四年前 -

南条邸近くの通りにて一人歩いている黒髪の少年に、来夏は後ろから声をかけた。
「南条紫蓮、だな。」
その言葉を受けた少年はふと歩くのを止め、首だけ後ろを振り返った。そして、顔を顰めてから来夏に向けて問いかける。
「…どちら様ですか。」
最初の印象は良くなかったのだろう。同じ年頃の同性でも、雰囲気で分かることもある。疑いや警戒の眼をしている少年に対し、余裕を持ち、自分が主導権を握っているかのように堂々と、媚びることなく少年を見ていた。怪しくも人を嘲笑うかのような不敵な笑みを浮かべている。
「花山来夏。そう呼べばいい。」
来夏は我が名を名乗る。すると少年は益々顔を顰めた。そして首だけを来夏に向けていた状態を止め、身体を来夏の方へ向ける。
「…花山、来夏…。知り合いにそんな人はいませんが。」
少し不満そうに、また不機嫌そうに少年が言い切る。すると、来夏は少年のその言葉を肯定した。
「当たり前だ。初対面だからな。」
来夏の態度は初対面の人に対するものとは思えない。最初から相手を格下と決めつけ、大きすぎる態度をとる。来夏は初対面の少年に余談も入れず、本題を突き出した。
「お前、死んだ両親の多額の遺産を相続しただろ。その遺産を狙っている浅はかな古狸がいる。そこで、俺に依頼しないか。」
うすら笑いをして少年を見る。少年は来夏の話を聞いた後、益々顔を顰めて問い返した。
「…依頼?」
その問い返しに、来夏はことの詳細を話す。
「その古狸を始末する代わりに、お前は俺のコネになる。」
そう言った後、少しの沈黙を挟み、少年は吐き捨てた。
「…そんなおふざけには付き合えない。他を当たれ。」
少年はそう吐き捨てると、身体を翻して先を歩いて行った。
来夏はこの道の先に少年の家があることを知っているため、それ以上深く追うようなことはしなかった。先を行く少年の後ろ姿を見て、ふと笑う。その笑いは少し状況を楽しんでいるようにも見える。
「南条紫蓮、予想以上だな。」
来夏は穿いているジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、電話をかける。
「…久しぶりだな。聞きたいことがある。」
来夏はそれからしばらく話を続け、用が済んだ後、すぐに電話を切った。
そして、再度携帯電話を巧みに操りどこかへ電話をかける。
「俺だ。見張らせてるあの男、始末しろ。根回しはしてある。構わない。殺せ。」
会話の後、電話を切ると、携帯電話を元あったジーンズのポケットの中に入れ、腕を組む。そして少しの微笑と共に呟く。
「…嫌とは言わせないぜ。南条紫蓮。」

今日の紫蓮は、通っている楠ヶ丘中学部からの帰宅が、普段より数分遅かった。
「ただいま。」
玄関の扉を開けると、中からその音を聞いた千代が慌てて飛び出して来た。
真っ青な顔をして紫蓮を見る。
「紫蓮坊ちゃま!お帰りなさいませ。大丈夫でしたか?お怪我は?」
突然のことに紫蓮は少し驚き、何があったのか問う。
「いえ、大丈夫です。どうかしたんですか?」
玄関にて靴を脱ぎ、正面の廊下を歩く。その後に続き、千代が歩く。
「先程この近くで爆破事件があったらしいです。今速報で。それにご親戚の方が被害を…。」
テレビを見ると、確かに速報が流れている。そして、予定を変更して特別報道番組が組まれたようだ。被害者の名に南条がある。確かに南条の一族ではあるが、四親等までを親戚と表すことを基準にすると、親戚という近いものでもなく、大して面識はない人物。
時間は丁度、紫蓮が初対面の少年と別れた頃。まだ数分しか経っていないというのに、対応の速度が異常すぎるほど速い。まるで、始めからこの状況を想定していたかのように。
紫蓮がテレビを見ていると、家の固定電話が勢い良く鳴り出した。千代が急いで電話を取ろうとしたが、紫蓮がそれを制止する。そして自分で受話器を持ち上げ、会話に応じる。
「…はい。」
名字を言うことも、挨拶をすることもせず、ただ一言、いつもより低めの声を出す。
紫蓮は突然鳴り出した電話の先にいる相手に用があるのだ。紫蓮の声を聞いた電話の相手は軽やかな声を出す。
『ごきげんいかがかな、南条紫蓮。依頼されたことを実行した。感想は?』
電話の向こうにいるのは先程紫蓮に声をかけてきた少年で、依頼を実行したと言う。この発言により、紫蓮は聡明な頭で全ての欠片を繋げた。近くで起きた爆破事件と依頼、南条の人間と遺産を狙う古狸。
遺産を狙う古狸の南条を爆破事件という名目で―――。
こんな単純なこと、紫蓮でなくてもすぐ真意に気付く。比較的聡明な紫蓮は言われた瞬間に、〝依頼〟の意味を理解した。理解したと同時に電話の向こうの少年に向けて怒鳴るように叫ぶ。
「依頼した覚えはない!」
その紫蓮の怒鳴るような声に動じることもなく、少年は自分の都合を述べる。
『そう言うな。今、近くの路地にいる。今から来い。』
紫蓮の脳内で、この少年に逆らわない方がいいという方程式が成り立ち、その方程式が公式になろうとしている。それは紫蓮の本能がそういうのだろう。紫蓮は唇を甘噛みする。
「…分かった。」
渋々ながらも承諾し、受話器を元の位置に戻した。そして千代を見る。
「ちょっと出掛けて来ます。」
紫蓮の発言に千代は顔を真っ青にして紫蓮の外出を止めた。近くで爆破事件があり、外はとても危ない。それに加え被害者は南条の一族ときている。南条家の直系である紫蓮の身の心配をして当然だろう。
だが、紫蓮は少年に行くと言ったため、何があっても行かなければならない。行かなければ、後に何が起きるか判らない。
「坊ちゃま。紫蓮坊ちゃま!」
必死に止める千代を振り切り、紫蓮は家を出た。

南条邸近くの路地にいるのは来夏一人だった。
近くに落ちている小石を弾いて遊んでいるが、一瞬その動きを止めた。そして小石を見たまま口を開く。
「そんな恐い顔すんなよ。南条紫蓮。」
来夏のいる場所からは死角になるところにいた紫蓮はその言葉で姿を現した。紫蓮は両親に教え込まれたことを使い、気配を完全に消していたのにも関わらず、来夏はその気配をいとも簡単に見抜いてみせた。紫蓮は来夏を睨み付け、淡々と少し怒り気味に低い声を出す。
「…お前がやったのか。あの騒ぎ。」
紫蓮の鋭い視線を気にも止めず小石を使い、暇を持て余している。
「俺は直接手を出してないがな。」
そう言い、小石を爪で弾いた。そのふざけた来夏の行動に、紫蓮は苛立ち始める。だが、まだ理性を持ち、怒りを押し殺す。
「お前の差し金なら同じことだ。一体、何が目的だ。」
この紫蓮の一言を待っていたのだろう。来夏は眼の色を変えて、遊んでいた小石を捨て、紫蓮を見る。
「俺のことは一切詮索するな。必要なときに必要なことをしてくれればいい。」
その姿はあまりにも堂々としていて、王が臣下を見るような眼と、態度だ。憎憎しいほど自信に溢れた表情をし、紫蓮を見つめる。
「…法を犯すようなことはしない。」
紫蓮は言われたことを正しく理解し、少しの間を空けて答えた。
つまりはコネ。一番初めに会ったとき、来夏が紫蓮に要求したことだ。来夏は紫蓮を自分のコネに出来ればそれでいいのだ。来夏の今回の目的は紫蓮をコネにすることであり、それ以上を望んでいる訳ではない。
「それでいい。」
それ以上は望まない。
そんな意味を込めて、来夏は紫蓮に一言告げた。
「周りの誰にも危害を加えないなら。」
「それは保証する。」
紫蓮が条件を付け加えても、来夏は何も言わず、その条件もあっさりと呑んだ。余程、紫蓮を己の手中に収めたいのだろう。最低限の条件を呑むという来夏を前にして、紫蓮は長い沈黙の後に答えを出した。
「………分かった。とりあえず、様子を見る。」
断ることが出来ないから。
この状況で紫蓮が断れば、来夏は何をするか判らない。これ以上被害を出さないために、紫蓮は来夏のコネになることを決めた。
話が済み、来夏の目的が達成されたため、紫蓮はすぐさま自宅に帰るために身を翻したが、最後に振り返りもう一度だけ来夏を睨むように見た。
「最後に一つだけ言っておく。」
その眼は今までで一番鋭く、怒りを持った眼だ。
「お前なんか大嫌いだ。用があるとき以外、俺に近付くな。」
それだけいい、紫蓮は再度身を翻し、路地を後にした。

2017/05/24 19:22 | 創作男女 / 赤と黒の蝶
赤と黒の蝶  其の弐 告白
夜が明け、朝の六時半に設定された目覚まし時計が時刻を知らせる。ベッドの中から手を伸ばし、その響きを止めた。そして、ベッドから出て部屋の隅にあるクローゼットの中から制服を出し、カッターシャツに袖を通す。制服を着て、カッターシャツの襟にネクタイを通し、緩く結ぶ。机の近くにある鞄をひったくるように持ち、部屋から出る。部屋を出てすぐの廊下を歩き階段を下りる。階段を下りると、その足で洗面所へ行きある程度の身支度をする。身支度を終えるとキッチンダイニングに行き、紫蓮の食べる朝食を用意している千代に挨拶をする。
「おはようございます。」
紫蓮が挨拶をすると、千代は作業を中断し、軽く頭を下げて紫蓮に挨拶し返す。
「おはようございます。坊ちゃま。」
千代は紫蓮が六時半に起床することを知っていて、その前に南条邸を訪れ、いろんなことをする。紫蓮の朝食の用意を初め、掃除洗濯など家事一般をこなすのだ。
紫蓮は毎朝千代の用意した朝食を食べる。朝食の献立は白米に油あげとワカメの味噌汁、塩鮭といった日本の代表的な和食で、紫蓮はパンやミルクなどの洋食を好まないため、毎朝の朝食は和食と決まっており、これらを食べて学校へ行く。
千代はそんな紫蓮を眺めつつ、紫蓮の弁当を作る。そして、ふと何かを思い出したように紫蓮に声をかける。
「そういえば、坊ちゃま。先日行われた学力テストで、主席を取ったそうですね。」
それを聞き、紫蓮は動かしていた箸を止めて千代の話に応える。
「えぇ。主席は毎回のことですから。」
紫蓮が学年主席を取るのは今回に限ったことではない。入学して以来、行われてきた学力テストでは主席を保持している。それを当たり前のように守り続け、今に至る。
千代も紫蓮が主席から落ちることなど考えてはいない。今回の学力テストは千代が暇を貰っていたときに行われたもので、千代自身が直接テスト前後の紫蓮を見ていないため、今回のことを口にした。だが、紫蓮には小さな疑問が残った。昨日紫蓮が帰宅したときに千代は既に南条邸にいた。その後、紫蓮は千代にテストの話をしていない。千代はどうやって紫蓮の主席の話を知ったのか。疑問に思った紫蓮がそのことを問う前に、千代は自分から答えを放つ。
「祝さんに伺ったとき、流石坊ちゃまだと思いましたよ。」
この言葉に紫蓮は眼を丸くする。
祝といえば親友の河村祝以外にいるはずがないのだが、千代は一体いつ祝と連絡を取ったのだろうか。いつも情報を持っては来るが、今回はその場面を見ていない。祝が千代にどのように連絡をしているのか検討もつかない。
だが、気にしても仕方がないため、脳内で話を戻す。
「そんなことないですよ。今までもそうでしたし。」
朝食に出された味噌汁を流し込み、朝食を完食し、千代は満面の笑みで紫蓮を見る。
「それを当然のように保持することが難しいことなんですよ。」
千代の言葉に紫蓮は少し考え込み苦笑する。そして持っていた箸を箸置きの上に揃えて置いた。
「…そうですね。ご馳走さまでした。いってきます。」
その言葉に千代はゆっくりと頭を下げて見送りの挨拶をする。
「いってらっしゃいませ、紫蓮坊ちゃま。」
その言葉を背に受け、自宅を出ると、門の前には河村祝の姿があった。祝は紫蓮が自宅から出てきたことに気付くと、紫蓮に向けて朝の挨拶をする。
「おっす!」
「…河村。」
シレンは自宅前に祝がいても驚くことはない。祝が紫蓮を迎えに来るのは毎朝のことで、紫蓮の両親が他界してからはずっとしてきた恒例のこと。祝が自宅前にいても驚かないのはそのためだ。
「…お前、どうした?」
学校への行き道に祝は紫蓮にそう問いかけた。いきなりの唐突な問いかけに紫蓮は返事を一瞬遅らせた。
「…何が。」
どうしたと言われても、どうもしてないと答えるしかない。別にどうした訳でもないからだ。だが、祝はそんな紫蓮を他所に問いかけを続ける。
「何かあったろ。」
何かあったのかと言われればあったと答えるべきなのだろう。
昨日、あったこと。
老いぼれた黒い蝶から手紙が来て、自らを赤い蝶と名乗る髪の長い少女、莎子に会ったこと。
だが、それを言う気にはなれなかった。そのため、言葉を濁し答える。
「…別に。」
それだけ言うと、祝は紫蓮の顔を見つめ、それから視線を反らし、空を眺めた。
「ふーん。ならいいけど。」
二人はそのまま学校までの道のりをゆっくりと歩いて行った。

「やっぱ何かあったな。」
午前最後の授業が終わり、昼食を済ませたとき、紫蓮の傍にいた祝は呟くように紫蓮に告げた。
その言葉を聞いた紫蓮はすぐに否定を表す。
「別に何もない。」
そうは言っても祝は頭が回らない訳ではない。紫蓮が本気で言っていないことが分かっている。そのことを考慮した上で紫蓮に再度別の問いかけをした。
「…昨日の浴衣の話か?」
この言葉が出た瞬間、紫蓮は動きを止めた。
浴衣の話ではない。だが、そこで肯定しても否定しても、祝に全てを話す気にはなれない。それでも祝にその真偽まで隠すことをしたくはなかった。
「…いや、違う。」
そう言うと祝の顔が変わった。少し不満げに腕を組み、先程より強めの口調で問い質す。
「じゃ、違うことで何かあったんだな。」
その言葉が出た後、祝はすぐさま次の言葉を放った。
「まぁ、お前がそこまで言うならこれ以上追求はしねーけどさ。」
祝は自分が何度聞いても答えない紫蓮を見て、紫蓮が本当に隠しておきたいことだということが理解出来たらしく、それ以上追求はしなかった。それを感じた紫蓮も祝に申し訳なさそうにしている。
そのとき、教室の扉から紫蓮を呼ぶ声が聞こえた。
「南条!呼ばれてるぞ。」
その声は7同じクラスの男子のもので、声のした方を見ると、そこには声の主である男子以外に同じ学年の女子生徒の姿があった。紫蓮と祝はお互いを見合う。そして祝から紫蓮に一言。
「また熱烈な告白タイムか。」
二人の溜め息はお互いにしか聞こえていなかった。

「南条くん!好きです!付き合ってください!」
言われることは分かっていた。こうやって呼び出されるのは慣れている。言われる言葉もいつも同じ。返す言葉もいつも同じ。呼び出されたのは中庭で、大量の樹や植物が生い茂っている。校内で一番、告白場所に相応しい場所。
ここに来た回数を数えるだけ馬鹿らしくなってくる程、この場所は馴染みの場。祝は回数を数えているかもしれない。何度言っても慣れないけれど、言うしかないと割り切り、重い口を開く。
「…悪いんだけどさ、今はそういうこと考えられないんだ。だから、ごめん。」
風に黒髪が揺られ、右耳にしたつがいの赤と黒の蝶ピアスがよく見えただろう。
返事を返した瞬間の女子生徒は眼に涙を浮かべ、今にも泣きそうな顔をしている。だが、自分に言い聞かせているのか、重い口を開き必死に言葉を作り、出している。
「…あ…そう、ですか…。ありがとう、ございました…。」
そのまま深く頭を下げ、女子生徒は慌ただしくこの場から去って行った。その女子生徒と入れ替わりに祝が中庭に訪れる。紫蓮が申し出を断った娘の顔を見たのだろう。中庭の入口で樹に身体を寄り掛け、紫蓮を毒ついた。
「あーあ、またフっちゃったのかよ。結構、」
毒つきながらも紫蓮に近付き、紫蓮の肩に手を置いた。すると紫蓮はその手については何も言わず、祝が言うだろうことを先読みし先手を取る。
「『可愛い娘だったのに。』だろ。」
それを聞いた祝は眼を丸くしてから即座に笑い、紫蓮が言ったことに対し、小さく反論する。
「言い方がちょっと違うけど、まぁそういうこと。勿体ねー。」
いくら勿体無いと言っても祝が紫蓮同様、先程の娘(こ)に告白をされても、恐らく断っただろう。二人とも色恋に興味はない。
「そういうことに興味がないんでね。」
紫蓮の言葉がその事実を裏付けた。祝も紫蓮がそう言うことや思っていることを知っている。そのため、このような会話が平気な顔で出来るのだろう。
「知ってる。」
二人がそう言い笑い合うと、中庭の入口から声が聞こえた。
「あ、の!か、河村くん!」
その声に二人は笑いを止め、声のした方を見る。そこにいたのは、またもや同じ学年の女子生徒で赤面しつつ、祝のことを呼んでいる。その呼ばれた声に祝は昨日からの仕様で面白く反応した。
「ん?俺?何かにゃ?」
昨日も自分自身のことを〝ボクちゃん〟と呼称したり、おふざけのような言葉を放っていた。そのような言い方は祝のキャラではない。そのため、紫蓮は先程のことにも驚き、顔を顰める。
「お前、そんなキャラだったのか。」
紫蓮の問いに、祝は微笑みながら、
「こーゆーキャラになろうかと思って。」
と漏らす。それを聞いた紫蓮は少しだけ呆れるような顔をし、赤面している女子生徒に気を使い、祝の肩に手を置き、耳元で呟いた。
「…じゃ、先に行ってるぞ。」
紫蓮はそれだけ言うと祝の肩から手を放し、中庭を出て教室へと向かい歩く。紫蓮の言葉に祝は茶目っ気混じりに手を振りつつ返す。
「はいはーい。」
そしてそのまま女子生徒を見ては用件を促すのだ。用件など聞かなくとも判る。一週間のうちの数日をこの用件で満たすこともある。用件は分かっているが、最初から行く先を見てはいけない。
「で、何かな?」
祝は笑顔で、女子生徒を見る。その笑顔は先程紫蓮との間で話していた、今までの祝とはキャラ違いの笑顔だった。咋な作り笑い。そんな作り笑いを見ても、女子生徒の気持ちは高ぶるだけだ。
「あ、の!好きです!つ、付き合ってください!」
女子生徒は赤面しながらも祝を見て想いを告げた。
祝が告白を受ける回数は学校内でも秀でていて、紫蓮がいるためあまり知られていないが、紫蓮に次いで二番目だ。祝も紫蓮に負けず劣らずの容姿を持ち、学年次席の勉学も持つ。
人に好意を寄せられるのは紫蓮同様で、また、そんな女子生徒たちへの返事も紫蓮同様、全て断っている。
「ごめんね。今はそういうこと考えられないの。」
いつもとは違うキャラを作りながら、女子生徒の申し込みを困ったような苦笑でやんわりと断る。茶色の髪が困ったような苦笑とよく合う。そして、目の前の女子生徒には聞こえないくらい小さな声で、いつも通りのキャラを使い呟く。
「…紫蓮が一段落するまでは、な。」

「ただいまー。」
教室の扉を開けて、自分の席に座って読書をしている紫蓮に向けて帰還の挨拶をした。女子生徒の用件が済んだため教室に戻って来たのだが、戻って来た祝に紫蓮はただ一言、
「おかえり。」
とだけ返した。
祝はそのまま紫蓮の席の前に行き、昨日と同様に紫蓮の前の席に座る。そして紫蓮の机の方向に寝そべり、紫蓮の机を身体で占領する。その行動を先読みし、紫蓮は祝の身体をかわす。
「はー…何で皆、告白すんのかねー。」
呟いた言葉は自分の実体験から出た言葉で、告白された回数が多いことを示していた。
「断ったんだろ。人のこと言えないな。」
紫蓮も祝も、想いを告げられても応えられないから。と、今までに数知れずの乙女たちを泣かせてきた。今回の女子生徒も二人にとってはその中の一人でしかない。
「………紫蓮。」
自分の身体で紫蓮の机を占領していた祝が、ふと顔を上げて紫蓮を見た。その眼差しは先程のキャラ違いのふざけたものではなく、とても真剣なもの。その真剣な眼で祝は紫蓮に問う。
「冗談抜きで何かあったろ。」
その問いを聞いた紫蓮は不思議でならなかった。何故、祝だけ紫蓮の僅かな異変に気付くのか。
真剣な眼差しから眼を反らすのに時間がかかった。眼を反らすと同時に紫蓮は逆に問い返す。
「…何で、そう思、」
「紫蓮。」
紫蓮の言葉を先読みしていた祝は途中で言葉を遮った。
「他の奴等は誤魔化せても、俺は誤魔化せらんねーぞ。」
…誤魔化せない。
そう言われて紫蓮の心が揺れる。祝に全てを話してしまいたい。でもこの話をして祝に危害が加わるような結果になってはならない。紫蓮が何も言葉にしないのと同時に、紫蓮が頭の中で何かと闘っていることが分かった祝は静かに次の意を放つ。
「…別に、今話したくないならいいさ。」
それだけ言うと、紫蓮の席を占領していた身体を起こし、席を立つ。席を立った祝を見て、紫蓮は祝を呼び止める。
「河村。」
少しの沈黙の後に紫蓮は不思議を聞いてみた。
「………そんなに、様子違ったか…?」
いつも通り接しているつもりだった。それなのに、それを祝には気付かれてしまった。長年の付き合いだ。祝には分かってしまったのかもしれない。よく考えれば、紫蓮に近付くのも、近付くのを許されているのも祝だけだ。
それを恐る恐る聞くと、祝は微かに笑い、静かに、だが力強く言った。
「バレバレってくらいな。」
気付くのは俺くらいだろうけど。
そう思っていても、祝がそれを言葉に出すことはなかった。

「待て、南条紫蓮。」
放課後、いつものように紫蓮と祝が帰宅しているとき、後方から紫蓮を呼び止める声が聞こえた。その声に紫蓮と祝は足を止め、後ろを振り返った。振り返ると、そこには同じ制服を着た少年が一人立っている。少年の五十歩ほど後方には黒いベンツと複数の男たちの姿が見える。
「………誰…?」
その少年に心当たりがないらしく、紫蓮は長い沈黙の後にそう呟いた。すると隣にいた祝が素早く口を開いた。
「楠ヶ丘学園高学部二年B組十三番、浅草寺暁(せんそうじあかつき)。浅草寺財閥の御曹司。十五のときから大滝財閥の代表総取締役社長と張り合って自社の代表総取締役社長をやってるよ。」
楠ヶ丘学園とは紫蓮や祝も通う私立学校で、基本的には大企業の子息や令嬢など家の教育上、一般の公立学校に行かない者が通う学校だ。紫蓮も南条財閥の子息としてこの学校に通っている。また、紫蓮や財閥子息とは別の系統でこの学校に通っているのが祝だ。
祝だけではなく、特定の秀でたものを持っている者には通学資格が与えられる。だが、祝のように資格を持ち通っている者はごく稀でその資格が認可されることも極めて稀である。幼学部、小学部、中学部、高学部、全て合わせても資格が認可されているのは全体の一割程度。
祝はその僅かな一割の一人。記憶能力に秀でており、頭脳には数億もの情報が整理されている。そのため近辺では情報屋として有名だ。それだけの頭脳がありながらもメモ帳を常に持ち合わせており、それは所謂バックアップらしい。
そんな能力を持った情報屋と名高い祝には、これくらいの情報を何も見ずに話すくらい容易なことで、紫蓮もそんな祝との付き合いが長いため、それでこそ祝でそれが当たり前だと思っている。紫蓮はその情報を聞き、少し考え込み、記憶を探り出す。
「名前は聞いたことあるな。楠ヶ丘高学部二年って同級生か。それに…大滝財閥の代表総取締役社長っていうと…。」
楠ヶ丘学園は学部ごとに別れているため、会話の中では学部が優先され、学園名が略される場合が多い。
大滝財閥とは、今や日本の大企業、大財閥に名を馳せる一族であると同時に、いろいろなものを手がけている企業で芸能事務所や石油、自動車など、儲かるものを大々的に取り扱っている一流企業。その後を僅差で浅草寺が追いかけているという状態で、南条はその後になる。
だが、歴史で云えば一番古くからあるのは南条であり、紫蓮を現在の当主と数えれば相当なものなのに比べ、大滝も浅草寺も歴史は浅く南条には遠く及ばない。
そんな南条の直系の子息である紫蓮も、当然、一般知識として大滝と浅草寺のことは認識している。
記憶の中にあった情報を引き出す。
「…大滝星流(おおたきせいりゅう)、か。………大滝に浅草寺…。」
紫蓮が口にした名は浅草寺暁が張り合っている同い年の大滝財閥の代表総取締役社長の名だ。十五のときから大企業である大滝の代表総取締役社長をしていることは、当時業界にかなりの衝撃を与えた。それに続き浅草寺暁も浅草寺財閥の代表総取締役社長に就任した。
まだ子供と認識される年の者を代表にするなど、常識の範疇を越えていると話題になったものだ。
「どっちも南条と張り合える程の財閥さ。詳しく見てみると浅草寺より大滝の方が優れてる。南条は張り合いに参加してないみたいだけど、今のところ張り合っても大滝、浅草寺、南条と順位が付くだけだ。」
紫蓮は祝が言ったことを頭の中に入れ、脳内を模索する。
「それより、日本を代表する三大財閥の子息がみんな同い年とは…狙いすぎだろ。」
紫蓮の隣にいた祝が毒つく。
確かに、日本の上位三大財閥の子息が皆同い年なのは、企業の役員からすれば笑い事ではない。
三大財閥のうち、既に上位二位は後継者を直系の子息と決め、代表総取締役社長に就任させている。若年の子息に会社を担う重大な部位を任せるなど、そうそう出来るものではない。そのため、南条もその争いに便乗し、紫蓮を代表総取締役社長やそれ以外の上位役員に就けるのではないか、と考えているのだ。通常ならばまだ若い子息の前にワンクッション置くように年長の遠縁などを配置し、子息の経営者としての成長を待ってから重大な部位に就けるものだ。それならばそのワンクッションの間に、直系である一族の胸の内に入り、外部の者が会社の重要な部位を担うことも難しくはない。その隙も間も与えない上位財閥はそのことを先読みし、このような大胆な行動に出たともいえる。子息が皆(みな)同い年ということは上位の三大財閥が同じ手で来れば、為す術なしということになる。
「そういえば…葬儀に来ていたな。」
先程から何やら考え込んでいた紫蓮が急に口を開いた。
葬儀に来ていた。―――大滝と浅草寺が。
葬儀に、というのは四年前の両親の葬儀のことだろう。
各界の著名人だった紫蓮の両親の葬儀に同じ大企業の大滝と浅草寺が来てもおかしくはない。逆に言えば、来ない方がおかしい。
「…で、何の用だ。」
何故自分に会いに来たのか。用件があるならば、どんな用件なのか。
紫蓮は話を初めに戻す。
「浅草寺といえば利益を欲して手段を選ばないと聞いている。何か裏があるんだろ。」
浅草寺は対立している大滝と違い、何事にも手段を選ばないため、大滝よりも印象は劣る。この状況で紫蓮の元を訪れたのも、何か理由があってのことだろう。
紫蓮にそのことをつかれると、暁は少し顔を歪ませ嫌味や皮肉のように、掌を軽く合わせて拍手をした。
「ご名答。学年主席は伊達じゃないようだ。」
学年主席とは紫蓮のことを指しているが、この状況では本当に嫌味や皮肉のようにしか聞こえない。
紫蓮のことだからと、今まで極力口を挟んでいなかった祝も少々苛つく所があったのか、暁に向けて皮肉で返す。
「学年主席って、嫌味かよ。学年三位の浅草寺。」
それを聞いた暁はそれこそ嫌味だと言わんばかりに祝に食ってかかる。暁の目的は紫蓮のはずだが、余程その言われ方が気に入らなかったのだろう。紫蓮ではなく祝に敵意を向けている。
そして、目を細め言葉を吐き捨てるように放った。
「主席と次席がつるんでいる方が嫌味だろ。学年次席、情報屋で名を轟かせている河村祝。」
学年主席は紫蓮であり、その後に次ぐ次席にいるのは祝だ。そして三位の暁はその後ということになる。
暁は主席の紫蓮だけでは飽き足らず、次席である祝にまで喧嘩腰に当たる。自分より上にいる者への小さな抵抗なのだろうが、紫蓮も祝も根本的に相手にはしていないため、暁もこれ以上言っても無駄なことが分かっているだろう。その件をあたかも始めからなかったかのように流し、本題に入った。
「どうだ、南条紫蓮。南条と浅草寺、業務提携をして大滝を越えてみないか。」
浅草寺から南条への業務提携の申し入れ。浅草寺は余程大滝を越えたいのだろう。そうでなければ、このようなことを言っては来ない。大滝を越えるために手段を選ばないのなら、話は分かる。
「浅草寺と南条なら一夜で大滝を落とせる。」
不敵な笑みを浮かべ紫蓮を見ている暁に紫蓮は溜め息を吐き、暁を見据えてたった一言呟いた。
「…お断りだな。」
眼は遊びの眼ではなく、真剣な眼差し。
紫蓮が断りの返事を遊びや、いい加減な気持ちでしたのではないということだ。
紫蓮は暁の用件が南条の会社関係であることが分かったため、隣にいる祝に向けて先に行くように促した。
「河村、先に行ってろ。」
「はいはーい。」
紫蓮にそう言われると、祝はすぐに返事をし、少し笑いながら紫蓮と暁に背を向け、進むべき道を進む。
紫蓮は祝が歩いて行ったのを見届けると、暁に詳細を話した。
「悪いが、俺は南条の事業とは一切関わっていない。経営者にも、なる気はない。…他を当たってくれ。」
それだけ言うと、紫蓮は身体を翻し、暁には目も暮れず祝が歩いて行った道を歩き始める。暁は紫蓮の言っていることが本気であることも、浅草寺に良い印象を持っていないことも解っている。そのため、それ以上の詮索はせず、部下を連れてその場を後にした。
紫蓮は祝が歩いた道を行き、自宅へと帰ろうとしていた。
紫蓮が先に行けと言った祝は、事情を察し先にあの場を後にしたが、行き先が南条邸であることは変わらない。自宅に帰れば祝は紫蓮の部屋で大人しく紫蓮の帰りを待っているだろう。
そんな帰り道を歩いていると、紫蓮はふと立ち止まった。そして、妙な違和感がすることに気付く。誰かが紫蓮を見ている。だが、その誰かが判らない。その視線だけが判らない。
紫蓮は周りの変化や違和感に必要以上に敏感で、普段から周りのことは気を付けて見ている。視線を感じても、その視線の主が判らない。それはそうそうあることではない。嫌な予感を感じ取った紫蓮は、早々にその場を立ち去った。
紫蓮が視線に気付いたことを察知した為、視線を向けていた者はすぐさまその視線を違う方向へ向けた。向けたのはその者から見て丁度真後ろの位置。気配は消されていたが、長年の感覚で目的の人物がこの場に訪れたことを察知したのだ。
新しい視線の先にいるのは、黒髪に翠色の瞳をした比較的小柄な少年。
小柄と思うのは、その少年の年齢に似つかわしくないからだろう。年齢の割には少し華奢で、身長も低めだ。その少年は翠の瞳を、先程まで紫蓮に視線を向けていた者に向ける。そして、少年は口元を少し緩め、言葉を発した。
「久しぶりだな。飛乃(ひの)。」
少年は目の前の者を〝飛乃〟と呼び、久方ぶりの挨拶を交わした。
〝飛乃〟は少年と大して年の変わらないような少女で、今時珍しく立派な値の張りそうな着物に足袋と下駄を履き、手には小さめの巾着袋が握られている。腰まである長い黒髪の一部を頭の上で結い、その頭に簪を刺していた。
飛乃はゆっくりと身体を少年の方へ向け、身形を整えた上で少年の挨拶に答える。
「本当に久しいわね。翠月(すいげつ)。」
ゆっくり且つ、淡々と綺麗な物言いをする飛乃は少年のことを〝翠月〟と呼んだ。その独特の呼称からその名が少年の本名であるはずはないのだが、何らかの呼称として使われているのか、少年は嫌な顔一つせず、飛乃の挨拶を受けた。だが、飛乃はそう言った後、ふと何かを思い出したかのような顔をして少年を見た。着物ごと手を口元に持って行き、口元を隠す。
「あぁ…ここじゃ〝花山来夏(はなやまらいか)〟と呼んだ方がいいのかしら。」
少し楽しんでいるような、また面白がっているような、嘲笑ったような話し方。それを少年は何事もなかったかのようにあっさりと流す。
「どっちでもいいさ。」
少年にとって、〝翠月〟も〝花山来夏〟も自分を呼称するものであることは変わりなく、どちらでも構わないのだろう。呼称のことにはそれ以上触れることなく、少年、基(もとい)、来夏は自分の本題を進めた。
「どうだった?南条紫蓮は。」
来夏は飛乃がこの場所から密かに紫蓮の様子を伺っていたことを知っている。飛乃に紫蓮を見るように言ったのは来夏であり、来夏の申し出で飛乃がここまで足を運んだと言っても過言ではない。飛乃は来夏に問われたことを瞬時に理解し、核心をつく。
「…手強いわね。浅草寺暁の話に興味も示さなければ、深く関わりもしない。様々な要素を含め、あの大滝星流や浅草寺暁より優秀で聡明。あなたがここまで頓着するのも解かるわね。」
着物を揺らしながら手を動かし、髪の乱れを直す。紫蓮を思いの外強く絶賛した飛乃はその発言に責任を持っている。
紫蓮は大滝財閥代表総取締役社長である大滝星流より、浅草寺財閥代表総取締役社長である浅草寺暁よりも優秀で聡明である、と。
「浅草寺暁に南条紫蓮を取り込むように進言したのでしょう?それが裏目に出なければいいけど。」
暁に南条と業務提携をすることを進めたのは来夏であり、来夏は三大財閥の一つである暁に助言が出来るほどの位置にいるということが分かる。来夏は暁と同年代であり、割りと近い存在ではある。
来夏は意味もなく髪をかき上げ、少し苦笑しながら吐き捨てるように言葉を放った。
「大滝星流を今使うことは出来ない。」
この発言により、来夏と大滝星流とも何かしらの接点があることが分かる。来夏は三大財閥を手玉に取り、より利用しようと考えているのだろう。大滝星流も暁も共に来夏と交流を持つというのはどのようなメリットがあるのか。何にせよ、来夏の得体が知れないことに変わりはない。
飛乃は何処からか扇子を取り出し、口元を覆う。
「あの様子だと、何かしらの策が必要になるわ。」
来夏は腕を組み、何処か遠くを見ているような眼をしている。
「…だろうな。あいつはそんなに簡単な男じゃない。…四年前と何も変わってないしな。」
その言葉を聞いた飛乃は顔をしかめ、毒つく。
「四なんて不吉ね。…四年前、何かあったの?」
前半は毒ついたものの、後半は真剣に紫蓮との関係を問う。
「………あぁ。」
飛乃の問いを、来夏は長い沈黙の後に答えた。
それから、記憶の中を旅する。

2017/05/24 19:19 | 創作男女 / 赤と黒の蝶
赤と黒の蝶  其の壱 発端
血のように真っ赤な生地、暗闇のような黒い帯。
赤い生地の上には赤い蝶。そう、赤い蝶。

「赤い生地に赤い蝶の浴衣?」
少年が問いかけに疑問詞を投げかける。





***





この少年は親がおらず、現在莫大な財産と土地、そして屋敷を持っていて、その全てを一人で管理し生活している。少年の両親は訳あって家を空けた後、帰って来なかった。しばらくして家に届いたのは、両親の遺品と両親の知人だという者からの手紙だけ。その手紙の内容は両親の死の経緯を簡潔に書き出したメモ用紙が一枚だけだった。少年は両親の死に疑問を持ちながら、一人で大きな屋敷に住み、両親の死の原因と真相を調べている。
少年の姿形は、肩に触れないくらいの長さで保っている暗闇の中の漆黒のような黒い髪、身長百七十五センチ前後の痩せ型体系に、容姿は人並み以上で、異性に想いを告げられる回数も少なくない。昼休みがある週五日のうち多い時は四日の昼休みを告白という目的で奪われる。種類は直接や呼び出し、人伝(ひとづて)やラブレターと様々だが、少年は全て断っている。了承を貰えた娘(こ)は一人もいない。それでも告白の回数が減る事はない。逆に減るどころか増えているのだ。だが、告白の理由は容姿だけではない。容姿も去ることながら、そのルックスも眼を惹きつけるものがある。右耳だけにしている赤と黒の蝶のつがいのピアス。首に架けている銀の鎖の先には、ピアスと同じ赤と黒の蝶のつがいの付いたペンダント。左手の中指には同じ種類の指輪。この三つをセンス良く身に着けている。そして、それ以外に頭の良さも有名どころで、学校内で常に学年一位を保っている人物と言われれば、この少年を思い浮かべる他はない。独特の雰囲気を持つこの少年に興味を持つ者が多い。興味を持たない者がいない訳ではないが、その殆どが男子生徒であり。男子生徒にしても、少年の魅力に憧れ、慕う者たちがいれば、逆に妬みを持ち、目の敵にしようと思いつつ勝つ事が出来ずにいる者たちに分かれたりする。
この少年はそれほどすごい少年なのだ。
少年が今いるのは学校の教室。放課後のためか教室には、ほぼ誰もいない。いるのはこの少年とあとは先程教室に入ってきたもう一人だけ。
春の風に乗り桜の花びらが開いた窓から入り込み、教室の床に落ちた。
入学式やその他の行事も終え、新入生もやっと学校に馴染んできたという時期だろうか。皆(みな)、早々と部活に行き、新入生の勧誘や見学の用意に大忙しで、今、この教室に誰もいないのはそのせいもある。新入生を入れなければ、廃部にならざるを得ない部活があることも確かなのだ。だが、少年はそんなことはどうでもいい。何か部活に入っている訳でもなければ、新入生に知り合いがいる訳でもない。こういうことに無関心なだけだ。今、教室にいるのも単に暇だからいるだけで、対して意味はない。暇ならば宿題でもしようかと数学の教科書とノートを開き問題を解いている。眼に入るのは数学の数式と教室に居る自分以外の人物だけ。
茶髪の髪に学校指定の制服、左手には購買で買ったと思われる菓子パンが持たれている。先程用事を終えて教室に戻ってきた茶髪の少年は、自分の席の荷物を鞄に纏め、その鞄を持ち、少年が座る席の前の席を陣取る。すると、暇を持て余している少年に話しかけた。茶髪の少年はこの少年の親友である。
「お前さ、一日に約0.8回も告られてるのに彼女作んねーの?」
「…何だよ、その〝約0.8回〟って。」
目の前に来たかと思えば、そのまま頂けないことを言う親友に、少年は疑問を投げかける。
約0.8回というのは少年の一週間に告白される回数を平均したものであり、つまりは一日に一回には満たなくとも、少なからず告白されていることになる。この約0.8回という数字も貴重な昼休みを割いて出てきた数字だ。茶髪の少年はその事実を簡潔に少年に伝える。
「一日に告白されてる回数の平均がそれなんだよ。」
「は…?そんなの数えてたの、お前。」
簡潔に伝えると少年は少々呆れたような声と顔をし、よっぽど暇なんだな。と付け足した後、窓の外に広がる綺麗な桜に眼を向けた。
ある程度他愛のない話をして過ごしていると、突然少年が自分から言葉を出し、話を振ってきた。
「なぁ、そろそろ話してくれないか?」
桜に向けていた眼を親友に戻し、そして強くはっきりとした口調で言った。いきなりのことで眼を丸くするもう一人の少年を他所に、少年は更に言葉を続けた。
「お前の本題がそんなことじゃないことくらい分かってんだよ。」
「な、何を、」
惚(とぼ)けようとしている親友に対し、少年は鋭い眼で睨み付けた。すると、親友は参ったというかの如く溜め息を吐き、両手を挙げてただ一言、俺の負けだ。とだけ言い、菓子パンの最後の一口を口に運んだ。

「赤い生地に赤い蝶の浴衣?」
一度だけ文末に疑問部を付けて問いかけるように聞き返した。真っ赤な蝶の模ようの赤い浴衣なんて何処にでもあるのではないか。と思いながらも言葉にはせずその場は聞き流す。
「それに真っ黒な帯。」
真っ黒な帯。これも何処にでもあるのではないか。先程の問いかけに合わせて、同じような考えを頭の中に巡らせた。だが、自分に言うくらいなのだから、何か裏があっての事だろうと思い、冷静に次の言葉を出す。
「それがどうかしたのか?」
すると、この議題を持ちかけて来た親友は徐にポケットから飴を二つ出し、一つを目の前に居る少年に手渡し、もう一つは袋を開けて中身を自分の口に放り込んだ。少年は受け取った飴をそのまま制服のポケットに入れる。それを見届けた議題の少年は静かに口を開いた。
「…噂があるんだよ。」
その議題の少年は飴を食べながらもしっかりと前を見て、冷静に簡潔に述べる。
―――そう。目の前にいる少年に向かって。
「……噂…?」
少年は言われたことに対して顔を歪め、その単語を復唱し、再度確認のため語尾に疑問詞を付け、議題の少年に聞き返した。すると聞き返された議題の少年は
「あぁ、本当かどうかも分からない、ただの噂だ。正しい保証はない。」
聞き返されたことを肯定し、悪までも噂だという念を押す。
「で、どんな内容なんだ。お前の言う、その噂ってやつ。」
俺に言うくらいなんだから、ただの噂じゃねーんだろ。
少年はそう付け足して、議題の少年である親友を見た。議題の少年が信憑性のない噂を自分にするような男ではないということが分かっているからだ。すると議題の少年は眼を見開いた後、優しく笑い、分かってんじゃん。と言い、噂の続きを話す。
「なんでもその浴衣と帯はセットらしくて、二つを一緒にしないと効果がないらしい。」
「効果?恋占いの効果か?」
面白半分に鼻で笑う少年に対し、議題の少年はそれを咎めた。
話を進め、話に夢中になっている間にとっくに下校時刻は過ぎていて、見回りに来た担任教師に早く帰るようにと指導され、ここで話はお開きとなる。そのとき、少年は南条(なんじょう)、議題の少年は河村(かわむら)と呼ばれていた。下校時刻だからという理由で教室を出され、挙句の果てには校舎からも出されてしまい、学校に居られない以上、もう自宅に帰るしかないという結論に至ったため、二人共が帰宅することになった。
「じゃーな、紫蓮(しれん)。」
「あぁ、じゃーな。」
学校の敷地から出てしばらく歩き、角をいくつか曲がったとき、お互いに別れの挨拶を交わした。
〝紫蓮〟と呼ばれたのは黒髪の少年で、呼んだのは赤い蝶の浴衣の議題を出した茶髪の少年だった。〝紫蓮〟とは担任教師に南条と呼ばれていた少年の名前らしい。
別れの挨拶を交わした後、手で合図を送り、十字路を右へ歩いて行くのを見届けると、自分は歩いて来たときと同じように、十字路をそのまま前進した。紫蓮は先程まで教室で話していた話が気になっているのだ。担任教師が来てお開きになった話だが、話の内容は一通り聞き終えた後だったのだ。
議題の少年、河村祝(かわむらはじめ)からその〝噂〟の話を詳しく聞いた紫蓮は、そのことが頭から離れずに苦悩していた。その〝噂〟とは、赤い蝶の浴衣と黒い帯の噂で、オカルト系統の信じがたい内容だった。

ある一人の浴衣職人には愛する人がいた。互いが愛し合い、婚約までしていた。だが、その恋人が強盗の人質になり、連れ去られ殺された。後に死体となって発見された恋人は、全身が汚れ、とても痛々しい姿だった。恋人は強盗犯に性的暴行を受けていたのだという。このとき浴衣職人は怒り狂い、怒りながらも愛する人のために五日五晩をかけて浴衣と帯を作った。だが、浴衣職人はその浴衣と帯を作った後、間もなく死亡した。作った浴衣と帯はしっかりした桐の箱に入れられ、浴衣職人の側に綺麗に汚れる事なく置かれていた。浴衣職人が死んで、職人の作った作品は職人の親によって全て売られた。そして、その後日、赤い浴衣と帯を買った客が交通事故で亡くなった。その客が死んだ後、浴衣と帯は転々と居場所を変えていた。持ち主を死に至らしめる、呪いの浴衣と帯となって…。その浴衣と帯を手に入れたものは、着用未着用で多少の誤差はあるが、必ず一ヶ月以内に死亡しているという。それからしばらくして、浴衣と帯は別々に保管されるようになり、二つの所在は分からなくなったと云われている。

それが、最近になってこの近辺にあるのではないかという話になり、それが噂となった。その噂が何処まで真実かは分からないが、この噂があまりに広がったため、怖がる住民も少なからず居るらしく、紫蓮の学校でも、男女問わずその噂で持ち切りらしい。そして、紫蓮は親友で議題の少年でもある河村祝に一般生徒の知らない情報を、極秘扱いで聞かされた。

「…印?」
方程式を解いているシャーペンを持つ手を止め、ほんの少し間を置いて、ただ一言聞き返した。紫蓮のその一言を聞き終え、祝は紫蓮の解く問題を眺めつつ次の言葉を出す。
「ああ。その浴衣職人の作った作品には、全て同じ印が付いてるんだよ。」
その印は浴衣職人が自分の作品だと分かるように作った作品全てにつけたもので、何年も前の作品でも、いつ作られた作品でも、必ずどこかに印がついているという。
祝は紫蓮の筆箱からシャーペンを探り出し、問題を解く紫蓮のノートの余白部分に他愛もない落書きをする。
「どんなのなんだよ。その印ってやつ。」
紫蓮のこの言葉で止まっていた話を戻し、落書きをしていた祝が再び説明を始める。
「作品の裏地に自分のサインの刺繍の布を縫い付ける。」
たったそれだけのことなのか。と正直、唖然という感じの紫蓮だが、祝がそう言うのだからそうなのだろうと思い、それを受け止める。だが紫蓮は最後に一度だけ聞いた。
「それが印なのか?」
ただ一言そう言うと、祝は落書きを止め、シャーペンを机の上に置いた。そして真面目な表情で紫蓮を見て、またもや話を続ける。
「あぁ、それはその浴衣職人自家製のもので他人が真似て偽造することは、不可能に近い。いや、厳密に言えば不可能だ。」
不可能と言う祝に対し〝不可能〟と言い切れるのかと疑問に思う紫蓮は、次の瞬間、数式を見つつそれを言葉にした。
「そんなにすごい仕掛けでもしてるのか?」
この言葉に祝も少しながら反応した。腕を頭の後ろに持っていき、背伸びをするように腕の柔軟をする。そして紫蓮が待つ中、結論が入る次の言葉を出す。
「そうらしいな。俺も実物を見た事ねーから、なんとも言えねーけどさ。」
実物を見たことがない。その浴衣と帯ではなくとも、その職人の作った作品を見たことがないのだという。ならば、どうしてそのことを知っているのか。驚きを隠せない紫蓮だが、持っていたシャーペンを無造作にノートの上に置き、頬杖をつく。そして呆れながらもやっとのことで口から言葉を出した。
「……お前さ、どうやってその情報手に入れたの?」
〝極秘〟って言ってなかった?
そう付け足し、不思議そうな表情をした。その言葉に祝は柔軟を止め、机に腕を置き、机越しに紫蓮に近付く。
「何言ってるの。紫蓮チャン。俺の情報網を甘くみないでよ。」
と、言い左目を閉じ、右手ではピースをしていた。そして、机に置いたばかりの腕をもう机から放し、胸の前で腕を組み、今度は両目を閉じた。
「紫蓮チャンの知りたいことなら何でも調べてあげるよ。」
そう言った語尾には明らかにハートか、音符がついているだろう。この言葉に紫蓮はこいつに隠し事は出来ないと強く思い、胸に刻みつけた。まったく、行く末の見えぬ男だ。そうこうしているうちに、眼を開いた祝がいきなり言葉を出した。
「……なー紫蓮。」
あまりにも突然だったため、紫蓮には珍しく少し反応が遅れた。だが、それを感じない速度で答えた。
「…なんだよ。」
ぶっきら棒に答えた紫蓮に祝は自分を指差し、思いもよらぬ台詞を投げかける。
「俺のフルネーム言える?」
「………は?」
またしても、唐突な台詞に思わず漏れてしまった言葉。何を言っているのかと正直先が見えなくなった。紫蓮は冷静に記憶の中に入り、普段は使わない名前を探し出す。そして素早く見つけ、言葉にした。
「…河村祝…だろ?」
何を今更。と、正面を向いていた顔を横に向けた。視線の先は教室の外の咲き乱れる桜。すると、祝の口からまたもや、思いもよらぬ台詞が飛び出した。
「だって紫蓮、俺の名前呼ばないじゃん。」
俺は〝紫蓮〟って呼んでるぞ。
そう付け足し、紫蓮の横に向いた顔を無理矢理正面に向けた。
「名前呼ばねーって…呼んでるだろ。〝河村〟って。」
如何にも溜め息を吐くような雰囲気で言葉を出した紫蓮だが、そんな紫蓮に祝は食い付くように、次の言葉を口から飛ばす。
「だって紫蓮、昔は〝祝〟だったじゃんってこと。」
「そりゃ、かなり昔の話だな。」
昔は紫蓮も祝のことを名前で呼んでいたが、昔と違い、今の紫蓮は人と関わることをしなくなった。両親が家を出て、帰って来なかった頃からだろうか。いや、死んだことが分かったときかもしれない。そのため今、紫蓮に対等に扱われるのは、祝ただ一人である。
「別にどうでもいいだろ。俺が人をどう呼ぼうが。」
「えー!ボクちゃん悲しい~。」
紫蓮の言葉に祝は、からかうように、偽り風情の台詞を放った。その台詞に対し紫蓮は、何が〝ボクちゃん〟だ、アホ。とだけ返した。すると、祝はもー、乗ってもくれねーの。と、膨れっ面をする。
そんな他愛のない会話をしていると、紫蓮でも祝でもない第三者の声が聞こえた。それも、自分らの名を呼んで、こちらに近付いて来る。誰かと思えば、自分たちのクラスの担任教師だった。すると、その担任教師は驚いたようにこう言う。
「何をやってるんだ、お前らは。もう下校時刻だぞ。早く帰れ。」
それだけ言うと、担任教師は教室から立ち去った。気付けばもう下校時刻。正門を閉められる前に学校の敷地から出なくてはならない。紫蓮は急いで教科書とノート、それに筆箱などを鞄に入れ、祝は既に荷物が入っている鞄を持ち、教室を出ようとする。
教室には誰もいない。教室に周りにも誰もいない。いるのは教室の窓の外に静かに止まっていた、赤と黒の蝶が二匹いるだけだった。だが、二人は蝶の存在を知らない。そして、その二匹は紫蓮と祝が教室を出るのを確認した後、羽根を大きく広げ翻し、その場を後にした。そして何処かへ飛んで行く。


ここは誰も近寄らない廃墟。十年以上前に廃墟になってから、近所の誰も足を踏み入れない場所となってしまった。ただ、近所と言っても、人が住む民家はこの廃墟から少なくても一キロは離れている。この廃墟に変化が起ころうと、気付く者がいるはずもない。そして、その廃墟に二匹の赤と黒の蝶が入って行った。すると、二匹の蝶は一人の浴衣を着た少女の指に止まる。赤い浴衣に黒の帯を着けた少女だった。髪が長く、軽く腿を越えていて、その長い髪を結うこともなく、そのまま流し落としている。その少女はしばらく二匹の蝶を見つめてから蝶を放した。
「爺様。〝紫の蝶〟がこの浴衣の事知った。」
そう言った後、蝶に餌を与える。その最中に遠くの方から、低く潰れ、枯れた声が聞こえた。
「そうか、奴が知ったか。もうすぐだ。莎子(さこ)。」
枯れた声の主は少女を〝莎子〟と呼んだ。〝莎子〟と呼ばれた少女は何も言わず、ただ蝶に餌を与えているだけだった。

紫蓮が帰宅し、玄関の扉を開けると、玄関から年配の女性の声が聞こえた。
「お帰りなさいませ。紫蓮坊ちゃま。」
誰もいないはずの南条邸から、声が聞こえたことに少し驚いた紫蓮だが、納得がいく事柄を思い出し、安堵の表情が出た。そして言葉を出す。
「ただいま。そういえば今日からでしたね。」
声の主はこの家の使用人。現在では家政婦と呼ばれる者だ。今年で六十になり、南条家に仕えて早、五十年になる。名は千代(ちよ)。
生まれは戦後間もなくで生まれた頃にはすでに父は戦死しており、母は病に臥せていた。まだ幼い時分にその母も亡くし、母方の祖母に育てられていたが、その祖母も戦後ということと、年配だったということがたたり、千代が十になる前に死去した。
千代はその後、紫蓮から数え先々代の父、紫蓮の曾祖父に拾われ、十のうちから使用人として住み込みで南条家に雇われていた。当時、千代と同じ年頃だった先々代とは、家では子息と使用人、学び舎では友人として交流を深めていた。だが、所詮は友人。二人の仲が恋に発展することはなかった。互いが意識しなかったせいだろう。恋の対象に考えたことがなかったのだ。二人はいつまでも、何でも話せる友人だった。
そして、そんな千代も南条家の勧めで見合いをし、先方へ嫁いだ。だが、南条家の使用人を辞めるとは決して言わなかった。夫や舅、姑に反対されながらも、ここだけは譲れないと決して譲らなかったのだ。自分を拾ってくれた先々代の父に恩返しをしたい。と言い、嫁ぎながらも南条家に仕えていた。嫁いだ身としての弁えを知り、嫁ぎ先から毎日通いつめていた。以前は住み込みだったが、嫁いだのならば南条邸を出なければならない。だが、一度も弱音は吐かなかったし、その後何十年も南条邸に通っている。
そして、仕えてから今年で五十年。千代が知る中で紫蓮は三代目の〝坊ちゃん〟である。いや、紫蓮にはもう親はいない。紫蓮を当主として数えるならば、千代が仕えてきた中では四代目の〝当主〟で、別の意味の主人になる。
以前、ここから徒歩十分程の処に夫と二人で住んでいたのだが、先月夫が病魔に蝕まれ他界。いろいろあり、数週間ほど暇をもらっていた。紫蓮は家事炊事、共に人並みには出来るため、大して苦労はしないのだが、生まれる前から家に居た千代を、追い出そうとは思っておらず、調子が良くなればまた来てくれと言っていたのだ。
「今日からまた宜しくお願い致します。」
千代はそう言って紫蓮に向かい頭を下げた。すると紫蓮は少し慌てたように
「そんな、止めてください。」
と言い、千代の頭を上げさせる。頭を上げさせた紫蓮が玄関に上がり、スリッパに履き替えた後、自室に行こうと階段に足を向けたが、すぐその足を戻し、キッチンに向かおうとした千代を呼び止めた。その後、紫蓮が千代に言ったことは、千代にとって意外なものだった。
「また、この家に住み込んでもいいんですよ?」
嫁ぐ前みたいに。部屋ならいくらでもあります。
紫蓮は独り身になった千代にこう告げた。近くで、徒歩十分といえども、毎日通っている六十の千代には辛いものがある。紫蓮はそれを気遣って千代にそう言うと、千代は少し驚いたような顔をして笑った後、笑顔で言った。
「私独りで他に誰もいないとはいえ、私は嫁いだ身ですので、坊ちゃまのお気持ちだけ有難く頂戴致します。」
そう言い、千代は紫蓮の申し出を丁重に断わり、キッチンへと向う。紫蓮も階段を上がり、自室へと足を延ばした。

「莎子、どうした。」
珍しく笑っている莎子に枯れた声の主が声をかけた。笑っていると言っても、人には分からない程小さな笑みだった。すると声をかけられた莎子は静かにただ一言、
「…〝紫の蝶〟…殺してもいい…?」
と側にいた枯れた声の老爺に聞いた。すると老爺は微妙に笑いながら、
「あぁ、いいさ。〝紫の蝶〟が浴衣と帯の事を知ったのならな。」
と言い怪しい笑みを浮かべた。莎子は何が楽しいのか、珍しくその日だけは一日中笑っていた。

「南条紫蓮さま、…か…。」
自室のベッドの上で寝転がり、封筒を手にしながら一言呟いた。
紫蓮の手にあるのは一通の手紙。切手も消印もない手紙。
この手の手紙なら今までに数え切れないほど来ている。全てラブレターか果たし状という形で。この手紙も先程、千代が郵便受けに入っていたのだと紫蓮のところに持って来たものだ。
だか、今回の手紙は今までの手紙とは違った。切手も消印もない。そして、差出人の名前もない。今までと同じ手の手紙であれば必ず差出人の名前は書いてあるはずだ。本人が紫蓮に自分の名前を覚えてもらおうと必死だからだ。紫蓮は人と関わらないようにしているため、当然クラスの女子生徒とも話しはしない。紫蓮が覚えている女子生徒がいるかということ自体怪しいところだ。そして、今回のこの手紙。紫蓮は封を切る気にはなれなかった。普段の手紙も決して開けている訳ではないが、独特の雰囲気を持つこの手紙は何か嫌な予感がしたからだ。だが、心を決め、手紙の封を切った。すると中に入っていたのは一枚の手紙だった。正確には手紙しか入っていなかった。その手紙の内容を見て、紫蓮は言葉を失う。

お前の両親が死んだ本当の理由を知っている。
両親の死後送った手紙は嘘に過ぎん。
こちらがでっち上げたものだ。
最近呪いの赤い蝶の浴衣と黒い帯の事を知ったようだな。
そのことを忘れぬようにし、一週間後の金曜日、午後五時に街外れの元薬品会社に来い。
両親が死んだ理由の全てを教えよう。
老いぼれた黒い蝶

紫蓮はこれを見て瞬間的に頭を回転させる。以前自分のところに送られてきた手紙。両親の友人からとあったあの手紙。あの手紙が嘘。
だが、大して驚く事ではない。内容があまりにも信じがたい内容だったため、最初から信じてはいなかった。あの手紙は両親が亡くなって間もなく家に届いたもの。
紫蓮の両親は各界に名の知れた著名人だったため、式の弔問者は二千人を越すほどだった。だが、紫蓮はその誰にも両親の死の理由、手紙のことを話さなかった。〝何も知らない息子〟を演じ続けていたのだ。紫蓮のところに手紙が来たことも、誰にも何も話していない。そのため手紙のことを知っている者は誰もいないはずだ。だが、この手紙の差出人はそのことを知っている。ということは、前回の手紙の差出人と今回の手紙の差出人が同一人物だということになる。だが、それよりも紫蓮が気になったのは文章中に出てくる呪いの浴衣の部分である。何故この手紙の差出人、〝老いぼれた黒い蝶〟は浴衣の極秘事項を知っているのか。赤い〝蝶〟の浴衣、このことは極秘情報で紫蓮も祝に教えられ知ったことだ。祝が〝極秘〟と言ったのだ。このことを知っている者はごく少数の限られた者だけだろう。祝は学校一の情報屋で知らないことはないと言われる程の情報力を持っている。その祝が〝極秘〟だと言い切った情報だ。知っている者がそう何人も居るとは思えない。ならば何故この手紙の差出人はそのことを知っているのだろうか。それが最大の疑問だ。極秘情報であるにも関わらず、何故知っているのか…。
このことも一週間後の金曜日、あの場所に行けば分かるだろうか。それを信じて紫蓮は一週間後、指定の場所に行くことに決めた。自分が動き出さなければ何も始まらない。両親の死因を知るために、真実を知るために。そう誓ったあの日。その決意を無駄にしたくなくて。
そうこうしているうちに部屋の扉が三回鳴った。するとしばらくしてから千代の声が聞こえた。
「紫蓮坊ちゃま、お夕飯のご用意が出来ました。」
いろいろ考えているうちに夕食の用意が出来たらしく、そのため千代が呼びに来たのだ。すぐに行くと伝え、手紙を机の上に置き、部屋を出た。

夕食を食べ終わり、再び部屋に戻って来た紫蓮の頭の中は乱れきっていた。
何も考えられず、今日はもう寝ようと部屋のカーテンを閉め、風呂に行くつもりだった。だが、カーテンを閉めようと窓に向かった紫蓮の眼に映ったのは、紫蓮の身体の自由を奪う光景だった。
南条の敷地には入っていないが、黒く長い髪を結わず流し落とし、赤い浴衣に黒の帯をした少女が睨むように紫蓮を見つめていた。ただ無心に紫蓮を見つめていた。紫蓮にはその姿が赤い浴衣と黒の帯ということしか分からず、浴衣の柄が蝶であることには気付かなかった。だが、ただ純粋に紫蓮を見つめていることが分かった。身体の自由が利かなくなった紫蓮だが、何かを思い立ったように慌てて部屋を出て、家を出た。
すると、そこにいたはずの少女はそこにはいなかった。必死で辺りを見回すと急いで走り去って行くあの少女が目に入る。紫蓮は急いで少女を追いかけ走る。ある程度まで来ると少女は突然走るのを止め、立ち止まった。それにつられ紫蓮も走るのを止め、立ち止まる。
少女と紫蓮の間には一定の距離が出来た。紫蓮は自分が何故この少女を追って来たのか疑問に思っていた。少女が追って来いと言った訳でもなければ、誰かに追えと言われた訳でもない。自分の意思で少女を追って来たはずなのに、そのこと自体が不思議でならなかった。顔見知りという訳でも、知り合いという訳でもない。今日初めて会った初対面の少女なのだが、追わずにはいられなかった。
やはり自分の意思ではない。何故か気付いたら追いかけていた。ただそれだけの話のはずなのだが、それが不思議で仕方がないのだ。すると立ち止まった少女は紫蓮の方を向き、静かにただ一言呟いた。
「〝紫の蝶〟…見つけた。」
そう告げた後、浴衣に袖を通した手を口元に持って行き少しだけ笑い、紫蓮を見つめていた。そして再び口を開いた少女が言ったことは、紫蓮にとって予想もしていない言葉だった。
「〝紫の蝶〟…南条紫蓮………殺す。」
この言葉に紫蓮は驚きを隠せなかった。
〝殺す〟…今の若者はすぐにこの言葉を発する。そんな気など、力など、勇気など持っていないくせに、面白半分で日常的に口にする。
だが、この少女は違った。この少女は眼に偽りがなかった。すごく冷たい眼をしていて、本当に躊躇いもなく人を殺すような、そんなただならぬ眼をしていた。
そして、この場に来て分かったこと。少女の着ている浴衣と帯があの噂の浴衣と帯と酷似しているということ。浴衣の色は赤。赤い生地に〝蝶〟の柄。
そんな少女に紫蓮は問う。
「君は…何者なんだ…?」
何故自分を殺すというのか。何故家の前にいたのか。その他にも聞きたいことはある。だが、言葉が出て来なかった。言葉を出さなければ何も始まらない。そう思いながらも、言葉を出せない。そんな状態が続いた。

あれから、どれくらい経っただろうか。見つめ合ったまま、沈黙が流れ、時刻(とき)が流れた。しばらくして口を開いたのは、少女ではなく紫蓮の方だった。
「君は何者なんだ…?」
放った言葉は沈黙になる前にも一度言った言葉。先程少女はこの問いに答えてはくれなかった。だが、ずっとこのままでいても埒が明かない。そう思い、少しでも前進するために言葉を出したのだ。また答えてくれないかもしれない。だが、少女が答えてくれることを一縷の望みにかけて願ってみる。すると少女は紫蓮の問いに答えた。
「あたしは…蝶。」
少女の返答に紫蓮はもどかしくなる。どうしようも出来ない感覚が迫って来る。
〝蝶〟…また出てきた。何なんだ、〝蝶〟って!!一体何なんだ!!
そう思う紫蓮の心が謎を乱していく。謎は深まるばかりだ。その謎を解く事が出来るだろうか。自分が、両親が関係しているのなら、尚更知りたい。知らなければならいない。そう思っている間に少女から次の言葉が出た。
「赤い、赤い、…血まみれの蝶。」
少女が前言を発してから三秒も経っていないはずだ。紫蓮の中であれだけのことが巡っていたのにも関わらず。紫蓮は冷静になるよう自分に言い聞かせ、静かに言葉を出した。この状況に、いつもは出ない冷や汗が出るような感覚がする。
「君の名前は…?」
その問いに少女は答えるだろうか。そう思っているうちに少女の口が動くのが分かった。だが、少女の口から出たのは、やはり少女の名ではなかった。
「…赤い蝶。」
これが少女の名前の訳がない。必ず本当の名前があるはずだ。痺れを切らしそうな、何とも言えない感覚だった。冷静に、だが、真剣に少女と向き合った。
「違う。君の本当の名前だ。」
そう放った後、少女は紫蓮が真剣に言ったことが分かったのか、紫蓮から視線を逸らし、横を向いて俯いた。そして、消えるような小さな声で何かを呟く。
「……………さ、こ………。」
少女の小さい声が紫蓮に届いただろうか。少女の声はそれほど小さかった。周りで誰かが一声叫べば消えてしまいそうな程。だが、紫蓮にはしっかりと聞こえていた。少女の小さな声が。
「…さこ?」
紫蓮が確認を取ると、少女は小さく頷いた。今までとは違う少女の姿を見て、紫蓮は少し気分が変わる。少女に向けて笑いかけていた。笑いかけていたのだ、あの紫蓮が。この場に祝がいれば、奇跡が起きたなどと言うだろう。それほど紫蓮が笑いかけることは珍しすぎることだ。
珍しいといえば少女に対する呼び方もそうだ。いつも紫蓮はクラスの女子生徒を呼ぶ時も〝あんた〟と呼ぶ。だが、この少女に対しては違う。〝あんた〟ではなく〝君〟を使っている。これもかなり珍しいことだ。いや、初の出来事ではないのだろうか。紫蓮が女を呼ぶこと自体珍しいことだが、寧ろ、珍しいを通り越している。
紫蓮は少女の名前が〝さこ〟だと分かると再度微笑し、少女に訊ねた。
「漢字は?どう書くの?」
この問いと紫蓮の反応に、少女は眼を丸くして驚いたような顔をしている。紫蓮がそう言うとは思っていなかったのだろう。
少女は長い髪を持つことも結うこともせず、ゆっくりとしゃがみ込み、少し大きめの石を持ち、地面に何か書き始めた。長い髪が地面につく。だが、それを嫌がらない少女。こんなに髪を長くしているのに、髪に対するプライドがないようだ。そして、しばらくしてから少女が書いたものを見てみると〝莎子〟と書いてあった。紫蓮がそれを読む。
「莎子。」
これで〝さこ〟って読むんだ。と付け足し、また莎子に向けて笑いかけた。すると紫蓮は莎子同様にしゃがみ、近くにあった手頃な石を持ち、何かを書き始めた。書いたものは、
―――〝紫蓮〟だった。地面に自分の名前である〝紫蓮〟を書いた。
「俺は紫蓮っていうんだ。」
莎子は先程、紫蓮の本名をフルネームで言った。紫蓮は莎子が自分の名前を知っているのを分かっていて、莎子に名前を言ったのだ。紫蓮がそう言うと、莎子は紫蓮を見つめ、唇を動かした。
「違う。お前は〝シレン〟じゃない。」
莎子は〝紫蓮〟を〝シレン〟と発音した。だが紫蓮はそんなことはどうでもよかった。ただ言われたことの意味が理解出来なかった。自分の名は〝南条紫蓮〟で〝シレン〟で違いないのに。
紫蓮が不思議そうな顔をすると、莎子はそんな紫蓮に気付いたのか、理由を述べた。
「お前は〝紫の蝶〟だ。」
…―――〝紫の蝶〟…また出て来た。〝蝶〟…。
莎子に〝紫の蝶〟と言われる理由は分からないが、意味は分かる。莎子は最初、自分のことを〝赤い蝶〟と言った。何故〝赤〟なのか詳しいことは分からないが、自分が〝紫〟なのは分かる。自分が〝紫蓮〟だからだ。紫蓮だから〝紫〟なのだ。
だが、紫蓮は蝶ではない。人でちゃんとした名前がある。その意味を込めて、紫蓮は莎子に言った。
「俺は〝蝶〟じゃない。紫蓮だ。紫蓮。」
紫蓮は莎子にそう言い聞かせた。すると莎子は
「蝶だろうがシレンだろうが、どうでもいい。」
そう淡々と放つ。これ以上名前のことで言い合っていても仕方がない。それに紫蓮は自分が人に何と呼ばれようと気にはしない。だが、ここで会話が途切れる訳にはいかない。聞きたいことはまだある。紫蓮はそれを聞き出すために質問を繰り返す。
「君の年は?いくつ?」
「……お前と同じ…。」
「学校は?どこの学校?」
「……行ってない…。行く必要もない。」
「怪我は?大きな怪我をしたことは?ほら、階段から落ちるとか。」
「……ない。お前じゃないんだ。たかが三才でも階段から落ちることはしない。」
「家は?どこら辺?」
「……街外れ…。」
「家族は?何人家族?」
「………家族なんかいない…!」
その質問で、莎子は声を張り上げ、立ち上がった。
聞いていて、分かったこと…。莎子は独りだってこと。それと、同じ形式で質問を繰り返した結果、莎子はどの質問にも敏感に反応した。そして、どの質問の答えも口から出るのに時間が掛かったこと。莎子の様子を見れば、学校に行っていないことは一発で分かった。何よりもあの長い髪が物語っている。腿に行くまで髪を伸ばす子はそうそういるものではない。それに加え、あの髪には結った後がない。学校に通っているなら髪を結わなければならない。腿まであるなら尚更だ。どこの学校の校則でも禁じられているはず。
紫蓮は一目見ただけで相手の癖や特徴を認識する。これは幼き頃からの習慣がものをいう。そのため、人の第一印象や素振りで人間性を見分ける事も少なくはない。だが、流石の紫蓮も年が自分と同じくらいということしか分からなかった。何しろ、今は夜。街灯はあるものの、肉眼では足元しか見えないと言う方が正しい。先程地面に書いた名前もやっと見えたくらいだ。それに莎子の長い髪で顔はよく見えない。そのためか姿形で判断するしかなかったのだ。だが、予想通り、自分と同じ年だったとは。そして、分かったことで一番重要なこと…。
自分のデータが流れていること。
紫蓮は莎子との面識はない。だが、莎子が紫蓮のことを知っているということは調べたということだ。紫蓮は学校内では指折りの有名人。知らない者などいないという程だが、莎子は紫蓮の学校の生徒ではない。勿論学校外で紫蓮を知っている者はいるだろうが、学校外の人間で紫蓮の正確な情報を得るならば、それ相当の探りを入れなければ不可能だ。紫蓮が三才のとき階段から落ちたということは余程調べないと知ることは出来ない。いや厳密にいうと不可能に近い。このことを知っているのは両親と昔からの親友である祝、そして、現在の紫蓮の保護者だけだ。だが、紫蓮の現在の保護者は一般人が知れるものでもなく、情報を得るのはやはり不可能。そして、祝が紫蓮に黙って誰かに情報を漏らすことは、ほぼ百パーセントない。祝はかなりの情報屋で一般人が知らないこと、知る事の出来ないことを自慢の情報網を使って得ている。だが、無償で誰かに情報を渡すような奴ではない。況してや、それが紫蓮の情報ならば尚更だ。紫蓮の情報はたとえ有償であっても教えることはない。ということは、これらのことを含まえ考えると、莎子のこの情報は紫蓮の保護者でも祝ではない誰かから得たということになる。すると、益々分からなくなる。この情報を知る者など他にいないはずなのに、紫蓮の情報を誰かが漏らしているのだ。その誰かが誰なのか分からない。紫蓮のこんなことを知っている人物が他にいるのだろうか。
いくら考えても分からない紫蓮は、今、目の前にある現実に向き合った。何かを決心し、しゃがんでいた状態から立ち上がった。そして一言。
「じゃあ、最後の質問。」
―――〝最後〟…。紫蓮はそう割り切った。質問の内容は決まっていた。…迷うことなく。
一方の莎子は〝最後〟というのに苛立ちを覚えていた。自分は〝南条紫蓮〟というモノを、いや、〝紫の蝶〟というモノを殺しに来たのだ。質問に答えるために来たのではない。その気持ちがとても強かった。莎子は紫蓮の発言の後、すぐに口を開いた。
「あたしは質問に答えに来たんじゃない。」
お前を殺しに来たんだ。
そう放ち、紫蓮を力いっぱい睨み付けた。だが、只の睨みが紫蓮に利くはずない。紫蓮はその睨みを軽く流し、最後の質問を口にした。
「君と〝老いぼれた黒い蝶〟との関係は?」
これこそが紫蓮が莎子に本当に聞きたかったこと。
莎子が〝蝶〟を仄めかした時、紫蓮は確信を持った。莎子が赤、手紙の主が黒。紫蓮を取り巻く、赤と黒の蝶。赤い蝶と黒い蝶に関係があることは明白だ。だが、これは悪までも紫蓮の推測の域を出ない。更なる完璧な確信が欲しかったのだ。そのため、莎子に問う。そして莎子から返って来た答えは紫蓮にとって意外なものだった。
「〝老いぼれた黒い蝶〟…?…爺様のことか?」
〝爺様〟…。
莎子の言う人物が誰かは分からなかったが、その〝爺様〟という者が〝老いぼれた黒い蝶〟だということが分かった。これは紫蓮の勘だ。素振り、口調、視線の向きを見て分かる。莎子は問うように言ったが、紫蓮にはそれが確信になったのだ。莎子は嘘を吐き慣れていない。それは紫蓮が行った先程の質問でも立証されている。ということは莎子と〝老いぼれた黒い蝶〟には何かしらの接点があるということ。それだけ分かれば充分だった。あとは指定の日、指定の時間に指定の場所に行くだけ。紫蓮はこれ以上聞くことはないというかのように莎子にただ一言
「ありがとう。」
と告げ、自宅に帰ろうとした。だが、莎子はそれを許してくれなかった。紫蓮が踵(きびす)を翻したと同時に莎子は紫蓮を名ではない別の呼称で呼び止めた。
「待て!紫の蝶!」
紫蓮が振り向く前に莎子はどこからかナイフを取り出し、紫蓮の顔目掛け投げ付けた。紫蓮は振り返り自分に向かって来たナイフの刃先を躊躇いもなく指で挟み、掴み取るとその場に落とす。そして面倒臭そうに聞き返す。
「何?」
聞き返された莎子は紫蓮を睨み付け、叫び散らすように言い放った。
「言っただろう!お前を殺すと!」
莎子は声を必要以上に張り上る。
そう、確かに莎子は最初にそう言っていた。〝殺す〟と。莎子は紫蓮を殺しに来たのだ。莎子の言葉が本気なのは分かる。だが、紫蓮があっさり殺される訳がない。
「今の君じゃ、俺を殺せないよ。」
君の覚悟は認めるけど。
こう付け足した紫蓮は自宅の方を向き直し、迷うことなく足を進める。すると思い出したように足を止め、再度振り返り莎子に向けてこう言った。
「それと、俺の名前は〝紫蓮〟だ。紫の蝶じゃない。よく覚えとけ。」
莎子に向けてそう告げた紫蓮は、莎子を追って来た道を引き返して行った。さらに紫蓮は、今度は振り向かず右手を挙げて莎子に語りかける。
「一週間後の金曜日、五時に元薬品会社。楽しみにしてるよ。」
そして、莎子の視界から消えた。一方、獲物を逃がした莎子は紫蓮が見えなくなった少し後、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いていた。
「絶対、あたしの手で殺してやる…。」
拳を握り締め、強い口調で莎子はこの後、何度も何度も同じことを言う。
自分が紫蓮に負けたと思いたくない。〝老いぼれた黒い蝶〟は一週間後、紫蓮を手紙で呼び出しているが莎子が紫蓮を殺しに行くことは許した。それくらいで死ぬような奴ならば自分たちにとって願ったり叶ったりだと言うかのように。だが、莎子は紫蓮を殺せなかった。殺すつもりで逢いに来たのに、殺せなかったのだ。ナイフまで持って来たのに。
「次に逢った時は絶対、殺してやる…!」
莎子のこの呟きが暗く静かな夜の街に響き渡ることはなかった。


自宅に戻った紫蓮を迎えたのは千代だった。
いつもなら千代はもう自宅に帰っている時間だが、紫蓮が何も言わず家を飛び出したので心配で南条邸を離れることが出来なかったのだ。
紫蓮が玄関の扉を開け、中に入ると千代が大慌てで玄関にやって来た。そして紫蓮を見るなり素早く質問攻めにする。
「坊ちゃま、大丈夫ですか?お怪我はありませんか?一体どうしたんです?」
心配そうに見る千代に紫蓮は
「大丈夫ですよ。心配をかけてすみません。…ただいま。」
と笑顔を向けた。すると千代は慌てて頭を下げながら
「申し訳ございません、紫蓮坊ちゃま。お帰りなさいませ。」
と挨拶をする。
千代の行動に紫蓮は、そんなに改まらなくても。と言い、階段に足を向け、自室へと足を延ばした。
紫蓮の住むこの南条邸は戦後、先々代の父の、紫蓮の曾祖父の代に造られた。丁度、先々代が千代を拾った年に造り、出来上がったのだ。この家の特徴は、基本形は和風ながらも二階建て仕様で階段があるということ。戦争は終わったのだ。異国との交流も盛んになるであろう。一足先に取り入れるのも悪くはない。という曾祖父の意思だった。今でこそ二階建てが珍しくない世の中だが、戦争最中(さなか)のこの時代には一戸建てであっても一階建てが主流で二階建ての一般の家などないも同然だった。その中で当時の当主、紫蓮の曾祖父がこの場に家を建て、ここで暮らしていたのだ。大きさは普通の一般家庭と同じ大きさで、莫大な財産を持っているとは思えない大きさだが、紫蓮もそのことを知ってか古いこの家に住んでいる。築五十年と歴史のある家で、南条の所有する数ある家の中で一番小さく古い家だが、住めなくなるまでこの家に住もうという紫蓮の意思により、今も尚、曾祖父が建て、千代が育った当時の南条邸のままだ。以前、千代の部屋だった奥の部屋も未だに残っている。千代もそんな南条邸に愛着があるのだろう。
紫蓮は自室に戻った後、今までのことを思い出していた。自分を殺しに来たという莎子という少女のことを。何故自分を殺すというのか、紫蓮にはその理由が分からなかった。今まで面識があった訳ではない。告白を断った逆恨みという線が一番高かったが、それもないことが判明した。〝莎子〟は学校に通っていないと言った。嘘かもしれないと思うところだが、まずそれはない。あの娘は嘘を吐くことを知らない。身体全体の雰囲気で、瞳で、それが判った。あの瞳は、嘘を吐いたことのない、そんな瞳だった。あの娘が何者かは判らないが、その答えも一週間後の金曜日に分かるだろう。
待つのは一週間後の金曜日。

2017/05/24 19:18 | 創作男女 / 赤と黒の蝶

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