「あのときのあいつの眼を見て改めて確信した。こいつは大物になる、ってな。」
紫蓮の並々ならぬ貫禄や存在感、知性に聡明さ。同じ年頃の者より遥かに秀でているこれらのものを昔から持っている。磨けばもっと光を増すだろうこれらを、磨くものをも紫蓮は持っている。紫蓮が本気になれば、その力は計り知れない。
「それより、」
来夏は紫蓮との話を切り上げ、自らの目的を果たすための話に入った。その言葉に反応して飛乃が先を言う。
「探し物のこと?」
来夏の探し物。
来夏は昔から何かを探している。その探し物が何であるかということさえも、判らないのにずっと探しているのだ。四年前、来夏が紫蓮に拘っていたのは探し物をするために有利な立場にいることが出来るからだろう。一体何なのか、正体不明の来夏の探し物の名。
「〝ai61号ファイル〟。」
来夏がそう呼ぶだけで、これが正式名称かは判らない。だが、来夏が探しているものであることは確かだ。来夏はこの探しているものを見つけるために大滝や浅草寺、そして南条までもコネにしようとしているのだから。
その名称が出ただけで、来夏が反応を表す。飛乃はその後、口元にあった手の人差し指を立てた。そして嘲笑うように言う。
「それなりの物をもらうわ。」
「――――――!!」
この瞬間、来夏の顔色が変わった。飛乃が調べたことの中に、新しく分かったことがあるのだろう。来夏はその事実に食らい付く。
「何か分かったのか?」
即座にそう言葉を放ち、先を急がせる。新しいことが分かったならば、早くその情報を得たい。来夏が急かすように言っても飛乃は核心を話そうとはしない。
「えぇ。」
淡々と相槌を打つことはあっても、先には進まない。来夏はすぐにそのことを察し、腕を組みながら飛乃が望んでいる言葉を出した。
「望みは何だ。」
Give and take. No paine, no gain.
一方的に何かを得ることは出来ない。来夏はその情報に見合う何か、見返りを飛乃に与えなくてはならない。そのために見返りに何を求めるか問う。すると飛乃は一度眼を閉じ、再度開いた。そして呼吸を整えて毅然とした態度で来夏を見る。
「望みは―――、」
飛乃の唇がゆっくりと動く。赤く潤った唇で言葉を一つ一つ正しく出す。
「縁(えにし)よ。」
〝縁(えにし)〟…。つまりは縁(えん)や縁(ゆかり)のこと。
来夏の持つ企業レベルの情報網や機関との繋がり。
飛乃の言いたいことを正しくしっかりと理解した来夏は飛乃の発言から少し間を置いて結論を出した。
「…いいだろう。必要なときに言え。」
これで情報が手に入るならば安いものだという判断基準。
来夏にとって、それほど大事なもの。それほど手に入れたいもの。
「だが、何の為に使う。お前には必要ないものじゃないのか。」
縁など不要に思える程の、権力と資金繰りを持っているのに、縁を必要とする理由が分からない。何か求めているのなら、今持っているものを駆使すれば充分足りるはず。来夏がそう言いたがるのも無理はない。来夏と同等の後ろ盾が有るにも関わらず、その幅を広げるための取引を交わす。飛乃がその繋がりを求めているのは、飛乃にも何かしらの理由があるからだ。
「あなたに〝探し物〟があるように、私にも〝探し物〟があるのよ。そのために使わせてもらうわ。」
手に持っている扇子を持て余して弄ぶ。少し体制を変えるだけで足元の砂利が音を立てる。来夏にとって、飛乃の発言は初耳だったが、それは大した問題ではない。自らの目的に支障をきたさなければ、何処で何が起こっていようと関係ないのだ。
少しの沈黙を置いて、来夏は少しの溜め息を交えて答える。
「まぁ、いい。詳細は聞くものではないからな。」
それと同時に眼を閉じて頭の中で何かを模索する。
「…それにしても…〝赤と黒の蝶〟か。皮肉なものだ。」
眼を開けてからふと来夏の口から出てきた言葉はそれだった。意味があって言ったことであるかは分からない。自然と口から言葉が飛び出した。その発言に飛乃が反応し、耳を傾ける。そしてその発言の意味を問う。
「何か知っているの?蝶について。」
深い意味はなかったのだろう。ただ、何かを知っているのかと聞いただけだ。すると来夏は深く息を吸い、何かを言う準備をした。そしてわざと違う回答をする。
「イタリア語で蝶は〝farfalla〟フランス語では〝papillon〟。」
予想外の回答で飛乃は思わず放たれた言葉を復唱する。
「ファルファッラ?パピヨン…?」
来夏は飛乃の疑問符を他所にそのまま続ける。
「………スペイン語で蝶は〝mariposa〟で、ポルトガル語なら〝porboleta〟。ドイツ語ならば〝schmetterling〟と称されるがこれは蝶と蛾の区別をつけないもので、敢えて区別をつけるなら〝tagfalter〟だ。」
「翠月。」
一段落置いてから、来夏を表す別の呼称で来夏を制止した。別名を呼ばれても来夏は動じない。普段から〝花山来夏〟と呼ばれるより〝翠月〟と呼ばれる方が呼ばれ慣れているからだ。そして、飛乃が自分を制止した理由も分かっている。
「そんなことを聞いているんじゃないのは判っているはずよ。」
飛乃は怒っている訳ではないが、多少の苛つきは感じているようだ。声がいつも以上に鋭さを増している。飛乃の態度に来夏は一息の溜め息を吐く。そして重い口を開いた。
「…調べれば分かることだ。ただ、血は争えないとはこのことを言うのだろうな。」
〝調べれば分かること〟は来夏が誰かを使って調べさせたということ。花山来夏という男は自分で調べ事をするような男ではない。誰かに命じて調べさせたのだろう。それくらいの人員と権威を持っているのがこの男。
「井の中の蛙大海を知らず。されど空の深さを知る。」
来夏は何を思ったのか、脈絡のないことを口にする。発したのは故事で、一般にはあまり普及していない続きまで発せられている。
そして、その故事は昔、来夏がある男に言われたものだった。蝶とも紫蓮とも莎子とも関係のない、来夏個人のことだが、この故事が記憶の隅に残っていた。
『井蛙不可以語於海者。而知空深。』
『俺はずっと井の中にいた蛙だった。その分空の深さは知ったが、やっぱり井の中から出たいことに変わりはない。』
『俺は、お前とは違うからな。』
『お前もそう思うだろう?翠月。』
その男は来夏を別名の〝翠月〟と呼んでいた。それは〝花山来夏〟という呼称を知らなかったからだ。
来夏の中に、当時の記憶が鮮明に蘇る。
そして、その故事を聞いた日から長い月日が流れたが、その日を境に一度も逢っていない。
「昔、ある男が俺に言った故事だ。あれは十三ときだから、もう彼此四年になるか。もう何処に行ったのか分からないがな。」
当時を振り返るように懐かしながら空を見上げると、目の前にいる飛乃が溜め息混じりに毒つく。
「また四年前…。それに調べる気がないだけで、調べようと思えば簡単に現在の所在は掴めるんでしょ。」
確かに来夏にとっては、その男のことを調べて現在の所在を知ることなど造作もないことだ。命じれば小一時間で現在の所在地が分かるだろう。来夏もそのこと自体を否定はしない。だが、それをしないのはそれ相応の正当な理由があるからだ。来夏は空を見上げていた眼を飛乃に戻した。
「あぁ。だが、調べはしない。それが〝約束〟だからな。」
〝約束〟だから、調べることはしない、と結論付けた来夏の言葉に飛乃は驚きを表した。そして、多少嫌味の意味を込めて来夏に冷たい視線を向けながら冷たく言い放つ。
「約束を守るという概念があなたにあったの。」
飛乃の予想以上の冷たい言葉に一瞬来夏が怯む。だが、一瞬の怯みを即座に修正し、微笑で気丈に返した。
「それくらいあるさ。」
淡々と答えると、飛乃の鋭い眼が来夏を刺した。飛乃には別の言い分があるらしく、何か言いたげだ。そして口を開く。
「私と逢うときは〝約束〟じゃなくて〝強制〟じゃない。否定はさせないわ。」
それを聞いた来夏は眼を丸くし、飛乃を見る。そして、ふと微笑を表した。飛乃が言った通り否定はしないが、否定の代わりに出て来たのは故事ではない別の物。
「かくとだに、えやはいぶきの、さしも草、さしも知らじな、燃ゆる思ひを。」
来夏が述べたのは小倉百人一首のひとつで藤原実方朝臣の詠んだ五十一番の首だ。
それを一通り言い終わると、飛乃を睨むように見た。すると、その視線に気付いた飛乃は頭の中を彷徨(ほうこう)する。そして思い当たるものを瞬時に見つけ出し、長文を口から出した。
「こんなにも恋募っているといいたくても、口に出すことが出来ません。この燃えるような私の想いをあなたはきっとご存知ないでしょう。」
飛乃が発した長文はこの句の解かりやすく簡潔にされた意味だ。飛乃の頭の中にはこの類のことが数億単位で収められている。百人一首の一首の意味を述べることも大した手間ではない。
来夏に誘導されたように意味を放った飛乃はそのまま来夏に問う。
「…何が言いたいの。」
自分に意味を言うように誘導して、意味を言わせて何の意味があるのか。そう言いたげな飛乃の問いを来夏は何事もないように淡々と流す。だが、その来夏の顔は心なしか、悲しげに見える。来夏はその顔を刹那に止め、表情を戻した。恐らく、そのこと自体、飛乃は気付いていないだろう。
「別に。ただ、お前は全然変わらないな。」
来夏が溜め息を吐くように言うと、飛乃は眉をつり上げた。艶やかな姿を変化させることなく、美しながら来夏を睨み付ける。
「それはお互い様でしょ。あなたは私以上に変わっていないわ。」
来夏は飛乃を通してどこか遠くを見ている。そして何を思ったのか、飛乃の発言にあっさりと理解を示す。
「それもそうか。………さて、行くか。」
話が落ち着くと来夏は身を翻し、路地から別の場所へ移動するように促した。飛乃もその言葉に反応し、ある問いかけをする。
「大滝ホテルへ?」
大滝ホテルは三大財閥のうちの一つ、大滝財閥の経営するホテルで超一流の者が宿泊するという超一流ホテル。
来夏と飛乃が二人で逢ったときは必ず足を運ぶ場所でもある。そのため飛乃は行く場所が分かっているにも関わらず確認を行なった。すると来夏は当然というような態度で傲って見せた。
「あぁ、いつもの部屋を使う。」
来夏が大滝ホテルでいつも使ういつもの部屋とは超一流特製の特別室。
勿論、来夏が前もって予約をしているとも思えない。それほどの部屋を今から押さえることなど出来るのだろうか。
「…今から空いているか聞くの?」
飛乃が聞いてみると、来夏は少し自慢気に確信を持っている。空いているということが分かるのか、思い込んでいるのか、その辺の詳しいことは分からないが、来夏は自信満々だ。
「空いてるさ。いや、常に空けさせてある。」
「…大滝星流に?」
大滝ホテルの責任者は大滝財閥代表総取締役である大滝星流だ。逆に言うと、大滝星流を使えばホテルの一室を常に空けさせておくことなど、造作もない。そして、大滝星流に連絡を取ることが、来夏には出来る。
「―――あぁ。」
上を見上げると、そこには青く綺麗な空がある。
「なんだったんだ。さっきの…。」
思わず溢れた言葉には紫蓮の本意が現れていた。
紫蓮は南条の直系とはいえ、南条の会社には一切干渉していない。今の経営者でいいと考え、交流もあまり持たない。そのため、暁と面と向かって直接話すのは初めてだったりする。
同じ学校だといっても、紫蓮は祝以外の者とは極力話さない。交流も持たないので、学校で暁と話すこともない。建前の挨拶はあっても中身のある話をしたことはなかった。今回の話も紫蓮にとっては中身のある話とは言えないが。
紫蓮が自宅に着くと、既にいつもの帰宅時間より遅く、多少のズレが生じている。門を開け、そのまま玄関の扉も開けた。
「ただいま。」
「おかえりなさいませ。」
紫蓮が帰宅の挨拶をすると、待ち構えていた千代がすぐさまその返事を返す。そして、祝が紫蓮の自室にいると伝え、それを知った紫蓮が階段を上るところを見送った。紫蓮は階段を上りきり、自室の扉を開け、部屋の中を見た。そして、部屋の隅に置かれた机の前に座り、本を読む祝を確認すると、ふと祝を呼んだ。
「河村。」
「んー…?」
祝は読んでいる本から眼を離すことなく、扉を開けた紫蓮の言葉に生返事をし、話の続きを促す。だが、紫蓮はその生返事から少しの間を置き、答えを出した。
「…いや、いい。」
「なんだよ。」
途中で話を止めた紫蓮に対し、祝はさらに話を促した。だが、紫蓮は答えることなく、祝から眼を逸らす。
「…別に。」
淡々と返事を返し、鞄を机の横に置き、制服を着替えることなく部屋の隅に置かれたベッドに寝転んだ。すると、祝は今までいた紫蓮の机から離れる。そしてベッドに寝転んでいる紫蓮の上に覆い被さり、膝を支えにし、手を紫蓮の両首横に付く。紫蓮と祝の二人が乗ったため、ベッドは紫蓮一人のときよりも少し深く沈んだ。紫蓮を逃がさないように手足を付いた祝は明らかに確信犯だ。紫蓮の自由を奪うと、紫蓮の眼を見て小さくもはっきりとした声で呟いた。
「…紫蓮。」
名を呼ばれたことについては特に何も感じなかった。紫蓮が祝に名を呼ばれるなんていつものことで、特別なことではない。
祝は真剣な眼差しをして紫蓮を見つめる。そして、重い口を開いた。
「俺さ、ここらじゃ結構、情報屋として名が知れてるけど、お前の情報をネタにするつもりはこれっぽっちもないぜ?」
祝は紫蓮のことを一番に考え、紫蓮を特別に想っている。そんなことは紫蓮だって充分分かっている。紫蓮は、祝の言葉から少し間を置いて答えた。
「………知ってる。」
そんなこと、分かっている。言ってしまえれば楽だけど、迷惑はかけたくない。
「俺はお前を信用してるし、信じてるよ。誰よりも。」
祝の眼を見て言った言葉はいつも以上に強かった。
「…そう。お前の意思がそこまで固いとは思わなかった。」
祝はそれだけ言うと、紫蓮の上から退いた。そして紫蓮から視線を外し、俯く。
「俺の負けだ。本当にこれ以上はもう詮索しねーよ。」
祝はいつも通り、普通に言ったつもりだろうが、明らかに様子が違う。それは紫蓮も分かる。紫蓮は祝に隠し事をすることなど滅多にない。だからそこ、今回のことはお互いにとっても痛く、辛いことだ。紫蓮はベッドから起き上がると俯き、祝と視線を合わせないようにし、小さい声を出した。
「…河村。俺、」
「―――紫蓮。」
話し始めた紫蓮を、名を呼ぶことで制止する。そして祝は、今までより少し強い口調で言い放った。
「俺はお前の情報を売る気はない。でも、お前の安全が脅かされるようなことがあれば、他の奴の情報はすぐにでも投げ渡すからな。」
俯いた顔を上げて振り返る。紫蓮の顔をしっかりと見た。
「それが俺だ。」
紫蓮の身に危険が及ぶようなことがあれば、他の奴の情報くらい簡単に売れる。
紫蓮は、自分を見つめる祝に応えるかのようにしっかりと祝を見た。そしてしばらくしてから返事をする。
「………分かってるよ。」
それを見た祝は、何も言わず前髪をかき上げた。そして深い溜め息を吐く。
紫蓮は一度決めたことは覆さない。それが大事なことであればあるほど、覆さない。そんなことは端から承知のはず。改めて思い出し、自分自身に言い聞かせ、再度溜め息を吐いた。
「…ならいい。」
無造作置かれていた自分の鞄を後ろ手に持ち、紫蓮に背を向けた。
「今日はもう帰るよ。」
首だけを後ろへ向け、紫蓮に別れの挨拶をする。そして早々に身支度を始めた。
それを聞いた紫蓮はこの上なく小さな声で呟く。
「………やっていかないのか。」
祝が来ると八割の確率で行なっていることをせず、早々に帰ろうとする言葉に思わず紫蓮の口から本音が溢れた。その言葉や紫蓮の意思に従いたかったが、祝は気持ちを押し殺した。そしてゆっくりと再度振り返り、紫蓮に精一杯の作り笑顔を見せる。
「…また今度な。」
身支度を終えた祝は作り笑顔を見せてからすぐに部屋から出て行き、千代に軽く挨拶をすると南条邸からも早々に出て行った。
部屋には部屋の主である紫蓮が一人。
祝が吐いた二つの溜め息より遥かに大きく深い溜め息を吐いた。
無造作にジーンズのポケットから携帯電話を取り出した来夏は徐(おもむろ)にどこかへ電話を掛け始めた。
『…はい。』
相手が電話に出たらしく、若い男の声がした。声の主は来夏と同年代ほど。比較的若い。
「―――大滝星流、今から行く。いつもの部屋だ。」
来夏は相手を〝大滝星流〟と呼んだ。
この電話の主こそ、先程から頻繁に話に出てくる、大滝財閥代表総取締役社長の大滝星流本人である。
『今から?また急だな。』
来夏は予約もなしに、今から行くとの一言で大滝財閥経営の大滝ホテルに行こうとしている。来夏が星流に自ら電話を掛けるときは大体がそうだ。今回も例外ではない。一流企業の大滝財閥の経営ホテルは高額であると評判だ。そんなホテルの一室を、来夏は星流に連絡することで利用出来る。逆に言えば、利用出来るようにさせている。
「用意出来ないのか?」
来夏の問いかけに星流は間を空けず、社長らしく冷静に対応する。
『十分待て。すぐに用意させる。』
毎日清掃を行い、常に使える状態にはなっているものの、客が入る直前にしか出来ない準備というものはある。その作業に要する時間を星流は十分と提案した。
「丁度いい。今から向かう。」
来夏も星流のその提案に乗る。来夏と飛乃がいるこの場所から大滝ホテルまでは車で三十分程掛かる。十分で用意が出来るならば来夏たちが待たされることはない。来夏が最後に言葉を纏めようとしたとき、星流が予想外のことを口にした。
『………また、あの女か。』
来夏は星流に〝また〟と言われたことが少し癪に触ったが、事実〝また〟なので何も言い返すことが出来ない。そのため来夏は半分流すように相槌を打つ。
「まぁな。」
星流にはその相槌ですら、来夏が〝あの女〟に溺れているように感じた。お前が溺れる程良い女なのか。と、思わず言ってしまいそうな程。
敢えてそれを言わなかったのは、妙なことを口走り、自分の身を危険に曝したくはないからだ。一流企業の代表総取締役が恐れる程、来夏の影響力は多大なものだと言える。
『お前はあの女しか連れて来ないからな。』
来夏は大滝ホテルに飛乃以外の女と行ったことはない。飛乃以外の女とホテルに行くこと自体ない。それは、来夏の判断基準によるものだ。来夏は電話越しに星流に向かい、嘲笑うかのような微笑を送る。
「俺が唯一認めた女だからな。」
その微笑は誇らしくあり、自分が認めた女を高く評価するものだった。
星流は来夏の認めた女が何かしら秀でたものを持っていることが分かっている。そうでなければ、あの〝花山来夏〟が誰かを認めないことも知っている。星流に例えるなら、多額の資産と経営会社。そして、経営者としての資質。
来夏は利用価値のあるものにしか興味はない。来夏が〝唯一〟認めた女はそれに相応しいものを持っているのだろう。それでなければ、本当に来夏が溺れているのか。
何にせよ、星流は〝花山来夏〟には逆らわない方が賢明だということをよく理解している。星流は電話越しに小さな溜め息を吐き、話の纏めに入った。
『…お前の邪魔はしないさ。じゃ、待ってるよ。』
「あぁ。」
用件が済むと、星流はすぐさま乱暴に電話を切った。それを確認した来夏も携帯電話をジーンズのポケットに入れる。通話が終了したことに気付いた飛乃は来夏に問う。
「空いてるって?」
少々不安げな飛乃とは違い、来夏は再び嘲笑うかのような怪しげな笑みで答える。
「空いてない訳ないさ。」
そう言い、来夏は路地から出た。その後を飛乃がゆっくりと歩いて付いて行く。そして少し離れた所に待たせておいた黒塗りのベンツに近寄ると、それに気付いた運転手が後部座席の扉を開ける。来夏はそのまま車に乗らず、少し遅れて来た飛乃を先に乗せた。そのときの仕草はまるで紳士。普段の来夏からは想像出来ない程、紳士的な態度だ。飛乃が車に乗り込み、来夏もその後に続く。そして運転手が扉を閉めて運転席に乗り込む。そしてそれを確認した来夏は口を開いた。
「大滝ホテルだ。」
大滝ホテルに到着すると、入口にはホテルのボーイたちが並び、総支配人の肩書きを持つ男と背広を着た長い金髪の姿がある。それを見ながら、来夏は車に乗り込んだときと同じく飛乃をエスコートしながら、車から下りる。そして飛乃を連れ、予め用意されていた赤絨毯の上を歩く。すると来夏は長い金髪の少年の前に来て立ち止まった。
「お待ちしておりました、花山さま。」
その言葉と同時にその場の者たちが頭を下げる。その言葉に来夏は怪しげな笑みを浮かべた。今日何度目かの怪しげな笑みだ。
「らしくないことするなよ。」
お前はそんなキャラじゃないだろ。
嘲笑うかのように言った言葉に金髪の少年は頭を上げた。
「まぁ、そう言うな。これも仕事なんだよ。」
皮肉を言うような顔に話し方。その対応は〝客〟に対するものではなく、親しみのある友人に話すような口振りで、先程の電話のときと何一つ変わらない。
「では、ごゆっくり。」
その言葉と共に再度会釈をし、来夏の入室を促す。そして来夏はそれに反応し、飛乃を連れてホテルの中へと入って行った。
「社長、今の方はあの部屋の…。」
〝社長〟…。つまり、この大滝ホテルの社長。それは大滝財閥代表総取締役であることを表している。大滝財閥代表総取締役は大滝星流だ。
そう、この長い金髪少年こそ、あの大滝星流である。
総支配人が人に聞かれぬように星流の耳元で小さく話した。だが、星流は周りなど気にせず声を潜めることなく吐き捨てる。
「あぁ、この大滝ホテルの一番良い部屋を常に使える唯一の男だ。」
あの男を敵に回すことなど出来ない。逆に返り討ちになる可能性がある。そんなメリットのない危険な賭けは出来ず、今現在も数々の要望にも答えてきた。だが、油断は出来ない。かなり鋭い男で、少しの変化も見逃さない神経をしている。逆らえば容赦はない。そのことを充分に分かっているため、あえて注意を促す。
「―――あの男には絶対逆らうな。」
逆らえば、例え大滝財閥でも不利な状況になることが星流には分かりきっている。だから手は出すな、と伝えるのだ。それは星流と来夏の今までの付き合いと来夏自身を見ていれば分かる。
だが、総支配人にはそれらを感じ、読み取る力はない。そのため、経営者の責任として星流が注意を促さなければならない。総支配人も、若年の代表総取締役でありながらも星流の実力は認めており、経営者だと思い接している。
そんな総支配人は星流の注意に素直に会釈をしながら返事を返す。
「かしこまりました。」
星流はそのまま身を翻し、長い金髪を振り乱しながらホテルの中へと姿を消した。
紫蓮の並々ならぬ貫禄や存在感、知性に聡明さ。同じ年頃の者より遥かに秀でているこれらのものを昔から持っている。磨けばもっと光を増すだろうこれらを、磨くものをも紫蓮は持っている。紫蓮が本気になれば、その力は計り知れない。
「それより、」
来夏は紫蓮との話を切り上げ、自らの目的を果たすための話に入った。その言葉に反応して飛乃が先を言う。
「探し物のこと?」
来夏の探し物。
来夏は昔から何かを探している。その探し物が何であるかということさえも、判らないのにずっと探しているのだ。四年前、来夏が紫蓮に拘っていたのは探し物をするために有利な立場にいることが出来るからだろう。一体何なのか、正体不明の来夏の探し物の名。
「〝ai61号ファイル〟。」
来夏がそう呼ぶだけで、これが正式名称かは判らない。だが、来夏が探しているものであることは確かだ。来夏はこの探しているものを見つけるために大滝や浅草寺、そして南条までもコネにしようとしているのだから。
その名称が出ただけで、来夏が反応を表す。飛乃はその後、口元にあった手の人差し指を立てた。そして嘲笑うように言う。
「それなりの物をもらうわ。」
「――――――!!」
この瞬間、来夏の顔色が変わった。飛乃が調べたことの中に、新しく分かったことがあるのだろう。来夏はその事実に食らい付く。
「何か分かったのか?」
即座にそう言葉を放ち、先を急がせる。新しいことが分かったならば、早くその情報を得たい。来夏が急かすように言っても飛乃は核心を話そうとはしない。
「えぇ。」
淡々と相槌を打つことはあっても、先には進まない。来夏はすぐにそのことを察し、腕を組みながら飛乃が望んでいる言葉を出した。
「望みは何だ。」
Give and take. No paine, no gain.
一方的に何かを得ることは出来ない。来夏はその情報に見合う何か、見返りを飛乃に与えなくてはならない。そのために見返りに何を求めるか問う。すると飛乃は一度眼を閉じ、再度開いた。そして呼吸を整えて毅然とした態度で来夏を見る。
「望みは―――、」
飛乃の唇がゆっくりと動く。赤く潤った唇で言葉を一つ一つ正しく出す。
「縁(えにし)よ。」
〝縁(えにし)〟…。つまりは縁(えん)や縁(ゆかり)のこと。
来夏の持つ企業レベルの情報網や機関との繋がり。
飛乃の言いたいことを正しくしっかりと理解した来夏は飛乃の発言から少し間を置いて結論を出した。
「…いいだろう。必要なときに言え。」
これで情報が手に入るならば安いものだという判断基準。
来夏にとって、それほど大事なもの。それほど手に入れたいもの。
「だが、何の為に使う。お前には必要ないものじゃないのか。」
縁など不要に思える程の、権力と資金繰りを持っているのに、縁を必要とする理由が分からない。何か求めているのなら、今持っているものを駆使すれば充分足りるはず。来夏がそう言いたがるのも無理はない。来夏と同等の後ろ盾が有るにも関わらず、その幅を広げるための取引を交わす。飛乃がその繋がりを求めているのは、飛乃にも何かしらの理由があるからだ。
「あなたに〝探し物〟があるように、私にも〝探し物〟があるのよ。そのために使わせてもらうわ。」
手に持っている扇子を持て余して弄ぶ。少し体制を変えるだけで足元の砂利が音を立てる。来夏にとって、飛乃の発言は初耳だったが、それは大した問題ではない。自らの目的に支障をきたさなければ、何処で何が起こっていようと関係ないのだ。
少しの沈黙を置いて、来夏は少しの溜め息を交えて答える。
「まぁ、いい。詳細は聞くものではないからな。」
それと同時に眼を閉じて頭の中で何かを模索する。
「…それにしても…〝赤と黒の蝶〟か。皮肉なものだ。」
眼を開けてからふと来夏の口から出てきた言葉はそれだった。意味があって言ったことであるかは分からない。自然と口から言葉が飛び出した。その発言に飛乃が反応し、耳を傾ける。そしてその発言の意味を問う。
「何か知っているの?蝶について。」
深い意味はなかったのだろう。ただ、何かを知っているのかと聞いただけだ。すると来夏は深く息を吸い、何かを言う準備をした。そしてわざと違う回答をする。
「イタリア語で蝶は〝farfalla〟フランス語では〝papillon〟。」
予想外の回答で飛乃は思わず放たれた言葉を復唱する。
「ファルファッラ?パピヨン…?」
来夏は飛乃の疑問符を他所にそのまま続ける。
「………スペイン語で蝶は〝mariposa〟で、ポルトガル語なら〝porboleta〟。ドイツ語ならば〝schmetterling〟と称されるがこれは蝶と蛾の区別をつけないもので、敢えて区別をつけるなら〝tagfalter〟だ。」
「翠月。」
一段落置いてから、来夏を表す別の呼称で来夏を制止した。別名を呼ばれても来夏は動じない。普段から〝花山来夏〟と呼ばれるより〝翠月〟と呼ばれる方が呼ばれ慣れているからだ。そして、飛乃が自分を制止した理由も分かっている。
「そんなことを聞いているんじゃないのは判っているはずよ。」
飛乃は怒っている訳ではないが、多少の苛つきは感じているようだ。声がいつも以上に鋭さを増している。飛乃の態度に来夏は一息の溜め息を吐く。そして重い口を開いた。
「…調べれば分かることだ。ただ、血は争えないとはこのことを言うのだろうな。」
〝調べれば分かること〟は来夏が誰かを使って調べさせたということ。花山来夏という男は自分で調べ事をするような男ではない。誰かに命じて調べさせたのだろう。それくらいの人員と権威を持っているのがこの男。
「井の中の蛙大海を知らず。されど空の深さを知る。」
来夏は何を思ったのか、脈絡のないことを口にする。発したのは故事で、一般にはあまり普及していない続きまで発せられている。
そして、その故事は昔、来夏がある男に言われたものだった。蝶とも紫蓮とも莎子とも関係のない、来夏個人のことだが、この故事が記憶の隅に残っていた。
『井蛙不可以語於海者。而知空深。』
『俺はずっと井の中にいた蛙だった。その分空の深さは知ったが、やっぱり井の中から出たいことに変わりはない。』
『俺は、お前とは違うからな。』
『お前もそう思うだろう?翠月。』
その男は来夏を別名の〝翠月〟と呼んでいた。それは〝花山来夏〟という呼称を知らなかったからだ。
来夏の中に、当時の記憶が鮮明に蘇る。
そして、その故事を聞いた日から長い月日が流れたが、その日を境に一度も逢っていない。
「昔、ある男が俺に言った故事だ。あれは十三ときだから、もう彼此四年になるか。もう何処に行ったのか分からないがな。」
当時を振り返るように懐かしながら空を見上げると、目の前にいる飛乃が溜め息混じりに毒つく。
「また四年前…。それに調べる気がないだけで、調べようと思えば簡単に現在の所在は掴めるんでしょ。」
確かに来夏にとっては、その男のことを調べて現在の所在を知ることなど造作もないことだ。命じれば小一時間で現在の所在地が分かるだろう。来夏もそのこと自体を否定はしない。だが、それをしないのはそれ相応の正当な理由があるからだ。来夏は空を見上げていた眼を飛乃に戻した。
「あぁ。だが、調べはしない。それが〝約束〟だからな。」
〝約束〟だから、調べることはしない、と結論付けた来夏の言葉に飛乃は驚きを表した。そして、多少嫌味の意味を込めて来夏に冷たい視線を向けながら冷たく言い放つ。
「約束を守るという概念があなたにあったの。」
飛乃の予想以上の冷たい言葉に一瞬来夏が怯む。だが、一瞬の怯みを即座に修正し、微笑で気丈に返した。
「それくらいあるさ。」
淡々と答えると、飛乃の鋭い眼が来夏を刺した。飛乃には別の言い分があるらしく、何か言いたげだ。そして口を開く。
「私と逢うときは〝約束〟じゃなくて〝強制〟じゃない。否定はさせないわ。」
それを聞いた来夏は眼を丸くし、飛乃を見る。そして、ふと微笑を表した。飛乃が言った通り否定はしないが、否定の代わりに出て来たのは故事ではない別の物。
「かくとだに、えやはいぶきの、さしも草、さしも知らじな、燃ゆる思ひを。」
来夏が述べたのは小倉百人一首のひとつで藤原実方朝臣の詠んだ五十一番の首だ。
それを一通り言い終わると、飛乃を睨むように見た。すると、その視線に気付いた飛乃は頭の中を彷徨(ほうこう)する。そして思い当たるものを瞬時に見つけ出し、長文を口から出した。
「こんなにも恋募っているといいたくても、口に出すことが出来ません。この燃えるような私の想いをあなたはきっとご存知ないでしょう。」
飛乃が発した長文はこの句の解かりやすく簡潔にされた意味だ。飛乃の頭の中にはこの類のことが数億単位で収められている。百人一首の一首の意味を述べることも大した手間ではない。
来夏に誘導されたように意味を放った飛乃はそのまま来夏に問う。
「…何が言いたいの。」
自分に意味を言うように誘導して、意味を言わせて何の意味があるのか。そう言いたげな飛乃の問いを来夏は何事もないように淡々と流す。だが、その来夏の顔は心なしか、悲しげに見える。来夏はその顔を刹那に止め、表情を戻した。恐らく、そのこと自体、飛乃は気付いていないだろう。
「別に。ただ、お前は全然変わらないな。」
来夏が溜め息を吐くように言うと、飛乃は眉をつり上げた。艶やかな姿を変化させることなく、美しながら来夏を睨み付ける。
「それはお互い様でしょ。あなたは私以上に変わっていないわ。」
来夏は飛乃を通してどこか遠くを見ている。そして何を思ったのか、飛乃の発言にあっさりと理解を示す。
「それもそうか。………さて、行くか。」
話が落ち着くと来夏は身を翻し、路地から別の場所へ移動するように促した。飛乃もその言葉に反応し、ある問いかけをする。
「大滝ホテルへ?」
大滝ホテルは三大財閥のうちの一つ、大滝財閥の経営するホテルで超一流の者が宿泊するという超一流ホテル。
来夏と飛乃が二人で逢ったときは必ず足を運ぶ場所でもある。そのため飛乃は行く場所が分かっているにも関わらず確認を行なった。すると来夏は当然というような態度で傲って見せた。
「あぁ、いつもの部屋を使う。」
来夏が大滝ホテルでいつも使ういつもの部屋とは超一流特製の特別室。
勿論、来夏が前もって予約をしているとも思えない。それほどの部屋を今から押さえることなど出来るのだろうか。
「…今から空いているか聞くの?」
飛乃が聞いてみると、来夏は少し自慢気に確信を持っている。空いているということが分かるのか、思い込んでいるのか、その辺の詳しいことは分からないが、来夏は自信満々だ。
「空いてるさ。いや、常に空けさせてある。」
「…大滝星流に?」
大滝ホテルの責任者は大滝財閥代表総取締役である大滝星流だ。逆に言うと、大滝星流を使えばホテルの一室を常に空けさせておくことなど、造作もない。そして、大滝星流に連絡を取ることが、来夏には出来る。
「―――あぁ。」
上を見上げると、そこには青く綺麗な空がある。
「なんだったんだ。さっきの…。」
思わず溢れた言葉には紫蓮の本意が現れていた。
紫蓮は南条の直系とはいえ、南条の会社には一切干渉していない。今の経営者でいいと考え、交流もあまり持たない。そのため、暁と面と向かって直接話すのは初めてだったりする。
同じ学校だといっても、紫蓮は祝以外の者とは極力話さない。交流も持たないので、学校で暁と話すこともない。建前の挨拶はあっても中身のある話をしたことはなかった。今回の話も紫蓮にとっては中身のある話とは言えないが。
紫蓮が自宅に着くと、既にいつもの帰宅時間より遅く、多少のズレが生じている。門を開け、そのまま玄関の扉も開けた。
「ただいま。」
「おかえりなさいませ。」
紫蓮が帰宅の挨拶をすると、待ち構えていた千代がすぐさまその返事を返す。そして、祝が紫蓮の自室にいると伝え、それを知った紫蓮が階段を上るところを見送った。紫蓮は階段を上りきり、自室の扉を開け、部屋の中を見た。そして、部屋の隅に置かれた机の前に座り、本を読む祝を確認すると、ふと祝を呼んだ。
「河村。」
「んー…?」
祝は読んでいる本から眼を離すことなく、扉を開けた紫蓮の言葉に生返事をし、話の続きを促す。だが、紫蓮はその生返事から少しの間を置き、答えを出した。
「…いや、いい。」
「なんだよ。」
途中で話を止めた紫蓮に対し、祝はさらに話を促した。だが、紫蓮は答えることなく、祝から眼を逸らす。
「…別に。」
淡々と返事を返し、鞄を机の横に置き、制服を着替えることなく部屋の隅に置かれたベッドに寝転んだ。すると、祝は今までいた紫蓮の机から離れる。そしてベッドに寝転んでいる紫蓮の上に覆い被さり、膝を支えにし、手を紫蓮の両首横に付く。紫蓮と祝の二人が乗ったため、ベッドは紫蓮一人のときよりも少し深く沈んだ。紫蓮を逃がさないように手足を付いた祝は明らかに確信犯だ。紫蓮の自由を奪うと、紫蓮の眼を見て小さくもはっきりとした声で呟いた。
「…紫蓮。」
名を呼ばれたことについては特に何も感じなかった。紫蓮が祝に名を呼ばれるなんていつものことで、特別なことではない。
祝は真剣な眼差しをして紫蓮を見つめる。そして、重い口を開いた。
「俺さ、ここらじゃ結構、情報屋として名が知れてるけど、お前の情報をネタにするつもりはこれっぽっちもないぜ?」
祝は紫蓮のことを一番に考え、紫蓮を特別に想っている。そんなことは紫蓮だって充分分かっている。紫蓮は、祝の言葉から少し間を置いて答えた。
「………知ってる。」
そんなこと、分かっている。言ってしまえれば楽だけど、迷惑はかけたくない。
「俺はお前を信用してるし、信じてるよ。誰よりも。」
祝の眼を見て言った言葉はいつも以上に強かった。
「…そう。お前の意思がそこまで固いとは思わなかった。」
祝はそれだけ言うと、紫蓮の上から退いた。そして紫蓮から視線を外し、俯く。
「俺の負けだ。本当にこれ以上はもう詮索しねーよ。」
祝はいつも通り、普通に言ったつもりだろうが、明らかに様子が違う。それは紫蓮も分かる。紫蓮は祝に隠し事をすることなど滅多にない。だからそこ、今回のことはお互いにとっても痛く、辛いことだ。紫蓮はベッドから起き上がると俯き、祝と視線を合わせないようにし、小さい声を出した。
「…河村。俺、」
「―――紫蓮。」
話し始めた紫蓮を、名を呼ぶことで制止する。そして祝は、今までより少し強い口調で言い放った。
「俺はお前の情報を売る気はない。でも、お前の安全が脅かされるようなことがあれば、他の奴の情報はすぐにでも投げ渡すからな。」
俯いた顔を上げて振り返る。紫蓮の顔をしっかりと見た。
「それが俺だ。」
紫蓮の身に危険が及ぶようなことがあれば、他の奴の情報くらい簡単に売れる。
紫蓮は、自分を見つめる祝に応えるかのようにしっかりと祝を見た。そしてしばらくしてから返事をする。
「………分かってるよ。」
それを見た祝は、何も言わず前髪をかき上げた。そして深い溜め息を吐く。
紫蓮は一度決めたことは覆さない。それが大事なことであればあるほど、覆さない。そんなことは端から承知のはず。改めて思い出し、自分自身に言い聞かせ、再度溜め息を吐いた。
「…ならいい。」
無造作置かれていた自分の鞄を後ろ手に持ち、紫蓮に背を向けた。
「今日はもう帰るよ。」
首だけを後ろへ向け、紫蓮に別れの挨拶をする。そして早々に身支度を始めた。
それを聞いた紫蓮はこの上なく小さな声で呟く。
「………やっていかないのか。」
祝が来ると八割の確率で行なっていることをせず、早々に帰ろうとする言葉に思わず紫蓮の口から本音が溢れた。その言葉や紫蓮の意思に従いたかったが、祝は気持ちを押し殺した。そしてゆっくりと再度振り返り、紫蓮に精一杯の作り笑顔を見せる。
「…また今度な。」
身支度を終えた祝は作り笑顔を見せてからすぐに部屋から出て行き、千代に軽く挨拶をすると南条邸からも早々に出て行った。
部屋には部屋の主である紫蓮が一人。
祝が吐いた二つの溜め息より遥かに大きく深い溜め息を吐いた。
無造作にジーンズのポケットから携帯電話を取り出した来夏は徐(おもむろ)にどこかへ電話を掛け始めた。
『…はい。』
相手が電話に出たらしく、若い男の声がした。声の主は来夏と同年代ほど。比較的若い。
「―――大滝星流、今から行く。いつもの部屋だ。」
来夏は相手を〝大滝星流〟と呼んだ。
この電話の主こそ、先程から頻繁に話に出てくる、大滝財閥代表総取締役社長の大滝星流本人である。
『今から?また急だな。』
来夏は予約もなしに、今から行くとの一言で大滝財閥経営の大滝ホテルに行こうとしている。来夏が星流に自ら電話を掛けるときは大体がそうだ。今回も例外ではない。一流企業の大滝財閥の経営ホテルは高額であると評判だ。そんなホテルの一室を、来夏は星流に連絡することで利用出来る。逆に言えば、利用出来るようにさせている。
「用意出来ないのか?」
来夏の問いかけに星流は間を空けず、社長らしく冷静に対応する。
『十分待て。すぐに用意させる。』
毎日清掃を行い、常に使える状態にはなっているものの、客が入る直前にしか出来ない準備というものはある。その作業に要する時間を星流は十分と提案した。
「丁度いい。今から向かう。」
来夏も星流のその提案に乗る。来夏と飛乃がいるこの場所から大滝ホテルまでは車で三十分程掛かる。十分で用意が出来るならば来夏たちが待たされることはない。来夏が最後に言葉を纏めようとしたとき、星流が予想外のことを口にした。
『………また、あの女か。』
来夏は星流に〝また〟と言われたことが少し癪に触ったが、事実〝また〟なので何も言い返すことが出来ない。そのため来夏は半分流すように相槌を打つ。
「まぁな。」
星流にはその相槌ですら、来夏が〝あの女〟に溺れているように感じた。お前が溺れる程良い女なのか。と、思わず言ってしまいそうな程。
敢えてそれを言わなかったのは、妙なことを口走り、自分の身を危険に曝したくはないからだ。一流企業の代表総取締役が恐れる程、来夏の影響力は多大なものだと言える。
『お前はあの女しか連れて来ないからな。』
来夏は大滝ホテルに飛乃以外の女と行ったことはない。飛乃以外の女とホテルに行くこと自体ない。それは、来夏の判断基準によるものだ。来夏は電話越しに星流に向かい、嘲笑うかのような微笑を送る。
「俺が唯一認めた女だからな。」
その微笑は誇らしくあり、自分が認めた女を高く評価するものだった。
星流は来夏の認めた女が何かしら秀でたものを持っていることが分かっている。そうでなければ、あの〝花山来夏〟が誰かを認めないことも知っている。星流に例えるなら、多額の資産と経営会社。そして、経営者としての資質。
来夏は利用価値のあるものにしか興味はない。来夏が〝唯一〟認めた女はそれに相応しいものを持っているのだろう。それでなければ、本当に来夏が溺れているのか。
何にせよ、星流は〝花山来夏〟には逆らわない方が賢明だということをよく理解している。星流は電話越しに小さな溜め息を吐き、話の纏めに入った。
『…お前の邪魔はしないさ。じゃ、待ってるよ。』
「あぁ。」
用件が済むと、星流はすぐさま乱暴に電話を切った。それを確認した来夏も携帯電話をジーンズのポケットに入れる。通話が終了したことに気付いた飛乃は来夏に問う。
「空いてるって?」
少々不安げな飛乃とは違い、来夏は再び嘲笑うかのような怪しげな笑みで答える。
「空いてない訳ないさ。」
そう言い、来夏は路地から出た。その後を飛乃がゆっくりと歩いて付いて行く。そして少し離れた所に待たせておいた黒塗りのベンツに近寄ると、それに気付いた運転手が後部座席の扉を開ける。来夏はそのまま車に乗らず、少し遅れて来た飛乃を先に乗せた。そのときの仕草はまるで紳士。普段の来夏からは想像出来ない程、紳士的な態度だ。飛乃が車に乗り込み、来夏もその後に続く。そして運転手が扉を閉めて運転席に乗り込む。そしてそれを確認した来夏は口を開いた。
「大滝ホテルだ。」
大滝ホテルに到着すると、入口にはホテルのボーイたちが並び、総支配人の肩書きを持つ男と背広を着た長い金髪の姿がある。それを見ながら、来夏は車に乗り込んだときと同じく飛乃をエスコートしながら、車から下りる。そして飛乃を連れ、予め用意されていた赤絨毯の上を歩く。すると来夏は長い金髪の少年の前に来て立ち止まった。
「お待ちしておりました、花山さま。」
その言葉と同時にその場の者たちが頭を下げる。その言葉に来夏は怪しげな笑みを浮かべた。今日何度目かの怪しげな笑みだ。
「らしくないことするなよ。」
お前はそんなキャラじゃないだろ。
嘲笑うかのように言った言葉に金髪の少年は頭を上げた。
「まぁ、そう言うな。これも仕事なんだよ。」
皮肉を言うような顔に話し方。その対応は〝客〟に対するものではなく、親しみのある友人に話すような口振りで、先程の電話のときと何一つ変わらない。
「では、ごゆっくり。」
その言葉と共に再度会釈をし、来夏の入室を促す。そして来夏はそれに反応し、飛乃を連れてホテルの中へと入って行った。
「社長、今の方はあの部屋の…。」
〝社長〟…。つまり、この大滝ホテルの社長。それは大滝財閥代表総取締役であることを表している。大滝財閥代表総取締役は大滝星流だ。
そう、この長い金髪少年こそ、あの大滝星流である。
総支配人が人に聞かれぬように星流の耳元で小さく話した。だが、星流は周りなど気にせず声を潜めることなく吐き捨てる。
「あぁ、この大滝ホテルの一番良い部屋を常に使える唯一の男だ。」
あの男を敵に回すことなど出来ない。逆に返り討ちになる可能性がある。そんなメリットのない危険な賭けは出来ず、今現在も数々の要望にも答えてきた。だが、油断は出来ない。かなり鋭い男で、少しの変化も見逃さない神経をしている。逆らえば容赦はない。そのことを充分に分かっているため、あえて注意を促す。
「―――あの男には絶対逆らうな。」
逆らえば、例え大滝財閥でも不利な状況になることが星流には分かりきっている。だから手は出すな、と伝えるのだ。それは星流と来夏の今までの付き合いと来夏自身を見ていれば分かる。
だが、総支配人にはそれらを感じ、読み取る力はない。そのため、経営者の責任として星流が注意を促さなければならない。総支配人も、若年の代表総取締役でありながらも星流の実力は認めており、経営者だと思い接している。
そんな総支配人は星流の注意に素直に会釈をしながら返事を返す。
「かしこまりました。」
星流はそのまま身を翻し、長い金髪を振り乱しながらホテルの中へと姿を消した。
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- 四年前 -
南条邸近くの通りにて一人歩いている黒髪の少年に、来夏は後ろから声をかけた。
「南条紫蓮、だな。」
その言葉を受けた少年はふと歩くのを止め、首だけ後ろを振り返った。そして、顔を顰めてから来夏に向けて問いかける。
「…どちら様ですか。」
最初の印象は良くなかったのだろう。同じ年頃の同性でも、雰囲気で分かることもある。疑いや警戒の眼をしている少年に対し、余裕を持ち、自分が主導権を握っているかのように堂々と、媚びることなく少年を見ていた。怪しくも人を嘲笑うかのような不敵な笑みを浮かべている。
「花山来夏。そう呼べばいい。」
来夏は我が名を名乗る。すると少年は益々顔を顰めた。そして首だけを来夏に向けていた状態を止め、身体を来夏の方へ向ける。
「…花山、来夏…。知り合いにそんな人はいませんが。」
少し不満そうに、また不機嫌そうに少年が言い切る。すると、来夏は少年のその言葉を肯定した。
「当たり前だ。初対面だからな。」
来夏の態度は初対面の人に対するものとは思えない。最初から相手を格下と決めつけ、大きすぎる態度をとる。来夏は初対面の少年に余談も入れず、本題を突き出した。
「お前、死んだ両親の多額の遺産を相続しただろ。その遺産を狙っている浅はかな古狸がいる。そこで、俺に依頼しないか。」
うすら笑いをして少年を見る。少年は来夏の話を聞いた後、益々顔を顰めて問い返した。
「…依頼?」
その問い返しに、来夏はことの詳細を話す。
「その古狸を始末する代わりに、お前は俺のコネになる。」
そう言った後、少しの沈黙を挟み、少年は吐き捨てた。
「…そんなおふざけには付き合えない。他を当たれ。」
少年はそう吐き捨てると、身体を翻して先を歩いて行った。
来夏はこの道の先に少年の家があることを知っているため、それ以上深く追うようなことはしなかった。先を行く少年の後ろ姿を見て、ふと笑う。その笑いは少し状況を楽しんでいるようにも見える。
「南条紫蓮、予想以上だな。」
来夏は穿いているジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、電話をかける。
「…久しぶりだな。聞きたいことがある。」
来夏はそれからしばらく話を続け、用が済んだ後、すぐに電話を切った。
そして、再度携帯電話を巧みに操りどこかへ電話をかける。
「俺だ。見張らせてるあの男、始末しろ。根回しはしてある。構わない。殺せ。」
会話の後、電話を切ると、携帯電話を元あったジーンズのポケットの中に入れ、腕を組む。そして少しの微笑と共に呟く。
「…嫌とは言わせないぜ。南条紫蓮。」
今日の紫蓮は、通っている楠ヶ丘中学部からの帰宅が、普段より数分遅かった。
「ただいま。」
玄関の扉を開けると、中からその音を聞いた千代が慌てて飛び出して来た。
真っ青な顔をして紫蓮を見る。
「紫蓮坊ちゃま!お帰りなさいませ。大丈夫でしたか?お怪我は?」
突然のことに紫蓮は少し驚き、何があったのか問う。
「いえ、大丈夫です。どうかしたんですか?」
玄関にて靴を脱ぎ、正面の廊下を歩く。その後に続き、千代が歩く。
「先程この近くで爆破事件があったらしいです。今速報で。それにご親戚の方が被害を…。」
テレビを見ると、確かに速報が流れている。そして、予定を変更して特別報道番組が組まれたようだ。被害者の名に南条がある。確かに南条の一族ではあるが、四親等までを親戚と表すことを基準にすると、親戚という近いものでもなく、大して面識はない人物。
時間は丁度、紫蓮が初対面の少年と別れた頃。まだ数分しか経っていないというのに、対応の速度が異常すぎるほど速い。まるで、始めからこの状況を想定していたかのように。
紫蓮がテレビを見ていると、家の固定電話が勢い良く鳴り出した。千代が急いで電話を取ろうとしたが、紫蓮がそれを制止する。そして自分で受話器を持ち上げ、会話に応じる。
「…はい。」
名字を言うことも、挨拶をすることもせず、ただ一言、いつもより低めの声を出す。
紫蓮は突然鳴り出した電話の先にいる相手に用があるのだ。紫蓮の声を聞いた電話の相手は軽やかな声を出す。
『ごきげんいかがかな、南条紫蓮。依頼されたことを実行した。感想は?』
電話の向こうにいるのは先程紫蓮に声をかけてきた少年で、依頼を実行したと言う。この発言により、紫蓮は聡明な頭で全ての欠片を繋げた。近くで起きた爆破事件と依頼、南条の人間と遺産を狙う古狸。
遺産を狙う古狸の南条を爆破事件という名目で―――。
こんな単純なこと、紫蓮でなくてもすぐ真意に気付く。比較的聡明な紫蓮は言われた瞬間に、〝依頼〟の意味を理解した。理解したと同時に電話の向こうの少年に向けて怒鳴るように叫ぶ。
「依頼した覚えはない!」
その紫蓮の怒鳴るような声に動じることもなく、少年は自分の都合を述べる。
『そう言うな。今、近くの路地にいる。今から来い。』
紫蓮の脳内で、この少年に逆らわない方がいいという方程式が成り立ち、その方程式が公式になろうとしている。それは紫蓮の本能がそういうのだろう。紫蓮は唇を甘噛みする。
「…分かった。」
渋々ながらも承諾し、受話器を元の位置に戻した。そして千代を見る。
「ちょっと出掛けて来ます。」
紫蓮の発言に千代は顔を真っ青にして紫蓮の外出を止めた。近くで爆破事件があり、外はとても危ない。それに加え被害者は南条の一族ときている。南条家の直系である紫蓮の身の心配をして当然だろう。
だが、紫蓮は少年に行くと言ったため、何があっても行かなければならない。行かなければ、後に何が起きるか判らない。
「坊ちゃま。紫蓮坊ちゃま!」
必死に止める千代を振り切り、紫蓮は家を出た。
南条邸近くの路地にいるのは来夏一人だった。
近くに落ちている小石を弾いて遊んでいるが、一瞬その動きを止めた。そして小石を見たまま口を開く。
「そんな恐い顔すんなよ。南条紫蓮。」
来夏のいる場所からは死角になるところにいた紫蓮はその言葉で姿を現した。紫蓮は両親に教え込まれたことを使い、気配を完全に消していたのにも関わらず、来夏はその気配をいとも簡単に見抜いてみせた。紫蓮は来夏を睨み付け、淡々と少し怒り気味に低い声を出す。
「…お前がやったのか。あの騒ぎ。」
紫蓮の鋭い視線を気にも止めず小石を使い、暇を持て余している。
「俺は直接手を出してないがな。」
そう言い、小石を爪で弾いた。そのふざけた来夏の行動に、紫蓮は苛立ち始める。だが、まだ理性を持ち、怒りを押し殺す。
「お前の差し金なら同じことだ。一体、何が目的だ。」
この紫蓮の一言を待っていたのだろう。来夏は眼の色を変えて、遊んでいた小石を捨て、紫蓮を見る。
「俺のことは一切詮索するな。必要なときに必要なことをしてくれればいい。」
その姿はあまりにも堂々としていて、王が臣下を見るような眼と、態度だ。憎憎しいほど自信に溢れた表情をし、紫蓮を見つめる。
「…法を犯すようなことはしない。」
紫蓮は言われたことを正しく理解し、少しの間を空けて答えた。
つまりはコネ。一番初めに会ったとき、来夏が紫蓮に要求したことだ。来夏は紫蓮を自分のコネに出来ればそれでいいのだ。来夏の今回の目的は紫蓮をコネにすることであり、それ以上を望んでいる訳ではない。
「それでいい。」
それ以上は望まない。
そんな意味を込めて、来夏は紫蓮に一言告げた。
「周りの誰にも危害を加えないなら。」
「それは保証する。」
紫蓮が条件を付け加えても、来夏は何も言わず、その条件もあっさりと呑んだ。余程、紫蓮を己の手中に収めたいのだろう。最低限の条件を呑むという来夏を前にして、紫蓮は長い沈黙の後に答えを出した。
「………分かった。とりあえず、様子を見る。」
断ることが出来ないから。
この状況で紫蓮が断れば、来夏は何をするか判らない。これ以上被害を出さないために、紫蓮は来夏のコネになることを決めた。
話が済み、来夏の目的が達成されたため、紫蓮はすぐさま自宅に帰るために身を翻したが、最後に振り返りもう一度だけ来夏を睨むように見た。
「最後に一つだけ言っておく。」
その眼は今までで一番鋭く、怒りを持った眼だ。
「お前なんか大嫌いだ。用があるとき以外、俺に近付くな。」
それだけいい、紫蓮は再度身を翻し、路地を後にした。
南条邸近くの通りにて一人歩いている黒髪の少年に、来夏は後ろから声をかけた。
「南条紫蓮、だな。」
その言葉を受けた少年はふと歩くのを止め、首だけ後ろを振り返った。そして、顔を顰めてから来夏に向けて問いかける。
「…どちら様ですか。」
最初の印象は良くなかったのだろう。同じ年頃の同性でも、雰囲気で分かることもある。疑いや警戒の眼をしている少年に対し、余裕を持ち、自分が主導権を握っているかのように堂々と、媚びることなく少年を見ていた。怪しくも人を嘲笑うかのような不敵な笑みを浮かべている。
「花山来夏。そう呼べばいい。」
来夏は我が名を名乗る。すると少年は益々顔を顰めた。そして首だけを来夏に向けていた状態を止め、身体を来夏の方へ向ける。
「…花山、来夏…。知り合いにそんな人はいませんが。」
少し不満そうに、また不機嫌そうに少年が言い切る。すると、来夏は少年のその言葉を肯定した。
「当たり前だ。初対面だからな。」
来夏の態度は初対面の人に対するものとは思えない。最初から相手を格下と決めつけ、大きすぎる態度をとる。来夏は初対面の少年に余談も入れず、本題を突き出した。
「お前、死んだ両親の多額の遺産を相続しただろ。その遺産を狙っている浅はかな古狸がいる。そこで、俺に依頼しないか。」
うすら笑いをして少年を見る。少年は来夏の話を聞いた後、益々顔を顰めて問い返した。
「…依頼?」
その問い返しに、来夏はことの詳細を話す。
「その古狸を始末する代わりに、お前は俺のコネになる。」
そう言った後、少しの沈黙を挟み、少年は吐き捨てた。
「…そんなおふざけには付き合えない。他を当たれ。」
少年はそう吐き捨てると、身体を翻して先を歩いて行った。
来夏はこの道の先に少年の家があることを知っているため、それ以上深く追うようなことはしなかった。先を行く少年の後ろ姿を見て、ふと笑う。その笑いは少し状況を楽しんでいるようにも見える。
「南条紫蓮、予想以上だな。」
来夏は穿いているジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、電話をかける。
「…久しぶりだな。聞きたいことがある。」
来夏はそれからしばらく話を続け、用が済んだ後、すぐに電話を切った。
そして、再度携帯電話を巧みに操りどこかへ電話をかける。
「俺だ。見張らせてるあの男、始末しろ。根回しはしてある。構わない。殺せ。」
会話の後、電話を切ると、携帯電話を元あったジーンズのポケットの中に入れ、腕を組む。そして少しの微笑と共に呟く。
「…嫌とは言わせないぜ。南条紫蓮。」
今日の紫蓮は、通っている楠ヶ丘中学部からの帰宅が、普段より数分遅かった。
「ただいま。」
玄関の扉を開けると、中からその音を聞いた千代が慌てて飛び出して来た。
真っ青な顔をして紫蓮を見る。
「紫蓮坊ちゃま!お帰りなさいませ。大丈夫でしたか?お怪我は?」
突然のことに紫蓮は少し驚き、何があったのか問う。
「いえ、大丈夫です。どうかしたんですか?」
玄関にて靴を脱ぎ、正面の廊下を歩く。その後に続き、千代が歩く。
「先程この近くで爆破事件があったらしいです。今速報で。それにご親戚の方が被害を…。」
テレビを見ると、確かに速報が流れている。そして、予定を変更して特別報道番組が組まれたようだ。被害者の名に南条がある。確かに南条の一族ではあるが、四親等までを親戚と表すことを基準にすると、親戚という近いものでもなく、大して面識はない人物。
時間は丁度、紫蓮が初対面の少年と別れた頃。まだ数分しか経っていないというのに、対応の速度が異常すぎるほど速い。まるで、始めからこの状況を想定していたかのように。
紫蓮がテレビを見ていると、家の固定電話が勢い良く鳴り出した。千代が急いで電話を取ろうとしたが、紫蓮がそれを制止する。そして自分で受話器を持ち上げ、会話に応じる。
「…はい。」
名字を言うことも、挨拶をすることもせず、ただ一言、いつもより低めの声を出す。
紫蓮は突然鳴り出した電話の先にいる相手に用があるのだ。紫蓮の声を聞いた電話の相手は軽やかな声を出す。
『ごきげんいかがかな、南条紫蓮。依頼されたことを実行した。感想は?』
電話の向こうにいるのは先程紫蓮に声をかけてきた少年で、依頼を実行したと言う。この発言により、紫蓮は聡明な頭で全ての欠片を繋げた。近くで起きた爆破事件と依頼、南条の人間と遺産を狙う古狸。
遺産を狙う古狸の南条を爆破事件という名目で―――。
こんな単純なこと、紫蓮でなくてもすぐ真意に気付く。比較的聡明な紫蓮は言われた瞬間に、〝依頼〟の意味を理解した。理解したと同時に電話の向こうの少年に向けて怒鳴るように叫ぶ。
「依頼した覚えはない!」
その紫蓮の怒鳴るような声に動じることもなく、少年は自分の都合を述べる。
『そう言うな。今、近くの路地にいる。今から来い。』
紫蓮の脳内で、この少年に逆らわない方がいいという方程式が成り立ち、その方程式が公式になろうとしている。それは紫蓮の本能がそういうのだろう。紫蓮は唇を甘噛みする。
「…分かった。」
渋々ながらも承諾し、受話器を元の位置に戻した。そして千代を見る。
「ちょっと出掛けて来ます。」
紫蓮の発言に千代は顔を真っ青にして紫蓮の外出を止めた。近くで爆破事件があり、外はとても危ない。それに加え被害者は南条の一族ときている。南条家の直系である紫蓮の身の心配をして当然だろう。
だが、紫蓮は少年に行くと言ったため、何があっても行かなければならない。行かなければ、後に何が起きるか判らない。
「坊ちゃま。紫蓮坊ちゃま!」
必死に止める千代を振り切り、紫蓮は家を出た。
南条邸近くの路地にいるのは来夏一人だった。
近くに落ちている小石を弾いて遊んでいるが、一瞬その動きを止めた。そして小石を見たまま口を開く。
「そんな恐い顔すんなよ。南条紫蓮。」
来夏のいる場所からは死角になるところにいた紫蓮はその言葉で姿を現した。紫蓮は両親に教え込まれたことを使い、気配を完全に消していたのにも関わらず、来夏はその気配をいとも簡単に見抜いてみせた。紫蓮は来夏を睨み付け、淡々と少し怒り気味に低い声を出す。
「…お前がやったのか。あの騒ぎ。」
紫蓮の鋭い視線を気にも止めず小石を使い、暇を持て余している。
「俺は直接手を出してないがな。」
そう言い、小石を爪で弾いた。そのふざけた来夏の行動に、紫蓮は苛立ち始める。だが、まだ理性を持ち、怒りを押し殺す。
「お前の差し金なら同じことだ。一体、何が目的だ。」
この紫蓮の一言を待っていたのだろう。来夏は眼の色を変えて、遊んでいた小石を捨て、紫蓮を見る。
「俺のことは一切詮索するな。必要なときに必要なことをしてくれればいい。」
その姿はあまりにも堂々としていて、王が臣下を見るような眼と、態度だ。憎憎しいほど自信に溢れた表情をし、紫蓮を見つめる。
「…法を犯すようなことはしない。」
紫蓮は言われたことを正しく理解し、少しの間を空けて答えた。
つまりはコネ。一番初めに会ったとき、来夏が紫蓮に要求したことだ。来夏は紫蓮を自分のコネに出来ればそれでいいのだ。来夏の今回の目的は紫蓮をコネにすることであり、それ以上を望んでいる訳ではない。
「それでいい。」
それ以上は望まない。
そんな意味を込めて、来夏は紫蓮に一言告げた。
「周りの誰にも危害を加えないなら。」
「それは保証する。」
紫蓮が条件を付け加えても、来夏は何も言わず、その条件もあっさりと呑んだ。余程、紫蓮を己の手中に収めたいのだろう。最低限の条件を呑むという来夏を前にして、紫蓮は長い沈黙の後に答えを出した。
「………分かった。とりあえず、様子を見る。」
断ることが出来ないから。
この状況で紫蓮が断れば、来夏は何をするか判らない。これ以上被害を出さないために、紫蓮は来夏のコネになることを決めた。
話が済み、来夏の目的が達成されたため、紫蓮はすぐさま自宅に帰るために身を翻したが、最後に振り返りもう一度だけ来夏を睨むように見た。
「最後に一つだけ言っておく。」
その眼は今までで一番鋭く、怒りを持った眼だ。
「お前なんか大嫌いだ。用があるとき以外、俺に近付くな。」
それだけいい、紫蓮は再度身を翻し、路地を後にした。
夜が明け、朝の六時半に設定された目覚まし時計が時刻を知らせる。ベッドの中から手を伸ばし、その響きを止めた。そして、ベッドから出て部屋の隅にあるクローゼットの中から制服を出し、カッターシャツに袖を通す。制服を着て、カッターシャツの襟にネクタイを通し、緩く結ぶ。机の近くにある鞄をひったくるように持ち、部屋から出る。部屋を出てすぐの廊下を歩き階段を下りる。階段を下りると、その足で洗面所へ行きある程度の身支度をする。身支度を終えるとキッチンダイニングに行き、紫蓮の食べる朝食を用意している千代に挨拶をする。
「おはようございます。」
紫蓮が挨拶をすると、千代は作業を中断し、軽く頭を下げて紫蓮に挨拶し返す。
「おはようございます。坊ちゃま。」
千代は紫蓮が六時半に起床することを知っていて、その前に南条邸を訪れ、いろんなことをする。紫蓮の朝食の用意を初め、掃除洗濯など家事一般をこなすのだ。
紫蓮は毎朝千代の用意した朝食を食べる。朝食の献立は白米に油あげとワカメの味噌汁、塩鮭といった日本の代表的な和食で、紫蓮はパンやミルクなどの洋食を好まないため、毎朝の朝食は和食と決まっており、これらを食べて学校へ行く。
千代はそんな紫蓮を眺めつつ、紫蓮の弁当を作る。そして、ふと何かを思い出したように紫蓮に声をかける。
「そういえば、坊ちゃま。先日行われた学力テストで、主席を取ったそうですね。」
それを聞き、紫蓮は動かしていた箸を止めて千代の話に応える。
「えぇ。主席は毎回のことですから。」
紫蓮が学年主席を取るのは今回に限ったことではない。入学して以来、行われてきた学力テストでは主席を保持している。それを当たり前のように守り続け、今に至る。
千代も紫蓮が主席から落ちることなど考えてはいない。今回の学力テストは千代が暇を貰っていたときに行われたもので、千代自身が直接テスト前後の紫蓮を見ていないため、今回のことを口にした。だが、紫蓮には小さな疑問が残った。昨日紫蓮が帰宅したときに千代は既に南条邸にいた。その後、紫蓮は千代にテストの話をしていない。千代はどうやって紫蓮の主席の話を知ったのか。疑問に思った紫蓮がそのことを問う前に、千代は自分から答えを放つ。
「祝さんに伺ったとき、流石坊ちゃまだと思いましたよ。」
この言葉に紫蓮は眼を丸くする。
祝といえば親友の河村祝以外にいるはずがないのだが、千代は一体いつ祝と連絡を取ったのだろうか。いつも情報を持っては来るが、今回はその場面を見ていない。祝が千代にどのように連絡をしているのか検討もつかない。
だが、気にしても仕方がないため、脳内で話を戻す。
「そんなことないですよ。今までもそうでしたし。」
朝食に出された味噌汁を流し込み、朝食を完食し、千代は満面の笑みで紫蓮を見る。
「それを当然のように保持することが難しいことなんですよ。」
千代の言葉に紫蓮は少し考え込み苦笑する。そして持っていた箸を箸置きの上に揃えて置いた。
「…そうですね。ご馳走さまでした。いってきます。」
その言葉に千代はゆっくりと頭を下げて見送りの挨拶をする。
「いってらっしゃいませ、紫蓮坊ちゃま。」
その言葉を背に受け、自宅を出ると、門の前には河村祝の姿があった。祝は紫蓮が自宅から出てきたことに気付くと、紫蓮に向けて朝の挨拶をする。
「おっす!」
「…河村。」
シレンは自宅前に祝がいても驚くことはない。祝が紫蓮を迎えに来るのは毎朝のことで、紫蓮の両親が他界してからはずっとしてきた恒例のこと。祝が自宅前にいても驚かないのはそのためだ。
「…お前、どうした?」
学校への行き道に祝は紫蓮にそう問いかけた。いきなりの唐突な問いかけに紫蓮は返事を一瞬遅らせた。
「…何が。」
どうしたと言われても、どうもしてないと答えるしかない。別にどうした訳でもないからだ。だが、祝はそんな紫蓮を他所に問いかけを続ける。
「何かあったろ。」
何かあったのかと言われればあったと答えるべきなのだろう。
昨日、あったこと。
老いぼれた黒い蝶から手紙が来て、自らを赤い蝶と名乗る髪の長い少女、莎子に会ったこと。
だが、それを言う気にはなれなかった。そのため、言葉を濁し答える。
「…別に。」
それだけ言うと、祝は紫蓮の顔を見つめ、それから視線を反らし、空を眺めた。
「ふーん。ならいいけど。」
二人はそのまま学校までの道のりをゆっくりと歩いて行った。
「やっぱ何かあったな。」
午前最後の授業が終わり、昼食を済ませたとき、紫蓮の傍にいた祝は呟くように紫蓮に告げた。
その言葉を聞いた紫蓮はすぐに否定を表す。
「別に何もない。」
そうは言っても祝は頭が回らない訳ではない。紫蓮が本気で言っていないことが分かっている。そのことを考慮した上で紫蓮に再度別の問いかけをした。
「…昨日の浴衣の話か?」
この言葉が出た瞬間、紫蓮は動きを止めた。
浴衣の話ではない。だが、そこで肯定しても否定しても、祝に全てを話す気にはなれない。それでも祝にその真偽まで隠すことをしたくはなかった。
「…いや、違う。」
そう言うと祝の顔が変わった。少し不満げに腕を組み、先程より強めの口調で問い質す。
「じゃ、違うことで何かあったんだな。」
その言葉が出た後、祝はすぐさま次の言葉を放った。
「まぁ、お前がそこまで言うならこれ以上追求はしねーけどさ。」
祝は自分が何度聞いても答えない紫蓮を見て、紫蓮が本当に隠しておきたいことだということが理解出来たらしく、それ以上追求はしなかった。それを感じた紫蓮も祝に申し訳なさそうにしている。
そのとき、教室の扉から紫蓮を呼ぶ声が聞こえた。
「南条!呼ばれてるぞ。」
その声は7同じクラスの男子のもので、声のした方を見ると、そこには声の主である男子以外に同じ学年の女子生徒の姿があった。紫蓮と祝はお互いを見合う。そして祝から紫蓮に一言。
「また熱烈な告白タイムか。」
二人の溜め息はお互いにしか聞こえていなかった。
「南条くん!好きです!付き合ってください!」
言われることは分かっていた。こうやって呼び出されるのは慣れている。言われる言葉もいつも同じ。返す言葉もいつも同じ。呼び出されたのは中庭で、大量の樹や植物が生い茂っている。校内で一番、告白場所に相応しい場所。
ここに来た回数を数えるだけ馬鹿らしくなってくる程、この場所は馴染みの場。祝は回数を数えているかもしれない。何度言っても慣れないけれど、言うしかないと割り切り、重い口を開く。
「…悪いんだけどさ、今はそういうこと考えられないんだ。だから、ごめん。」
風に黒髪が揺られ、右耳にしたつがいの赤と黒の蝶ピアスがよく見えただろう。
返事を返した瞬間の女子生徒は眼に涙を浮かべ、今にも泣きそうな顔をしている。だが、自分に言い聞かせているのか、重い口を開き必死に言葉を作り、出している。
「…あ…そう、ですか…。ありがとう、ございました…。」
そのまま深く頭を下げ、女子生徒は慌ただしくこの場から去って行った。その女子生徒と入れ替わりに祝が中庭に訪れる。紫蓮が申し出を断った娘の顔を見たのだろう。中庭の入口で樹に身体を寄り掛け、紫蓮を毒ついた。
「あーあ、またフっちゃったのかよ。結構、」
毒つきながらも紫蓮に近付き、紫蓮の肩に手を置いた。すると紫蓮はその手については何も言わず、祝が言うだろうことを先読みし先手を取る。
「『可愛い娘だったのに。』だろ。」
それを聞いた祝は眼を丸くしてから即座に笑い、紫蓮が言ったことに対し、小さく反論する。
「言い方がちょっと違うけど、まぁそういうこと。勿体ねー。」
いくら勿体無いと言っても祝が紫蓮同様、先程の娘(こ)に告白をされても、恐らく断っただろう。二人とも色恋に興味はない。
「そういうことに興味がないんでね。」
紫蓮の言葉がその事実を裏付けた。祝も紫蓮がそう言うことや思っていることを知っている。そのため、このような会話が平気な顔で出来るのだろう。
「知ってる。」
二人がそう言い笑い合うと、中庭の入口から声が聞こえた。
「あ、の!か、河村くん!」
その声に二人は笑いを止め、声のした方を見る。そこにいたのは、またもや同じ学年の女子生徒で赤面しつつ、祝のことを呼んでいる。その呼ばれた声に祝は昨日からの仕様で面白く反応した。
「ん?俺?何かにゃ?」
昨日も自分自身のことを〝ボクちゃん〟と呼称したり、おふざけのような言葉を放っていた。そのような言い方は祝のキャラではない。そのため、紫蓮は先程のことにも驚き、顔を顰める。
「お前、そんなキャラだったのか。」
紫蓮の問いに、祝は微笑みながら、
「こーゆーキャラになろうかと思って。」
と漏らす。それを聞いた紫蓮は少しだけ呆れるような顔をし、赤面している女子生徒に気を使い、祝の肩に手を置き、耳元で呟いた。
「…じゃ、先に行ってるぞ。」
紫蓮はそれだけ言うと祝の肩から手を放し、中庭を出て教室へと向かい歩く。紫蓮の言葉に祝は茶目っ気混じりに手を振りつつ返す。
「はいはーい。」
そしてそのまま女子生徒を見ては用件を促すのだ。用件など聞かなくとも判る。一週間のうちの数日をこの用件で満たすこともある。用件は分かっているが、最初から行く先を見てはいけない。
「で、何かな?」
祝は笑顔で、女子生徒を見る。その笑顔は先程紫蓮との間で話していた、今までの祝とはキャラ違いの笑顔だった。咋な作り笑い。そんな作り笑いを見ても、女子生徒の気持ちは高ぶるだけだ。
「あ、の!好きです!つ、付き合ってください!」
女子生徒は赤面しながらも祝を見て想いを告げた。
祝が告白を受ける回数は学校内でも秀でていて、紫蓮がいるためあまり知られていないが、紫蓮に次いで二番目だ。祝も紫蓮に負けず劣らずの容姿を持ち、学年次席の勉学も持つ。
人に好意を寄せられるのは紫蓮同様で、また、そんな女子生徒たちへの返事も紫蓮同様、全て断っている。
「ごめんね。今はそういうこと考えられないの。」
いつもとは違うキャラを作りながら、女子生徒の申し込みを困ったような苦笑でやんわりと断る。茶色の髪が困ったような苦笑とよく合う。そして、目の前の女子生徒には聞こえないくらい小さな声で、いつも通りのキャラを使い呟く。
「…紫蓮が一段落するまでは、な。」
「ただいまー。」
教室の扉を開けて、自分の席に座って読書をしている紫蓮に向けて帰還の挨拶をした。女子生徒の用件が済んだため教室に戻って来たのだが、戻って来た祝に紫蓮はただ一言、
「おかえり。」
とだけ返した。
祝はそのまま紫蓮の席の前に行き、昨日と同様に紫蓮の前の席に座る。そして紫蓮の机の方向に寝そべり、紫蓮の机を身体で占領する。その行動を先読みし、紫蓮は祝の身体をかわす。
「はー…何で皆、告白すんのかねー。」
呟いた言葉は自分の実体験から出た言葉で、告白された回数が多いことを示していた。
「断ったんだろ。人のこと言えないな。」
紫蓮も祝も、想いを告げられても応えられないから。と、今までに数知れずの乙女たちを泣かせてきた。今回の女子生徒も二人にとってはその中の一人でしかない。
「………紫蓮。」
自分の身体で紫蓮の机を占領していた祝が、ふと顔を上げて紫蓮を見た。その眼差しは先程のキャラ違いのふざけたものではなく、とても真剣なもの。その真剣な眼で祝は紫蓮に問う。
「冗談抜きで何かあったろ。」
その問いを聞いた紫蓮は不思議でならなかった。何故、祝だけ紫蓮の僅かな異変に気付くのか。
真剣な眼差しから眼を反らすのに時間がかかった。眼を反らすと同時に紫蓮は逆に問い返す。
「…何で、そう思、」
「紫蓮。」
紫蓮の言葉を先読みしていた祝は途中で言葉を遮った。
「他の奴等は誤魔化せても、俺は誤魔化せらんねーぞ。」
…誤魔化せない。
そう言われて紫蓮の心が揺れる。祝に全てを話してしまいたい。でもこの話をして祝に危害が加わるような結果になってはならない。紫蓮が何も言葉にしないのと同時に、紫蓮が頭の中で何かと闘っていることが分かった祝は静かに次の意を放つ。
「…別に、今話したくないならいいさ。」
それだけ言うと、紫蓮の席を占領していた身体を起こし、席を立つ。席を立った祝を見て、紫蓮は祝を呼び止める。
「河村。」
少しの沈黙の後に紫蓮は不思議を聞いてみた。
「………そんなに、様子違ったか…?」
いつも通り接しているつもりだった。それなのに、それを祝には気付かれてしまった。長年の付き合いだ。祝には分かってしまったのかもしれない。よく考えれば、紫蓮に近付くのも、近付くのを許されているのも祝だけだ。
それを恐る恐る聞くと、祝は微かに笑い、静かに、だが力強く言った。
「バレバレってくらいな。」
気付くのは俺くらいだろうけど。
そう思っていても、祝がそれを言葉に出すことはなかった。
「待て、南条紫蓮。」
放課後、いつものように紫蓮と祝が帰宅しているとき、後方から紫蓮を呼び止める声が聞こえた。その声に紫蓮と祝は足を止め、後ろを振り返った。振り返ると、そこには同じ制服を着た少年が一人立っている。少年の五十歩ほど後方には黒いベンツと複数の男たちの姿が見える。
「………誰…?」
その少年に心当たりがないらしく、紫蓮は長い沈黙の後にそう呟いた。すると隣にいた祝が素早く口を開いた。
「楠ヶ丘学園高学部二年B組十三番、浅草寺暁(せんそうじあかつき)。浅草寺財閥の御曹司。十五のときから大滝財閥の代表総取締役社長と張り合って自社の代表総取締役社長をやってるよ。」
楠ヶ丘学園とは紫蓮や祝も通う私立学校で、基本的には大企業の子息や令嬢など家の教育上、一般の公立学校に行かない者が通う学校だ。紫蓮も南条財閥の子息としてこの学校に通っている。また、紫蓮や財閥子息とは別の系統でこの学校に通っているのが祝だ。
祝だけではなく、特定の秀でたものを持っている者には通学資格が与えられる。だが、祝のように資格を持ち通っている者はごく稀でその資格が認可されることも極めて稀である。幼学部、小学部、中学部、高学部、全て合わせても資格が認可されているのは全体の一割程度。
祝はその僅かな一割の一人。記憶能力に秀でており、頭脳には数億もの情報が整理されている。そのため近辺では情報屋として有名だ。それだけの頭脳がありながらもメモ帳を常に持ち合わせており、それは所謂バックアップらしい。
そんな能力を持った情報屋と名高い祝には、これくらいの情報を何も見ずに話すくらい容易なことで、紫蓮もそんな祝との付き合いが長いため、それでこそ祝でそれが当たり前だと思っている。紫蓮はその情報を聞き、少し考え込み、記憶を探り出す。
「名前は聞いたことあるな。楠ヶ丘高学部二年って同級生か。それに…大滝財閥の代表総取締役社長っていうと…。」
楠ヶ丘学園は学部ごとに別れているため、会話の中では学部が優先され、学園名が略される場合が多い。
大滝財閥とは、今や日本の大企業、大財閥に名を馳せる一族であると同時に、いろいろなものを手がけている企業で芸能事務所や石油、自動車など、儲かるものを大々的に取り扱っている一流企業。その後を僅差で浅草寺が追いかけているという状態で、南条はその後になる。
だが、歴史で云えば一番古くからあるのは南条であり、紫蓮を現在の当主と数えれば相当なものなのに比べ、大滝も浅草寺も歴史は浅く南条には遠く及ばない。
そんな南条の直系の子息である紫蓮も、当然、一般知識として大滝と浅草寺のことは認識している。
記憶の中にあった情報を引き出す。
「…大滝星流(おおたきせいりゅう)、か。………大滝に浅草寺…。」
紫蓮が口にした名は浅草寺暁が張り合っている同い年の大滝財閥の代表総取締役社長の名だ。十五のときから大企業である大滝の代表総取締役社長をしていることは、当時業界にかなりの衝撃を与えた。それに続き浅草寺暁も浅草寺財閥の代表総取締役社長に就任した。
まだ子供と認識される年の者を代表にするなど、常識の範疇を越えていると話題になったものだ。
「どっちも南条と張り合える程の財閥さ。詳しく見てみると浅草寺より大滝の方が優れてる。南条は張り合いに参加してないみたいだけど、今のところ張り合っても大滝、浅草寺、南条と順位が付くだけだ。」
紫蓮は祝が言ったことを頭の中に入れ、脳内を模索する。
「それより、日本を代表する三大財閥の子息がみんな同い年とは…狙いすぎだろ。」
紫蓮の隣にいた祝が毒つく。
確かに、日本の上位三大財閥の子息が皆同い年なのは、企業の役員からすれば笑い事ではない。
三大財閥のうち、既に上位二位は後継者を直系の子息と決め、代表総取締役社長に就任させている。若年の子息に会社を担う重大な部位を任せるなど、そうそう出来るものではない。そのため、南条もその争いに便乗し、紫蓮を代表総取締役社長やそれ以外の上位役員に就けるのではないか、と考えているのだ。通常ならばまだ若い子息の前にワンクッション置くように年長の遠縁などを配置し、子息の経営者としての成長を待ってから重大な部位に就けるものだ。それならばそのワンクッションの間に、直系である一族の胸の内に入り、外部の者が会社の重要な部位を担うことも難しくはない。その隙も間も与えない上位財閥はそのことを先読みし、このような大胆な行動に出たともいえる。子息が皆(みな)同い年ということは上位の三大財閥が同じ手で来れば、為す術なしということになる。
「そういえば…葬儀に来ていたな。」
先程から何やら考え込んでいた紫蓮が急に口を開いた。
葬儀に来ていた。―――大滝と浅草寺が。
葬儀に、というのは四年前の両親の葬儀のことだろう。
各界の著名人だった紫蓮の両親の葬儀に同じ大企業の大滝と浅草寺が来てもおかしくはない。逆に言えば、来ない方がおかしい。
「…で、何の用だ。」
何故自分に会いに来たのか。用件があるならば、どんな用件なのか。
紫蓮は話を初めに戻す。
「浅草寺といえば利益を欲して手段を選ばないと聞いている。何か裏があるんだろ。」
浅草寺は対立している大滝と違い、何事にも手段を選ばないため、大滝よりも印象は劣る。この状況で紫蓮の元を訪れたのも、何か理由があってのことだろう。
紫蓮にそのことをつかれると、暁は少し顔を歪ませ嫌味や皮肉のように、掌を軽く合わせて拍手をした。
「ご名答。学年主席は伊達じゃないようだ。」
学年主席とは紫蓮のことを指しているが、この状況では本当に嫌味や皮肉のようにしか聞こえない。
紫蓮のことだからと、今まで極力口を挟んでいなかった祝も少々苛つく所があったのか、暁に向けて皮肉で返す。
「学年主席って、嫌味かよ。学年三位の浅草寺。」
それを聞いた暁はそれこそ嫌味だと言わんばかりに祝に食ってかかる。暁の目的は紫蓮のはずだが、余程その言われ方が気に入らなかったのだろう。紫蓮ではなく祝に敵意を向けている。
そして、目を細め言葉を吐き捨てるように放った。
「主席と次席がつるんでいる方が嫌味だろ。学年次席、情報屋で名を轟かせている河村祝。」
学年主席は紫蓮であり、その後に次ぐ次席にいるのは祝だ。そして三位の暁はその後ということになる。
暁は主席の紫蓮だけでは飽き足らず、次席である祝にまで喧嘩腰に当たる。自分より上にいる者への小さな抵抗なのだろうが、紫蓮も祝も根本的に相手にはしていないため、暁もこれ以上言っても無駄なことが分かっているだろう。その件をあたかも始めからなかったかのように流し、本題に入った。
「どうだ、南条紫蓮。南条と浅草寺、業務提携をして大滝を越えてみないか。」
浅草寺から南条への業務提携の申し入れ。浅草寺は余程大滝を越えたいのだろう。そうでなければ、このようなことを言っては来ない。大滝を越えるために手段を選ばないのなら、話は分かる。
「浅草寺と南条なら一夜で大滝を落とせる。」
不敵な笑みを浮かべ紫蓮を見ている暁に紫蓮は溜め息を吐き、暁を見据えてたった一言呟いた。
「…お断りだな。」
眼は遊びの眼ではなく、真剣な眼差し。
紫蓮が断りの返事を遊びや、いい加減な気持ちでしたのではないということだ。
紫蓮は暁の用件が南条の会社関係であることが分かったため、隣にいる祝に向けて先に行くように促した。
「河村、先に行ってろ。」
「はいはーい。」
紫蓮にそう言われると、祝はすぐに返事をし、少し笑いながら紫蓮と暁に背を向け、進むべき道を進む。
紫蓮は祝が歩いて行ったのを見届けると、暁に詳細を話した。
「悪いが、俺は南条の事業とは一切関わっていない。経営者にも、なる気はない。…他を当たってくれ。」
それだけ言うと、紫蓮は身体を翻し、暁には目も暮れず祝が歩いて行った道を歩き始める。暁は紫蓮の言っていることが本気であることも、浅草寺に良い印象を持っていないことも解っている。そのため、それ以上の詮索はせず、部下を連れてその場を後にした。
紫蓮は祝が歩いた道を行き、自宅へと帰ろうとしていた。
紫蓮が先に行けと言った祝は、事情を察し先にあの場を後にしたが、行き先が南条邸であることは変わらない。自宅に帰れば祝は紫蓮の部屋で大人しく紫蓮の帰りを待っているだろう。
そんな帰り道を歩いていると、紫蓮はふと立ち止まった。そして、妙な違和感がすることに気付く。誰かが紫蓮を見ている。だが、その誰かが判らない。その視線だけが判らない。
紫蓮は周りの変化や違和感に必要以上に敏感で、普段から周りのことは気を付けて見ている。視線を感じても、その視線の主が判らない。それはそうそうあることではない。嫌な予感を感じ取った紫蓮は、早々にその場を立ち去った。
紫蓮が視線に気付いたことを察知した為、視線を向けていた者はすぐさまその視線を違う方向へ向けた。向けたのはその者から見て丁度真後ろの位置。気配は消されていたが、長年の感覚で目的の人物がこの場に訪れたことを察知したのだ。
新しい視線の先にいるのは、黒髪に翠色の瞳をした比較的小柄な少年。
小柄と思うのは、その少年の年齢に似つかわしくないからだろう。年齢の割には少し華奢で、身長も低めだ。その少年は翠の瞳を、先程まで紫蓮に視線を向けていた者に向ける。そして、少年は口元を少し緩め、言葉を発した。
「久しぶりだな。飛乃(ひの)。」
少年は目の前の者を〝飛乃〟と呼び、久方ぶりの挨拶を交わした。
〝飛乃〟は少年と大して年の変わらないような少女で、今時珍しく立派な値の張りそうな着物に足袋と下駄を履き、手には小さめの巾着袋が握られている。腰まである長い黒髪の一部を頭の上で結い、その頭に簪を刺していた。
飛乃はゆっくりと身体を少年の方へ向け、身形を整えた上で少年の挨拶に答える。
「本当に久しいわね。翠月(すいげつ)。」
ゆっくり且つ、淡々と綺麗な物言いをする飛乃は少年のことを〝翠月〟と呼んだ。その独特の呼称からその名が少年の本名であるはずはないのだが、何らかの呼称として使われているのか、少年は嫌な顔一つせず、飛乃の挨拶を受けた。だが、飛乃はそう言った後、ふと何かを思い出したかのような顔をして少年を見た。着物ごと手を口元に持って行き、口元を隠す。
「あぁ…ここじゃ〝花山来夏(はなやまらいか)〟と呼んだ方がいいのかしら。」
少し楽しんでいるような、また面白がっているような、嘲笑ったような話し方。それを少年は何事もなかったかのようにあっさりと流す。
「どっちでもいいさ。」
少年にとって、〝翠月〟も〝花山来夏〟も自分を呼称するものであることは変わりなく、どちらでも構わないのだろう。呼称のことにはそれ以上触れることなく、少年、基(もとい)、来夏は自分の本題を進めた。
「どうだった?南条紫蓮は。」
来夏は飛乃がこの場所から密かに紫蓮の様子を伺っていたことを知っている。飛乃に紫蓮を見るように言ったのは来夏であり、来夏の申し出で飛乃がここまで足を運んだと言っても過言ではない。飛乃は来夏に問われたことを瞬時に理解し、核心をつく。
「…手強いわね。浅草寺暁の話に興味も示さなければ、深く関わりもしない。様々な要素を含め、あの大滝星流や浅草寺暁より優秀で聡明。あなたがここまで頓着するのも解かるわね。」
着物を揺らしながら手を動かし、髪の乱れを直す。紫蓮を思いの外強く絶賛した飛乃はその発言に責任を持っている。
紫蓮は大滝財閥代表総取締役社長である大滝星流より、浅草寺財閥代表総取締役社長である浅草寺暁よりも優秀で聡明である、と。
「浅草寺暁に南条紫蓮を取り込むように進言したのでしょう?それが裏目に出なければいいけど。」
暁に南条と業務提携をすることを進めたのは来夏であり、来夏は三大財閥の一つである暁に助言が出来るほどの位置にいるということが分かる。来夏は暁と同年代であり、割りと近い存在ではある。
来夏は意味もなく髪をかき上げ、少し苦笑しながら吐き捨てるように言葉を放った。
「大滝星流を今使うことは出来ない。」
この発言により、来夏と大滝星流とも何かしらの接点があることが分かる。来夏は三大財閥を手玉に取り、より利用しようと考えているのだろう。大滝星流も暁も共に来夏と交流を持つというのはどのようなメリットがあるのか。何にせよ、来夏の得体が知れないことに変わりはない。
飛乃は何処からか扇子を取り出し、口元を覆う。
「あの様子だと、何かしらの策が必要になるわ。」
来夏は腕を組み、何処か遠くを見ているような眼をしている。
「…だろうな。あいつはそんなに簡単な男じゃない。…四年前と何も変わってないしな。」
その言葉を聞いた飛乃は顔をしかめ、毒つく。
「四なんて不吉ね。…四年前、何かあったの?」
前半は毒ついたものの、後半は真剣に紫蓮との関係を問う。
「………あぁ。」
飛乃の問いを、来夏は長い沈黙の後に答えた。
それから、記憶の中を旅する。
「おはようございます。」
紫蓮が挨拶をすると、千代は作業を中断し、軽く頭を下げて紫蓮に挨拶し返す。
「おはようございます。坊ちゃま。」
千代は紫蓮が六時半に起床することを知っていて、その前に南条邸を訪れ、いろんなことをする。紫蓮の朝食の用意を初め、掃除洗濯など家事一般をこなすのだ。
紫蓮は毎朝千代の用意した朝食を食べる。朝食の献立は白米に油あげとワカメの味噌汁、塩鮭といった日本の代表的な和食で、紫蓮はパンやミルクなどの洋食を好まないため、毎朝の朝食は和食と決まっており、これらを食べて学校へ行く。
千代はそんな紫蓮を眺めつつ、紫蓮の弁当を作る。そして、ふと何かを思い出したように紫蓮に声をかける。
「そういえば、坊ちゃま。先日行われた学力テストで、主席を取ったそうですね。」
それを聞き、紫蓮は動かしていた箸を止めて千代の話に応える。
「えぇ。主席は毎回のことですから。」
紫蓮が学年主席を取るのは今回に限ったことではない。入学して以来、行われてきた学力テストでは主席を保持している。それを当たり前のように守り続け、今に至る。
千代も紫蓮が主席から落ちることなど考えてはいない。今回の学力テストは千代が暇を貰っていたときに行われたもので、千代自身が直接テスト前後の紫蓮を見ていないため、今回のことを口にした。だが、紫蓮には小さな疑問が残った。昨日紫蓮が帰宅したときに千代は既に南条邸にいた。その後、紫蓮は千代にテストの話をしていない。千代はどうやって紫蓮の主席の話を知ったのか。疑問に思った紫蓮がそのことを問う前に、千代は自分から答えを放つ。
「祝さんに伺ったとき、流石坊ちゃまだと思いましたよ。」
この言葉に紫蓮は眼を丸くする。
祝といえば親友の河村祝以外にいるはずがないのだが、千代は一体いつ祝と連絡を取ったのだろうか。いつも情報を持っては来るが、今回はその場面を見ていない。祝が千代にどのように連絡をしているのか検討もつかない。
だが、気にしても仕方がないため、脳内で話を戻す。
「そんなことないですよ。今までもそうでしたし。」
朝食に出された味噌汁を流し込み、朝食を完食し、千代は満面の笑みで紫蓮を見る。
「それを当然のように保持することが難しいことなんですよ。」
千代の言葉に紫蓮は少し考え込み苦笑する。そして持っていた箸を箸置きの上に揃えて置いた。
「…そうですね。ご馳走さまでした。いってきます。」
その言葉に千代はゆっくりと頭を下げて見送りの挨拶をする。
「いってらっしゃいませ、紫蓮坊ちゃま。」
その言葉を背に受け、自宅を出ると、門の前には河村祝の姿があった。祝は紫蓮が自宅から出てきたことに気付くと、紫蓮に向けて朝の挨拶をする。
「おっす!」
「…河村。」
シレンは自宅前に祝がいても驚くことはない。祝が紫蓮を迎えに来るのは毎朝のことで、紫蓮の両親が他界してからはずっとしてきた恒例のこと。祝が自宅前にいても驚かないのはそのためだ。
「…お前、どうした?」
学校への行き道に祝は紫蓮にそう問いかけた。いきなりの唐突な問いかけに紫蓮は返事を一瞬遅らせた。
「…何が。」
どうしたと言われても、どうもしてないと答えるしかない。別にどうした訳でもないからだ。だが、祝はそんな紫蓮を他所に問いかけを続ける。
「何かあったろ。」
何かあったのかと言われればあったと答えるべきなのだろう。
昨日、あったこと。
老いぼれた黒い蝶から手紙が来て、自らを赤い蝶と名乗る髪の長い少女、莎子に会ったこと。
だが、それを言う気にはなれなかった。そのため、言葉を濁し答える。
「…別に。」
それだけ言うと、祝は紫蓮の顔を見つめ、それから視線を反らし、空を眺めた。
「ふーん。ならいいけど。」
二人はそのまま学校までの道のりをゆっくりと歩いて行った。
「やっぱ何かあったな。」
午前最後の授業が終わり、昼食を済ませたとき、紫蓮の傍にいた祝は呟くように紫蓮に告げた。
その言葉を聞いた紫蓮はすぐに否定を表す。
「別に何もない。」
そうは言っても祝は頭が回らない訳ではない。紫蓮が本気で言っていないことが分かっている。そのことを考慮した上で紫蓮に再度別の問いかけをした。
「…昨日の浴衣の話か?」
この言葉が出た瞬間、紫蓮は動きを止めた。
浴衣の話ではない。だが、そこで肯定しても否定しても、祝に全てを話す気にはなれない。それでも祝にその真偽まで隠すことをしたくはなかった。
「…いや、違う。」
そう言うと祝の顔が変わった。少し不満げに腕を組み、先程より強めの口調で問い質す。
「じゃ、違うことで何かあったんだな。」
その言葉が出た後、祝はすぐさま次の言葉を放った。
「まぁ、お前がそこまで言うならこれ以上追求はしねーけどさ。」
祝は自分が何度聞いても答えない紫蓮を見て、紫蓮が本当に隠しておきたいことだということが理解出来たらしく、それ以上追求はしなかった。それを感じた紫蓮も祝に申し訳なさそうにしている。
そのとき、教室の扉から紫蓮を呼ぶ声が聞こえた。
「南条!呼ばれてるぞ。」
その声は7同じクラスの男子のもので、声のした方を見ると、そこには声の主である男子以外に同じ学年の女子生徒の姿があった。紫蓮と祝はお互いを見合う。そして祝から紫蓮に一言。
「また熱烈な告白タイムか。」
二人の溜め息はお互いにしか聞こえていなかった。
「南条くん!好きです!付き合ってください!」
言われることは分かっていた。こうやって呼び出されるのは慣れている。言われる言葉もいつも同じ。返す言葉もいつも同じ。呼び出されたのは中庭で、大量の樹や植物が生い茂っている。校内で一番、告白場所に相応しい場所。
ここに来た回数を数えるだけ馬鹿らしくなってくる程、この場所は馴染みの場。祝は回数を数えているかもしれない。何度言っても慣れないけれど、言うしかないと割り切り、重い口を開く。
「…悪いんだけどさ、今はそういうこと考えられないんだ。だから、ごめん。」
風に黒髪が揺られ、右耳にしたつがいの赤と黒の蝶ピアスがよく見えただろう。
返事を返した瞬間の女子生徒は眼に涙を浮かべ、今にも泣きそうな顔をしている。だが、自分に言い聞かせているのか、重い口を開き必死に言葉を作り、出している。
「…あ…そう、ですか…。ありがとう、ございました…。」
そのまま深く頭を下げ、女子生徒は慌ただしくこの場から去って行った。その女子生徒と入れ替わりに祝が中庭に訪れる。紫蓮が申し出を断った娘の顔を見たのだろう。中庭の入口で樹に身体を寄り掛け、紫蓮を毒ついた。
「あーあ、またフっちゃったのかよ。結構、」
毒つきながらも紫蓮に近付き、紫蓮の肩に手を置いた。すると紫蓮はその手については何も言わず、祝が言うだろうことを先読みし先手を取る。
「『可愛い娘だったのに。』だろ。」
それを聞いた祝は眼を丸くしてから即座に笑い、紫蓮が言ったことに対し、小さく反論する。
「言い方がちょっと違うけど、まぁそういうこと。勿体ねー。」
いくら勿体無いと言っても祝が紫蓮同様、先程の娘(こ)に告白をされても、恐らく断っただろう。二人とも色恋に興味はない。
「そういうことに興味がないんでね。」
紫蓮の言葉がその事実を裏付けた。祝も紫蓮がそう言うことや思っていることを知っている。そのため、このような会話が平気な顔で出来るのだろう。
「知ってる。」
二人がそう言い笑い合うと、中庭の入口から声が聞こえた。
「あ、の!か、河村くん!」
その声に二人は笑いを止め、声のした方を見る。そこにいたのは、またもや同じ学年の女子生徒で赤面しつつ、祝のことを呼んでいる。その呼ばれた声に祝は昨日からの仕様で面白く反応した。
「ん?俺?何かにゃ?」
昨日も自分自身のことを〝ボクちゃん〟と呼称したり、おふざけのような言葉を放っていた。そのような言い方は祝のキャラではない。そのため、紫蓮は先程のことにも驚き、顔を顰める。
「お前、そんなキャラだったのか。」
紫蓮の問いに、祝は微笑みながら、
「こーゆーキャラになろうかと思って。」
と漏らす。それを聞いた紫蓮は少しだけ呆れるような顔をし、赤面している女子生徒に気を使い、祝の肩に手を置き、耳元で呟いた。
「…じゃ、先に行ってるぞ。」
紫蓮はそれだけ言うと祝の肩から手を放し、中庭を出て教室へと向かい歩く。紫蓮の言葉に祝は茶目っ気混じりに手を振りつつ返す。
「はいはーい。」
そしてそのまま女子生徒を見ては用件を促すのだ。用件など聞かなくとも判る。一週間のうちの数日をこの用件で満たすこともある。用件は分かっているが、最初から行く先を見てはいけない。
「で、何かな?」
祝は笑顔で、女子生徒を見る。その笑顔は先程紫蓮との間で話していた、今までの祝とはキャラ違いの笑顔だった。咋な作り笑い。そんな作り笑いを見ても、女子生徒の気持ちは高ぶるだけだ。
「あ、の!好きです!つ、付き合ってください!」
女子生徒は赤面しながらも祝を見て想いを告げた。
祝が告白を受ける回数は学校内でも秀でていて、紫蓮がいるためあまり知られていないが、紫蓮に次いで二番目だ。祝も紫蓮に負けず劣らずの容姿を持ち、学年次席の勉学も持つ。
人に好意を寄せられるのは紫蓮同様で、また、そんな女子生徒たちへの返事も紫蓮同様、全て断っている。
「ごめんね。今はそういうこと考えられないの。」
いつもとは違うキャラを作りながら、女子生徒の申し込みを困ったような苦笑でやんわりと断る。茶色の髪が困ったような苦笑とよく合う。そして、目の前の女子生徒には聞こえないくらい小さな声で、いつも通りのキャラを使い呟く。
「…紫蓮が一段落するまでは、な。」
「ただいまー。」
教室の扉を開けて、自分の席に座って読書をしている紫蓮に向けて帰還の挨拶をした。女子生徒の用件が済んだため教室に戻って来たのだが、戻って来た祝に紫蓮はただ一言、
「おかえり。」
とだけ返した。
祝はそのまま紫蓮の席の前に行き、昨日と同様に紫蓮の前の席に座る。そして紫蓮の机の方向に寝そべり、紫蓮の机を身体で占領する。その行動を先読みし、紫蓮は祝の身体をかわす。
「はー…何で皆、告白すんのかねー。」
呟いた言葉は自分の実体験から出た言葉で、告白された回数が多いことを示していた。
「断ったんだろ。人のこと言えないな。」
紫蓮も祝も、想いを告げられても応えられないから。と、今までに数知れずの乙女たちを泣かせてきた。今回の女子生徒も二人にとってはその中の一人でしかない。
「………紫蓮。」
自分の身体で紫蓮の机を占領していた祝が、ふと顔を上げて紫蓮を見た。その眼差しは先程のキャラ違いのふざけたものではなく、とても真剣なもの。その真剣な眼で祝は紫蓮に問う。
「冗談抜きで何かあったろ。」
その問いを聞いた紫蓮は不思議でならなかった。何故、祝だけ紫蓮の僅かな異変に気付くのか。
真剣な眼差しから眼を反らすのに時間がかかった。眼を反らすと同時に紫蓮は逆に問い返す。
「…何で、そう思、」
「紫蓮。」
紫蓮の言葉を先読みしていた祝は途中で言葉を遮った。
「他の奴等は誤魔化せても、俺は誤魔化せらんねーぞ。」
…誤魔化せない。
そう言われて紫蓮の心が揺れる。祝に全てを話してしまいたい。でもこの話をして祝に危害が加わるような結果になってはならない。紫蓮が何も言葉にしないのと同時に、紫蓮が頭の中で何かと闘っていることが分かった祝は静かに次の意を放つ。
「…別に、今話したくないならいいさ。」
それだけ言うと、紫蓮の席を占領していた身体を起こし、席を立つ。席を立った祝を見て、紫蓮は祝を呼び止める。
「河村。」
少しの沈黙の後に紫蓮は不思議を聞いてみた。
「………そんなに、様子違ったか…?」
いつも通り接しているつもりだった。それなのに、それを祝には気付かれてしまった。長年の付き合いだ。祝には分かってしまったのかもしれない。よく考えれば、紫蓮に近付くのも、近付くのを許されているのも祝だけだ。
それを恐る恐る聞くと、祝は微かに笑い、静かに、だが力強く言った。
「バレバレってくらいな。」
気付くのは俺くらいだろうけど。
そう思っていても、祝がそれを言葉に出すことはなかった。
「待て、南条紫蓮。」
放課後、いつものように紫蓮と祝が帰宅しているとき、後方から紫蓮を呼び止める声が聞こえた。その声に紫蓮と祝は足を止め、後ろを振り返った。振り返ると、そこには同じ制服を着た少年が一人立っている。少年の五十歩ほど後方には黒いベンツと複数の男たちの姿が見える。
「………誰…?」
その少年に心当たりがないらしく、紫蓮は長い沈黙の後にそう呟いた。すると隣にいた祝が素早く口を開いた。
「楠ヶ丘学園高学部二年B組十三番、浅草寺暁(せんそうじあかつき)。浅草寺財閥の御曹司。十五のときから大滝財閥の代表総取締役社長と張り合って自社の代表総取締役社長をやってるよ。」
楠ヶ丘学園とは紫蓮や祝も通う私立学校で、基本的には大企業の子息や令嬢など家の教育上、一般の公立学校に行かない者が通う学校だ。紫蓮も南条財閥の子息としてこの学校に通っている。また、紫蓮や財閥子息とは別の系統でこの学校に通っているのが祝だ。
祝だけではなく、特定の秀でたものを持っている者には通学資格が与えられる。だが、祝のように資格を持ち通っている者はごく稀でその資格が認可されることも極めて稀である。幼学部、小学部、中学部、高学部、全て合わせても資格が認可されているのは全体の一割程度。
祝はその僅かな一割の一人。記憶能力に秀でており、頭脳には数億もの情報が整理されている。そのため近辺では情報屋として有名だ。それだけの頭脳がありながらもメモ帳を常に持ち合わせており、それは所謂バックアップらしい。
そんな能力を持った情報屋と名高い祝には、これくらいの情報を何も見ずに話すくらい容易なことで、紫蓮もそんな祝との付き合いが長いため、それでこそ祝でそれが当たり前だと思っている。紫蓮はその情報を聞き、少し考え込み、記憶を探り出す。
「名前は聞いたことあるな。楠ヶ丘高学部二年って同級生か。それに…大滝財閥の代表総取締役社長っていうと…。」
楠ヶ丘学園は学部ごとに別れているため、会話の中では学部が優先され、学園名が略される場合が多い。
大滝財閥とは、今や日本の大企業、大財閥に名を馳せる一族であると同時に、いろいろなものを手がけている企業で芸能事務所や石油、自動車など、儲かるものを大々的に取り扱っている一流企業。その後を僅差で浅草寺が追いかけているという状態で、南条はその後になる。
だが、歴史で云えば一番古くからあるのは南条であり、紫蓮を現在の当主と数えれば相当なものなのに比べ、大滝も浅草寺も歴史は浅く南条には遠く及ばない。
そんな南条の直系の子息である紫蓮も、当然、一般知識として大滝と浅草寺のことは認識している。
記憶の中にあった情報を引き出す。
「…大滝星流(おおたきせいりゅう)、か。………大滝に浅草寺…。」
紫蓮が口にした名は浅草寺暁が張り合っている同い年の大滝財閥の代表総取締役社長の名だ。十五のときから大企業である大滝の代表総取締役社長をしていることは、当時業界にかなりの衝撃を与えた。それに続き浅草寺暁も浅草寺財閥の代表総取締役社長に就任した。
まだ子供と認識される年の者を代表にするなど、常識の範疇を越えていると話題になったものだ。
「どっちも南条と張り合える程の財閥さ。詳しく見てみると浅草寺より大滝の方が優れてる。南条は張り合いに参加してないみたいだけど、今のところ張り合っても大滝、浅草寺、南条と順位が付くだけだ。」
紫蓮は祝が言ったことを頭の中に入れ、脳内を模索する。
「それより、日本を代表する三大財閥の子息がみんな同い年とは…狙いすぎだろ。」
紫蓮の隣にいた祝が毒つく。
確かに、日本の上位三大財閥の子息が皆同い年なのは、企業の役員からすれば笑い事ではない。
三大財閥のうち、既に上位二位は後継者を直系の子息と決め、代表総取締役社長に就任させている。若年の子息に会社を担う重大な部位を任せるなど、そうそう出来るものではない。そのため、南条もその争いに便乗し、紫蓮を代表総取締役社長やそれ以外の上位役員に就けるのではないか、と考えているのだ。通常ならばまだ若い子息の前にワンクッション置くように年長の遠縁などを配置し、子息の経営者としての成長を待ってから重大な部位に就けるものだ。それならばそのワンクッションの間に、直系である一族の胸の内に入り、外部の者が会社の重要な部位を担うことも難しくはない。その隙も間も与えない上位財閥はそのことを先読みし、このような大胆な行動に出たともいえる。子息が皆(みな)同い年ということは上位の三大財閥が同じ手で来れば、為す術なしということになる。
「そういえば…葬儀に来ていたな。」
先程から何やら考え込んでいた紫蓮が急に口を開いた。
葬儀に来ていた。―――大滝と浅草寺が。
葬儀に、というのは四年前の両親の葬儀のことだろう。
各界の著名人だった紫蓮の両親の葬儀に同じ大企業の大滝と浅草寺が来てもおかしくはない。逆に言えば、来ない方がおかしい。
「…で、何の用だ。」
何故自分に会いに来たのか。用件があるならば、どんな用件なのか。
紫蓮は話を初めに戻す。
「浅草寺といえば利益を欲して手段を選ばないと聞いている。何か裏があるんだろ。」
浅草寺は対立している大滝と違い、何事にも手段を選ばないため、大滝よりも印象は劣る。この状況で紫蓮の元を訪れたのも、何か理由があってのことだろう。
紫蓮にそのことをつかれると、暁は少し顔を歪ませ嫌味や皮肉のように、掌を軽く合わせて拍手をした。
「ご名答。学年主席は伊達じゃないようだ。」
学年主席とは紫蓮のことを指しているが、この状況では本当に嫌味や皮肉のようにしか聞こえない。
紫蓮のことだからと、今まで極力口を挟んでいなかった祝も少々苛つく所があったのか、暁に向けて皮肉で返す。
「学年主席って、嫌味かよ。学年三位の浅草寺。」
それを聞いた暁はそれこそ嫌味だと言わんばかりに祝に食ってかかる。暁の目的は紫蓮のはずだが、余程その言われ方が気に入らなかったのだろう。紫蓮ではなく祝に敵意を向けている。
そして、目を細め言葉を吐き捨てるように放った。
「主席と次席がつるんでいる方が嫌味だろ。学年次席、情報屋で名を轟かせている河村祝。」
学年主席は紫蓮であり、その後に次ぐ次席にいるのは祝だ。そして三位の暁はその後ということになる。
暁は主席の紫蓮だけでは飽き足らず、次席である祝にまで喧嘩腰に当たる。自分より上にいる者への小さな抵抗なのだろうが、紫蓮も祝も根本的に相手にはしていないため、暁もこれ以上言っても無駄なことが分かっているだろう。その件をあたかも始めからなかったかのように流し、本題に入った。
「どうだ、南条紫蓮。南条と浅草寺、業務提携をして大滝を越えてみないか。」
浅草寺から南条への業務提携の申し入れ。浅草寺は余程大滝を越えたいのだろう。そうでなければ、このようなことを言っては来ない。大滝を越えるために手段を選ばないのなら、話は分かる。
「浅草寺と南条なら一夜で大滝を落とせる。」
不敵な笑みを浮かべ紫蓮を見ている暁に紫蓮は溜め息を吐き、暁を見据えてたった一言呟いた。
「…お断りだな。」
眼は遊びの眼ではなく、真剣な眼差し。
紫蓮が断りの返事を遊びや、いい加減な気持ちでしたのではないということだ。
紫蓮は暁の用件が南条の会社関係であることが分かったため、隣にいる祝に向けて先に行くように促した。
「河村、先に行ってろ。」
「はいはーい。」
紫蓮にそう言われると、祝はすぐに返事をし、少し笑いながら紫蓮と暁に背を向け、進むべき道を進む。
紫蓮は祝が歩いて行ったのを見届けると、暁に詳細を話した。
「悪いが、俺は南条の事業とは一切関わっていない。経営者にも、なる気はない。…他を当たってくれ。」
それだけ言うと、紫蓮は身体を翻し、暁には目も暮れず祝が歩いて行った道を歩き始める。暁は紫蓮の言っていることが本気であることも、浅草寺に良い印象を持っていないことも解っている。そのため、それ以上の詮索はせず、部下を連れてその場を後にした。
紫蓮は祝が歩いた道を行き、自宅へと帰ろうとしていた。
紫蓮が先に行けと言った祝は、事情を察し先にあの場を後にしたが、行き先が南条邸であることは変わらない。自宅に帰れば祝は紫蓮の部屋で大人しく紫蓮の帰りを待っているだろう。
そんな帰り道を歩いていると、紫蓮はふと立ち止まった。そして、妙な違和感がすることに気付く。誰かが紫蓮を見ている。だが、その誰かが判らない。その視線だけが判らない。
紫蓮は周りの変化や違和感に必要以上に敏感で、普段から周りのことは気を付けて見ている。視線を感じても、その視線の主が判らない。それはそうそうあることではない。嫌な予感を感じ取った紫蓮は、早々にその場を立ち去った。
紫蓮が視線に気付いたことを察知した為、視線を向けていた者はすぐさまその視線を違う方向へ向けた。向けたのはその者から見て丁度真後ろの位置。気配は消されていたが、長年の感覚で目的の人物がこの場に訪れたことを察知したのだ。
新しい視線の先にいるのは、黒髪に翠色の瞳をした比較的小柄な少年。
小柄と思うのは、その少年の年齢に似つかわしくないからだろう。年齢の割には少し華奢で、身長も低めだ。その少年は翠の瞳を、先程まで紫蓮に視線を向けていた者に向ける。そして、少年は口元を少し緩め、言葉を発した。
「久しぶりだな。飛乃(ひの)。」
少年は目の前の者を〝飛乃〟と呼び、久方ぶりの挨拶を交わした。
〝飛乃〟は少年と大して年の変わらないような少女で、今時珍しく立派な値の張りそうな着物に足袋と下駄を履き、手には小さめの巾着袋が握られている。腰まである長い黒髪の一部を頭の上で結い、その頭に簪を刺していた。
飛乃はゆっくりと身体を少年の方へ向け、身形を整えた上で少年の挨拶に答える。
「本当に久しいわね。翠月(すいげつ)。」
ゆっくり且つ、淡々と綺麗な物言いをする飛乃は少年のことを〝翠月〟と呼んだ。その独特の呼称からその名が少年の本名であるはずはないのだが、何らかの呼称として使われているのか、少年は嫌な顔一つせず、飛乃の挨拶を受けた。だが、飛乃はそう言った後、ふと何かを思い出したかのような顔をして少年を見た。着物ごと手を口元に持って行き、口元を隠す。
「あぁ…ここじゃ〝花山来夏(はなやまらいか)〟と呼んだ方がいいのかしら。」
少し楽しんでいるような、また面白がっているような、嘲笑ったような話し方。それを少年は何事もなかったかのようにあっさりと流す。
「どっちでもいいさ。」
少年にとって、〝翠月〟も〝花山来夏〟も自分を呼称するものであることは変わりなく、どちらでも構わないのだろう。呼称のことにはそれ以上触れることなく、少年、基(もとい)、来夏は自分の本題を進めた。
「どうだった?南条紫蓮は。」
来夏は飛乃がこの場所から密かに紫蓮の様子を伺っていたことを知っている。飛乃に紫蓮を見るように言ったのは来夏であり、来夏の申し出で飛乃がここまで足を運んだと言っても過言ではない。飛乃は来夏に問われたことを瞬時に理解し、核心をつく。
「…手強いわね。浅草寺暁の話に興味も示さなければ、深く関わりもしない。様々な要素を含め、あの大滝星流や浅草寺暁より優秀で聡明。あなたがここまで頓着するのも解かるわね。」
着物を揺らしながら手を動かし、髪の乱れを直す。紫蓮を思いの外強く絶賛した飛乃はその発言に責任を持っている。
紫蓮は大滝財閥代表総取締役社長である大滝星流より、浅草寺財閥代表総取締役社長である浅草寺暁よりも優秀で聡明である、と。
「浅草寺暁に南条紫蓮を取り込むように進言したのでしょう?それが裏目に出なければいいけど。」
暁に南条と業務提携をすることを進めたのは来夏であり、来夏は三大財閥の一つである暁に助言が出来るほどの位置にいるということが分かる。来夏は暁と同年代であり、割りと近い存在ではある。
来夏は意味もなく髪をかき上げ、少し苦笑しながら吐き捨てるように言葉を放った。
「大滝星流を今使うことは出来ない。」
この発言により、来夏と大滝星流とも何かしらの接点があることが分かる。来夏は三大財閥を手玉に取り、より利用しようと考えているのだろう。大滝星流も暁も共に来夏と交流を持つというのはどのようなメリットがあるのか。何にせよ、来夏の得体が知れないことに変わりはない。
飛乃は何処からか扇子を取り出し、口元を覆う。
「あの様子だと、何かしらの策が必要になるわ。」
来夏は腕を組み、何処か遠くを見ているような眼をしている。
「…だろうな。あいつはそんなに簡単な男じゃない。…四年前と何も変わってないしな。」
その言葉を聞いた飛乃は顔をしかめ、毒つく。
「四なんて不吉ね。…四年前、何かあったの?」
前半は毒ついたものの、後半は真剣に紫蓮との関係を問う。
「………あぁ。」
飛乃の問いを、来夏は長い沈黙の後に答えた。
それから、記憶の中を旅する。
血のように真っ赤な生地、暗闇のような黒い帯。
赤い生地の上には赤い蝶。そう、赤い蝶。
「赤い生地に赤い蝶の浴衣?」
少年が問いかけに疑問詞を投げかける。
***
この少年は親がおらず、現在莫大な財産と土地、そして屋敷を持っていて、その全てを一人で管理し生活している。少年の両親は訳あって家を空けた後、帰って来なかった。しばらくして家に届いたのは、両親の遺品と両親の知人だという者からの手紙だけ。その手紙の内容は両親の死の経緯を簡潔に書き出したメモ用紙が一枚だけだった。少年は両親の死に疑問を持ちながら、一人で大きな屋敷に住み、両親の死の原因と真相を調べている。
少年の姿形は、肩に触れないくらいの長さで保っている暗闇の中の漆黒のような黒い髪、身長百七十五センチ前後の痩せ型体系に、容姿は人並み以上で、異性に想いを告げられる回数も少なくない。昼休みがある週五日のうち多い時は四日の昼休みを告白という目的で奪われる。種類は直接や呼び出し、人伝(ひとづて)やラブレターと様々だが、少年は全て断っている。了承を貰えた娘(こ)は一人もいない。それでも告白の回数が減る事はない。逆に減るどころか増えているのだ。だが、告白の理由は容姿だけではない。容姿も去ることながら、そのルックスも眼を惹きつけるものがある。右耳だけにしている赤と黒の蝶のつがいのピアス。首に架けている銀の鎖の先には、ピアスと同じ赤と黒の蝶のつがいの付いたペンダント。左手の中指には同じ種類の指輪。この三つをセンス良く身に着けている。そして、それ以外に頭の良さも有名どころで、学校内で常に学年一位を保っている人物と言われれば、この少年を思い浮かべる他はない。独特の雰囲気を持つこの少年に興味を持つ者が多い。興味を持たない者がいない訳ではないが、その殆どが男子生徒であり。男子生徒にしても、少年の魅力に憧れ、慕う者たちがいれば、逆に妬みを持ち、目の敵にしようと思いつつ勝つ事が出来ずにいる者たちに分かれたりする。
この少年はそれほどすごい少年なのだ。
少年が今いるのは学校の教室。放課後のためか教室には、ほぼ誰もいない。いるのはこの少年とあとは先程教室に入ってきたもう一人だけ。
春の風に乗り桜の花びらが開いた窓から入り込み、教室の床に落ちた。
入学式やその他の行事も終え、新入生もやっと学校に馴染んできたという時期だろうか。皆(みな)、早々と部活に行き、新入生の勧誘や見学の用意に大忙しで、今、この教室に誰もいないのはそのせいもある。新入生を入れなければ、廃部にならざるを得ない部活があることも確かなのだ。だが、少年はそんなことはどうでもいい。何か部活に入っている訳でもなければ、新入生に知り合いがいる訳でもない。こういうことに無関心なだけだ。今、教室にいるのも単に暇だからいるだけで、対して意味はない。暇ならば宿題でもしようかと数学の教科書とノートを開き問題を解いている。眼に入るのは数学の数式と教室に居る自分以外の人物だけ。
茶髪の髪に学校指定の制服、左手には購買で買ったと思われる菓子パンが持たれている。先程用事を終えて教室に戻ってきた茶髪の少年は、自分の席の荷物を鞄に纏め、その鞄を持ち、少年が座る席の前の席を陣取る。すると、暇を持て余している少年に話しかけた。茶髪の少年はこの少年の親友である。
「お前さ、一日に約0.8回も告られてるのに彼女作んねーの?」
「…何だよ、その〝約0.8回〟って。」
目の前に来たかと思えば、そのまま頂けないことを言う親友に、少年は疑問を投げかける。
約0.8回というのは少年の一週間に告白される回数を平均したものであり、つまりは一日に一回には満たなくとも、少なからず告白されていることになる。この約0.8回という数字も貴重な昼休みを割いて出てきた数字だ。茶髪の少年はその事実を簡潔に少年に伝える。
「一日に告白されてる回数の平均がそれなんだよ。」
「は…?そんなの数えてたの、お前。」
簡潔に伝えると少年は少々呆れたような声と顔をし、よっぽど暇なんだな。と付け足した後、窓の外に広がる綺麗な桜に眼を向けた。
ある程度他愛のない話をして過ごしていると、突然少年が自分から言葉を出し、話を振ってきた。
「なぁ、そろそろ話してくれないか?」
桜に向けていた眼を親友に戻し、そして強くはっきりとした口調で言った。いきなりのことで眼を丸くするもう一人の少年を他所に、少年は更に言葉を続けた。
「お前の本題がそんなことじゃないことくらい分かってんだよ。」
「な、何を、」
惚(とぼ)けようとしている親友に対し、少年は鋭い眼で睨み付けた。すると、親友は参ったというかの如く溜め息を吐き、両手を挙げてただ一言、俺の負けだ。とだけ言い、菓子パンの最後の一口を口に運んだ。
「赤い生地に赤い蝶の浴衣?」
一度だけ文末に疑問部を付けて問いかけるように聞き返した。真っ赤な蝶の模ようの赤い浴衣なんて何処にでもあるのではないか。と思いながらも言葉にはせずその場は聞き流す。
「それに真っ黒な帯。」
真っ黒な帯。これも何処にでもあるのではないか。先程の問いかけに合わせて、同じような考えを頭の中に巡らせた。だが、自分に言うくらいなのだから、何か裏があっての事だろうと思い、冷静に次の言葉を出す。
「それがどうかしたのか?」
すると、この議題を持ちかけて来た親友は徐にポケットから飴を二つ出し、一つを目の前に居る少年に手渡し、もう一つは袋を開けて中身を自分の口に放り込んだ。少年は受け取った飴をそのまま制服のポケットに入れる。それを見届けた議題の少年は静かに口を開いた。
「…噂があるんだよ。」
その議題の少年は飴を食べながらもしっかりと前を見て、冷静に簡潔に述べる。
―――そう。目の前にいる少年に向かって。
「……噂…?」
少年は言われたことに対して顔を歪め、その単語を復唱し、再度確認のため語尾に疑問詞を付け、議題の少年に聞き返した。すると聞き返された議題の少年は
「あぁ、本当かどうかも分からない、ただの噂だ。正しい保証はない。」
聞き返されたことを肯定し、悪までも噂だという念を押す。
「で、どんな内容なんだ。お前の言う、その噂ってやつ。」
俺に言うくらいなんだから、ただの噂じゃねーんだろ。
少年はそう付け足して、議題の少年である親友を見た。議題の少年が信憑性のない噂を自分にするような男ではないということが分かっているからだ。すると議題の少年は眼を見開いた後、優しく笑い、分かってんじゃん。と言い、噂の続きを話す。
「なんでもその浴衣と帯はセットらしくて、二つを一緒にしないと効果がないらしい。」
「効果?恋占いの効果か?」
面白半分に鼻で笑う少年に対し、議題の少年はそれを咎めた。
話を進め、話に夢中になっている間にとっくに下校時刻は過ぎていて、見回りに来た担任教師に早く帰るようにと指導され、ここで話はお開きとなる。そのとき、少年は南条(なんじょう)、議題の少年は河村(かわむら)と呼ばれていた。下校時刻だからという理由で教室を出され、挙句の果てには校舎からも出されてしまい、学校に居られない以上、もう自宅に帰るしかないという結論に至ったため、二人共が帰宅することになった。
「じゃーな、紫蓮(しれん)。」
「あぁ、じゃーな。」
学校の敷地から出てしばらく歩き、角をいくつか曲がったとき、お互いに別れの挨拶を交わした。
〝紫蓮〟と呼ばれたのは黒髪の少年で、呼んだのは赤い蝶の浴衣の議題を出した茶髪の少年だった。〝紫蓮〟とは担任教師に南条と呼ばれていた少年の名前らしい。
別れの挨拶を交わした後、手で合図を送り、十字路を右へ歩いて行くのを見届けると、自分は歩いて来たときと同じように、十字路をそのまま前進した。紫蓮は先程まで教室で話していた話が気になっているのだ。担任教師が来てお開きになった話だが、話の内容は一通り聞き終えた後だったのだ。
議題の少年、河村祝(かわむらはじめ)からその〝噂〟の話を詳しく聞いた紫蓮は、そのことが頭から離れずに苦悩していた。その〝噂〟とは、赤い蝶の浴衣と黒い帯の噂で、オカルト系統の信じがたい内容だった。
ある一人の浴衣職人には愛する人がいた。互いが愛し合い、婚約までしていた。だが、その恋人が強盗の人質になり、連れ去られ殺された。後に死体となって発見された恋人は、全身が汚れ、とても痛々しい姿だった。恋人は強盗犯に性的暴行を受けていたのだという。このとき浴衣職人は怒り狂い、怒りながらも愛する人のために五日五晩をかけて浴衣と帯を作った。だが、浴衣職人はその浴衣と帯を作った後、間もなく死亡した。作った浴衣と帯はしっかりした桐の箱に入れられ、浴衣職人の側に綺麗に汚れる事なく置かれていた。浴衣職人が死んで、職人の作った作品は職人の親によって全て売られた。そして、その後日、赤い浴衣と帯を買った客が交通事故で亡くなった。その客が死んだ後、浴衣と帯は転々と居場所を変えていた。持ち主を死に至らしめる、呪いの浴衣と帯となって…。その浴衣と帯を手に入れたものは、着用未着用で多少の誤差はあるが、必ず一ヶ月以内に死亡しているという。それからしばらくして、浴衣と帯は別々に保管されるようになり、二つの所在は分からなくなったと云われている。
それが、最近になってこの近辺にあるのではないかという話になり、それが噂となった。その噂が何処まで真実かは分からないが、この噂があまりに広がったため、怖がる住民も少なからず居るらしく、紫蓮の学校でも、男女問わずその噂で持ち切りらしい。そして、紫蓮は親友で議題の少年でもある河村祝に一般生徒の知らない情報を、極秘扱いで聞かされた。
「…印?」
方程式を解いているシャーペンを持つ手を止め、ほんの少し間を置いて、ただ一言聞き返した。紫蓮のその一言を聞き終え、祝は紫蓮の解く問題を眺めつつ次の言葉を出す。
「ああ。その浴衣職人の作った作品には、全て同じ印が付いてるんだよ。」
その印は浴衣職人が自分の作品だと分かるように作った作品全てにつけたもので、何年も前の作品でも、いつ作られた作品でも、必ずどこかに印がついているという。
祝は紫蓮の筆箱からシャーペンを探り出し、問題を解く紫蓮のノートの余白部分に他愛もない落書きをする。
「どんなのなんだよ。その印ってやつ。」
紫蓮のこの言葉で止まっていた話を戻し、落書きをしていた祝が再び説明を始める。
「作品の裏地に自分のサインの刺繍の布を縫い付ける。」
たったそれだけのことなのか。と正直、唖然という感じの紫蓮だが、祝がそう言うのだからそうなのだろうと思い、それを受け止める。だが紫蓮は最後に一度だけ聞いた。
「それが印なのか?」
ただ一言そう言うと、祝は落書きを止め、シャーペンを机の上に置いた。そして真面目な表情で紫蓮を見て、またもや話を続ける。
「あぁ、それはその浴衣職人自家製のもので他人が真似て偽造することは、不可能に近い。いや、厳密に言えば不可能だ。」
不可能と言う祝に対し〝不可能〟と言い切れるのかと疑問に思う紫蓮は、次の瞬間、数式を見つつそれを言葉にした。
「そんなにすごい仕掛けでもしてるのか?」
この言葉に祝も少しながら反応した。腕を頭の後ろに持っていき、背伸びをするように腕の柔軟をする。そして紫蓮が待つ中、結論が入る次の言葉を出す。
「そうらしいな。俺も実物を見た事ねーから、なんとも言えねーけどさ。」
実物を見たことがない。その浴衣と帯ではなくとも、その職人の作った作品を見たことがないのだという。ならば、どうしてそのことを知っているのか。驚きを隠せない紫蓮だが、持っていたシャーペンを無造作にノートの上に置き、頬杖をつく。そして呆れながらもやっとのことで口から言葉を出した。
「……お前さ、どうやってその情報手に入れたの?」
〝極秘〟って言ってなかった?
そう付け足し、不思議そうな表情をした。その言葉に祝は柔軟を止め、机に腕を置き、机越しに紫蓮に近付く。
「何言ってるの。紫蓮チャン。俺の情報網を甘くみないでよ。」
と、言い左目を閉じ、右手ではピースをしていた。そして、机に置いたばかりの腕をもう机から放し、胸の前で腕を組み、今度は両目を閉じた。
「紫蓮チャンの知りたいことなら何でも調べてあげるよ。」
そう言った語尾には明らかにハートか、音符がついているだろう。この言葉に紫蓮はこいつに隠し事は出来ないと強く思い、胸に刻みつけた。まったく、行く末の見えぬ男だ。そうこうしているうちに、眼を開いた祝がいきなり言葉を出した。
「……なー紫蓮。」
あまりにも突然だったため、紫蓮には珍しく少し反応が遅れた。だが、それを感じない速度で答えた。
「…なんだよ。」
ぶっきら棒に答えた紫蓮に祝は自分を指差し、思いもよらぬ台詞を投げかける。
「俺のフルネーム言える?」
「………は?」
またしても、唐突な台詞に思わず漏れてしまった言葉。何を言っているのかと正直先が見えなくなった。紫蓮は冷静に記憶の中に入り、普段は使わない名前を探し出す。そして素早く見つけ、言葉にした。
「…河村祝…だろ?」
何を今更。と、正面を向いていた顔を横に向けた。視線の先は教室の外の咲き乱れる桜。すると、祝の口からまたもや、思いもよらぬ台詞が飛び出した。
「だって紫蓮、俺の名前呼ばないじゃん。」
俺は〝紫蓮〟って呼んでるぞ。
そう付け足し、紫蓮の横に向いた顔を無理矢理正面に向けた。
「名前呼ばねーって…呼んでるだろ。〝河村〟って。」
如何にも溜め息を吐くような雰囲気で言葉を出した紫蓮だが、そんな紫蓮に祝は食い付くように、次の言葉を口から飛ばす。
「だって紫蓮、昔は〝祝〟だったじゃんってこと。」
「そりゃ、かなり昔の話だな。」
昔は紫蓮も祝のことを名前で呼んでいたが、昔と違い、今の紫蓮は人と関わることをしなくなった。両親が家を出て、帰って来なかった頃からだろうか。いや、死んだことが分かったときかもしれない。そのため今、紫蓮に対等に扱われるのは、祝ただ一人である。
「別にどうでもいいだろ。俺が人をどう呼ぼうが。」
「えー!ボクちゃん悲しい~。」
紫蓮の言葉に祝は、からかうように、偽り風情の台詞を放った。その台詞に対し紫蓮は、何が〝ボクちゃん〟だ、アホ。とだけ返した。すると、祝はもー、乗ってもくれねーの。と、膨れっ面をする。
そんな他愛のない会話をしていると、紫蓮でも祝でもない第三者の声が聞こえた。それも、自分らの名を呼んで、こちらに近付いて来る。誰かと思えば、自分たちのクラスの担任教師だった。すると、その担任教師は驚いたようにこう言う。
「何をやってるんだ、お前らは。もう下校時刻だぞ。早く帰れ。」
それだけ言うと、担任教師は教室から立ち去った。気付けばもう下校時刻。正門を閉められる前に学校の敷地から出なくてはならない。紫蓮は急いで教科書とノート、それに筆箱などを鞄に入れ、祝は既に荷物が入っている鞄を持ち、教室を出ようとする。
教室には誰もいない。教室に周りにも誰もいない。いるのは教室の窓の外に静かに止まっていた、赤と黒の蝶が二匹いるだけだった。だが、二人は蝶の存在を知らない。そして、その二匹は紫蓮と祝が教室を出るのを確認した後、羽根を大きく広げ翻し、その場を後にした。そして何処かへ飛んで行く。
ここは誰も近寄らない廃墟。十年以上前に廃墟になってから、近所の誰も足を踏み入れない場所となってしまった。ただ、近所と言っても、人が住む民家はこの廃墟から少なくても一キロは離れている。この廃墟に変化が起ころうと、気付く者がいるはずもない。そして、その廃墟に二匹の赤と黒の蝶が入って行った。すると、二匹の蝶は一人の浴衣を着た少女の指に止まる。赤い浴衣に黒の帯を着けた少女だった。髪が長く、軽く腿を越えていて、その長い髪を結うこともなく、そのまま流し落としている。その少女はしばらく二匹の蝶を見つめてから蝶を放した。
「爺様。〝紫の蝶〟がこの浴衣の事知った。」
そう言った後、蝶に餌を与える。その最中に遠くの方から、低く潰れ、枯れた声が聞こえた。
「そうか、奴が知ったか。もうすぐだ。莎子(さこ)。」
枯れた声の主は少女を〝莎子〟と呼んだ。〝莎子〟と呼ばれた少女は何も言わず、ただ蝶に餌を与えているだけだった。
紫蓮が帰宅し、玄関の扉を開けると、玄関から年配の女性の声が聞こえた。
「お帰りなさいませ。紫蓮坊ちゃま。」
誰もいないはずの南条邸から、声が聞こえたことに少し驚いた紫蓮だが、納得がいく事柄を思い出し、安堵の表情が出た。そして言葉を出す。
「ただいま。そういえば今日からでしたね。」
声の主はこの家の使用人。現在では家政婦と呼ばれる者だ。今年で六十になり、南条家に仕えて早、五十年になる。名は千代(ちよ)。
生まれは戦後間もなくで生まれた頃にはすでに父は戦死しており、母は病に臥せていた。まだ幼い時分にその母も亡くし、母方の祖母に育てられていたが、その祖母も戦後ということと、年配だったということがたたり、千代が十になる前に死去した。
千代はその後、紫蓮から数え先々代の父、紫蓮の曾祖父に拾われ、十のうちから使用人として住み込みで南条家に雇われていた。当時、千代と同じ年頃だった先々代とは、家では子息と使用人、学び舎では友人として交流を深めていた。だが、所詮は友人。二人の仲が恋に発展することはなかった。互いが意識しなかったせいだろう。恋の対象に考えたことがなかったのだ。二人はいつまでも、何でも話せる友人だった。
そして、そんな千代も南条家の勧めで見合いをし、先方へ嫁いだ。だが、南条家の使用人を辞めるとは決して言わなかった。夫や舅、姑に反対されながらも、ここだけは譲れないと決して譲らなかったのだ。自分を拾ってくれた先々代の父に恩返しをしたい。と言い、嫁ぎながらも南条家に仕えていた。嫁いだ身としての弁えを知り、嫁ぎ先から毎日通いつめていた。以前は住み込みだったが、嫁いだのならば南条邸を出なければならない。だが、一度も弱音は吐かなかったし、その後何十年も南条邸に通っている。
そして、仕えてから今年で五十年。千代が知る中で紫蓮は三代目の〝坊ちゃん〟である。いや、紫蓮にはもう親はいない。紫蓮を当主として数えるならば、千代が仕えてきた中では四代目の〝当主〟で、別の意味の主人になる。
以前、ここから徒歩十分程の処に夫と二人で住んでいたのだが、先月夫が病魔に蝕まれ他界。いろいろあり、数週間ほど暇をもらっていた。紫蓮は家事炊事、共に人並みには出来るため、大して苦労はしないのだが、生まれる前から家に居た千代を、追い出そうとは思っておらず、調子が良くなればまた来てくれと言っていたのだ。
「今日からまた宜しくお願い致します。」
千代はそう言って紫蓮に向かい頭を下げた。すると紫蓮は少し慌てたように
「そんな、止めてください。」
と言い、千代の頭を上げさせる。頭を上げさせた紫蓮が玄関に上がり、スリッパに履き替えた後、自室に行こうと階段に足を向けたが、すぐその足を戻し、キッチンに向かおうとした千代を呼び止めた。その後、紫蓮が千代に言ったことは、千代にとって意外なものだった。
「また、この家に住み込んでもいいんですよ?」
嫁ぐ前みたいに。部屋ならいくらでもあります。
紫蓮は独り身になった千代にこう告げた。近くで、徒歩十分といえども、毎日通っている六十の千代には辛いものがある。紫蓮はそれを気遣って千代にそう言うと、千代は少し驚いたような顔をして笑った後、笑顔で言った。
「私独りで他に誰もいないとはいえ、私は嫁いだ身ですので、坊ちゃまのお気持ちだけ有難く頂戴致します。」
そう言い、千代は紫蓮の申し出を丁重に断わり、キッチンへと向う。紫蓮も階段を上がり、自室へと足を延ばした。
「莎子、どうした。」
珍しく笑っている莎子に枯れた声の主が声をかけた。笑っていると言っても、人には分からない程小さな笑みだった。すると声をかけられた莎子は静かにただ一言、
「…〝紫の蝶〟…殺してもいい…?」
と側にいた枯れた声の老爺に聞いた。すると老爺は微妙に笑いながら、
「あぁ、いいさ。〝紫の蝶〟が浴衣と帯の事を知ったのならな。」
と言い怪しい笑みを浮かべた。莎子は何が楽しいのか、珍しくその日だけは一日中笑っていた。
「南条紫蓮さま、…か…。」
自室のベッドの上で寝転がり、封筒を手にしながら一言呟いた。
紫蓮の手にあるのは一通の手紙。切手も消印もない手紙。
この手の手紙なら今までに数え切れないほど来ている。全てラブレターか果たし状という形で。この手紙も先程、千代が郵便受けに入っていたのだと紫蓮のところに持って来たものだ。
だか、今回の手紙は今までの手紙とは違った。切手も消印もない。そして、差出人の名前もない。今までと同じ手の手紙であれば必ず差出人の名前は書いてあるはずだ。本人が紫蓮に自分の名前を覚えてもらおうと必死だからだ。紫蓮は人と関わらないようにしているため、当然クラスの女子生徒とも話しはしない。紫蓮が覚えている女子生徒がいるかということ自体怪しいところだ。そして、今回のこの手紙。紫蓮は封を切る気にはなれなかった。普段の手紙も決して開けている訳ではないが、独特の雰囲気を持つこの手紙は何か嫌な予感がしたからだ。だが、心を決め、手紙の封を切った。すると中に入っていたのは一枚の手紙だった。正確には手紙しか入っていなかった。その手紙の内容を見て、紫蓮は言葉を失う。
お前の両親が死んだ本当の理由を知っている。
両親の死後送った手紙は嘘に過ぎん。
こちらがでっち上げたものだ。
最近呪いの赤い蝶の浴衣と黒い帯の事を知ったようだな。
そのことを忘れぬようにし、一週間後の金曜日、午後五時に街外れの元薬品会社に来い。
両親が死んだ理由の全てを教えよう。
老いぼれた黒い蝶
紫蓮はこれを見て瞬間的に頭を回転させる。以前自分のところに送られてきた手紙。両親の友人からとあったあの手紙。あの手紙が嘘。
だが、大して驚く事ではない。内容があまりにも信じがたい内容だったため、最初から信じてはいなかった。あの手紙は両親が亡くなって間もなく家に届いたもの。
紫蓮の両親は各界に名の知れた著名人だったため、式の弔問者は二千人を越すほどだった。だが、紫蓮はその誰にも両親の死の理由、手紙のことを話さなかった。〝何も知らない息子〟を演じ続けていたのだ。紫蓮のところに手紙が来たことも、誰にも何も話していない。そのため手紙のことを知っている者は誰もいないはずだ。だが、この手紙の差出人はそのことを知っている。ということは、前回の手紙の差出人と今回の手紙の差出人が同一人物だということになる。だが、それよりも紫蓮が気になったのは文章中に出てくる呪いの浴衣の部分である。何故この手紙の差出人、〝老いぼれた黒い蝶〟は浴衣の極秘事項を知っているのか。赤い〝蝶〟の浴衣、このことは極秘情報で紫蓮も祝に教えられ知ったことだ。祝が〝極秘〟と言ったのだ。このことを知っている者はごく少数の限られた者だけだろう。祝は学校一の情報屋で知らないことはないと言われる程の情報力を持っている。その祝が〝極秘〟だと言い切った情報だ。知っている者がそう何人も居るとは思えない。ならば何故この手紙の差出人はそのことを知っているのだろうか。それが最大の疑問だ。極秘情報であるにも関わらず、何故知っているのか…。
このことも一週間後の金曜日、あの場所に行けば分かるだろうか。それを信じて紫蓮は一週間後、指定の場所に行くことに決めた。自分が動き出さなければ何も始まらない。両親の死因を知るために、真実を知るために。そう誓ったあの日。その決意を無駄にしたくなくて。
そうこうしているうちに部屋の扉が三回鳴った。するとしばらくしてから千代の声が聞こえた。
「紫蓮坊ちゃま、お夕飯のご用意が出来ました。」
いろいろ考えているうちに夕食の用意が出来たらしく、そのため千代が呼びに来たのだ。すぐに行くと伝え、手紙を机の上に置き、部屋を出た。
夕食を食べ終わり、再び部屋に戻って来た紫蓮の頭の中は乱れきっていた。
何も考えられず、今日はもう寝ようと部屋のカーテンを閉め、風呂に行くつもりだった。だが、カーテンを閉めようと窓に向かった紫蓮の眼に映ったのは、紫蓮の身体の自由を奪う光景だった。
南条の敷地には入っていないが、黒く長い髪を結わず流し落とし、赤い浴衣に黒の帯をした少女が睨むように紫蓮を見つめていた。ただ無心に紫蓮を見つめていた。紫蓮にはその姿が赤い浴衣と黒の帯ということしか分からず、浴衣の柄が蝶であることには気付かなかった。だが、ただ純粋に紫蓮を見つめていることが分かった。身体の自由が利かなくなった紫蓮だが、何かを思い立ったように慌てて部屋を出て、家を出た。
すると、そこにいたはずの少女はそこにはいなかった。必死で辺りを見回すと急いで走り去って行くあの少女が目に入る。紫蓮は急いで少女を追いかけ走る。ある程度まで来ると少女は突然走るのを止め、立ち止まった。それにつられ紫蓮も走るのを止め、立ち止まる。
少女と紫蓮の間には一定の距離が出来た。紫蓮は自分が何故この少女を追って来たのか疑問に思っていた。少女が追って来いと言った訳でもなければ、誰かに追えと言われた訳でもない。自分の意思で少女を追って来たはずなのに、そのこと自体が不思議でならなかった。顔見知りという訳でも、知り合いという訳でもない。今日初めて会った初対面の少女なのだが、追わずにはいられなかった。
やはり自分の意思ではない。何故か気付いたら追いかけていた。ただそれだけの話のはずなのだが、それが不思議で仕方がないのだ。すると立ち止まった少女は紫蓮の方を向き、静かにただ一言呟いた。
「〝紫の蝶〟…見つけた。」
そう告げた後、浴衣に袖を通した手を口元に持って行き少しだけ笑い、紫蓮を見つめていた。そして再び口を開いた少女が言ったことは、紫蓮にとって予想もしていない言葉だった。
「〝紫の蝶〟…南条紫蓮………殺す。」
この言葉に紫蓮は驚きを隠せなかった。
〝殺す〟…今の若者はすぐにこの言葉を発する。そんな気など、力など、勇気など持っていないくせに、面白半分で日常的に口にする。
だが、この少女は違った。この少女は眼に偽りがなかった。すごく冷たい眼をしていて、本当に躊躇いもなく人を殺すような、そんなただならぬ眼をしていた。
そして、この場に来て分かったこと。少女の着ている浴衣と帯があの噂の浴衣と帯と酷似しているということ。浴衣の色は赤。赤い生地に〝蝶〟の柄。
そんな少女に紫蓮は問う。
「君は…何者なんだ…?」
何故自分を殺すというのか。何故家の前にいたのか。その他にも聞きたいことはある。だが、言葉が出て来なかった。言葉を出さなければ何も始まらない。そう思いながらも、言葉を出せない。そんな状態が続いた。
あれから、どれくらい経っただろうか。見つめ合ったまま、沈黙が流れ、時刻(とき)が流れた。しばらくして口を開いたのは、少女ではなく紫蓮の方だった。
「君は何者なんだ…?」
放った言葉は沈黙になる前にも一度言った言葉。先程少女はこの問いに答えてはくれなかった。だが、ずっとこのままでいても埒が明かない。そう思い、少しでも前進するために言葉を出したのだ。また答えてくれないかもしれない。だが、少女が答えてくれることを一縷の望みにかけて願ってみる。すると少女は紫蓮の問いに答えた。
「あたしは…蝶。」
少女の返答に紫蓮はもどかしくなる。どうしようも出来ない感覚が迫って来る。
〝蝶〟…また出てきた。何なんだ、〝蝶〟って!!一体何なんだ!!
そう思う紫蓮の心が謎を乱していく。謎は深まるばかりだ。その謎を解く事が出来るだろうか。自分が、両親が関係しているのなら、尚更知りたい。知らなければならいない。そう思っている間に少女から次の言葉が出た。
「赤い、赤い、…血まみれの蝶。」
少女が前言を発してから三秒も経っていないはずだ。紫蓮の中であれだけのことが巡っていたのにも関わらず。紫蓮は冷静になるよう自分に言い聞かせ、静かに言葉を出した。この状況に、いつもは出ない冷や汗が出るような感覚がする。
「君の名前は…?」
その問いに少女は答えるだろうか。そう思っているうちに少女の口が動くのが分かった。だが、少女の口から出たのは、やはり少女の名ではなかった。
「…赤い蝶。」
これが少女の名前の訳がない。必ず本当の名前があるはずだ。痺れを切らしそうな、何とも言えない感覚だった。冷静に、だが、真剣に少女と向き合った。
「違う。君の本当の名前だ。」
そう放った後、少女は紫蓮が真剣に言ったことが分かったのか、紫蓮から視線を逸らし、横を向いて俯いた。そして、消えるような小さな声で何かを呟く。
「……………さ、こ………。」
少女の小さい声が紫蓮に届いただろうか。少女の声はそれほど小さかった。周りで誰かが一声叫べば消えてしまいそうな程。だが、紫蓮にはしっかりと聞こえていた。少女の小さな声が。
「…さこ?」
紫蓮が確認を取ると、少女は小さく頷いた。今までとは違う少女の姿を見て、紫蓮は少し気分が変わる。少女に向けて笑いかけていた。笑いかけていたのだ、あの紫蓮が。この場に祝がいれば、奇跡が起きたなどと言うだろう。それほど紫蓮が笑いかけることは珍しすぎることだ。
珍しいといえば少女に対する呼び方もそうだ。いつも紫蓮はクラスの女子生徒を呼ぶ時も〝あんた〟と呼ぶ。だが、この少女に対しては違う。〝あんた〟ではなく〝君〟を使っている。これもかなり珍しいことだ。いや、初の出来事ではないのだろうか。紫蓮が女を呼ぶこと自体珍しいことだが、寧ろ、珍しいを通り越している。
紫蓮は少女の名前が〝さこ〟だと分かると再度微笑し、少女に訊ねた。
「漢字は?どう書くの?」
この問いと紫蓮の反応に、少女は眼を丸くして驚いたような顔をしている。紫蓮がそう言うとは思っていなかったのだろう。
少女は長い髪を持つことも結うこともせず、ゆっくりとしゃがみ込み、少し大きめの石を持ち、地面に何か書き始めた。長い髪が地面につく。だが、それを嫌がらない少女。こんなに髪を長くしているのに、髪に対するプライドがないようだ。そして、しばらくしてから少女が書いたものを見てみると〝莎子〟と書いてあった。紫蓮がそれを読む。
「莎子。」
これで〝さこ〟って読むんだ。と付け足し、また莎子に向けて笑いかけた。すると紫蓮は莎子同様にしゃがみ、近くにあった手頃な石を持ち、何かを書き始めた。書いたものは、
―――〝紫蓮〟だった。地面に自分の名前である〝紫蓮〟を書いた。
「俺は紫蓮っていうんだ。」
莎子は先程、紫蓮の本名をフルネームで言った。紫蓮は莎子が自分の名前を知っているのを分かっていて、莎子に名前を言ったのだ。紫蓮がそう言うと、莎子は紫蓮を見つめ、唇を動かした。
「違う。お前は〝シレン〟じゃない。」
莎子は〝紫蓮〟を〝シレン〟と発音した。だが紫蓮はそんなことはどうでもよかった。ただ言われたことの意味が理解出来なかった。自分の名は〝南条紫蓮〟で〝シレン〟で違いないのに。
紫蓮が不思議そうな顔をすると、莎子はそんな紫蓮に気付いたのか、理由を述べた。
「お前は〝紫の蝶〟だ。」
…―――〝紫の蝶〟…また出て来た。〝蝶〟…。
莎子に〝紫の蝶〟と言われる理由は分からないが、意味は分かる。莎子は最初、自分のことを〝赤い蝶〟と言った。何故〝赤〟なのか詳しいことは分からないが、自分が〝紫〟なのは分かる。自分が〝紫蓮〟だからだ。紫蓮だから〝紫〟なのだ。
だが、紫蓮は蝶ではない。人でちゃんとした名前がある。その意味を込めて、紫蓮は莎子に言った。
「俺は〝蝶〟じゃない。紫蓮だ。紫蓮。」
紫蓮は莎子にそう言い聞かせた。すると莎子は
「蝶だろうがシレンだろうが、どうでもいい。」
そう淡々と放つ。これ以上名前のことで言い合っていても仕方がない。それに紫蓮は自分が人に何と呼ばれようと気にはしない。だが、ここで会話が途切れる訳にはいかない。聞きたいことはまだある。紫蓮はそれを聞き出すために質問を繰り返す。
「君の年は?いくつ?」
「……お前と同じ…。」
「学校は?どこの学校?」
「……行ってない…。行く必要もない。」
「怪我は?大きな怪我をしたことは?ほら、階段から落ちるとか。」
「……ない。お前じゃないんだ。たかが三才でも階段から落ちることはしない。」
「家は?どこら辺?」
「……街外れ…。」
「家族は?何人家族?」
「………家族なんかいない…!」
その質問で、莎子は声を張り上げ、立ち上がった。
聞いていて、分かったこと…。莎子は独りだってこと。それと、同じ形式で質問を繰り返した結果、莎子はどの質問にも敏感に反応した。そして、どの質問の答えも口から出るのに時間が掛かったこと。莎子の様子を見れば、学校に行っていないことは一発で分かった。何よりもあの長い髪が物語っている。腿に行くまで髪を伸ばす子はそうそういるものではない。それに加え、あの髪には結った後がない。学校に通っているなら髪を結わなければならない。腿まであるなら尚更だ。どこの学校の校則でも禁じられているはず。
紫蓮は一目見ただけで相手の癖や特徴を認識する。これは幼き頃からの習慣がものをいう。そのため、人の第一印象や素振りで人間性を見分ける事も少なくはない。だが、流石の紫蓮も年が自分と同じくらいということしか分からなかった。何しろ、今は夜。街灯はあるものの、肉眼では足元しか見えないと言う方が正しい。先程地面に書いた名前もやっと見えたくらいだ。それに莎子の長い髪で顔はよく見えない。そのためか姿形で判断するしかなかったのだ。だが、予想通り、自分と同じ年だったとは。そして、分かったことで一番重要なこと…。
自分のデータが流れていること。
紫蓮は莎子との面識はない。だが、莎子が紫蓮のことを知っているということは調べたということだ。紫蓮は学校内では指折りの有名人。知らない者などいないという程だが、莎子は紫蓮の学校の生徒ではない。勿論学校外で紫蓮を知っている者はいるだろうが、学校外の人間で紫蓮の正確な情報を得るならば、それ相当の探りを入れなければ不可能だ。紫蓮が三才のとき階段から落ちたということは余程調べないと知ることは出来ない。いや厳密にいうと不可能に近い。このことを知っているのは両親と昔からの親友である祝、そして、現在の紫蓮の保護者だけだ。だが、紫蓮の現在の保護者は一般人が知れるものでもなく、情報を得るのはやはり不可能。そして、祝が紫蓮に黙って誰かに情報を漏らすことは、ほぼ百パーセントない。祝はかなりの情報屋で一般人が知らないこと、知る事の出来ないことを自慢の情報網を使って得ている。だが、無償で誰かに情報を渡すような奴ではない。況してや、それが紫蓮の情報ならば尚更だ。紫蓮の情報はたとえ有償であっても教えることはない。ということは、これらのことを含まえ考えると、莎子のこの情報は紫蓮の保護者でも祝ではない誰かから得たということになる。すると、益々分からなくなる。この情報を知る者など他にいないはずなのに、紫蓮の情報を誰かが漏らしているのだ。その誰かが誰なのか分からない。紫蓮のこんなことを知っている人物が他にいるのだろうか。
いくら考えても分からない紫蓮は、今、目の前にある現実に向き合った。何かを決心し、しゃがんでいた状態から立ち上がった。そして一言。
「じゃあ、最後の質問。」
―――〝最後〟…。紫蓮はそう割り切った。質問の内容は決まっていた。…迷うことなく。
一方の莎子は〝最後〟というのに苛立ちを覚えていた。自分は〝南条紫蓮〟というモノを、いや、〝紫の蝶〟というモノを殺しに来たのだ。質問に答えるために来たのではない。その気持ちがとても強かった。莎子は紫蓮の発言の後、すぐに口を開いた。
「あたしは質問に答えに来たんじゃない。」
お前を殺しに来たんだ。
そう放ち、紫蓮を力いっぱい睨み付けた。だが、只の睨みが紫蓮に利くはずない。紫蓮はその睨みを軽く流し、最後の質問を口にした。
「君と〝老いぼれた黒い蝶〟との関係は?」
これこそが紫蓮が莎子に本当に聞きたかったこと。
莎子が〝蝶〟を仄めかした時、紫蓮は確信を持った。莎子が赤、手紙の主が黒。紫蓮を取り巻く、赤と黒の蝶。赤い蝶と黒い蝶に関係があることは明白だ。だが、これは悪までも紫蓮の推測の域を出ない。更なる完璧な確信が欲しかったのだ。そのため、莎子に問う。そして莎子から返って来た答えは紫蓮にとって意外なものだった。
「〝老いぼれた黒い蝶〟…?…爺様のことか?」
〝爺様〟…。
莎子の言う人物が誰かは分からなかったが、その〝爺様〟という者が〝老いぼれた黒い蝶〟だということが分かった。これは紫蓮の勘だ。素振り、口調、視線の向きを見て分かる。莎子は問うように言ったが、紫蓮にはそれが確信になったのだ。莎子は嘘を吐き慣れていない。それは紫蓮が行った先程の質問でも立証されている。ということは莎子と〝老いぼれた黒い蝶〟には何かしらの接点があるということ。それだけ分かれば充分だった。あとは指定の日、指定の時間に指定の場所に行くだけ。紫蓮はこれ以上聞くことはないというかのように莎子にただ一言
「ありがとう。」
と告げ、自宅に帰ろうとした。だが、莎子はそれを許してくれなかった。紫蓮が踵(きびす)を翻したと同時に莎子は紫蓮を名ではない別の呼称で呼び止めた。
「待て!紫の蝶!」
紫蓮が振り向く前に莎子はどこからかナイフを取り出し、紫蓮の顔目掛け投げ付けた。紫蓮は振り返り自分に向かって来たナイフの刃先を躊躇いもなく指で挟み、掴み取るとその場に落とす。そして面倒臭そうに聞き返す。
「何?」
聞き返された莎子は紫蓮を睨み付け、叫び散らすように言い放った。
「言っただろう!お前を殺すと!」
莎子は声を必要以上に張り上る。
そう、確かに莎子は最初にそう言っていた。〝殺す〟と。莎子は紫蓮を殺しに来たのだ。莎子の言葉が本気なのは分かる。だが、紫蓮があっさり殺される訳がない。
「今の君じゃ、俺を殺せないよ。」
君の覚悟は認めるけど。
こう付け足した紫蓮は自宅の方を向き直し、迷うことなく足を進める。すると思い出したように足を止め、再度振り返り莎子に向けてこう言った。
「それと、俺の名前は〝紫蓮〟だ。紫の蝶じゃない。よく覚えとけ。」
莎子に向けてそう告げた紫蓮は、莎子を追って来た道を引き返して行った。さらに紫蓮は、今度は振り向かず右手を挙げて莎子に語りかける。
「一週間後の金曜日、五時に元薬品会社。楽しみにしてるよ。」
そして、莎子の視界から消えた。一方、獲物を逃がした莎子は紫蓮が見えなくなった少し後、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いていた。
「絶対、あたしの手で殺してやる…。」
拳を握り締め、強い口調で莎子はこの後、何度も何度も同じことを言う。
自分が紫蓮に負けたと思いたくない。〝老いぼれた黒い蝶〟は一週間後、紫蓮を手紙で呼び出しているが莎子が紫蓮を殺しに行くことは許した。それくらいで死ぬような奴ならば自分たちにとって願ったり叶ったりだと言うかのように。だが、莎子は紫蓮を殺せなかった。殺すつもりで逢いに来たのに、殺せなかったのだ。ナイフまで持って来たのに。
「次に逢った時は絶対、殺してやる…!」
莎子のこの呟きが暗く静かな夜の街に響き渡ることはなかった。
自宅に戻った紫蓮を迎えたのは千代だった。
いつもなら千代はもう自宅に帰っている時間だが、紫蓮が何も言わず家を飛び出したので心配で南条邸を離れることが出来なかったのだ。
紫蓮が玄関の扉を開け、中に入ると千代が大慌てで玄関にやって来た。そして紫蓮を見るなり素早く質問攻めにする。
「坊ちゃま、大丈夫ですか?お怪我はありませんか?一体どうしたんです?」
心配そうに見る千代に紫蓮は
「大丈夫ですよ。心配をかけてすみません。…ただいま。」
と笑顔を向けた。すると千代は慌てて頭を下げながら
「申し訳ございません、紫蓮坊ちゃま。お帰りなさいませ。」
と挨拶をする。
千代の行動に紫蓮は、そんなに改まらなくても。と言い、階段に足を向け、自室へと足を延ばした。
紫蓮の住むこの南条邸は戦後、先々代の父の、紫蓮の曾祖父の代に造られた。丁度、先々代が千代を拾った年に造り、出来上がったのだ。この家の特徴は、基本形は和風ながらも二階建て仕様で階段があるということ。戦争は終わったのだ。異国との交流も盛んになるであろう。一足先に取り入れるのも悪くはない。という曾祖父の意思だった。今でこそ二階建てが珍しくない世の中だが、戦争最中(さなか)のこの時代には一戸建てであっても一階建てが主流で二階建ての一般の家などないも同然だった。その中で当時の当主、紫蓮の曾祖父がこの場に家を建て、ここで暮らしていたのだ。大きさは普通の一般家庭と同じ大きさで、莫大な財産を持っているとは思えない大きさだが、紫蓮もそのことを知ってか古いこの家に住んでいる。築五十年と歴史のある家で、南条の所有する数ある家の中で一番小さく古い家だが、住めなくなるまでこの家に住もうという紫蓮の意思により、今も尚、曾祖父が建て、千代が育った当時の南条邸のままだ。以前、千代の部屋だった奥の部屋も未だに残っている。千代もそんな南条邸に愛着があるのだろう。
紫蓮は自室に戻った後、今までのことを思い出していた。自分を殺しに来たという莎子という少女のことを。何故自分を殺すというのか、紫蓮にはその理由が分からなかった。今まで面識があった訳ではない。告白を断った逆恨みという線が一番高かったが、それもないことが判明した。〝莎子〟は学校に通っていないと言った。嘘かもしれないと思うところだが、まずそれはない。あの娘は嘘を吐くことを知らない。身体全体の雰囲気で、瞳で、それが判った。あの瞳は、嘘を吐いたことのない、そんな瞳だった。あの娘が何者かは判らないが、その答えも一週間後の金曜日に分かるだろう。
待つのは一週間後の金曜日。
赤い生地の上には赤い蝶。そう、赤い蝶。
「赤い生地に赤い蝶の浴衣?」
少年が問いかけに疑問詞を投げかける。
***
この少年は親がおらず、現在莫大な財産と土地、そして屋敷を持っていて、その全てを一人で管理し生活している。少年の両親は訳あって家を空けた後、帰って来なかった。しばらくして家に届いたのは、両親の遺品と両親の知人だという者からの手紙だけ。その手紙の内容は両親の死の経緯を簡潔に書き出したメモ用紙が一枚だけだった。少年は両親の死に疑問を持ちながら、一人で大きな屋敷に住み、両親の死の原因と真相を調べている。
少年の姿形は、肩に触れないくらいの長さで保っている暗闇の中の漆黒のような黒い髪、身長百七十五センチ前後の痩せ型体系に、容姿は人並み以上で、異性に想いを告げられる回数も少なくない。昼休みがある週五日のうち多い時は四日の昼休みを告白という目的で奪われる。種類は直接や呼び出し、人伝(ひとづて)やラブレターと様々だが、少年は全て断っている。了承を貰えた娘(こ)は一人もいない。それでも告白の回数が減る事はない。逆に減るどころか増えているのだ。だが、告白の理由は容姿だけではない。容姿も去ることながら、そのルックスも眼を惹きつけるものがある。右耳だけにしている赤と黒の蝶のつがいのピアス。首に架けている銀の鎖の先には、ピアスと同じ赤と黒の蝶のつがいの付いたペンダント。左手の中指には同じ種類の指輪。この三つをセンス良く身に着けている。そして、それ以外に頭の良さも有名どころで、学校内で常に学年一位を保っている人物と言われれば、この少年を思い浮かべる他はない。独特の雰囲気を持つこの少年に興味を持つ者が多い。興味を持たない者がいない訳ではないが、その殆どが男子生徒であり。男子生徒にしても、少年の魅力に憧れ、慕う者たちがいれば、逆に妬みを持ち、目の敵にしようと思いつつ勝つ事が出来ずにいる者たちに分かれたりする。
この少年はそれほどすごい少年なのだ。
少年が今いるのは学校の教室。放課後のためか教室には、ほぼ誰もいない。いるのはこの少年とあとは先程教室に入ってきたもう一人だけ。
春の風に乗り桜の花びらが開いた窓から入り込み、教室の床に落ちた。
入学式やその他の行事も終え、新入生もやっと学校に馴染んできたという時期だろうか。皆(みな)、早々と部活に行き、新入生の勧誘や見学の用意に大忙しで、今、この教室に誰もいないのはそのせいもある。新入生を入れなければ、廃部にならざるを得ない部活があることも確かなのだ。だが、少年はそんなことはどうでもいい。何か部活に入っている訳でもなければ、新入生に知り合いがいる訳でもない。こういうことに無関心なだけだ。今、教室にいるのも単に暇だからいるだけで、対して意味はない。暇ならば宿題でもしようかと数学の教科書とノートを開き問題を解いている。眼に入るのは数学の数式と教室に居る自分以外の人物だけ。
茶髪の髪に学校指定の制服、左手には購買で買ったと思われる菓子パンが持たれている。先程用事を終えて教室に戻ってきた茶髪の少年は、自分の席の荷物を鞄に纏め、その鞄を持ち、少年が座る席の前の席を陣取る。すると、暇を持て余している少年に話しかけた。茶髪の少年はこの少年の親友である。
「お前さ、一日に約0.8回も告られてるのに彼女作んねーの?」
「…何だよ、その〝約0.8回〟って。」
目の前に来たかと思えば、そのまま頂けないことを言う親友に、少年は疑問を投げかける。
約0.8回というのは少年の一週間に告白される回数を平均したものであり、つまりは一日に一回には満たなくとも、少なからず告白されていることになる。この約0.8回という数字も貴重な昼休みを割いて出てきた数字だ。茶髪の少年はその事実を簡潔に少年に伝える。
「一日に告白されてる回数の平均がそれなんだよ。」
「は…?そんなの数えてたの、お前。」
簡潔に伝えると少年は少々呆れたような声と顔をし、よっぽど暇なんだな。と付け足した後、窓の外に広がる綺麗な桜に眼を向けた。
ある程度他愛のない話をして過ごしていると、突然少年が自分から言葉を出し、話を振ってきた。
「なぁ、そろそろ話してくれないか?」
桜に向けていた眼を親友に戻し、そして強くはっきりとした口調で言った。いきなりのことで眼を丸くするもう一人の少年を他所に、少年は更に言葉を続けた。
「お前の本題がそんなことじゃないことくらい分かってんだよ。」
「な、何を、」
惚(とぼ)けようとしている親友に対し、少年は鋭い眼で睨み付けた。すると、親友は参ったというかの如く溜め息を吐き、両手を挙げてただ一言、俺の負けだ。とだけ言い、菓子パンの最後の一口を口に運んだ。
「赤い生地に赤い蝶の浴衣?」
一度だけ文末に疑問部を付けて問いかけるように聞き返した。真っ赤な蝶の模ようの赤い浴衣なんて何処にでもあるのではないか。と思いながらも言葉にはせずその場は聞き流す。
「それに真っ黒な帯。」
真っ黒な帯。これも何処にでもあるのではないか。先程の問いかけに合わせて、同じような考えを頭の中に巡らせた。だが、自分に言うくらいなのだから、何か裏があっての事だろうと思い、冷静に次の言葉を出す。
「それがどうかしたのか?」
すると、この議題を持ちかけて来た親友は徐にポケットから飴を二つ出し、一つを目の前に居る少年に手渡し、もう一つは袋を開けて中身を自分の口に放り込んだ。少年は受け取った飴をそのまま制服のポケットに入れる。それを見届けた議題の少年は静かに口を開いた。
「…噂があるんだよ。」
その議題の少年は飴を食べながらもしっかりと前を見て、冷静に簡潔に述べる。
―――そう。目の前にいる少年に向かって。
「……噂…?」
少年は言われたことに対して顔を歪め、その単語を復唱し、再度確認のため語尾に疑問詞を付け、議題の少年に聞き返した。すると聞き返された議題の少年は
「あぁ、本当かどうかも分からない、ただの噂だ。正しい保証はない。」
聞き返されたことを肯定し、悪までも噂だという念を押す。
「で、どんな内容なんだ。お前の言う、その噂ってやつ。」
俺に言うくらいなんだから、ただの噂じゃねーんだろ。
少年はそう付け足して、議題の少年である親友を見た。議題の少年が信憑性のない噂を自分にするような男ではないということが分かっているからだ。すると議題の少年は眼を見開いた後、優しく笑い、分かってんじゃん。と言い、噂の続きを話す。
「なんでもその浴衣と帯はセットらしくて、二つを一緒にしないと効果がないらしい。」
「効果?恋占いの効果か?」
面白半分に鼻で笑う少年に対し、議題の少年はそれを咎めた。
話を進め、話に夢中になっている間にとっくに下校時刻は過ぎていて、見回りに来た担任教師に早く帰るようにと指導され、ここで話はお開きとなる。そのとき、少年は南条(なんじょう)、議題の少年は河村(かわむら)と呼ばれていた。下校時刻だからという理由で教室を出され、挙句の果てには校舎からも出されてしまい、学校に居られない以上、もう自宅に帰るしかないという結論に至ったため、二人共が帰宅することになった。
「じゃーな、紫蓮(しれん)。」
「あぁ、じゃーな。」
学校の敷地から出てしばらく歩き、角をいくつか曲がったとき、お互いに別れの挨拶を交わした。
〝紫蓮〟と呼ばれたのは黒髪の少年で、呼んだのは赤い蝶の浴衣の議題を出した茶髪の少年だった。〝紫蓮〟とは担任教師に南条と呼ばれていた少年の名前らしい。
別れの挨拶を交わした後、手で合図を送り、十字路を右へ歩いて行くのを見届けると、自分は歩いて来たときと同じように、十字路をそのまま前進した。紫蓮は先程まで教室で話していた話が気になっているのだ。担任教師が来てお開きになった話だが、話の内容は一通り聞き終えた後だったのだ。
議題の少年、河村祝(かわむらはじめ)からその〝噂〟の話を詳しく聞いた紫蓮は、そのことが頭から離れずに苦悩していた。その〝噂〟とは、赤い蝶の浴衣と黒い帯の噂で、オカルト系統の信じがたい内容だった。
ある一人の浴衣職人には愛する人がいた。互いが愛し合い、婚約までしていた。だが、その恋人が強盗の人質になり、連れ去られ殺された。後に死体となって発見された恋人は、全身が汚れ、とても痛々しい姿だった。恋人は強盗犯に性的暴行を受けていたのだという。このとき浴衣職人は怒り狂い、怒りながらも愛する人のために五日五晩をかけて浴衣と帯を作った。だが、浴衣職人はその浴衣と帯を作った後、間もなく死亡した。作った浴衣と帯はしっかりした桐の箱に入れられ、浴衣職人の側に綺麗に汚れる事なく置かれていた。浴衣職人が死んで、職人の作った作品は職人の親によって全て売られた。そして、その後日、赤い浴衣と帯を買った客が交通事故で亡くなった。その客が死んだ後、浴衣と帯は転々と居場所を変えていた。持ち主を死に至らしめる、呪いの浴衣と帯となって…。その浴衣と帯を手に入れたものは、着用未着用で多少の誤差はあるが、必ず一ヶ月以内に死亡しているという。それからしばらくして、浴衣と帯は別々に保管されるようになり、二つの所在は分からなくなったと云われている。
それが、最近になってこの近辺にあるのではないかという話になり、それが噂となった。その噂が何処まで真実かは分からないが、この噂があまりに広がったため、怖がる住民も少なからず居るらしく、紫蓮の学校でも、男女問わずその噂で持ち切りらしい。そして、紫蓮は親友で議題の少年でもある河村祝に一般生徒の知らない情報を、極秘扱いで聞かされた。
「…印?」
方程式を解いているシャーペンを持つ手を止め、ほんの少し間を置いて、ただ一言聞き返した。紫蓮のその一言を聞き終え、祝は紫蓮の解く問題を眺めつつ次の言葉を出す。
「ああ。その浴衣職人の作った作品には、全て同じ印が付いてるんだよ。」
その印は浴衣職人が自分の作品だと分かるように作った作品全てにつけたもので、何年も前の作品でも、いつ作られた作品でも、必ずどこかに印がついているという。
祝は紫蓮の筆箱からシャーペンを探り出し、問題を解く紫蓮のノートの余白部分に他愛もない落書きをする。
「どんなのなんだよ。その印ってやつ。」
紫蓮のこの言葉で止まっていた話を戻し、落書きをしていた祝が再び説明を始める。
「作品の裏地に自分のサインの刺繍の布を縫い付ける。」
たったそれだけのことなのか。と正直、唖然という感じの紫蓮だが、祝がそう言うのだからそうなのだろうと思い、それを受け止める。だが紫蓮は最後に一度だけ聞いた。
「それが印なのか?」
ただ一言そう言うと、祝は落書きを止め、シャーペンを机の上に置いた。そして真面目な表情で紫蓮を見て、またもや話を続ける。
「あぁ、それはその浴衣職人自家製のもので他人が真似て偽造することは、不可能に近い。いや、厳密に言えば不可能だ。」
不可能と言う祝に対し〝不可能〟と言い切れるのかと疑問に思う紫蓮は、次の瞬間、数式を見つつそれを言葉にした。
「そんなにすごい仕掛けでもしてるのか?」
この言葉に祝も少しながら反応した。腕を頭の後ろに持っていき、背伸びをするように腕の柔軟をする。そして紫蓮が待つ中、結論が入る次の言葉を出す。
「そうらしいな。俺も実物を見た事ねーから、なんとも言えねーけどさ。」
実物を見たことがない。その浴衣と帯ではなくとも、その職人の作った作品を見たことがないのだという。ならば、どうしてそのことを知っているのか。驚きを隠せない紫蓮だが、持っていたシャーペンを無造作にノートの上に置き、頬杖をつく。そして呆れながらもやっとのことで口から言葉を出した。
「……お前さ、どうやってその情報手に入れたの?」
〝極秘〟って言ってなかった?
そう付け足し、不思議そうな表情をした。その言葉に祝は柔軟を止め、机に腕を置き、机越しに紫蓮に近付く。
「何言ってるの。紫蓮チャン。俺の情報網を甘くみないでよ。」
と、言い左目を閉じ、右手ではピースをしていた。そして、机に置いたばかりの腕をもう机から放し、胸の前で腕を組み、今度は両目を閉じた。
「紫蓮チャンの知りたいことなら何でも調べてあげるよ。」
そう言った語尾には明らかにハートか、音符がついているだろう。この言葉に紫蓮はこいつに隠し事は出来ないと強く思い、胸に刻みつけた。まったく、行く末の見えぬ男だ。そうこうしているうちに、眼を開いた祝がいきなり言葉を出した。
「……なー紫蓮。」
あまりにも突然だったため、紫蓮には珍しく少し反応が遅れた。だが、それを感じない速度で答えた。
「…なんだよ。」
ぶっきら棒に答えた紫蓮に祝は自分を指差し、思いもよらぬ台詞を投げかける。
「俺のフルネーム言える?」
「………は?」
またしても、唐突な台詞に思わず漏れてしまった言葉。何を言っているのかと正直先が見えなくなった。紫蓮は冷静に記憶の中に入り、普段は使わない名前を探し出す。そして素早く見つけ、言葉にした。
「…河村祝…だろ?」
何を今更。と、正面を向いていた顔を横に向けた。視線の先は教室の外の咲き乱れる桜。すると、祝の口からまたもや、思いもよらぬ台詞が飛び出した。
「だって紫蓮、俺の名前呼ばないじゃん。」
俺は〝紫蓮〟って呼んでるぞ。
そう付け足し、紫蓮の横に向いた顔を無理矢理正面に向けた。
「名前呼ばねーって…呼んでるだろ。〝河村〟って。」
如何にも溜め息を吐くような雰囲気で言葉を出した紫蓮だが、そんな紫蓮に祝は食い付くように、次の言葉を口から飛ばす。
「だって紫蓮、昔は〝祝〟だったじゃんってこと。」
「そりゃ、かなり昔の話だな。」
昔は紫蓮も祝のことを名前で呼んでいたが、昔と違い、今の紫蓮は人と関わることをしなくなった。両親が家を出て、帰って来なかった頃からだろうか。いや、死んだことが分かったときかもしれない。そのため今、紫蓮に対等に扱われるのは、祝ただ一人である。
「別にどうでもいいだろ。俺が人をどう呼ぼうが。」
「えー!ボクちゃん悲しい~。」
紫蓮の言葉に祝は、からかうように、偽り風情の台詞を放った。その台詞に対し紫蓮は、何が〝ボクちゃん〟だ、アホ。とだけ返した。すると、祝はもー、乗ってもくれねーの。と、膨れっ面をする。
そんな他愛のない会話をしていると、紫蓮でも祝でもない第三者の声が聞こえた。それも、自分らの名を呼んで、こちらに近付いて来る。誰かと思えば、自分たちのクラスの担任教師だった。すると、その担任教師は驚いたようにこう言う。
「何をやってるんだ、お前らは。もう下校時刻だぞ。早く帰れ。」
それだけ言うと、担任教師は教室から立ち去った。気付けばもう下校時刻。正門を閉められる前に学校の敷地から出なくてはならない。紫蓮は急いで教科書とノート、それに筆箱などを鞄に入れ、祝は既に荷物が入っている鞄を持ち、教室を出ようとする。
教室には誰もいない。教室に周りにも誰もいない。いるのは教室の窓の外に静かに止まっていた、赤と黒の蝶が二匹いるだけだった。だが、二人は蝶の存在を知らない。そして、その二匹は紫蓮と祝が教室を出るのを確認した後、羽根を大きく広げ翻し、その場を後にした。そして何処かへ飛んで行く。
ここは誰も近寄らない廃墟。十年以上前に廃墟になってから、近所の誰も足を踏み入れない場所となってしまった。ただ、近所と言っても、人が住む民家はこの廃墟から少なくても一キロは離れている。この廃墟に変化が起ころうと、気付く者がいるはずもない。そして、その廃墟に二匹の赤と黒の蝶が入って行った。すると、二匹の蝶は一人の浴衣を着た少女の指に止まる。赤い浴衣に黒の帯を着けた少女だった。髪が長く、軽く腿を越えていて、その長い髪を結うこともなく、そのまま流し落としている。その少女はしばらく二匹の蝶を見つめてから蝶を放した。
「爺様。〝紫の蝶〟がこの浴衣の事知った。」
そう言った後、蝶に餌を与える。その最中に遠くの方から、低く潰れ、枯れた声が聞こえた。
「そうか、奴が知ったか。もうすぐだ。莎子(さこ)。」
枯れた声の主は少女を〝莎子〟と呼んだ。〝莎子〟と呼ばれた少女は何も言わず、ただ蝶に餌を与えているだけだった。
紫蓮が帰宅し、玄関の扉を開けると、玄関から年配の女性の声が聞こえた。
「お帰りなさいませ。紫蓮坊ちゃま。」
誰もいないはずの南条邸から、声が聞こえたことに少し驚いた紫蓮だが、納得がいく事柄を思い出し、安堵の表情が出た。そして言葉を出す。
「ただいま。そういえば今日からでしたね。」
声の主はこの家の使用人。現在では家政婦と呼ばれる者だ。今年で六十になり、南条家に仕えて早、五十年になる。名は千代(ちよ)。
生まれは戦後間もなくで生まれた頃にはすでに父は戦死しており、母は病に臥せていた。まだ幼い時分にその母も亡くし、母方の祖母に育てられていたが、その祖母も戦後ということと、年配だったということがたたり、千代が十になる前に死去した。
千代はその後、紫蓮から数え先々代の父、紫蓮の曾祖父に拾われ、十のうちから使用人として住み込みで南条家に雇われていた。当時、千代と同じ年頃だった先々代とは、家では子息と使用人、学び舎では友人として交流を深めていた。だが、所詮は友人。二人の仲が恋に発展することはなかった。互いが意識しなかったせいだろう。恋の対象に考えたことがなかったのだ。二人はいつまでも、何でも話せる友人だった。
そして、そんな千代も南条家の勧めで見合いをし、先方へ嫁いだ。だが、南条家の使用人を辞めるとは決して言わなかった。夫や舅、姑に反対されながらも、ここだけは譲れないと決して譲らなかったのだ。自分を拾ってくれた先々代の父に恩返しをしたい。と言い、嫁ぎながらも南条家に仕えていた。嫁いだ身としての弁えを知り、嫁ぎ先から毎日通いつめていた。以前は住み込みだったが、嫁いだのならば南条邸を出なければならない。だが、一度も弱音は吐かなかったし、その後何十年も南条邸に通っている。
そして、仕えてから今年で五十年。千代が知る中で紫蓮は三代目の〝坊ちゃん〟である。いや、紫蓮にはもう親はいない。紫蓮を当主として数えるならば、千代が仕えてきた中では四代目の〝当主〟で、別の意味の主人になる。
以前、ここから徒歩十分程の処に夫と二人で住んでいたのだが、先月夫が病魔に蝕まれ他界。いろいろあり、数週間ほど暇をもらっていた。紫蓮は家事炊事、共に人並みには出来るため、大して苦労はしないのだが、生まれる前から家に居た千代を、追い出そうとは思っておらず、調子が良くなればまた来てくれと言っていたのだ。
「今日からまた宜しくお願い致します。」
千代はそう言って紫蓮に向かい頭を下げた。すると紫蓮は少し慌てたように
「そんな、止めてください。」
と言い、千代の頭を上げさせる。頭を上げさせた紫蓮が玄関に上がり、スリッパに履き替えた後、自室に行こうと階段に足を向けたが、すぐその足を戻し、キッチンに向かおうとした千代を呼び止めた。その後、紫蓮が千代に言ったことは、千代にとって意外なものだった。
「また、この家に住み込んでもいいんですよ?」
嫁ぐ前みたいに。部屋ならいくらでもあります。
紫蓮は独り身になった千代にこう告げた。近くで、徒歩十分といえども、毎日通っている六十の千代には辛いものがある。紫蓮はそれを気遣って千代にそう言うと、千代は少し驚いたような顔をして笑った後、笑顔で言った。
「私独りで他に誰もいないとはいえ、私は嫁いだ身ですので、坊ちゃまのお気持ちだけ有難く頂戴致します。」
そう言い、千代は紫蓮の申し出を丁重に断わり、キッチンへと向う。紫蓮も階段を上がり、自室へと足を延ばした。
「莎子、どうした。」
珍しく笑っている莎子に枯れた声の主が声をかけた。笑っていると言っても、人には分からない程小さな笑みだった。すると声をかけられた莎子は静かにただ一言、
「…〝紫の蝶〟…殺してもいい…?」
と側にいた枯れた声の老爺に聞いた。すると老爺は微妙に笑いながら、
「あぁ、いいさ。〝紫の蝶〟が浴衣と帯の事を知ったのならな。」
と言い怪しい笑みを浮かべた。莎子は何が楽しいのか、珍しくその日だけは一日中笑っていた。
「南条紫蓮さま、…か…。」
自室のベッドの上で寝転がり、封筒を手にしながら一言呟いた。
紫蓮の手にあるのは一通の手紙。切手も消印もない手紙。
この手の手紙なら今までに数え切れないほど来ている。全てラブレターか果たし状という形で。この手紙も先程、千代が郵便受けに入っていたのだと紫蓮のところに持って来たものだ。
だか、今回の手紙は今までの手紙とは違った。切手も消印もない。そして、差出人の名前もない。今までと同じ手の手紙であれば必ず差出人の名前は書いてあるはずだ。本人が紫蓮に自分の名前を覚えてもらおうと必死だからだ。紫蓮は人と関わらないようにしているため、当然クラスの女子生徒とも話しはしない。紫蓮が覚えている女子生徒がいるかということ自体怪しいところだ。そして、今回のこの手紙。紫蓮は封を切る気にはなれなかった。普段の手紙も決して開けている訳ではないが、独特の雰囲気を持つこの手紙は何か嫌な予感がしたからだ。だが、心を決め、手紙の封を切った。すると中に入っていたのは一枚の手紙だった。正確には手紙しか入っていなかった。その手紙の内容を見て、紫蓮は言葉を失う。
お前の両親が死んだ本当の理由を知っている。
両親の死後送った手紙は嘘に過ぎん。
こちらがでっち上げたものだ。
最近呪いの赤い蝶の浴衣と黒い帯の事を知ったようだな。
そのことを忘れぬようにし、一週間後の金曜日、午後五時に街外れの元薬品会社に来い。
両親が死んだ理由の全てを教えよう。
老いぼれた黒い蝶
紫蓮はこれを見て瞬間的に頭を回転させる。以前自分のところに送られてきた手紙。両親の友人からとあったあの手紙。あの手紙が嘘。
だが、大して驚く事ではない。内容があまりにも信じがたい内容だったため、最初から信じてはいなかった。あの手紙は両親が亡くなって間もなく家に届いたもの。
紫蓮の両親は各界に名の知れた著名人だったため、式の弔問者は二千人を越すほどだった。だが、紫蓮はその誰にも両親の死の理由、手紙のことを話さなかった。〝何も知らない息子〟を演じ続けていたのだ。紫蓮のところに手紙が来たことも、誰にも何も話していない。そのため手紙のことを知っている者は誰もいないはずだ。だが、この手紙の差出人はそのことを知っている。ということは、前回の手紙の差出人と今回の手紙の差出人が同一人物だということになる。だが、それよりも紫蓮が気になったのは文章中に出てくる呪いの浴衣の部分である。何故この手紙の差出人、〝老いぼれた黒い蝶〟は浴衣の極秘事項を知っているのか。赤い〝蝶〟の浴衣、このことは極秘情報で紫蓮も祝に教えられ知ったことだ。祝が〝極秘〟と言ったのだ。このことを知っている者はごく少数の限られた者だけだろう。祝は学校一の情報屋で知らないことはないと言われる程の情報力を持っている。その祝が〝極秘〟だと言い切った情報だ。知っている者がそう何人も居るとは思えない。ならば何故この手紙の差出人はそのことを知っているのだろうか。それが最大の疑問だ。極秘情報であるにも関わらず、何故知っているのか…。
このことも一週間後の金曜日、あの場所に行けば分かるだろうか。それを信じて紫蓮は一週間後、指定の場所に行くことに決めた。自分が動き出さなければ何も始まらない。両親の死因を知るために、真実を知るために。そう誓ったあの日。その決意を無駄にしたくなくて。
そうこうしているうちに部屋の扉が三回鳴った。するとしばらくしてから千代の声が聞こえた。
「紫蓮坊ちゃま、お夕飯のご用意が出来ました。」
いろいろ考えているうちに夕食の用意が出来たらしく、そのため千代が呼びに来たのだ。すぐに行くと伝え、手紙を机の上に置き、部屋を出た。
夕食を食べ終わり、再び部屋に戻って来た紫蓮の頭の中は乱れきっていた。
何も考えられず、今日はもう寝ようと部屋のカーテンを閉め、風呂に行くつもりだった。だが、カーテンを閉めようと窓に向かった紫蓮の眼に映ったのは、紫蓮の身体の自由を奪う光景だった。
南条の敷地には入っていないが、黒く長い髪を結わず流し落とし、赤い浴衣に黒の帯をした少女が睨むように紫蓮を見つめていた。ただ無心に紫蓮を見つめていた。紫蓮にはその姿が赤い浴衣と黒の帯ということしか分からず、浴衣の柄が蝶であることには気付かなかった。だが、ただ純粋に紫蓮を見つめていることが分かった。身体の自由が利かなくなった紫蓮だが、何かを思い立ったように慌てて部屋を出て、家を出た。
すると、そこにいたはずの少女はそこにはいなかった。必死で辺りを見回すと急いで走り去って行くあの少女が目に入る。紫蓮は急いで少女を追いかけ走る。ある程度まで来ると少女は突然走るのを止め、立ち止まった。それにつられ紫蓮も走るのを止め、立ち止まる。
少女と紫蓮の間には一定の距離が出来た。紫蓮は自分が何故この少女を追って来たのか疑問に思っていた。少女が追って来いと言った訳でもなければ、誰かに追えと言われた訳でもない。自分の意思で少女を追って来たはずなのに、そのこと自体が不思議でならなかった。顔見知りという訳でも、知り合いという訳でもない。今日初めて会った初対面の少女なのだが、追わずにはいられなかった。
やはり自分の意思ではない。何故か気付いたら追いかけていた。ただそれだけの話のはずなのだが、それが不思議で仕方がないのだ。すると立ち止まった少女は紫蓮の方を向き、静かにただ一言呟いた。
「〝紫の蝶〟…見つけた。」
そう告げた後、浴衣に袖を通した手を口元に持って行き少しだけ笑い、紫蓮を見つめていた。そして再び口を開いた少女が言ったことは、紫蓮にとって予想もしていない言葉だった。
「〝紫の蝶〟…南条紫蓮………殺す。」
この言葉に紫蓮は驚きを隠せなかった。
〝殺す〟…今の若者はすぐにこの言葉を発する。そんな気など、力など、勇気など持っていないくせに、面白半分で日常的に口にする。
だが、この少女は違った。この少女は眼に偽りがなかった。すごく冷たい眼をしていて、本当に躊躇いもなく人を殺すような、そんなただならぬ眼をしていた。
そして、この場に来て分かったこと。少女の着ている浴衣と帯があの噂の浴衣と帯と酷似しているということ。浴衣の色は赤。赤い生地に〝蝶〟の柄。
そんな少女に紫蓮は問う。
「君は…何者なんだ…?」
何故自分を殺すというのか。何故家の前にいたのか。その他にも聞きたいことはある。だが、言葉が出て来なかった。言葉を出さなければ何も始まらない。そう思いながらも、言葉を出せない。そんな状態が続いた。
あれから、どれくらい経っただろうか。見つめ合ったまま、沈黙が流れ、時刻(とき)が流れた。しばらくして口を開いたのは、少女ではなく紫蓮の方だった。
「君は何者なんだ…?」
放った言葉は沈黙になる前にも一度言った言葉。先程少女はこの問いに答えてはくれなかった。だが、ずっとこのままでいても埒が明かない。そう思い、少しでも前進するために言葉を出したのだ。また答えてくれないかもしれない。だが、少女が答えてくれることを一縷の望みにかけて願ってみる。すると少女は紫蓮の問いに答えた。
「あたしは…蝶。」
少女の返答に紫蓮はもどかしくなる。どうしようも出来ない感覚が迫って来る。
〝蝶〟…また出てきた。何なんだ、〝蝶〟って!!一体何なんだ!!
そう思う紫蓮の心が謎を乱していく。謎は深まるばかりだ。その謎を解く事が出来るだろうか。自分が、両親が関係しているのなら、尚更知りたい。知らなければならいない。そう思っている間に少女から次の言葉が出た。
「赤い、赤い、…血まみれの蝶。」
少女が前言を発してから三秒も経っていないはずだ。紫蓮の中であれだけのことが巡っていたのにも関わらず。紫蓮は冷静になるよう自分に言い聞かせ、静かに言葉を出した。この状況に、いつもは出ない冷や汗が出るような感覚がする。
「君の名前は…?」
その問いに少女は答えるだろうか。そう思っているうちに少女の口が動くのが分かった。だが、少女の口から出たのは、やはり少女の名ではなかった。
「…赤い蝶。」
これが少女の名前の訳がない。必ず本当の名前があるはずだ。痺れを切らしそうな、何とも言えない感覚だった。冷静に、だが、真剣に少女と向き合った。
「違う。君の本当の名前だ。」
そう放った後、少女は紫蓮が真剣に言ったことが分かったのか、紫蓮から視線を逸らし、横を向いて俯いた。そして、消えるような小さな声で何かを呟く。
「……………さ、こ………。」
少女の小さい声が紫蓮に届いただろうか。少女の声はそれほど小さかった。周りで誰かが一声叫べば消えてしまいそうな程。だが、紫蓮にはしっかりと聞こえていた。少女の小さな声が。
「…さこ?」
紫蓮が確認を取ると、少女は小さく頷いた。今までとは違う少女の姿を見て、紫蓮は少し気分が変わる。少女に向けて笑いかけていた。笑いかけていたのだ、あの紫蓮が。この場に祝がいれば、奇跡が起きたなどと言うだろう。それほど紫蓮が笑いかけることは珍しすぎることだ。
珍しいといえば少女に対する呼び方もそうだ。いつも紫蓮はクラスの女子生徒を呼ぶ時も〝あんた〟と呼ぶ。だが、この少女に対しては違う。〝あんた〟ではなく〝君〟を使っている。これもかなり珍しいことだ。いや、初の出来事ではないのだろうか。紫蓮が女を呼ぶこと自体珍しいことだが、寧ろ、珍しいを通り越している。
紫蓮は少女の名前が〝さこ〟だと分かると再度微笑し、少女に訊ねた。
「漢字は?どう書くの?」
この問いと紫蓮の反応に、少女は眼を丸くして驚いたような顔をしている。紫蓮がそう言うとは思っていなかったのだろう。
少女は長い髪を持つことも結うこともせず、ゆっくりとしゃがみ込み、少し大きめの石を持ち、地面に何か書き始めた。長い髪が地面につく。だが、それを嫌がらない少女。こんなに髪を長くしているのに、髪に対するプライドがないようだ。そして、しばらくしてから少女が書いたものを見てみると〝莎子〟と書いてあった。紫蓮がそれを読む。
「莎子。」
これで〝さこ〟って読むんだ。と付け足し、また莎子に向けて笑いかけた。すると紫蓮は莎子同様にしゃがみ、近くにあった手頃な石を持ち、何かを書き始めた。書いたものは、
―――〝紫蓮〟だった。地面に自分の名前である〝紫蓮〟を書いた。
「俺は紫蓮っていうんだ。」
莎子は先程、紫蓮の本名をフルネームで言った。紫蓮は莎子が自分の名前を知っているのを分かっていて、莎子に名前を言ったのだ。紫蓮がそう言うと、莎子は紫蓮を見つめ、唇を動かした。
「違う。お前は〝シレン〟じゃない。」
莎子は〝紫蓮〟を〝シレン〟と発音した。だが紫蓮はそんなことはどうでもよかった。ただ言われたことの意味が理解出来なかった。自分の名は〝南条紫蓮〟で〝シレン〟で違いないのに。
紫蓮が不思議そうな顔をすると、莎子はそんな紫蓮に気付いたのか、理由を述べた。
「お前は〝紫の蝶〟だ。」
…―――〝紫の蝶〟…また出て来た。〝蝶〟…。
莎子に〝紫の蝶〟と言われる理由は分からないが、意味は分かる。莎子は最初、自分のことを〝赤い蝶〟と言った。何故〝赤〟なのか詳しいことは分からないが、自分が〝紫〟なのは分かる。自分が〝紫蓮〟だからだ。紫蓮だから〝紫〟なのだ。
だが、紫蓮は蝶ではない。人でちゃんとした名前がある。その意味を込めて、紫蓮は莎子に言った。
「俺は〝蝶〟じゃない。紫蓮だ。紫蓮。」
紫蓮は莎子にそう言い聞かせた。すると莎子は
「蝶だろうがシレンだろうが、どうでもいい。」
そう淡々と放つ。これ以上名前のことで言い合っていても仕方がない。それに紫蓮は自分が人に何と呼ばれようと気にはしない。だが、ここで会話が途切れる訳にはいかない。聞きたいことはまだある。紫蓮はそれを聞き出すために質問を繰り返す。
「君の年は?いくつ?」
「……お前と同じ…。」
「学校は?どこの学校?」
「……行ってない…。行く必要もない。」
「怪我は?大きな怪我をしたことは?ほら、階段から落ちるとか。」
「……ない。お前じゃないんだ。たかが三才でも階段から落ちることはしない。」
「家は?どこら辺?」
「……街外れ…。」
「家族は?何人家族?」
「………家族なんかいない…!」
その質問で、莎子は声を張り上げ、立ち上がった。
聞いていて、分かったこと…。莎子は独りだってこと。それと、同じ形式で質問を繰り返した結果、莎子はどの質問にも敏感に反応した。そして、どの質問の答えも口から出るのに時間が掛かったこと。莎子の様子を見れば、学校に行っていないことは一発で分かった。何よりもあの長い髪が物語っている。腿に行くまで髪を伸ばす子はそうそういるものではない。それに加え、あの髪には結った後がない。学校に通っているなら髪を結わなければならない。腿まであるなら尚更だ。どこの学校の校則でも禁じられているはず。
紫蓮は一目見ただけで相手の癖や特徴を認識する。これは幼き頃からの習慣がものをいう。そのため、人の第一印象や素振りで人間性を見分ける事も少なくはない。だが、流石の紫蓮も年が自分と同じくらいということしか分からなかった。何しろ、今は夜。街灯はあるものの、肉眼では足元しか見えないと言う方が正しい。先程地面に書いた名前もやっと見えたくらいだ。それに莎子の長い髪で顔はよく見えない。そのためか姿形で判断するしかなかったのだ。だが、予想通り、自分と同じ年だったとは。そして、分かったことで一番重要なこと…。
自分のデータが流れていること。
紫蓮は莎子との面識はない。だが、莎子が紫蓮のことを知っているということは調べたということだ。紫蓮は学校内では指折りの有名人。知らない者などいないという程だが、莎子は紫蓮の学校の生徒ではない。勿論学校外で紫蓮を知っている者はいるだろうが、学校外の人間で紫蓮の正確な情報を得るならば、それ相当の探りを入れなければ不可能だ。紫蓮が三才のとき階段から落ちたということは余程調べないと知ることは出来ない。いや厳密にいうと不可能に近い。このことを知っているのは両親と昔からの親友である祝、そして、現在の紫蓮の保護者だけだ。だが、紫蓮の現在の保護者は一般人が知れるものでもなく、情報を得るのはやはり不可能。そして、祝が紫蓮に黙って誰かに情報を漏らすことは、ほぼ百パーセントない。祝はかなりの情報屋で一般人が知らないこと、知る事の出来ないことを自慢の情報網を使って得ている。だが、無償で誰かに情報を渡すような奴ではない。況してや、それが紫蓮の情報ならば尚更だ。紫蓮の情報はたとえ有償であっても教えることはない。ということは、これらのことを含まえ考えると、莎子のこの情報は紫蓮の保護者でも祝ではない誰かから得たということになる。すると、益々分からなくなる。この情報を知る者など他にいないはずなのに、紫蓮の情報を誰かが漏らしているのだ。その誰かが誰なのか分からない。紫蓮のこんなことを知っている人物が他にいるのだろうか。
いくら考えても分からない紫蓮は、今、目の前にある現実に向き合った。何かを決心し、しゃがんでいた状態から立ち上がった。そして一言。
「じゃあ、最後の質問。」
―――〝最後〟…。紫蓮はそう割り切った。質問の内容は決まっていた。…迷うことなく。
一方の莎子は〝最後〟というのに苛立ちを覚えていた。自分は〝南条紫蓮〟というモノを、いや、〝紫の蝶〟というモノを殺しに来たのだ。質問に答えるために来たのではない。その気持ちがとても強かった。莎子は紫蓮の発言の後、すぐに口を開いた。
「あたしは質問に答えに来たんじゃない。」
お前を殺しに来たんだ。
そう放ち、紫蓮を力いっぱい睨み付けた。だが、只の睨みが紫蓮に利くはずない。紫蓮はその睨みを軽く流し、最後の質問を口にした。
「君と〝老いぼれた黒い蝶〟との関係は?」
これこそが紫蓮が莎子に本当に聞きたかったこと。
莎子が〝蝶〟を仄めかした時、紫蓮は確信を持った。莎子が赤、手紙の主が黒。紫蓮を取り巻く、赤と黒の蝶。赤い蝶と黒い蝶に関係があることは明白だ。だが、これは悪までも紫蓮の推測の域を出ない。更なる完璧な確信が欲しかったのだ。そのため、莎子に問う。そして莎子から返って来た答えは紫蓮にとって意外なものだった。
「〝老いぼれた黒い蝶〟…?…爺様のことか?」
〝爺様〟…。
莎子の言う人物が誰かは分からなかったが、その〝爺様〟という者が〝老いぼれた黒い蝶〟だということが分かった。これは紫蓮の勘だ。素振り、口調、視線の向きを見て分かる。莎子は問うように言ったが、紫蓮にはそれが確信になったのだ。莎子は嘘を吐き慣れていない。それは紫蓮が行った先程の質問でも立証されている。ということは莎子と〝老いぼれた黒い蝶〟には何かしらの接点があるということ。それだけ分かれば充分だった。あとは指定の日、指定の時間に指定の場所に行くだけ。紫蓮はこれ以上聞くことはないというかのように莎子にただ一言
「ありがとう。」
と告げ、自宅に帰ろうとした。だが、莎子はそれを許してくれなかった。紫蓮が踵(きびす)を翻したと同時に莎子は紫蓮を名ではない別の呼称で呼び止めた。
「待て!紫の蝶!」
紫蓮が振り向く前に莎子はどこからかナイフを取り出し、紫蓮の顔目掛け投げ付けた。紫蓮は振り返り自分に向かって来たナイフの刃先を躊躇いもなく指で挟み、掴み取るとその場に落とす。そして面倒臭そうに聞き返す。
「何?」
聞き返された莎子は紫蓮を睨み付け、叫び散らすように言い放った。
「言っただろう!お前を殺すと!」
莎子は声を必要以上に張り上る。
そう、確かに莎子は最初にそう言っていた。〝殺す〟と。莎子は紫蓮を殺しに来たのだ。莎子の言葉が本気なのは分かる。だが、紫蓮があっさり殺される訳がない。
「今の君じゃ、俺を殺せないよ。」
君の覚悟は認めるけど。
こう付け足した紫蓮は自宅の方を向き直し、迷うことなく足を進める。すると思い出したように足を止め、再度振り返り莎子に向けてこう言った。
「それと、俺の名前は〝紫蓮〟だ。紫の蝶じゃない。よく覚えとけ。」
莎子に向けてそう告げた紫蓮は、莎子を追って来た道を引き返して行った。さらに紫蓮は、今度は振り向かず右手を挙げて莎子に語りかける。
「一週間後の金曜日、五時に元薬品会社。楽しみにしてるよ。」
そして、莎子の視界から消えた。一方、獲物を逃がした莎子は紫蓮が見えなくなった少し後、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いていた。
「絶対、あたしの手で殺してやる…。」
拳を握り締め、強い口調で莎子はこの後、何度も何度も同じことを言う。
自分が紫蓮に負けたと思いたくない。〝老いぼれた黒い蝶〟は一週間後、紫蓮を手紙で呼び出しているが莎子が紫蓮を殺しに行くことは許した。それくらいで死ぬような奴ならば自分たちにとって願ったり叶ったりだと言うかのように。だが、莎子は紫蓮を殺せなかった。殺すつもりで逢いに来たのに、殺せなかったのだ。ナイフまで持って来たのに。
「次に逢った時は絶対、殺してやる…!」
莎子のこの呟きが暗く静かな夜の街に響き渡ることはなかった。
自宅に戻った紫蓮を迎えたのは千代だった。
いつもなら千代はもう自宅に帰っている時間だが、紫蓮が何も言わず家を飛び出したので心配で南条邸を離れることが出来なかったのだ。
紫蓮が玄関の扉を開け、中に入ると千代が大慌てで玄関にやって来た。そして紫蓮を見るなり素早く質問攻めにする。
「坊ちゃま、大丈夫ですか?お怪我はありませんか?一体どうしたんです?」
心配そうに見る千代に紫蓮は
「大丈夫ですよ。心配をかけてすみません。…ただいま。」
と笑顔を向けた。すると千代は慌てて頭を下げながら
「申し訳ございません、紫蓮坊ちゃま。お帰りなさいませ。」
と挨拶をする。
千代の行動に紫蓮は、そんなに改まらなくても。と言い、階段に足を向け、自室へと足を延ばした。
紫蓮の住むこの南条邸は戦後、先々代の父の、紫蓮の曾祖父の代に造られた。丁度、先々代が千代を拾った年に造り、出来上がったのだ。この家の特徴は、基本形は和風ながらも二階建て仕様で階段があるということ。戦争は終わったのだ。異国との交流も盛んになるであろう。一足先に取り入れるのも悪くはない。という曾祖父の意思だった。今でこそ二階建てが珍しくない世の中だが、戦争最中(さなか)のこの時代には一戸建てであっても一階建てが主流で二階建ての一般の家などないも同然だった。その中で当時の当主、紫蓮の曾祖父がこの場に家を建て、ここで暮らしていたのだ。大きさは普通の一般家庭と同じ大きさで、莫大な財産を持っているとは思えない大きさだが、紫蓮もそのことを知ってか古いこの家に住んでいる。築五十年と歴史のある家で、南条の所有する数ある家の中で一番小さく古い家だが、住めなくなるまでこの家に住もうという紫蓮の意思により、今も尚、曾祖父が建て、千代が育った当時の南条邸のままだ。以前、千代の部屋だった奥の部屋も未だに残っている。千代もそんな南条邸に愛着があるのだろう。
紫蓮は自室に戻った後、今までのことを思い出していた。自分を殺しに来たという莎子という少女のことを。何故自分を殺すというのか、紫蓮にはその理由が分からなかった。今まで面識があった訳ではない。告白を断った逆恨みという線が一番高かったが、それもないことが判明した。〝莎子〟は学校に通っていないと言った。嘘かもしれないと思うところだが、まずそれはない。あの娘は嘘を吐くことを知らない。身体全体の雰囲気で、瞳で、それが判った。あの瞳は、嘘を吐いたことのない、そんな瞳だった。あの娘が何者かは判らないが、その答えも一週間後の金曜日に分かるだろう。
待つのは一週間後の金曜日。
「ひーたん、ほんとに泊まってくの?」
「え、だめ?」
部屋に入り、荷物を下ろしてから、とりあえず、そう聞いてみた。
泊まって行くと最初から分かっていたらいろんな準備をしたが、何せ突発だからこそ、招き入れるための準備は何一つしていない。
そもそも、泊まりに来ると分かっていたら逃げていたかもしれない。
確認の意味で聞いてみると、ひーたんは何か問題があるのかというくらい、あっさりと答えた。
あの頃のひーたんはこんな性格だっただろうか。久しぶり過ぎて、いまいち感覚が掴めない。それよりも未だこの状況が都合のいい夢なのではないかと思えるほどだ。
「お客様用の布団とかないから、俺と一緒にベッドだけど…」
「いいよ。ほら、雪風、梨食うぞ」
今日は、一緒に梨を食べて、一緒に寝よう。
ひーたんはそう言って、キッチンで包丁を見つけて、梨の皮を剥き出した。
途中で、ひーたんはお客様なんだし、俺が剥くよと言ったら、ひーたんは俺がいるときにお前に危ないもの持たせたくないと言った。危ないものって、俺だって一人暮らししてるし、包丁くらい使えるよ、と返したら、いいから、と一言だけ言われた。
なんか、ひーたん前に比べて随分と過保護だ。
そして前に比べて、随分と甘い。
ひーたんと食べた梨はとても美味しかった。ひーたんは旬だから美味しいと言っていたけど、俺は旬だからとかじゃなく、ひーたんと食べてるからだと思う。
美味しい梨を食べながら、これが林檎だったら、うさぎの形に切れるな、なんて思い浮かべながら、林檎を買って練習してみてもいいな、とも思った。
「ひーたん、狭くない?」
シングルサイズのベッドの端ににひーたんが寝て、それから「ん!」と両手を伸ばしてくれた。その腕の中に入って腕の暖かさを再確認する。
「平気。お前こそ狭いだろ」
「ううん、ひーたんにひっついてるから平気」
お互いにお互いのことばっかり心配してる。
あぁ、やっぱり、ひーたんの腕の中は暖かいなぁ。
「ひーたん、腕痛くならない?」
ずっと腕の中にいたら、ひーたんの腕が痺れてしまって、寝るどころではないのではないか、と更に心配を重ねたが、ひーたんはなんてことない顔をしている。
「いい。寝てる間にお前が逃げて消えないようにしてる」
俺が逃げる可能性も考えていたんだ。と素直に思った。確かに、さっきも考えていたが、予め来ることが分かっていたら見つからないように逃げていたかもしれない。というか、十中八九逃げていただろう。
ひーたんはあの頃の思い出で、置いてきたうさぎに付属するもので、今の俺には必要ないものだ。
なのに、どうしてもこの腕を振り切ることが出来ない。
あの頃の、うさぎだった頃の方が、俺の考えや目的は一貫していて、ぶれていなかったように思う。
今はぶれぶれだ。
でも、それでもいい。ぶれぶれでも、なんでも、今この瞬間だけは難しいことは考えない。ひーたんの腕の中で、ひーたんと一緒に眠る。
そして、今までと違う、新しい朝を迎えよう。
あまりの心地良さに微睡みながら、ゆっくりと意識が浮かび上がる。頭がとても気持ち良い。
「…ひー…たん…?」
「悪い、起こしたか?」
そう言うと、ひーたんは俺の頭を撫でるのを止めてしまった。ずっと、頭を撫でてくれていたんだ。さっきまでの心地良さはこれか、と思考が行き着いてから、手を止めてしまったひーたんに甘えてみた。
「…ううん………ひーたんに撫でられるの気持ちいい」
ひーたんの胸に頭をぐりぐりと押し付けると、ひーたんはまた俺の頭を撫でてくれた。
優しく優しく撫でてくれて、また訪れた心地良さが頭をふわふわとさせる。
「ここから出たくないなぁ…」
ふと出た本音に、ひーたんがどんな顔をしていたのか分からない。けれど、意識が遠のく瞬間、頭の上で『ちゅっ』といったような気がした。それを最後にまた、俺の意識は彼方へと消えた。
「じゃあ、雪風、元気にしてろよ」
遅くまでひーたんと眠り、いい加減起きないとと起きてしばらくすると、ひーたんは帰ると言った。それはそうだろう。至極当たり前のことなのに、それをすんなりと受け入れられなかった自分に愕然とした。
来ると分かったら逃げていただろうに、帰ると分かったらそれを名残惜しく思う。
あんまりにも重症だ。
「………うん…」
小さな返事をして、地面を見つめている。ひーたんの顔が見れない。
外はやっぱり、金木犀の香りがする。これから金木犀の香りがする度に、この日のことを思い出してしまいそうだ。
「じゃあな」
その一言で、弾かれたように勢いよく顔を上げた。
「ひーたん!」
歩き出すために振り返ろうとしているところを、勢いよく飛び付く。
「うわっ!」
ごめんね、ひーたん、あとちょっとだけ、あとちょっとだけだから。
いきなり飛び付いた俺を、ひーたんはゆっくりと抱き締めてくれた。
「雪風、無理に帰って来いとは言わないけど、あいつらも会いたがってたぞ」
あいつら、とは、棚橋くんと国東くんだ。昨日寝る前に手紙のことを聞いたら、あのレターセットはやっぱり棚橋くんから貰ったと言っていた。そうだろうと思った。かわいいハリネズミのレターセットだった。ここでハリネズミではなくうさぎのセットだったら、それはそれで複雑だったかもしれない。俺はもううさぎじゃないのに、複雑な気持ちになるのか。
「…うん………」
これまた心許ない言葉だけの返事をして、抱き着く腕に力を込める。
「また来月来る」
ひーたんが優しく言ってくれる。
あの場所から、随分と遠いところへ来てしまった。それなのに、あっさりと言うひーたんに、なんとも言えない想いが湧き上がってくる。
「…うん………」
涙声を我慢して、なけなしの力で精一杯の返事をした。
「泣くなよ」
連れて帰りたくなる。
その一言に、また涙が溢れそうになる。
俺はひーたんのうさぎなんだから、ちゃんと面倒見てよね、なんて、うさぎの頃なら軽々と言えたことが、今ではこのざまだ。
恋人とか、そんな甘い関係じゃない。
それでも。
「冗談だよ」
次に逢ったときに、一緒に連れて帰ってって言ったら、連れて帰ってくれるのかな。
あの街に帰るのは到底無理なことなのに、ふとそう思う思考を止められなかった。
*----------*----------*----------*----------*----------*
これまた、ヤヒコさんのお宅の「うさぎコンビ」から。
先日の全く生かせなかった「新しい朝」の分を提出します。
ひーたんが帰って、その帰り道に棚橋に電話しながらちょっと惚気るようなところまで考えたのですが、なんとなく、雪風とひーたんを離したくなくて、ひーたんの帰り道は書かないことになりました。
電波ではない雪風はそれはそれで未知数だし、雪風に甘過ぎる溺愛ひーたんもそれはそれで未知数なので、キャラ崩壊もいいところなのですが、あくまでも二次創作なので、怒らないで。いやほんとごめんなさい。
この話の前日がこちら。
「え、だめ?」
部屋に入り、荷物を下ろしてから、とりあえず、そう聞いてみた。
泊まって行くと最初から分かっていたらいろんな準備をしたが、何せ突発だからこそ、招き入れるための準備は何一つしていない。
そもそも、泊まりに来ると分かっていたら逃げていたかもしれない。
確認の意味で聞いてみると、ひーたんは何か問題があるのかというくらい、あっさりと答えた。
あの頃のひーたんはこんな性格だっただろうか。久しぶり過ぎて、いまいち感覚が掴めない。それよりも未だこの状況が都合のいい夢なのではないかと思えるほどだ。
「お客様用の布団とかないから、俺と一緒にベッドだけど…」
「いいよ。ほら、雪風、梨食うぞ」
今日は、一緒に梨を食べて、一緒に寝よう。
ひーたんはそう言って、キッチンで包丁を見つけて、梨の皮を剥き出した。
途中で、ひーたんはお客様なんだし、俺が剥くよと言ったら、ひーたんは俺がいるときにお前に危ないもの持たせたくないと言った。危ないものって、俺だって一人暮らししてるし、包丁くらい使えるよ、と返したら、いいから、と一言だけ言われた。
なんか、ひーたん前に比べて随分と過保護だ。
そして前に比べて、随分と甘い。
ひーたんと食べた梨はとても美味しかった。ひーたんは旬だから美味しいと言っていたけど、俺は旬だからとかじゃなく、ひーたんと食べてるからだと思う。
美味しい梨を食べながら、これが林檎だったら、うさぎの形に切れるな、なんて思い浮かべながら、林檎を買って練習してみてもいいな、とも思った。
「ひーたん、狭くない?」
シングルサイズのベッドの端ににひーたんが寝て、それから「ん!」と両手を伸ばしてくれた。その腕の中に入って腕の暖かさを再確認する。
「平気。お前こそ狭いだろ」
「ううん、ひーたんにひっついてるから平気」
お互いにお互いのことばっかり心配してる。
あぁ、やっぱり、ひーたんの腕の中は暖かいなぁ。
「ひーたん、腕痛くならない?」
ずっと腕の中にいたら、ひーたんの腕が痺れてしまって、寝るどころではないのではないか、と更に心配を重ねたが、ひーたんはなんてことない顔をしている。
「いい。寝てる間にお前が逃げて消えないようにしてる」
俺が逃げる可能性も考えていたんだ。と素直に思った。確かに、さっきも考えていたが、予め来ることが分かっていたら見つからないように逃げていたかもしれない。というか、十中八九逃げていただろう。
ひーたんはあの頃の思い出で、置いてきたうさぎに付属するもので、今の俺には必要ないものだ。
なのに、どうしてもこの腕を振り切ることが出来ない。
あの頃の、うさぎだった頃の方が、俺の考えや目的は一貫していて、ぶれていなかったように思う。
今はぶれぶれだ。
でも、それでもいい。ぶれぶれでも、なんでも、今この瞬間だけは難しいことは考えない。ひーたんの腕の中で、ひーたんと一緒に眠る。
そして、今までと違う、新しい朝を迎えよう。
あまりの心地良さに微睡みながら、ゆっくりと意識が浮かび上がる。頭がとても気持ち良い。
「…ひー…たん…?」
「悪い、起こしたか?」
そう言うと、ひーたんは俺の頭を撫でるのを止めてしまった。ずっと、頭を撫でてくれていたんだ。さっきまでの心地良さはこれか、と思考が行き着いてから、手を止めてしまったひーたんに甘えてみた。
「…ううん………ひーたんに撫でられるの気持ちいい」
ひーたんの胸に頭をぐりぐりと押し付けると、ひーたんはまた俺の頭を撫でてくれた。
優しく優しく撫でてくれて、また訪れた心地良さが頭をふわふわとさせる。
「ここから出たくないなぁ…」
ふと出た本音に、ひーたんがどんな顔をしていたのか分からない。けれど、意識が遠のく瞬間、頭の上で『ちゅっ』といったような気がした。それを最後にまた、俺の意識は彼方へと消えた。
「じゃあ、雪風、元気にしてろよ」
遅くまでひーたんと眠り、いい加減起きないとと起きてしばらくすると、ひーたんは帰ると言った。それはそうだろう。至極当たり前のことなのに、それをすんなりと受け入れられなかった自分に愕然とした。
来ると分かったら逃げていただろうに、帰ると分かったらそれを名残惜しく思う。
あんまりにも重症だ。
「………うん…」
小さな返事をして、地面を見つめている。ひーたんの顔が見れない。
外はやっぱり、金木犀の香りがする。これから金木犀の香りがする度に、この日のことを思い出してしまいそうだ。
「じゃあな」
その一言で、弾かれたように勢いよく顔を上げた。
「ひーたん!」
歩き出すために振り返ろうとしているところを、勢いよく飛び付く。
「うわっ!」
ごめんね、ひーたん、あとちょっとだけ、あとちょっとだけだから。
いきなり飛び付いた俺を、ひーたんはゆっくりと抱き締めてくれた。
「雪風、無理に帰って来いとは言わないけど、あいつらも会いたがってたぞ」
あいつら、とは、棚橋くんと国東くんだ。昨日寝る前に手紙のことを聞いたら、あのレターセットはやっぱり棚橋くんから貰ったと言っていた。そうだろうと思った。かわいいハリネズミのレターセットだった。ここでハリネズミではなくうさぎのセットだったら、それはそれで複雑だったかもしれない。俺はもううさぎじゃないのに、複雑な気持ちになるのか。
「…うん………」
これまた心許ない言葉だけの返事をして、抱き着く腕に力を込める。
「また来月来る」
ひーたんが優しく言ってくれる。
あの場所から、随分と遠いところへ来てしまった。それなのに、あっさりと言うひーたんに、なんとも言えない想いが湧き上がってくる。
「…うん………」
涙声を我慢して、なけなしの力で精一杯の返事をした。
「泣くなよ」
連れて帰りたくなる。
その一言に、また涙が溢れそうになる。
俺はひーたんのうさぎなんだから、ちゃんと面倒見てよね、なんて、うさぎの頃なら軽々と言えたことが、今ではこのざまだ。
恋人とか、そんな甘い関係じゃない。
それでも。
「冗談だよ」
次に逢ったときに、一緒に連れて帰ってって言ったら、連れて帰ってくれるのかな。
あの街に帰るのは到底無理なことなのに、ふとそう思う思考を止められなかった。
*----------*----------*----------*----------*----------*
これまた、ヤヒコさんのお宅の「うさぎコンビ」から。
先日の全く生かせなかった「新しい朝」の分を提出します。
ひーたんが帰って、その帰り道に棚橋に電話しながらちょっと惚気るようなところまで考えたのですが、なんとなく、雪風とひーたんを離したくなくて、ひーたんの帰り道は書かないことになりました。
電波ではない雪風はそれはそれで未知数だし、雪風に甘過ぎる溺愛ひーたんもそれはそれで未知数なので、キャラ崩壊もいいところなのですが、あくまでも二次創作なので、怒らないで。いやほんとごめんなさい。
この話の前日がこちら。
くんくん。この独特な匂いは。
金木犀の、匂いがする。
高校を卒業した後、逃げるようにあの家を後にした。
高校までは面倒を見るが、大学は県外に行きなさい、と、前々から言われていた、父に。
それから、うさぎをやめて、この街へ来た。
誰も知っている人がいないこの街へ。
誰も知らない、この街へ。
秋だ。紛うことなき秋だ。
どこからか漂ってくる金木犀の匂いに、一年前の今頃を思い出す。
この香りがするということは、もう梨の旬は終わってしまったのかな、なんて。
大切な、ずっとずっと大事にしたい、俺の想い出。
あの頃の、うさぎの頃の、それでいて、ほんの少しだけ『雪風』になれる時間が好きだった。
彼の前では、ほんの一瞬でも『雪風』になれる時間があった。
でも、もう昔の話。もう過去の話。
それでも、大事に仕舞った、あのプレゼントをたまに出しては想い出に浸っている。
冬に思い残しはない。
それは本当で、本当に思い残しなんてないんだ。
大学から帰って来て、いつも通り、郵便受けを開けた。
家を出るとき、父はタワーマンションの一室を俺に与えようとしてくれたけど、断った。身の丈に合わない部屋は俺への贖罪か、否か。
一人でいるのが苦痛にならないくらいの狭い部屋でゆっくりとしたかった。
メールボックスのあるタワーマンションじゃなくて、昔ながらの郵便受けがあるこの部屋を住処にしたのが正解だったのか、今でも分からない。
郵便受けを開けた瞬間に何かが落ちたのが分かった。
よく見ると封筒だから、手紙だろうか。
父が一応の責任で手紙を送って来たとか。
離れて暮らす我が子を哀れんで。
いや、まさか。
床に落ちた封筒を持ち上げると、その手紙の違和感に気付いた。
差出人の名前がない。
宛名にはここの住所と『南野雪風 様』と書かれている。
だけど、これまたよく見ると、封筒には消印が押されていない。もっといえば、切手も貼られていない。
この手紙は郵便としてこの郵便受けに入ったわけではなく、誰かの手によって意図的にこの郵便受けに入れられたようだ。
『誰か』なんて、他人行儀だ。
でも、それが今の俺とこの『誰か』との距離だった。
見覚えのある字。
「…ひー…」
一言発したら、その続きは口の中へ消えた。
字のクセは一年やそこらでは変わらない。だから、筆跡鑑定なんてものが未だに効力を持っているのだろう。
封筒を開けて、中にあるはずの手紙を読むか、正直迷った。
このまま、開封せず、あの二つの贈り物と一緒に、仕舞い込んでしまおうか。
中に何が書いてあるかなんて、どうでもよかった。
中に書いてあることがどんなことでも、この手紙が今この場にあることの方が、何倍も心を揺さぶった。
会いたいとか、そんなことが書いてある可能は皆無だ。
急に居なくなって、と詰められるにはちょっと遅い。
内容がどうあれ、俺はこの手紙を大切に保管し、大事にすることは目に見えていた。
それでも、やっぱりこの手紙は読もう。返事は出来ないけど、ちゃんと読もう。
意を決して、封筒に手を掛けた。よくよく見ると、彼にしてはかわいい封筒だ。手紙を書くにもレターセットがなくて、友人のくまに貰ったのかもしれない。
封を閉じているのもお揃いのシールということは、中に入っている手紙も同じ柄なのだろう。
開けてみると、中に入っていた手紙も同じ柄をしていた。
そこにはたった一文しか書かれていなかった。
『梨を一緒に食べよう』
読んだ瞬間、涙が溢れそうになった。
去年の今頃、そう言われた。
来年は一緒に食べようって、言われた。
そんな日常の小さなこと、そんな、叶わないと仕舞い込んだ想い出。
たった一文しかないこの手紙が、この上なく愛おしくなった。
この手紙を届けるためなら、切手を貼って、ポストに入れればいいだけなのに。
涙が溢れそうなのを必死に我慢して、目を擦る。
他に普通の郵便がないかと郵便受けに手を入れると、何かが手に触れた。
不思議に思って見てみると、ビニール袋に入った果実。
果実というか。
「…な、し…」
郵便受けの中の梨と、手紙。
それでいて、手紙の文面。
「…一緒に、って………」
なにを、言っているんだ。
「…雪風」
聞こえたその声に、心臓の、跳ねる音が聞こえた。
『あんたは俺のうさぎがどこ行ったのかしってるんじゃねえの』
『いたのかもね。でもあんな嘘っぱちはもういないよ。やっと始めたんだ。だからうさぎはおしまい』
『あいつの喋り方はあんた譲りなんだな。うさぎが終わってもあいつはいるだろ。どこいった?』
『望まないよあの子は』
『そんなの、逢ってみなきゃわかんねーだろ!』
声が聞こえた方へ視線をやると、懐かしい姿に心臓が高鳴る。
「………ひー…た………」
ちゃんと、声が出なかった。
ちゃんと、声が出てくれなかった。
「最近は金木犀の香りがする頃でも食べ頃の梨があるらしくてな」
潤んだ目では彼の姿をよく見れなくて、いつの間にか触れられる距離にいた彼の手が頭の上に乗ったのが分かった。
「お前と一緒に食べようと思って」
そう言いながら、彼は頭を撫でてくれた。
こんなの、不意打ちすぎる。反則だ。
でも、この満たされたような気持ちは、この上ない感覚だった。
「入れ違いになるといけないから、入れといたんだけど、正解だったな。見て無くなってたら部屋に直接行こうとしてたんだけど、って、雪風?」
「…き、きいてる…きいてるよ、ひーたん…」
どうしても、心臓が、心が、落ち着いてくれない。
どうしても、落ち着いてくれない。
頭の上を撫でていた手が、今度は後ろの方へ行き、ちょっと押された。
おでこに触れる何かと、暖かさ。
「今日は一緒に寝よう」
泊まってくから。
そう言った彼は、今度はゆっくりと俺のことを抱きしめてくれた。
今まで、何度抱きついたか分からない。
今まで、何度寄り添ったか分からない。
今までのこと、全部、想い出にして生きていくと決めたのに。
うさぎはさみしがり屋だなんて、誰が言ったんだろう。
俺はもううさぎじゃないのに、この腕の暖かさの前では『さみしかった』と泣き喚いてしまいそうだ。
*----------*----------*----------*----------*----------*
これまた、ヤヒコさんのお宅の「うさぎコンビ」から。
どうやら、クリスマスを一か月前に控えたある日、「うさぎコンビがクリスマスにプレゼント交換する」というのをTwitterで発言したらしいのです。日頃からうさぎコンビのことばかり言いすぎて、言ったことを覚えてなかったんですけど。
それを見ていたヤヒコさんが「描いといたよ」とクリスマスプレゼントでくれたのです。
それがあんまりにも素晴らしかったので、一時間という限られた時間でこちらを書きました。
追加でお題を頂いたのに、全く生かせなかったので、そのお題はこの日の翌日分として年が明けてから提出することにしました。
数か月前に書いたものの続きのようなものですが、プレゼント交換の内容も少し入っています。
この話の一年前の雪風とひーたん。
金木犀の、匂いがする。
高校を卒業した後、逃げるようにあの家を後にした。
高校までは面倒を見るが、大学は県外に行きなさい、と、前々から言われていた、父に。
それから、うさぎをやめて、この街へ来た。
誰も知っている人がいないこの街へ。
誰も知らない、この街へ。
秋だ。紛うことなき秋だ。
どこからか漂ってくる金木犀の匂いに、一年前の今頃を思い出す。
この香りがするということは、もう梨の旬は終わってしまったのかな、なんて。
大切な、ずっとずっと大事にしたい、俺の想い出。
あの頃の、うさぎの頃の、それでいて、ほんの少しだけ『雪風』になれる時間が好きだった。
彼の前では、ほんの一瞬でも『雪風』になれる時間があった。
でも、もう昔の話。もう過去の話。
それでも、大事に仕舞った、あのプレゼントをたまに出しては想い出に浸っている。
冬に思い残しはない。
それは本当で、本当に思い残しなんてないんだ。
大学から帰って来て、いつも通り、郵便受けを開けた。
家を出るとき、父はタワーマンションの一室を俺に与えようとしてくれたけど、断った。身の丈に合わない部屋は俺への贖罪か、否か。
一人でいるのが苦痛にならないくらいの狭い部屋でゆっくりとしたかった。
メールボックスのあるタワーマンションじゃなくて、昔ながらの郵便受けがあるこの部屋を住処にしたのが正解だったのか、今でも分からない。
郵便受けを開けた瞬間に何かが落ちたのが分かった。
よく見ると封筒だから、手紙だろうか。
父が一応の責任で手紙を送って来たとか。
離れて暮らす我が子を哀れんで。
いや、まさか。
床に落ちた封筒を持ち上げると、その手紙の違和感に気付いた。
差出人の名前がない。
宛名にはここの住所と『南野雪風 様』と書かれている。
だけど、これまたよく見ると、封筒には消印が押されていない。もっといえば、切手も貼られていない。
この手紙は郵便としてこの郵便受けに入ったわけではなく、誰かの手によって意図的にこの郵便受けに入れられたようだ。
『誰か』なんて、他人行儀だ。
でも、それが今の俺とこの『誰か』との距離だった。
見覚えのある字。
「…ひー…」
一言発したら、その続きは口の中へ消えた。
字のクセは一年やそこらでは変わらない。だから、筆跡鑑定なんてものが未だに効力を持っているのだろう。
封筒を開けて、中にあるはずの手紙を読むか、正直迷った。
このまま、開封せず、あの二つの贈り物と一緒に、仕舞い込んでしまおうか。
中に何が書いてあるかなんて、どうでもよかった。
中に書いてあることがどんなことでも、この手紙が今この場にあることの方が、何倍も心を揺さぶった。
会いたいとか、そんなことが書いてある可能は皆無だ。
急に居なくなって、と詰められるにはちょっと遅い。
内容がどうあれ、俺はこの手紙を大切に保管し、大事にすることは目に見えていた。
それでも、やっぱりこの手紙は読もう。返事は出来ないけど、ちゃんと読もう。
意を決して、封筒に手を掛けた。よくよく見ると、彼にしてはかわいい封筒だ。手紙を書くにもレターセットがなくて、友人のくまに貰ったのかもしれない。
封を閉じているのもお揃いのシールということは、中に入っている手紙も同じ柄なのだろう。
開けてみると、中に入っていた手紙も同じ柄をしていた。
そこにはたった一文しか書かれていなかった。
『梨を一緒に食べよう』
読んだ瞬間、涙が溢れそうになった。
去年の今頃、そう言われた。
来年は一緒に食べようって、言われた。
そんな日常の小さなこと、そんな、叶わないと仕舞い込んだ想い出。
たった一文しかないこの手紙が、この上なく愛おしくなった。
この手紙を届けるためなら、切手を貼って、ポストに入れればいいだけなのに。
涙が溢れそうなのを必死に我慢して、目を擦る。
他に普通の郵便がないかと郵便受けに手を入れると、何かが手に触れた。
不思議に思って見てみると、ビニール袋に入った果実。
果実というか。
「…な、し…」
郵便受けの中の梨と、手紙。
それでいて、手紙の文面。
「…一緒に、って………」
なにを、言っているんだ。
「…雪風」
聞こえたその声に、心臓の、跳ねる音が聞こえた。
『あんたは俺のうさぎがどこ行ったのかしってるんじゃねえの』
『いたのかもね。でもあんな嘘っぱちはもういないよ。やっと始めたんだ。だからうさぎはおしまい』
『あいつの喋り方はあんた譲りなんだな。うさぎが終わってもあいつはいるだろ。どこいった?』
『望まないよあの子は』
『そんなの、逢ってみなきゃわかんねーだろ!』
声が聞こえた方へ視線をやると、懐かしい姿に心臓が高鳴る。
「………ひー…た………」
ちゃんと、声が出なかった。
ちゃんと、声が出てくれなかった。
「最近は金木犀の香りがする頃でも食べ頃の梨があるらしくてな」
潤んだ目では彼の姿をよく見れなくて、いつの間にか触れられる距離にいた彼の手が頭の上に乗ったのが分かった。
「お前と一緒に食べようと思って」
そう言いながら、彼は頭を撫でてくれた。
こんなの、不意打ちすぎる。反則だ。
でも、この満たされたような気持ちは、この上ない感覚だった。
「入れ違いになるといけないから、入れといたんだけど、正解だったな。見て無くなってたら部屋に直接行こうとしてたんだけど、って、雪風?」
「…き、きいてる…きいてるよ、ひーたん…」
どうしても、心臓が、心が、落ち着いてくれない。
どうしても、落ち着いてくれない。
頭の上を撫でていた手が、今度は後ろの方へ行き、ちょっと押された。
おでこに触れる何かと、暖かさ。
「今日は一緒に寝よう」
泊まってくから。
そう言った彼は、今度はゆっくりと俺のことを抱きしめてくれた。
今まで、何度抱きついたか分からない。
今まで、何度寄り添ったか分からない。
今までのこと、全部、想い出にして生きていくと決めたのに。
うさぎはさみしがり屋だなんて、誰が言ったんだろう。
俺はもううさぎじゃないのに、この腕の暖かさの前では『さみしかった』と泣き喚いてしまいそうだ。
*----------*----------*----------*----------*----------*
これまた、ヤヒコさんのお宅の「うさぎコンビ」から。
どうやら、クリスマスを一か月前に控えたある日、「うさぎコンビがクリスマスにプレゼント交換する」というのをTwitterで発言したらしいのです。日頃からうさぎコンビのことばかり言いすぎて、言ったことを覚えてなかったんですけど。
それを見ていたヤヒコさんが「描いといたよ」とクリスマスプレゼントでくれたのです。
それがあんまりにも素晴らしかったので、一時間という限られた時間でこちらを書きました。
追加でお題を頂いたのに、全く生かせなかったので、そのお題はこの日の翌日分として年が明けてから提出することにしました。
数か月前に書いたものの続きのようなものですが、プレゼント交換の内容も少し入っています。
この話の一年前の雪風とひーたん。
「ひーたん、金木犀の匂いがするね」
学校の廊下を下駄箱に向かって歩いていると、突然雪風が金木犀のことを口にした。
確かに金木犀の香りだ。この独特な香りを間違えるはずはない。
「もう秋なんだなぁ…って!梨!」
もう夏は過ぎゆき、季節は秋に移り変わっている、と考えたところで、途端に思い出した。
「梨?」
隣を歩いている雪風がその声に反応して顔を窺ってくる。
そう、梨。あの梨。果物の梨。美味しい、瑞々しい梨。
「金木犀が咲いてるってことは、梨の旬が終わってるんだよ。あー今年は食べ損ねたー」
毎年この時期の梨を楽しみにしていたが、今年は何をしていたのか食べ損ねてしまった。今年は家に梨が無かった、というのはどうも考えにくい。ということは、知らない間に食べられているのだろう。完全に忘れられたな。
「ひーたんは物知りさんだね」
雪風が満面の笑みで笑う。
その満面の笑みが、少し引っ掛かった。
「来年、一緒に食べような」
雪風の頭に手を置き、そう言うと、雪風の表情が若干強張った。
多分、良いことは考えていない。でも、その内容が全て分かるほどの読心術を身に付けてはいなかった。
「えっ」
下駄箱に着いてみると、奇妙なことに手紙が一通。
いや、まさか、そんな。
「ひーたんにラブレター!」
一瞬心の中で思ったことを、雪風が大きな声で吐き出した。
いや、確かに見た目はどう見ても雪風が言った通りのものだが、このご時世にラブレターを下駄箱の中に入れるような古風な女子はいるのか。
これが本当に自分宛ならば、果し状の可能性もなくはないが、そもそも、果し状を貰うほどの存在感も心当たりもない。
「どうしよう、どこのうさぎからだろう、ひーたんは渡さないんだから!」
「どこのうさぎって、うさぎ前提かよ」
一人でプチパニックを起こしている雪風をいつものように宥めたが、ラブレターや果し状があり得ないのと同じ位、差出人がうさぎである可能性はあり得ないだろう。
仮にうさぎからの手紙だとしても、うさぎは一人いれば充分だ。
その手紙の封筒を裏返してみると、知った名前が書かれていた。
「やっぱ入れ間違いだな」
なんと、このような古風なことをする女子が本当にいたようだ。今時珍しい。だが、残念なことに一つ右隣の下駄箱に入るはずだった手紙のようだ。
右隣の下駄箱へ入れ直してから、靴を持つ。
「帰るぞ、雪風」
帰り道、気にしてみるといたるところから金木犀の香りがする。
秋本番だな、と思いながらふと何気なく、いやに大人しい雪風を見た。
その瞬間、何か嫌な予感がした。
咄嗟に雪風の両耳を掴んで、違う方向へ向ける。
「変な電波は妨害」
何故かは分からないが、なんとなく変な電波な気がした。確信はない。雪風にいきなり何すんのーなんてどやされるかもしれない。
気のせいなら、それでいい。
でも、なんとなく、直感で。
「ひーたん」
雪風がこっちを見ている。
あ、この顔は。
「うち帰ったら耳外せよ」
やっぱり、当たってた。
変な電波拾ってやがったな。
「うん」
さっきとは一変して、雪風はどことなく、嬉しそうだ。
なんだなんだ、どうしたって言うんだ。
「ひーたんすき!」
「はいはい」
訳は分からないが、とりあえず、うるさい雪風に戻ったから一先ず良しとする。
*----------*----------*----------*----------*----------*
ヤヒコさんのお宅の「うさぎコンビ」の「ひーたん」こと、北月日京の方。
お題は「金木犀、手紙、梨」でした。
お誕生日に何がいいか、となったときに求められたのが「うさぎの二次創作」だったので、軽率に二次創作しましたが、うさぎコンビが分かる人じゃないと分からない話になっていますので、ご注意ください。
こちらが同じお題の「うさぎコンビ」の「うさぎ」こと、南野雪風の方。
雪風から見たひーたん
学校の廊下を下駄箱に向かって歩いていると、突然雪風が金木犀のことを口にした。
確かに金木犀の香りだ。この独特な香りを間違えるはずはない。
「もう秋なんだなぁ…って!梨!」
もう夏は過ぎゆき、季節は秋に移り変わっている、と考えたところで、途端に思い出した。
「梨?」
隣を歩いている雪風がその声に反応して顔を窺ってくる。
そう、梨。あの梨。果物の梨。美味しい、瑞々しい梨。
「金木犀が咲いてるってことは、梨の旬が終わってるんだよ。あー今年は食べ損ねたー」
毎年この時期の梨を楽しみにしていたが、今年は何をしていたのか食べ損ねてしまった。今年は家に梨が無かった、というのはどうも考えにくい。ということは、知らない間に食べられているのだろう。完全に忘れられたな。
「ひーたんは物知りさんだね」
雪風が満面の笑みで笑う。
その満面の笑みが、少し引っ掛かった。
「来年、一緒に食べような」
雪風の頭に手を置き、そう言うと、雪風の表情が若干強張った。
多分、良いことは考えていない。でも、その内容が全て分かるほどの読心術を身に付けてはいなかった。
「えっ」
下駄箱に着いてみると、奇妙なことに手紙が一通。
いや、まさか、そんな。
「ひーたんにラブレター!」
一瞬心の中で思ったことを、雪風が大きな声で吐き出した。
いや、確かに見た目はどう見ても雪風が言った通りのものだが、このご時世にラブレターを下駄箱の中に入れるような古風な女子はいるのか。
これが本当に自分宛ならば、果し状の可能性もなくはないが、そもそも、果し状を貰うほどの存在感も心当たりもない。
「どうしよう、どこのうさぎからだろう、ひーたんは渡さないんだから!」
「どこのうさぎって、うさぎ前提かよ」
一人でプチパニックを起こしている雪風をいつものように宥めたが、ラブレターや果し状があり得ないのと同じ位、差出人がうさぎである可能性はあり得ないだろう。
仮にうさぎからの手紙だとしても、うさぎは一人いれば充分だ。
その手紙の封筒を裏返してみると、知った名前が書かれていた。
「やっぱ入れ間違いだな」
なんと、このような古風なことをする女子が本当にいたようだ。今時珍しい。だが、残念なことに一つ右隣の下駄箱に入るはずだった手紙のようだ。
右隣の下駄箱へ入れ直してから、靴を持つ。
「帰るぞ、雪風」
帰り道、気にしてみるといたるところから金木犀の香りがする。
秋本番だな、と思いながらふと何気なく、いやに大人しい雪風を見た。
その瞬間、何か嫌な予感がした。
咄嗟に雪風の両耳を掴んで、違う方向へ向ける。
「変な電波は妨害」
何故かは分からないが、なんとなく変な電波な気がした。確信はない。雪風にいきなり何すんのーなんてどやされるかもしれない。
気のせいなら、それでいい。
でも、なんとなく、直感で。
「ひーたん」
雪風がこっちを見ている。
あ、この顔は。
「うち帰ったら耳外せよ」
やっぱり、当たってた。
変な電波拾ってやがったな。
「うん」
さっきとは一変して、雪風はどことなく、嬉しそうだ。
なんだなんだ、どうしたって言うんだ。
「ひーたんすき!」
「はいはい」
訳は分からないが、とりあえず、うるさい雪風に戻ったから一先ず良しとする。
*----------*----------*----------*----------*----------*
ヤヒコさんのお宅の「うさぎコンビ」の「ひーたん」こと、北月日京の方。
お題は「金木犀、手紙、梨」でした。
お誕生日に何がいいか、となったときに求められたのが「うさぎの二次創作」だったので、軽率に二次創作しましたが、うさぎコンビが分かる人じゃないと分からない話になっていますので、ご注意ください。
こちらが同じお題の「うさぎコンビ」の「うさぎ」こと、南野雪風の方。
雪風から見たひーたん
くんくん。この独特な匂いは。
学校の廊下を玄関に向かって、ひーたんと一緒に歩く。
中庭の金木犀がこの独特な匂いの正体だ。開いている窓から抜けてくる。
「ひーたん、金木犀の匂いがするね」
もう秋なんだなぁ、つい最近まで夏だったのに。
秋の次は冬が来て、そして、春が来る。
あと、少し。
「もう秋なんだなぁ…って!梨!」
感傷に浸っていたひーたんが大声で叫ぶからちょっと驚いた。
「梨?」
梨ってあの、梨?果物の梨?
隣で歩いているひーたんの顔を窺う。
「金木犀が咲いてるってことは、梨の旬が終わってるんだよ。あー今年は食べ損ねたー」
食べ損ねたことが残念そう。
そうなんだ。それでひーたんは残念がってるのか。今年はもう終わってるなら、また来年のお楽しみだね。
「ひーたんは物知りさんだね」
そう言ってひーたんに向けて笑うと、ひーたんは何かを考えているようだった。
あ、これは。
ひーたんの手が俺の頭の上に乗る。
「来年、一緒に食べような」
来年の、約束。
『一緒に』が出来ないはずの来年の約束。
来年の春、俺はもう、ここから。
「えっ」
思考が引きずられそうになっていたところに、ひーたんの声が響く。
ひーたんが、自分の下駄箱から一通の手紙を出した。
これは、まさか!
「ひーたんにラブレター!」
ひーたんに!ラブレター!ラブレター!
「どうしよう、どこのうさぎからだろう、ひーたんは渡さないんだから!」
「どこのうさぎって、うさぎ前提かよ」
なんでひーたんはそんなに冷静なの!俺というものがありながら、他のうさぎからのラブレターだよ!
なんてぎゃーぎゃー叫ぶ俺をほぼ無視し、ひーたんは特段浮かれることもなく、ただただ冷静で、その手紙の封筒の両面をじろじろと見てる。
「やっぱ入れ間違いだな」
そう一言呟いて、その横の下駄箱を開けて、その中に手紙を入れた。
あとは何事もなかったように下駄箱から靴を取り出して、帰り支度を進める。
どうやら、ラブレターはラブレターでも、ひーたんに宛てたものではなかったらしい。ひーたんが入れたすぐ横の下駄箱はなんて人だったかな。
「帰るぞ、雪風」
ひーたんが、俺を呼ぶ。
いつもと同じように。
帰り道を歩いていても、どこからか金木犀の匂いがする。
本当に、秋なんだなぁ。
来年の秋もまた金木犀の匂いが、
あ、来た。
お前は雪子の代わりで、それ以上でもそれ以下でもない。また、それ以内でもそれ以外でもないんだよ。お前は来年の春にはこの場から居なくなって新しい場所で新しいお前をーーー
「変な電波は妨害」
ひーたんが、俺の耳を持って違う方向に向けた。
その瞬間、電波が遮断されて、我に返った。
「ひーたん」
視線を上げて思わず、ひーたんを見つめる。
ひーたんは、ちょっと不服そうな顔をしてるみたい。
なに、ひーたん。どうしたの。俺、変な顔してる?
「うち帰ったら耳外せよ」
ぶっきらぼうだけど、どこか優しげな言葉。
気付いてくれた。
「うん」
守って、くれた。
それが、その事実が、俺の胸と目尻を熱くする。
あぁ、もう!
「ひーたんすき!」
「はいはい」
ひーたんは気付いてないと思うけど、今、本当に、すごく嬉しいよ。
ありがとう、ひーたん。
*----------*----------*----------*----------*----------*
ヤヒコさんのお宅の「うさぎコンビ」の「うさぎ」こと、南野雪風の方。
お題は「金木犀、手紙、梨」でした。
お誕生日に何がいいか、となったときに求められたのが「うさぎの二次創作」だったので、軽率に二次創作しましたが、うさぎコンビが分かる人じゃないと分からない話になっていますので、ご注意ください。
こちらが同じお題の「うさぎコンビ」の「ひーたん」こと、北月日京の方。
ひーたんから見た雪風
学校の廊下を玄関に向かって、ひーたんと一緒に歩く。
中庭の金木犀がこの独特な匂いの正体だ。開いている窓から抜けてくる。
「ひーたん、金木犀の匂いがするね」
もう秋なんだなぁ、つい最近まで夏だったのに。
秋の次は冬が来て、そして、春が来る。
あと、少し。
「もう秋なんだなぁ…って!梨!」
感傷に浸っていたひーたんが大声で叫ぶからちょっと驚いた。
「梨?」
梨ってあの、梨?果物の梨?
隣で歩いているひーたんの顔を窺う。
「金木犀が咲いてるってことは、梨の旬が終わってるんだよ。あー今年は食べ損ねたー」
食べ損ねたことが残念そう。
そうなんだ。それでひーたんは残念がってるのか。今年はもう終わってるなら、また来年のお楽しみだね。
「ひーたんは物知りさんだね」
そう言ってひーたんに向けて笑うと、ひーたんは何かを考えているようだった。
あ、これは。
ひーたんの手が俺の頭の上に乗る。
「来年、一緒に食べような」
来年の、約束。
『一緒に』が出来ないはずの来年の約束。
来年の春、俺はもう、ここから。
「えっ」
思考が引きずられそうになっていたところに、ひーたんの声が響く。
ひーたんが、自分の下駄箱から一通の手紙を出した。
これは、まさか!
「ひーたんにラブレター!」
ひーたんに!ラブレター!ラブレター!
「どうしよう、どこのうさぎからだろう、ひーたんは渡さないんだから!」
「どこのうさぎって、うさぎ前提かよ」
なんでひーたんはそんなに冷静なの!俺というものがありながら、他のうさぎからのラブレターだよ!
なんてぎゃーぎゃー叫ぶ俺をほぼ無視し、ひーたんは特段浮かれることもなく、ただただ冷静で、その手紙の封筒の両面をじろじろと見てる。
「やっぱ入れ間違いだな」
そう一言呟いて、その横の下駄箱を開けて、その中に手紙を入れた。
あとは何事もなかったように下駄箱から靴を取り出して、帰り支度を進める。
どうやら、ラブレターはラブレターでも、ひーたんに宛てたものではなかったらしい。ひーたんが入れたすぐ横の下駄箱はなんて人だったかな。
「帰るぞ、雪風」
ひーたんが、俺を呼ぶ。
いつもと同じように。
帰り道を歩いていても、どこからか金木犀の匂いがする。
本当に、秋なんだなぁ。
来年の秋もまた金木犀の匂いが、
あ、来た。
お前は雪子の代わりで、それ以上でもそれ以下でもない。また、それ以内でもそれ以外でもないんだよ。お前は来年の春にはこの場から居なくなって新しい場所で新しいお前をーーー
「変な電波は妨害」
ひーたんが、俺の耳を持って違う方向に向けた。
その瞬間、電波が遮断されて、我に返った。
「ひーたん」
視線を上げて思わず、ひーたんを見つめる。
ひーたんは、ちょっと不服そうな顔をしてるみたい。
なに、ひーたん。どうしたの。俺、変な顔してる?
「うち帰ったら耳外せよ」
ぶっきらぼうだけど、どこか優しげな言葉。
気付いてくれた。
「うん」
守って、くれた。
それが、その事実が、俺の胸と目尻を熱くする。
あぁ、もう!
「ひーたんすき!」
「はいはい」
ひーたんは気付いてないと思うけど、今、本当に、すごく嬉しいよ。
ありがとう、ひーたん。
*----------*----------*----------*----------*----------*
ヤヒコさんのお宅の「うさぎコンビ」の「うさぎ」こと、南野雪風の方。
お題は「金木犀、手紙、梨」でした。
お誕生日に何がいいか、となったときに求められたのが「うさぎの二次創作」だったので、軽率に二次創作しましたが、うさぎコンビが分かる人じゃないと分からない話になっていますので、ご注意ください。
こちらが同じお題の「うさぎコンビ」の「ひーたん」こと、北月日京の方。
ひーたんから見た雪風
「あつい…!」
夏ど真ん中の昼間は御天道様がかんかん照りで、蒸し暑いことこの上ない。
ただ暑いだけならばまだしも、湿気まであると余計暑苦しくて仕方がない。
「夏だからな」
そんな分かりきったことを言うこいつは全然暑そうではなく、寧ろ涼しげだ。昔からそういうやつで、暑い暑いと騒いでいるのはいつも自分ひとりだけだ。
「クーラー…」
夏休みなのは学生だけで、親は仕事の日々。日中に家にいるのは息子ひとりとあれば、クーラーの使用許可など出るわけもない。扇風機を独り占めすれば充分だろうと言われている。親はこいつがいることを知らないのだからそれも仕方がないと言えばその通りだ。
「扇風機で我慢しろ」
そして、それを知っているこいつは容赦がない。うちの方針は昔から変わらないからだ。
扇風機では限界があることを知らないのか。扇風機の前で声を出すのを楽しむほど、子供ではない。
「夜になったらいくらか涼しくなる」
それはそうだろう。そんなことは百も承知だが、今この瞬間の暑さから逃げる方法ばかり考えている。
冷凍庫の扉を開けて、中に入っていたアイスを取り出して頬張る。
今の暑さを取り急ぎなんとかするにはこれが一番効果的だ。
「なぁ、星見に行かね?」
天の川とはいかなくても、この時期の星空は綺麗だ。本当は冬の方が空気が澄んでいて綺麗だというが、冬に星を見ようとは思わないところを考えると、夏の星空が好きなんだろう。
「今日は綺麗に見れるってさ」
そんなことを、朝のニュースでニュースキャスターが言っていた。
アイスを齧りながら視線を向ける。
なんて、言うだろうか。
いや、考えるだけ無駄だ。
こいつは、必ずこう言う。
「行こっか」
いつもと同じ顔で笑いながら言った。
「…涼しい」
「川の近くだしな。川のせせらぎもいい感じだ」
星見をするならばここが一番、という取って置きの場所は昔から変わらない。視界が開けていて、高い建物がなく、寝転びながら星空を一望できるのはこの辺りではここだけだ。林というのか、森というのか、ここは緑に囲まれていて、とても居心地がいい。幼少期に遊び回っていた頃から何も変わらない、それがとても気に入っている。
川のせせらぎに、虫の声、花が揺れる音。
喧騒のない静かな空間。
「………いつまで、いれんの…」
自分で思ったより、小さい声になってしまった。本当に呟くように、小さな声だった。それでも、こいつには多分聞こえてた。
「お前が望むまでずっと」
静かにそう呟く。
本当に、本当に望むまでずっと一緒にいれたら、どれだけいいだろう。
どれだけ、それを望んだだろう。
でも、現実は甘くないことを知ってしまっている。知らない子供のままでいたかった。
「ほんとに?」
縋るように声を出す。
こいつの眼を見ていたい。
こいつの顔を眼に焼き付けたい。
こいつの全てを、刻み付けたい。
「…ごめんな」
眉を下げ、困ったような顔をして、謝られた。
謝ってほしいわけじゃない。
そんなこと、望んでないんだ。
謝られたら、そんなことを言われたら、一気に涙が溢れそうになってしまう。
たった一言、その一言でこんなにも心動かされる。
「ずっと、見てるよ。お星様になって」
それは、小学三年生のとき、こいつの母親がこいつに最後に言った言葉だ。
わかっている。
いつまでも続かないこと。
どうしようもないこと。
もう、二度と逢えないこと。
「…おいてくなよ…」
そう告げた瞬間、流れ星が通ったことを知る術はなかった。
*----------*----------*----------*----------*----------*
こちらもお世話になっている、ヤヒコさんへ捧げました。
お題は「星、扇風機、せせらぎ」でした。
ヤヒコさんが思った以上に気に入ってくださって、漫画にもなっています。
タイトルはヤヒコさんが漫画にしてくださったときのタイトルをそのまま拝借。
ヤヒコさんの素敵漫画はこちら↓
夏の星と逢瀬を
夏ど真ん中の昼間は御天道様がかんかん照りで、蒸し暑いことこの上ない。
ただ暑いだけならばまだしも、湿気まであると余計暑苦しくて仕方がない。
「夏だからな」
そんな分かりきったことを言うこいつは全然暑そうではなく、寧ろ涼しげだ。昔からそういうやつで、暑い暑いと騒いでいるのはいつも自分ひとりだけだ。
「クーラー…」
夏休みなのは学生だけで、親は仕事の日々。日中に家にいるのは息子ひとりとあれば、クーラーの使用許可など出るわけもない。扇風機を独り占めすれば充分だろうと言われている。親はこいつがいることを知らないのだからそれも仕方がないと言えばその通りだ。
「扇風機で我慢しろ」
そして、それを知っているこいつは容赦がない。うちの方針は昔から変わらないからだ。
扇風機では限界があることを知らないのか。扇風機の前で声を出すのを楽しむほど、子供ではない。
「夜になったらいくらか涼しくなる」
それはそうだろう。そんなことは百も承知だが、今この瞬間の暑さから逃げる方法ばかり考えている。
冷凍庫の扉を開けて、中に入っていたアイスを取り出して頬張る。
今の暑さを取り急ぎなんとかするにはこれが一番効果的だ。
「なぁ、星見に行かね?」
天の川とはいかなくても、この時期の星空は綺麗だ。本当は冬の方が空気が澄んでいて綺麗だというが、冬に星を見ようとは思わないところを考えると、夏の星空が好きなんだろう。
「今日は綺麗に見れるってさ」
そんなことを、朝のニュースでニュースキャスターが言っていた。
アイスを齧りながら視線を向ける。
なんて、言うだろうか。
いや、考えるだけ無駄だ。
こいつは、必ずこう言う。
「行こっか」
いつもと同じ顔で笑いながら言った。
「…涼しい」
「川の近くだしな。川のせせらぎもいい感じだ」
星見をするならばここが一番、という取って置きの場所は昔から変わらない。視界が開けていて、高い建物がなく、寝転びながら星空を一望できるのはこの辺りではここだけだ。林というのか、森というのか、ここは緑に囲まれていて、とても居心地がいい。幼少期に遊び回っていた頃から何も変わらない、それがとても気に入っている。
川のせせらぎに、虫の声、花が揺れる音。
喧騒のない静かな空間。
「………いつまで、いれんの…」
自分で思ったより、小さい声になってしまった。本当に呟くように、小さな声だった。それでも、こいつには多分聞こえてた。
「お前が望むまでずっと」
静かにそう呟く。
本当に、本当に望むまでずっと一緒にいれたら、どれだけいいだろう。
どれだけ、それを望んだだろう。
でも、現実は甘くないことを知ってしまっている。知らない子供のままでいたかった。
「ほんとに?」
縋るように声を出す。
こいつの眼を見ていたい。
こいつの顔を眼に焼き付けたい。
こいつの全てを、刻み付けたい。
「…ごめんな」
眉を下げ、困ったような顔をして、謝られた。
謝ってほしいわけじゃない。
そんなこと、望んでないんだ。
謝られたら、そんなことを言われたら、一気に涙が溢れそうになってしまう。
たった一言、その一言でこんなにも心動かされる。
「ずっと、見てるよ。お星様になって」
それは、小学三年生のとき、こいつの母親がこいつに最後に言った言葉だ。
わかっている。
いつまでも続かないこと。
どうしようもないこと。
もう、二度と逢えないこと。
「…おいてくなよ…」
そう告げた瞬間、流れ星が通ったことを知る術はなかった。
*----------*----------*----------*----------*----------*
こちらもお世話になっている、ヤヒコさんへ捧げました。
お題は「星、扇風機、せせらぎ」でした。
ヤヒコさんが思った以上に気に入ってくださって、漫画にもなっています。
タイトルはヤヒコさんが漫画にしてくださったときのタイトルをそのまま拝借。
ヤヒコさんの素敵漫画はこちら↓
夏の星と逢瀬を
ふわふわ、揺れる。
ふわふわ、ふわふわ、揺れる。
白い綿毛。蒲公英の綿毛。
寒冬の冷たさを乗り越え、迎える暖春の風はとても心地よく、蒲公英の綿毛が揺れているのを眺めながら、もう春なのだと心が感じていた。
屋敷の部屋からは決して見ることは出来ないが、春の暖かさに誘われて、散歩をしようと庭に出たのは間違いではなかった。
蒲公英の群れは揃って白い綿毛を纏っている。
春というのは、様々な植物が姿を見せるとてもよい季節だ。その時季にしか出会えぬ花や草木は心を和ませ、穏やかにしてくれる。
少し強めの風が吹くと、蒲公英の綿毛が飛び出した。風に乗り、ふわふわと。
目の前を飛び去った綿毛は森の方へと進んでいた。
ふと、思い出す。
昔は、まだ幼い頃は、森はとてもよい遊び場だった。自然に触れ、降り注ぐ太陽の光のもと、時間の許す限り戯れたものだ。
久方振りに、あの森に入ってみよう。森の木々と、戯れたい。
そうと決まれば森に入るのが楽しくなる。綿毛を追い掛け、森の中へと足を進める。
「お客さんなんて、珍しいね。」
森の中へと足を進めると、なんとも不思議なところへ出た。昔はこんなところ、あっただろうか、と考える。何度も訪れたはずの森が、懐かしくもあり、初めて訪れた場所のような感覚すらする。
一目見ただけで、性別はわからなかった。顔も声も中性的で、身なりも、全体的に見て格式高いものではない。寧ろ、布一枚を羽織ったような簡素なものだ。年は同じくらいかもしれない。腕の中に持たれた溢れるほどの鮮やかな花がガーベラの花であることだけ辛うじて理解出来た。
何故この森の中に、いるのかすら分からない。
ただ、目が離せなかった。
目を、逸らすことが出来なかった。
雷が落ちたように、という表現を、以前本で読んだことがある。それを初めて実感した。そんなこと本当にあるわけがないと思っていた自分が間抜けに思えるほど、その表現は今の自分に最も適していると思った。
「そういえば、魔女がなにか言っていたような。」
とても優しい顔で、とても柔らかい声で、こちらを見る。
この暖かい春の日差しの中、氷漬けになったかのように動けない。動く気すら失せてしまう。ずっと、このままで、ずっとこのまま、永遠に見ていたいと思ってしまう。
魔女とはなんのことなのだろう。いや、そんなこと、どうだっていい。
腕の中に収まっているガーベラの花が揺れる。色鮮やかに。ひらひらと。
ガーベラの花言葉はなんだったっけ…。
最近読んだ本に載っていた気がする。確か色別の花言葉があって、色別ではなく、ガーベラとしての花言葉もあったのだ。なんだったのか、思い出せない。脳が思考を停止せてしまっている。
「あぁ…『運命が歩いてくるよ』だった。」
ふわり、と笑った。
その瞬間、雷どころの騒ぎではなくなった。天変地異だ。己の中の何かが変わってゆく。
あぁ、これは、一言で表すならばーーー。
「ということは、君が『運命』なのかな?」
ーーーーーーあぁ、思い出した。
ガーベラの花言葉は「希望」だ。
ということは、この子が、『運命』であるのと同時に『希望』なのだ。
そう、直感的に理解した。
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お世話になっている創作畑のヤヒコさんへ、捧げました。
お題は「ふわふわ、ガーベラ、森」でしたが、ガーベラがお題にあるのに、蒲公英を出したのは失敗したな、と思いました。
これはもうちょっとどうにか出来ただろうに…いつか大幅に加筆修正をしたいです。
ふわふわ、ふわふわ、揺れる。
白い綿毛。蒲公英の綿毛。
寒冬の冷たさを乗り越え、迎える暖春の風はとても心地よく、蒲公英の綿毛が揺れているのを眺めながら、もう春なのだと心が感じていた。
屋敷の部屋からは決して見ることは出来ないが、春の暖かさに誘われて、散歩をしようと庭に出たのは間違いではなかった。
蒲公英の群れは揃って白い綿毛を纏っている。
春というのは、様々な植物が姿を見せるとてもよい季節だ。その時季にしか出会えぬ花や草木は心を和ませ、穏やかにしてくれる。
少し強めの風が吹くと、蒲公英の綿毛が飛び出した。風に乗り、ふわふわと。
目の前を飛び去った綿毛は森の方へと進んでいた。
ふと、思い出す。
昔は、まだ幼い頃は、森はとてもよい遊び場だった。自然に触れ、降り注ぐ太陽の光のもと、時間の許す限り戯れたものだ。
久方振りに、あの森に入ってみよう。森の木々と、戯れたい。
そうと決まれば森に入るのが楽しくなる。綿毛を追い掛け、森の中へと足を進める。
「お客さんなんて、珍しいね。」
森の中へと足を進めると、なんとも不思議なところへ出た。昔はこんなところ、あっただろうか、と考える。何度も訪れたはずの森が、懐かしくもあり、初めて訪れた場所のような感覚すらする。
一目見ただけで、性別はわからなかった。顔も声も中性的で、身なりも、全体的に見て格式高いものではない。寧ろ、布一枚を羽織ったような簡素なものだ。年は同じくらいかもしれない。腕の中に持たれた溢れるほどの鮮やかな花がガーベラの花であることだけ辛うじて理解出来た。
何故この森の中に、いるのかすら分からない。
ただ、目が離せなかった。
目を、逸らすことが出来なかった。
雷が落ちたように、という表現を、以前本で読んだことがある。それを初めて実感した。そんなこと本当にあるわけがないと思っていた自分が間抜けに思えるほど、その表現は今の自分に最も適していると思った。
「そういえば、魔女がなにか言っていたような。」
とても優しい顔で、とても柔らかい声で、こちらを見る。
この暖かい春の日差しの中、氷漬けになったかのように動けない。動く気すら失せてしまう。ずっと、このままで、ずっとこのまま、永遠に見ていたいと思ってしまう。
魔女とはなんのことなのだろう。いや、そんなこと、どうだっていい。
腕の中に収まっているガーベラの花が揺れる。色鮮やかに。ひらひらと。
ガーベラの花言葉はなんだったっけ…。
最近読んだ本に載っていた気がする。確か色別の花言葉があって、色別ではなく、ガーベラとしての花言葉もあったのだ。なんだったのか、思い出せない。脳が思考を停止せてしまっている。
「あぁ…『運命が歩いてくるよ』だった。」
ふわり、と笑った。
その瞬間、雷どころの騒ぎではなくなった。天変地異だ。己の中の何かが変わってゆく。
あぁ、これは、一言で表すならばーーー。
「ということは、君が『運命』なのかな?」
ーーーーーーあぁ、思い出した。
ガーベラの花言葉は「希望」だ。
ということは、この子が、『運命』であるのと同時に『希望』なのだ。
そう、直感的に理解した。
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お世話になっている創作畑のヤヒコさんへ、捧げました。
お題は「ふわふわ、ガーベラ、森」でしたが、ガーベラがお題にあるのに、蒲公英を出したのは失敗したな、と思いました。
これはもうちょっとどうにか出来ただろうに…いつか大幅に加筆修正をしたいです。