青空が綺麗な五月の中旬、清々しく風が吹き、とても心地がいいある晴れた日。
莎子が紫蓮と祝の通う学園に転校してから、一週間が経ったとされるとき。やっと莎子も学園生活に慣れ初めてきて、物事が順調に進むはずだったある日。昼休みに莎子が教室内の机に落ち着いているとクラスの女子が数名莎子に声をかけてきた。
「南条さん。南条莎子さん。ちょっといいかしら。」
呼ばれて顔を上げると、腕を組み、明らかにプライドが高そうな女子が莎子を睨み付けている。
どれも企業の社長令嬢やその系統の者。
莎子が〝南条〟の姓で呼ばれたのは、莎子自身が紫蓮に本名を聞かれたときに答えなかったからだ。本名の姓より〝南条〟がいいんだ。学校に通うなら〝南条〟で通いたいんだ。と言い張ったのは他ならぬ莎子だ。紫蓮も清芳も莎子がそこまでいうのなら、と〝南条〟で通うことを許した。そのため、学校や自己紹介の時でさえ、莎子は〝南条〟を使う。だが、それを快く思わないのは一人や二人ではなかった。
名を呼ばれて対応すると、複数の女子に半ば強制的に校舎裏に連れて行かれ、壁を背にして中心に莎子、その回りに半円を描くように女子に囲まれた。回りは一流の学園とは思えない程、草が茂っていて、声を上げても気付いてもらえないような、典型的な校舎裏という感じがした。
いつもならば紫蓮や祝と一緒にいる莎子だが、今日は偶然、紫蓮には学年主任からの頼み事、祝には担任からの頼み事があり二人が同時に莎子から離れることを余儀なくされた。学年トップクラスの成績を持つ二人は度々こういう名目で借り出されることがある。今日は莎子が転校して来てから初めてのそういう日だったのだ。
それを見計らってか、女子たちは紫蓮と祝が傍にいない今の時間帯を狙ったのだろう。一番威張っているのは女子の中でも真ん中にいるリーダーのような女子。
「あなた、南条くんとどういった関係なの?」
聞かれたのはやはり紫蓮関係のこと。出逢った当初は分からなかったことだが、学校に来てみれば一発で分かった。紫蓮が校内でも知らない者がいないくらい有名人だということが。だとしたら、呼び出された原因は分かっている。
莎子が何も答えず黙っているのを見て、数名の女子の中の中心にいると思われる女子が痺れを切らせて先の言葉を放つ。
「親戚ではないようだけど、名字が同じなのは気になるし、何より気になるのが、あなたが南条くんを名前で呼んでることよ。」
この学園に通っているのはいずれもある程度の資産家の子息ばかり。勿論長年の付き合いなどで莎子が南条の者でないこと位分かっているのだろう。仮にもし南条の者だったなら、この年になるまで一族が放っておく訳がない。南条の者がこの学園に通っていないなどありえないことだからだ。
「南条くんもあなたのことを名前で呼んでいるし。」
「南条くんを名前で呼ぶのは、校内でも河村くんだけなのよ。」
「親戚ならともかく、個人的に親しくされるのはかなり不愉快よ。」
最初の発言につられてその他の女子も言葉を切りながら言いたいことを言う。だが、莎子には何も言えない。言い返すことが出来ない。莎子は紫蓮と親戚ではないし、つい最近出逢ったばかりだ。それもまだ一ヶ月くらいしか経っていない。付き合いでいえば、相手の方が長いだろう。紫蓮がどう思っているのかは分からないが。だから、何も言えない。だが、ずっと黙っている訳にもいかない。何か言わなければ、そう思った莎子は腹の奥から声を出す。
「………あたしは…。」
「紫蓮っ!」
学校の教室前の廊下、祝は前方に見えた親友の紫蓮を叫び呼んだ。それに気付いた紫蓮は教室に入るのを止め、茶髪を振り乱しながら物凄い速さで向かって来る祝に言った。
「祝…何だよ、そんなに慌てて。」
自分のところまで勢いよく駆け込んで来た、親友の祝を見てそう捨てたが、あまりにも慌てている姿を見たときは驚いたものだ。祝が慌てるところなど、最近は見ていない。そして、何があったのかと思えば、衝撃的な言葉が祝の口から飛び出して来た。
「さ、莎子チャンがクラスの女子数名に絡まれてるって…。」
「――――――!」
莎子…!
莎子に関係があることだと分かった紫蓮は、その瞬間眼の色を変えた。それに即座に気付いた祝は状況を分かる限り紫蓮に伝える。
「多分、お前の取り巻きやファンの奴等だと…。」
自分のファンの仕業だと聞いた瞬間、紫蓮は自分を恨んだ。自分のことで莎子に被害が及ぶなんて、一番紫蓮が嫌なことだ。況してやファンなんて自ら望んだ訳でもない。勝手に出来た存在に莎子が嫌な思いをしていることは聞かずとも分かる。
「場所は!?いつだ!」
場所は何処なのか。それはいつの話なのか。乱暴な聞き方だったが、理性が感情を抑えるということをしてくれなかった。祝はそんな紫蓮のことをちゃんと理解しているため、聞かれたと同時に、また、即座に答える。
「場所は校舎裏で、教室を出てからまだ五分くらいしか経ってない。」
校舎裏―――。
特別、用がなければ誰も立ち入らないところだ。誰かが偶然莎子たちを見つけて対処してくれているという可能性はほぼゼロパーセントに近い。教室から校舎裏までは歩いて三分とちょっと。まだ校舎裏について間もないくらいだろう。紫蓮はちっ、と舌打ちをした後、
「莎子の所に行って来る!」
と、祝に叫ぶように告げて廊下を走る。それを見聞きしていた祝は、何も言わず走り去って行く紫蓮を見送る。
「相変わらず速えーな。」
紫蓮の足の速さは幼少のころからの両親の教育の賜物だと知っている祝は、改めて思い知らされたと言うが如く、茶色の髪をかき上げ、呟く。そして茶色の髪をかき上げながらも、制服のポケットからメモ帳を取り出す。
「さて、こっちはこっちで進めるとするか。」
そう言い、教室の中へと入った。
「………あたしは…。」
あたしは、紫蓮の何…?
紫蓮の何かなんて考えても分からない。紫蓮に何か言われた訳じゃない。紫蓮の気持ちを確かめたことなんて一度もない。そんな資格が自分にあるのかも分からない。戸惑いながらも腹から声を出すと、次の言葉が出て来る気がした。でも、言葉なんか出て来ない。どうすればいいのか、分からない。
「莎子っ!」
その瞬間、耳に入った声に心が疼いたのが分かった。声のする方を見ると、そこには走って来たことが分かる紫蓮の姿。紫蓮の姿を見た女子たちは、咋(あからさま)に驚いた表情をする。
「な、南条くん!」
女子が紫蓮を呼んだが、紫蓮には聞こえていない。紫蓮はその場にいた莎子のみを視界に入れ、莎子に近付く。それを見た莎子は、やっと口から言葉が出て、それは他ならぬ紫蓮の名だった。
「…し、紫蓮…。」
莎子の声を聞き、少し安心した紫蓮だが、完全に不安が消えた訳ではない。
「莎子!大丈夫か!?」
そう声をかけると莎子は
「…うん。」
とだけ言った。それを聞いて、やっと安心することが出来る。
「そうか。」
莎子に向けて柔らかな声で言葉を出したが、莎子をこんなところへ連れ出した他の女子たちへの怒りは収まらない。
「…で、お前等、莎子に何した訳?」
先程まで莎子にかけていた声とは全く違う、鋭くきつい声で女子たちに言葉を捨てる。女子たちを睨み付け、今にも手を上げそうな態度だ。女子たちは紫蓮のその声と視線の鋭さに狼狽える。
「あ…いや…その…。」
「何したんだよ。ほら、言ってみろよ。」
恍(とぼ)けようとする女子たちに対し、更に鋭い声を出す。莎子のことならばどんなことでも妥協しないのが紫蓮だ。このまま女子たちに何をするか分からない。このとき、そんな紫蓮を制止したのは莎子の一声だった。
「紫蓮…いい。」
その言葉に反応し、莎子を見ると、莎子はとても悲しそうな顔をしていて、それを見た紫蓮は莎子の名を呼ぶしかなかった。
「莎子…。」
紫蓮に呼ばれると、莎子は
「あたしは大丈夫だから。」
とだけ告げて、それ以上は何も語ろうとはしなかった。ただ、紫蓮の制服の裾を掴み、離すこともしない。そんな莎子を見て、紫蓮は不安を募らせる。
「祝、今回のこと、詳しく調べてくれ。」
莎子を教室に連れ戻し、落ち着かせてから祝に調査の依頼をする。祝ならばどんな方法を使ってでもこの件の詳細を調べてくれるということが分かっているからだ。だが、祝は紫蓮の言うことが分かっていたのか、その言葉に得意気に返した。
「もう調査済みだ。」
その一言に紫蓮は眼を丸くして祝を見る。するとそれに気付いた祝は制服のポケットからバックアップのメモ帳を取り出す。
「莎子チャンのことだろ。」
そして数えきれないくらい付箋が挟んであるメモ帳を無造作に開け、紫蓮が知りたいことを口にする。
「今回はお前のファンの女子五人。内容はお前とどういう関係か。お前が莎子チャンを名前で呼ぶのと同時に莎子チャンもお前を名前で呼んでるからな。そのことだ。その五人の名前とクラスも分かってるけど、聞くか?」
祝が、調べたことの全てを紫蓮に話すと、紫蓮は何かを考え込んでいて、それが横にいた祝にも分かった。紫蓮は性格上、普段から考え事を人に察知されないように振る舞っているが、今の紫蓮は違う。莎子のこととなると熱くなり、感情的になったりもする。祝はそんな紫蓮も人らしくていいと思っているのだが、紫蓮自身はそんな自分に気付いていないのだろう。
「莎子、本当に大丈夫か?」
放課後、自宅への帰り道、紫蓮は莎子に今日の昼休みに起こったことについて訊ねた。
あのとき莎子から制止の言葉が掛からなければ、恐らくあの場にいた女子たちに制裁を下していただろう。莎子は紫蓮に問われても何も答えない。紫蓮が不安を重ねると、莎子が急に立ち止まり、紫蓮の眼を引いた。
「莎子…?」
どうして止まったのか。やはり昼間のことが嫌だったのか。聞きたいことは山程あった。だが、紫蓮がそれを口にする前に、莎子が口を開いた。
「…紫蓮……あたしは、あたしは紫蓮の何…?」
そう言った莎子は紫蓮の眼を見て、昼間と同じように紫蓮の制服の裾を掴む。
莎子は紫蓮にとって、自分が何なのかという答えが欲しいのだ。紫蓮は莎子の言うことを何でも聞いてくれる。だが、紫蓮の気持ちを聞いたことは一度もない。そのため莎子は不安になる。その思いを紫蓮に伝えると、紫蓮は莎子の肩に手を置き、今度は紫蓮が莎子の眼を見据える。
「形がなくて、不安なのか…?」
それだけ言うと、莎子は感情を抑えられなかったのか、涙を流す。その涙は目から溢れ、頬を伝う。その流れる涙を紫蓮は右手の人差し指で拭い取った。それに促されるように莎子は泣きながらも言葉を出す。
「…紫蓮の、何なのかが分からなくて…怖い…。紫蓮は、あたしを独りにしない…?」
この言葉に、紫蓮の胸が痛んだ。
莎子は両親が殺され、たった一人の姉妹であった姉も無惨な殺され方をした。そして独りになって、あの老人に拾われた。そのため、独りであることにとても敏感だ。そんなことが無意識に分かってしまい、胸が痛くなる。
莎子は泣きながら、肩に置かれた紫蓮の手を振りきり、紫蓮の胸に倒れ込み胸の中で泣き喚く。そんな莎子を、紫蓮はゆっくりと抱き締める。泣き叫ぶ莎子を見ていられなくて抱き締めた紫蓮だが、紫蓮の心は決まっていた。莎子の耳元に唇を持っていき、莎子にしか聞こえないくらい小さな声で莎子への言葉を呟く。その声を聞いた莎子は、一時泣くのを止め、そしてまた泣き出した。今度の泣き声は先程のように痛くはなかった。悲しさの涙から嬉しさの涙に変わったと思えば、痛いはずがなかった。
「…莎子。」
莎子の名を呼び、胸に埋めていた顔を自分に向けさせる。そして莎子に自分の決意を話す。
「形が欲しいなら、来年の俺の誕生日、莎子に形を贈るよ。」
来年の誕生日。紫蓮が十八になる誕生日。
その瞬間、莎子はとても柔らかく幸せそうに笑い、眼に涙を溜めながらも満面の笑みを見せた。その笑顔は今までに一度も見たことがない笑顔で、紫蓮もつられて笑みを溢す。
そして二人は、足を動かし帰宅の帰路へと足を進めた。
自宅である南条邸の門を開け、敷地内へと足を進める。紫蓮が先に入り、そのあとを莎子が付いて行く。門の下のちょっとした段差に莎子の足が掛かる。
「あ、」
躓き、前に倒れそうな莎子を紫蓮が振り返り、莎子の胸元を腕で支える。
「大丈夫か?」
そう優しく声をかけられ、莎子は紫蓮の顔を見る。見れば見るほど、紫蓮の非凡さが分かり、昼間のことを思い出す。
紫蓮は校内でも人気があり、紫蓮のことを好きだという女子が多いことも知っている。だが、紫蓮はどの娘にも興味がないのか、告白をされても丁重に断っている。その紫蓮が莎子には優しい。そのことが莎子には嬉しい反面、不安でたまらなかった。
「大丈夫。ありがと。」
お礼を言い、体勢を立て直す。そして莎子は門を閉め、紫蓮は玄関の扉を開ける。すると、その音を聞いた千代が玄関へとやって来た。二人の前で一礼をして帰宅の挨拶をする。
「お帰りなさいませ。紫蓮さま、莎子お嬢様。」
その言葉にただいま。と返し、二人は玄関から廊下へと上がった。莎子はそのまま階段を上り、自室に行こうとしていた。それを見た紫蓮が莎子を呼び止める。
「莎子…?」
今までならば、帰宅後はいつも紫蓮の後を付いていて、特別なことがない限りはいつも一緒にいた。そのことを踏まえ、紫蓮は莎子を呼び止めたが、莎子は振り返ることもなくただ一言、
「部屋にいるから。」
とだけ告げてその場を後にした。
莎子が部屋に入り、無造作に鞄を置き、そのままベッドに倒れ込む。莎子はいろんなことを考え廻らせていた。
あたしは、紫蓮には相応しくないんだろう…。紫蓮は、約束をしてくれたけど、正直、自信がない。紫蓮は身寄りがいないあたしに同情して、この家に置いてくれただけかもしれない。第一、あたしは赤い蝶。一緒にいるならば、紫の蝶じゃなくて、黒い蝶の方がいいのかもしれない。紫蓮は黒い蝶じゃない。紫蓮の傍にいるのは止めた方がいいのかも、…しれない。
そう思うと、涙が止まらなかった。紫蓮に不釣り合いな自分が嫌になる。だけど、それ以上に紫蓮を信じることが出来ない自分が嫌になる。
「…ふ…っ…ひっ………し、れん…。」
泣きながら紫蓮の名を呼ぶ莎子は、既に感情をコントロール出来なくなっていた。ただ泣き、ただ紫蓮を呼ぶ。
紫蓮はいつもとは様子が違う莎子を気にかけていた。やはり昼間のことなのかと考えさせられる。昨日まではなんともなかったのに、今日に限って様子がおかしいのは昼間のこと以外に思い当たらない。
気になり、二階の部屋にいる莎子に会おうと千代に断り階段を駆け上る。そして莎子の部屋の前まで来て、扉を叩こうとした瞬間、莎子の異変に気付いた。
莎子が泣いている。
やはり、昼間の連中に何か言われたのか。そう思うと紫蓮の手は部屋のドアノブを持っていた。
「莎子!」
そう叫び、部屋に入ると、莎子はいきなりのことに驚きながらもちゃんと紫蓮を見据えた。そして一言呟くように言う。
「………紫蓮…。」
小さく自分の名を呼ぶ莎子に紫蓮は不安の色を浮かべる。莎子が泣いていることに心を痛め、莎子に問いかける。
「莎子、大丈夫か?」
そう聞くと、莎子は紫蓮から視線を反らした。紫蓮の顔を見ることなく俯き、床に敷かれた赤い絨毯を見る。その様子を見届けた紫蓮は感じていたことを口にした。
「泣いて、ただろ。やっぱり昼間の連中に、」
途中、紫蓮が言葉を止めたのは、口にするべきか迷ったからだ。口にすることでより一層莎子を苦しめることになるのではないかと心配になり、少し躊躇いが生じた。
莎子は紫蓮の言葉が終わる前に俯きながら首を振った。
「じゃあ、何で。」
食い付くように紫蓮が莎子に問いかけたが、莎子は紫蓮の問いかけの答えを出さなかった。出したのはまったく違う言葉。
「…あたしは、やっぱり赤い蝶なの、かな…?」
この言葉を聞き、紫蓮は再度心を痛ませた。そして、すぐさま反論をする。
「莎子、それはもう終わったんだ。赤と黒の蝶に囚われるのはやめろ。」
紫蓮の制止の言葉に、莎子は俯いていた顔を上げる。
「でも、」
「莎子。」
更に反論した莎子の言葉を紫蓮は再度遮った。そして莎子の眼を見据え、ゆっくりと、だが確かにしっかりと言う。
「そんなに赤と黒の蝶がいーなら、俺が黒い蝶になってやるよ。」
その言葉に莎子は驚きを隠せなかった。思わず涙を眼に溜めたまま、眼を見開いていた。そして小さく声を出す。
「紫蓮が…?」
「あぁ。」
そう真顔でいう紫蓮を見て、莎子はふと笑みを溢す。莎子が突然笑うため、紫蓮は状況についていけないらしく眼を見開いてただ呆然としている。そんな紫蓮に莎子が掛けた言葉はたった一言。
「…似合わない。」
その一言にまた紫蓮は驚かされる。莎子は笑顔で紫蓮を見た。
「紫蓮は紫だ。黒ってイメージじゃない。」
そう言った莎子が笑顔だったため、紫蓮も笑みを浮かべ、自らの髪を適当に掴む。
「俺の髪が黒でも?」
そう言うと、莎子は笑みを絶やさず一瞬の間を置いて笑いながら答える。
「それならあたしだって黒だ。」
その答えに、紫蓮は重要なことを口にした。
「じゃあ、一緒じゃないか。」
その言葉に莎子は眼を丸くして紫蓮を見た。紫蓮は莎子の丸くなった眼を見据えて唇を動かす。
「赤だろうが黒だろうが、莎子は蝶じゃなくて、人だろ。」
人であることに変わりはない。いくら蝶だと言い張っても、人で、人間であることに変わりはない。
「莎子は自由だ。何でもしたいことをすればいい。」
好きなことを、好きなだけしていい。
それがどんなことであっても、
「何だって叶えてやるよ。」
紫蓮が遊びや冗談ではなく、本気で言ったことが、莎子にも分かった。真剣な眼差しで自分を見て、全てを見透かすような眼をする。思わず吸い込まれてしまいそうなその黒い眼に、自分が写っていることが分かる。莎子は丸くした眼を元に戻し、真剣に紫蓮を見つめる。
「紫蓮、あたしは紫蓮の重荷にはなりたくない。」
重荷になるくらいなら、死んだ方がいい。
そう訴えると、紫蓮はすぐさま反論を口にした。
「重荷じゃないさ。俺には莎子が必要なんだ。」
「…紫蓮。」
その言葉に、どれだけ救われるか。その言葉に、どれだけ癒されるか。紫蓮は莎子を自分の方へ引き寄せ、優しくゆっくりと抱きしめる。澄んだ声で莎子を呼び、優しく抱きしめる。
紫蓮の一言で、不安が飛び去り、莎子に安堵感を持たせた。このとき莎子は心を決めた。どんなことがあっても、紫蓮を信じ、追いて行こうと。紫蓮の傍にいようと。不安を打ち消す、自信を手に入れたように。紫蓮の傍に。
そう決めたとき、莎子は紫蓮の背中に手を回した。
その後、学校にて何があったのか、紫蓮と莎子が二人でいても誰一人として文句を言う者がいなかった。それは紫蓮や祝が何か言ったのかもしれない。だが、莎子からすればそんなことはどうでもよかった。莎子は、紫蓮が思っていることを包み隠さず話してくれたことが嬉しいだけ。
紫蓮と一生いよう。傍にいよう。この先の全てを紫蓮に託そう。そう思ったことは誰にも言わない。莎子の心にだけ止めておくこと。
莎子が紫蓮と祝の通う学園に転校してから、一週間が経ったとされるとき。やっと莎子も学園生活に慣れ初めてきて、物事が順調に進むはずだったある日。昼休みに莎子が教室内の机に落ち着いているとクラスの女子が数名莎子に声をかけてきた。
「南条さん。南条莎子さん。ちょっといいかしら。」
呼ばれて顔を上げると、腕を組み、明らかにプライドが高そうな女子が莎子を睨み付けている。
どれも企業の社長令嬢やその系統の者。
莎子が〝南条〟の姓で呼ばれたのは、莎子自身が紫蓮に本名を聞かれたときに答えなかったからだ。本名の姓より〝南条〟がいいんだ。学校に通うなら〝南条〟で通いたいんだ。と言い張ったのは他ならぬ莎子だ。紫蓮も清芳も莎子がそこまでいうのなら、と〝南条〟で通うことを許した。そのため、学校や自己紹介の時でさえ、莎子は〝南条〟を使う。だが、それを快く思わないのは一人や二人ではなかった。
名を呼ばれて対応すると、複数の女子に半ば強制的に校舎裏に連れて行かれ、壁を背にして中心に莎子、その回りに半円を描くように女子に囲まれた。回りは一流の学園とは思えない程、草が茂っていて、声を上げても気付いてもらえないような、典型的な校舎裏という感じがした。
いつもならば紫蓮や祝と一緒にいる莎子だが、今日は偶然、紫蓮には学年主任からの頼み事、祝には担任からの頼み事があり二人が同時に莎子から離れることを余儀なくされた。学年トップクラスの成績を持つ二人は度々こういう名目で借り出されることがある。今日は莎子が転校して来てから初めてのそういう日だったのだ。
それを見計らってか、女子たちは紫蓮と祝が傍にいない今の時間帯を狙ったのだろう。一番威張っているのは女子の中でも真ん中にいるリーダーのような女子。
「あなた、南条くんとどういった関係なの?」
聞かれたのはやはり紫蓮関係のこと。出逢った当初は分からなかったことだが、学校に来てみれば一発で分かった。紫蓮が校内でも知らない者がいないくらい有名人だということが。だとしたら、呼び出された原因は分かっている。
莎子が何も答えず黙っているのを見て、数名の女子の中の中心にいると思われる女子が痺れを切らせて先の言葉を放つ。
「親戚ではないようだけど、名字が同じなのは気になるし、何より気になるのが、あなたが南条くんを名前で呼んでることよ。」
この学園に通っているのはいずれもある程度の資産家の子息ばかり。勿論長年の付き合いなどで莎子が南条の者でないこと位分かっているのだろう。仮にもし南条の者だったなら、この年になるまで一族が放っておく訳がない。南条の者がこの学園に通っていないなどありえないことだからだ。
「南条くんもあなたのことを名前で呼んでいるし。」
「南条くんを名前で呼ぶのは、校内でも河村くんだけなのよ。」
「親戚ならともかく、個人的に親しくされるのはかなり不愉快よ。」
最初の発言につられてその他の女子も言葉を切りながら言いたいことを言う。だが、莎子には何も言えない。言い返すことが出来ない。莎子は紫蓮と親戚ではないし、つい最近出逢ったばかりだ。それもまだ一ヶ月くらいしか経っていない。付き合いでいえば、相手の方が長いだろう。紫蓮がどう思っているのかは分からないが。だから、何も言えない。だが、ずっと黙っている訳にもいかない。何か言わなければ、そう思った莎子は腹の奥から声を出す。
「………あたしは…。」
「紫蓮っ!」
学校の教室前の廊下、祝は前方に見えた親友の紫蓮を叫び呼んだ。それに気付いた紫蓮は教室に入るのを止め、茶髪を振り乱しながら物凄い速さで向かって来る祝に言った。
「祝…何だよ、そんなに慌てて。」
自分のところまで勢いよく駆け込んで来た、親友の祝を見てそう捨てたが、あまりにも慌てている姿を見たときは驚いたものだ。祝が慌てるところなど、最近は見ていない。そして、何があったのかと思えば、衝撃的な言葉が祝の口から飛び出して来た。
「さ、莎子チャンがクラスの女子数名に絡まれてるって…。」
「――――――!」
莎子…!
莎子に関係があることだと分かった紫蓮は、その瞬間眼の色を変えた。それに即座に気付いた祝は状況を分かる限り紫蓮に伝える。
「多分、お前の取り巻きやファンの奴等だと…。」
自分のファンの仕業だと聞いた瞬間、紫蓮は自分を恨んだ。自分のことで莎子に被害が及ぶなんて、一番紫蓮が嫌なことだ。況してやファンなんて自ら望んだ訳でもない。勝手に出来た存在に莎子が嫌な思いをしていることは聞かずとも分かる。
「場所は!?いつだ!」
場所は何処なのか。それはいつの話なのか。乱暴な聞き方だったが、理性が感情を抑えるということをしてくれなかった。祝はそんな紫蓮のことをちゃんと理解しているため、聞かれたと同時に、また、即座に答える。
「場所は校舎裏で、教室を出てからまだ五分くらいしか経ってない。」
校舎裏―――。
特別、用がなければ誰も立ち入らないところだ。誰かが偶然莎子たちを見つけて対処してくれているという可能性はほぼゼロパーセントに近い。教室から校舎裏までは歩いて三分とちょっと。まだ校舎裏について間もないくらいだろう。紫蓮はちっ、と舌打ちをした後、
「莎子の所に行って来る!」
と、祝に叫ぶように告げて廊下を走る。それを見聞きしていた祝は、何も言わず走り去って行く紫蓮を見送る。
「相変わらず速えーな。」
紫蓮の足の速さは幼少のころからの両親の教育の賜物だと知っている祝は、改めて思い知らされたと言うが如く、茶色の髪をかき上げ、呟く。そして茶色の髪をかき上げながらも、制服のポケットからメモ帳を取り出す。
「さて、こっちはこっちで進めるとするか。」
そう言い、教室の中へと入った。
「………あたしは…。」
あたしは、紫蓮の何…?
紫蓮の何かなんて考えても分からない。紫蓮に何か言われた訳じゃない。紫蓮の気持ちを確かめたことなんて一度もない。そんな資格が自分にあるのかも分からない。戸惑いながらも腹から声を出すと、次の言葉が出て来る気がした。でも、言葉なんか出て来ない。どうすればいいのか、分からない。
「莎子っ!」
その瞬間、耳に入った声に心が疼いたのが分かった。声のする方を見ると、そこには走って来たことが分かる紫蓮の姿。紫蓮の姿を見た女子たちは、咋(あからさま)に驚いた表情をする。
「な、南条くん!」
女子が紫蓮を呼んだが、紫蓮には聞こえていない。紫蓮はその場にいた莎子のみを視界に入れ、莎子に近付く。それを見た莎子は、やっと口から言葉が出て、それは他ならぬ紫蓮の名だった。
「…し、紫蓮…。」
莎子の声を聞き、少し安心した紫蓮だが、完全に不安が消えた訳ではない。
「莎子!大丈夫か!?」
そう声をかけると莎子は
「…うん。」
とだけ言った。それを聞いて、やっと安心することが出来る。
「そうか。」
莎子に向けて柔らかな声で言葉を出したが、莎子をこんなところへ連れ出した他の女子たちへの怒りは収まらない。
「…で、お前等、莎子に何した訳?」
先程まで莎子にかけていた声とは全く違う、鋭くきつい声で女子たちに言葉を捨てる。女子たちを睨み付け、今にも手を上げそうな態度だ。女子たちは紫蓮のその声と視線の鋭さに狼狽える。
「あ…いや…その…。」
「何したんだよ。ほら、言ってみろよ。」
恍(とぼ)けようとする女子たちに対し、更に鋭い声を出す。莎子のことならばどんなことでも妥協しないのが紫蓮だ。このまま女子たちに何をするか分からない。このとき、そんな紫蓮を制止したのは莎子の一声だった。
「紫蓮…いい。」
その言葉に反応し、莎子を見ると、莎子はとても悲しそうな顔をしていて、それを見た紫蓮は莎子の名を呼ぶしかなかった。
「莎子…。」
紫蓮に呼ばれると、莎子は
「あたしは大丈夫だから。」
とだけ告げて、それ以上は何も語ろうとはしなかった。ただ、紫蓮の制服の裾を掴み、離すこともしない。そんな莎子を見て、紫蓮は不安を募らせる。
「祝、今回のこと、詳しく調べてくれ。」
莎子を教室に連れ戻し、落ち着かせてから祝に調査の依頼をする。祝ならばどんな方法を使ってでもこの件の詳細を調べてくれるということが分かっているからだ。だが、祝は紫蓮の言うことが分かっていたのか、その言葉に得意気に返した。
「もう調査済みだ。」
その一言に紫蓮は眼を丸くして祝を見る。するとそれに気付いた祝は制服のポケットからバックアップのメモ帳を取り出す。
「莎子チャンのことだろ。」
そして数えきれないくらい付箋が挟んであるメモ帳を無造作に開け、紫蓮が知りたいことを口にする。
「今回はお前のファンの女子五人。内容はお前とどういう関係か。お前が莎子チャンを名前で呼ぶのと同時に莎子チャンもお前を名前で呼んでるからな。そのことだ。その五人の名前とクラスも分かってるけど、聞くか?」
祝が、調べたことの全てを紫蓮に話すと、紫蓮は何かを考え込んでいて、それが横にいた祝にも分かった。紫蓮は性格上、普段から考え事を人に察知されないように振る舞っているが、今の紫蓮は違う。莎子のこととなると熱くなり、感情的になったりもする。祝はそんな紫蓮も人らしくていいと思っているのだが、紫蓮自身はそんな自分に気付いていないのだろう。
「莎子、本当に大丈夫か?」
放課後、自宅への帰り道、紫蓮は莎子に今日の昼休みに起こったことについて訊ねた。
あのとき莎子から制止の言葉が掛からなければ、恐らくあの場にいた女子たちに制裁を下していただろう。莎子は紫蓮に問われても何も答えない。紫蓮が不安を重ねると、莎子が急に立ち止まり、紫蓮の眼を引いた。
「莎子…?」
どうして止まったのか。やはり昼間のことが嫌だったのか。聞きたいことは山程あった。だが、紫蓮がそれを口にする前に、莎子が口を開いた。
「…紫蓮……あたしは、あたしは紫蓮の何…?」
そう言った莎子は紫蓮の眼を見て、昼間と同じように紫蓮の制服の裾を掴む。
莎子は紫蓮にとって、自分が何なのかという答えが欲しいのだ。紫蓮は莎子の言うことを何でも聞いてくれる。だが、紫蓮の気持ちを聞いたことは一度もない。そのため莎子は不安になる。その思いを紫蓮に伝えると、紫蓮は莎子の肩に手を置き、今度は紫蓮が莎子の眼を見据える。
「形がなくて、不安なのか…?」
それだけ言うと、莎子は感情を抑えられなかったのか、涙を流す。その涙は目から溢れ、頬を伝う。その流れる涙を紫蓮は右手の人差し指で拭い取った。それに促されるように莎子は泣きながらも言葉を出す。
「…紫蓮の、何なのかが分からなくて…怖い…。紫蓮は、あたしを独りにしない…?」
この言葉に、紫蓮の胸が痛んだ。
莎子は両親が殺され、たった一人の姉妹であった姉も無惨な殺され方をした。そして独りになって、あの老人に拾われた。そのため、独りであることにとても敏感だ。そんなことが無意識に分かってしまい、胸が痛くなる。
莎子は泣きながら、肩に置かれた紫蓮の手を振りきり、紫蓮の胸に倒れ込み胸の中で泣き喚く。そんな莎子を、紫蓮はゆっくりと抱き締める。泣き叫ぶ莎子を見ていられなくて抱き締めた紫蓮だが、紫蓮の心は決まっていた。莎子の耳元に唇を持っていき、莎子にしか聞こえないくらい小さな声で莎子への言葉を呟く。その声を聞いた莎子は、一時泣くのを止め、そしてまた泣き出した。今度の泣き声は先程のように痛くはなかった。悲しさの涙から嬉しさの涙に変わったと思えば、痛いはずがなかった。
「…莎子。」
莎子の名を呼び、胸に埋めていた顔を自分に向けさせる。そして莎子に自分の決意を話す。
「形が欲しいなら、来年の俺の誕生日、莎子に形を贈るよ。」
来年の誕生日。紫蓮が十八になる誕生日。
その瞬間、莎子はとても柔らかく幸せそうに笑い、眼に涙を溜めながらも満面の笑みを見せた。その笑顔は今までに一度も見たことがない笑顔で、紫蓮もつられて笑みを溢す。
そして二人は、足を動かし帰宅の帰路へと足を進めた。
自宅である南条邸の門を開け、敷地内へと足を進める。紫蓮が先に入り、そのあとを莎子が付いて行く。門の下のちょっとした段差に莎子の足が掛かる。
「あ、」
躓き、前に倒れそうな莎子を紫蓮が振り返り、莎子の胸元を腕で支える。
「大丈夫か?」
そう優しく声をかけられ、莎子は紫蓮の顔を見る。見れば見るほど、紫蓮の非凡さが分かり、昼間のことを思い出す。
紫蓮は校内でも人気があり、紫蓮のことを好きだという女子が多いことも知っている。だが、紫蓮はどの娘にも興味がないのか、告白をされても丁重に断っている。その紫蓮が莎子には優しい。そのことが莎子には嬉しい反面、不安でたまらなかった。
「大丈夫。ありがと。」
お礼を言い、体勢を立て直す。そして莎子は門を閉め、紫蓮は玄関の扉を開ける。すると、その音を聞いた千代が玄関へとやって来た。二人の前で一礼をして帰宅の挨拶をする。
「お帰りなさいませ。紫蓮さま、莎子お嬢様。」
その言葉にただいま。と返し、二人は玄関から廊下へと上がった。莎子はそのまま階段を上り、自室に行こうとしていた。それを見た紫蓮が莎子を呼び止める。
「莎子…?」
今までならば、帰宅後はいつも紫蓮の後を付いていて、特別なことがない限りはいつも一緒にいた。そのことを踏まえ、紫蓮は莎子を呼び止めたが、莎子は振り返ることもなくただ一言、
「部屋にいるから。」
とだけ告げてその場を後にした。
莎子が部屋に入り、無造作に鞄を置き、そのままベッドに倒れ込む。莎子はいろんなことを考え廻らせていた。
あたしは、紫蓮には相応しくないんだろう…。紫蓮は、約束をしてくれたけど、正直、自信がない。紫蓮は身寄りがいないあたしに同情して、この家に置いてくれただけかもしれない。第一、あたしは赤い蝶。一緒にいるならば、紫の蝶じゃなくて、黒い蝶の方がいいのかもしれない。紫蓮は黒い蝶じゃない。紫蓮の傍にいるのは止めた方がいいのかも、…しれない。
そう思うと、涙が止まらなかった。紫蓮に不釣り合いな自分が嫌になる。だけど、それ以上に紫蓮を信じることが出来ない自分が嫌になる。
「…ふ…っ…ひっ………し、れん…。」
泣きながら紫蓮の名を呼ぶ莎子は、既に感情をコントロール出来なくなっていた。ただ泣き、ただ紫蓮を呼ぶ。
紫蓮はいつもとは様子が違う莎子を気にかけていた。やはり昼間のことなのかと考えさせられる。昨日まではなんともなかったのに、今日に限って様子がおかしいのは昼間のこと以外に思い当たらない。
気になり、二階の部屋にいる莎子に会おうと千代に断り階段を駆け上る。そして莎子の部屋の前まで来て、扉を叩こうとした瞬間、莎子の異変に気付いた。
莎子が泣いている。
やはり、昼間の連中に何か言われたのか。そう思うと紫蓮の手は部屋のドアノブを持っていた。
「莎子!」
そう叫び、部屋に入ると、莎子はいきなりのことに驚きながらもちゃんと紫蓮を見据えた。そして一言呟くように言う。
「………紫蓮…。」
小さく自分の名を呼ぶ莎子に紫蓮は不安の色を浮かべる。莎子が泣いていることに心を痛め、莎子に問いかける。
「莎子、大丈夫か?」
そう聞くと、莎子は紫蓮から視線を反らした。紫蓮の顔を見ることなく俯き、床に敷かれた赤い絨毯を見る。その様子を見届けた紫蓮は感じていたことを口にした。
「泣いて、ただろ。やっぱり昼間の連中に、」
途中、紫蓮が言葉を止めたのは、口にするべきか迷ったからだ。口にすることでより一層莎子を苦しめることになるのではないかと心配になり、少し躊躇いが生じた。
莎子は紫蓮の言葉が終わる前に俯きながら首を振った。
「じゃあ、何で。」
食い付くように紫蓮が莎子に問いかけたが、莎子は紫蓮の問いかけの答えを出さなかった。出したのはまったく違う言葉。
「…あたしは、やっぱり赤い蝶なの、かな…?」
この言葉を聞き、紫蓮は再度心を痛ませた。そして、すぐさま反論をする。
「莎子、それはもう終わったんだ。赤と黒の蝶に囚われるのはやめろ。」
紫蓮の制止の言葉に、莎子は俯いていた顔を上げる。
「でも、」
「莎子。」
更に反論した莎子の言葉を紫蓮は再度遮った。そして莎子の眼を見据え、ゆっくりと、だが確かにしっかりと言う。
「そんなに赤と黒の蝶がいーなら、俺が黒い蝶になってやるよ。」
その言葉に莎子は驚きを隠せなかった。思わず涙を眼に溜めたまま、眼を見開いていた。そして小さく声を出す。
「紫蓮が…?」
「あぁ。」
そう真顔でいう紫蓮を見て、莎子はふと笑みを溢す。莎子が突然笑うため、紫蓮は状況についていけないらしく眼を見開いてただ呆然としている。そんな紫蓮に莎子が掛けた言葉はたった一言。
「…似合わない。」
その一言にまた紫蓮は驚かされる。莎子は笑顔で紫蓮を見た。
「紫蓮は紫だ。黒ってイメージじゃない。」
そう言った莎子が笑顔だったため、紫蓮も笑みを浮かべ、自らの髪を適当に掴む。
「俺の髪が黒でも?」
そう言うと、莎子は笑みを絶やさず一瞬の間を置いて笑いながら答える。
「それならあたしだって黒だ。」
その答えに、紫蓮は重要なことを口にした。
「じゃあ、一緒じゃないか。」
その言葉に莎子は眼を丸くして紫蓮を見た。紫蓮は莎子の丸くなった眼を見据えて唇を動かす。
「赤だろうが黒だろうが、莎子は蝶じゃなくて、人だろ。」
人であることに変わりはない。いくら蝶だと言い張っても、人で、人間であることに変わりはない。
「莎子は自由だ。何でもしたいことをすればいい。」
好きなことを、好きなだけしていい。
それがどんなことであっても、
「何だって叶えてやるよ。」
紫蓮が遊びや冗談ではなく、本気で言ったことが、莎子にも分かった。真剣な眼差しで自分を見て、全てを見透かすような眼をする。思わず吸い込まれてしまいそうなその黒い眼に、自分が写っていることが分かる。莎子は丸くした眼を元に戻し、真剣に紫蓮を見つめる。
「紫蓮、あたしは紫蓮の重荷にはなりたくない。」
重荷になるくらいなら、死んだ方がいい。
そう訴えると、紫蓮はすぐさま反論を口にした。
「重荷じゃないさ。俺には莎子が必要なんだ。」
「…紫蓮。」
その言葉に、どれだけ救われるか。その言葉に、どれだけ癒されるか。紫蓮は莎子を自分の方へ引き寄せ、優しくゆっくりと抱きしめる。澄んだ声で莎子を呼び、優しく抱きしめる。
紫蓮の一言で、不安が飛び去り、莎子に安堵感を持たせた。このとき莎子は心を決めた。どんなことがあっても、紫蓮を信じ、追いて行こうと。紫蓮の傍にいようと。不安を打ち消す、自信を手に入れたように。紫蓮の傍に。
そう決めたとき、莎子は紫蓮の背中に手を回した。
その後、学校にて何があったのか、紫蓮と莎子が二人でいても誰一人として文句を言う者がいなかった。それは紫蓮や祝が何か言ったのかもしれない。だが、莎子からすればそんなことはどうでもよかった。莎子は、紫蓮が思っていることを包み隠さず話してくれたことが嬉しいだけ。
紫蓮と一生いよう。傍にいよう。この先の全てを紫蓮に託そう。そう思ったことは誰にも言わない。莎子の心にだけ止めておくこと。
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