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2026/04/05 00:48 |
赤と黒の蝶  其の漆 終始
空は綺麗に快晴で、とても気持ちのいい春の朝。午前九時、南条邸のインターフォンが鳴り響いた。
「はい。南条でございます。」
千代が相手を待たせぬようにと三回コールでインターフォンの電話に出る。すると向こう側からまだ若い男の声がする。その男は電話先の千代に何か話しかけたらしく、千代はとても懐かしげに
「お久しぶりでございます。」
と対応した。そして門を開け、玄関までの障害物をなくす。すると、その男は南条邸へと入ってきた。玄関先で履いてきた黒い靴を脱ぎ、千代が用意したスリッパを履き、軽く千代に挨拶をする。
「本当に久しぶりですね。前に会ったのはいつでしたっけ?」
男は二十代後半から三十代前半にかけてという見積もりが妥当という姿をしていて、黒い背広に黒い鞄を持っている。その男が来たと分かり、二階の自室から階段を下りて来た紫蓮はその男に向けて柔らかな笑みと言葉を渡す。
「お久しぶりです。兄さん。」
紫蓮はこの男のことを〝兄さん〟と呼んだ。だが、紫蓮に血の繋がった実の兄などはいない。それならば、この男は誰なのか。その答えは出ていない。男は階段を下りてきた紫蓮を見て、珍しいものを見たような顔をした。そして軽く手を上げ、紫蓮に挨拶をする。
「よぉ、紫蓮。久しぶりだな。何年ぶりだ?」
軽く言った男に紫蓮は階段を下りながら問われた問いの解答を放つ。
「両親が死んで、いろいろとあったとき以来ですね。」
つまり、両親が死んでからは一度も会っていないということになる。いろいろというのは、両親が死んで、遺産のことや会社のことや紫蓮の引き取り手のことなど、親族の間でかなりの争いがあった親族戦争のことを指す。紫蓮が階段を下りきり、玄関先にいた男の前に行くと、その男は笑いながら紫蓮の頭に手を置き、何度か叩く。
「そうか。そんなにもか。どーりで紫蓮がでかくなってる訳だ。」
そう言った男の顔は、とても嬉しそうだった。男は散々紫蓮の頭を叩いた後、側にいた千代に〝いつもの〟を応接室に持って来るように頼み、紫蓮と共に応接室へと消えた。

「それで?お前が俺を呼ぶってことは、何かあるんだろ?お前の手に負えないことが。」
応接室に入り、ソファーに座り一息ついたとき、即座に言われた言葉。そしてここぞとばかりに、俺に調べ事までさせて。という嫌味まで付いていた。そう言われるとその通りなので何も言えない。そんなに何もかも見通している男に、調べてもらったこととこちらの事情やあったことの全てを話す。途中、千代が男の〝いつもの〟と紫蓮の〝いつもの〟を持ってやって来たが、その持って来たものを受け取り、話を押し進める。受け取った〝いつもの〟を飲み核心に至る。
「ふーん。そんなことがあったんだ。だから俺に調べさせたんだな。」
「はい。」
足を組んで踏ん反り反っている男に紫蓮は申し訳なさそうに答える。男はそんな紫蓮を見て、少し溜め息を吐き、持って来た鞄の中の書類を出す。そして束になっている書類の一番上の紙を捲り、今から本文を読もうというとき、呟くように声を漏らした。
「お前の知りたいことが全て分かるだろうぜ。」
その後、男は調べて来たことを書類に眼を通しながら話し始める。
紫蓮の両親が盗んだと疑われていたこの赤と黒の蝶は、これを造った彼女自身が恩人である紫蓮の両親に手渡したもので、老人が勝手に盗まれたと勘違いしたのだということ。
紫蓮の両親は彼女に、彼女の両親の死因が、会社の社長をしていた両親の社長の椅子を狙った役員に仕組まれて殺されたのではないか、という疑問があり、調査してほしいという依頼の仕事があり、調査し、無事犯人を逮捕に導いて恩人と思われていたこと。
紫蓮の両親は、盗んだと勘違いしていたあの黒い蝶の老人に依頼と称して呼び出され、殺されたこと。老人がそんな思い込みをしたために、莎子まで巻き込んだこと。
廃墟の跡地に残ったものは小さな金庫が一つ。その中に預金通帳と老人が書いたものと思われる手記が入っていたという。
謎になっていたこと全てが分かり、紫蓮は胸を撫で下ろす。男は書類を机の上に置き、足を組み換え腕を組む。
「それで、事件について知りたいことはここまでだろ。」
今回の一件について、謎は全て解けただろう。紫蓮の両親が赤と黒の蝶を盗んだのではないことや、莎子もあの老人に偽りを教えられていたことが分かった。もう情報で得るものはないと言える。そんなとき男が、不意に紫蓮に違う話を振ってきた。
「お前、警察の事情聴取に行かなかっただろ。」
紫蓮は『後日改めて任意で伺います。』という結論を出した。そして警察の上層部である、警視総監に申し出、許しを得た。
「あ、はい。また後日、改めて行こうかと。」
その一部を男に言うと、男は眼を瞑り、
「その必要はない。既に丁重に断りを入れた。」
と放った。既に南条は関われないということを言ったのだという。いくら警察でも任意を強制することは出来ない。そのための任意なのだ。
男はカップに入っている〝いつもの〟を飲み、紫蓮をじっと見る。その視線に気付いた紫蓮は男の思っていることを先取りして口から出した。
「…もう一つの頼み事の件ですか。」
もう一つ。紫蓮は男にこの事件自体とは別に違うことも調べるように頼んでいたのだという。その紫蓮が頼んだこととは一体何なのか。その答えは意外と早く訪れた。
「あの娘(むすめ)のことを調べてどうするつもりだ?」
男が放った〝あの娘〟とは莎子のことを指している。紫蓮はこの男に事件のことと同時に莎子のことも調べさせていた。莎子の本名、年齢、生年月日、本籍地、親類関係など情報という情報を全て集めるようにと頼んだのだ。紫蓮がなかなか口を開かず言葉を出さないため、男は溜め息を吐いた。
「別に、お前のしたいようにすればいいさ。」
男のこの言葉を聞いて、紫蓮は覚悟を決めた。言おう言おうと思っていてずっと言えなかったこと。この件についての真相と莎子のことを調べてもらい、その結果によっては言おうと思っていたこと。
「兄さん。」
思い切って言う。紫蓮の眼にもう迷いはない。男が何と言うか、それを考えるばかりだ。だが、これだけは譲れない。小さく深呼吸をして、男を見据える。
「莎子の保護者になってもらえませんか。」
この言葉を聞いた男は眉を潜め〝解せない〟という表情をしている。そのまま紫蓮の言葉に耳を傾け、焦らず話の続きを聞こうとする。その意図が理解出来、紫蓮は構わず話を続ける。
「莎子には身寄りが居ません。ですから、この家に住まわせたいんです。」
紫蓮の放ったことに、男は無表情で紫蓮を見据えた。左肘をソファーの手すりに置き、頬に拳をあてる。
「それは、お前の保護者が俺だから、か?」
男は紫蓮の全てを見透かしたように問う。この問いに紫蓮は静かに、だが確かに答える。
「はい。」
紫蓮の両親は既に故人のため、親族は次期当主の肩書きを持つ紫蓮と莫大な財産手に入れたいだけに紫蓮を引き取りたがった。だが、紫蓮にしてみれば血縁関係を述べられても面識のない親族たちばかりで、誰のところにも行きたがらなかったのも事実。そんなとき、一番身近で信頼の置ける唯一の親族が彼だったのだ。実際、紫蓮は彼を選んだが、彼は紫蓮を束縛することもなく、紫蓮の好きなようにさせている。財産を管理するのも彼ではなく全て紫蓮が行い、保護者のサインが必要なときは速達で書類を送り、彼のサインを貰う。彼は紫蓮の親族の一人で姓も〝南条〟を使っているため、不可解に思われることや、怪しまれることもなかった。当時、彼が紫蓮の保護者になったとき、彼はまだ若く、何をするにもこれからというときだったが、彼も紫蓮の保護者になることを快く承諾したため、互いの希望があり彼が紫蓮の保護者に決まった。そんなことがあり、男は紫蓮の意見を一番に尊重する。
「お前がそうしたいなら構わねぇが、それはあの娘を俺の養女にするってことか?」
紫蓮の言葉を確認するとすぐさま次の問いを発した男は、莎子を自分の養女にするのか。と聞いた。すると紫蓮は表情を変えることもなく、素早く問いかけに答えた。
「そこまでは考えていません。」
「嘘を言うな。」
〝嘘〟この言葉に神経が反応する。即座に〝嘘〟と断言する男は紫蓮のことを見透かしているようだ。そして続けざまに核心を突く。
「お前は俺が断らないのを知っている。況してやいつも人を頼らないお前が、そう頼んで来るってことは、あの娘のことをそれほど大事にしているってことだ。…違うか?」
全てを聞いたあと、紫蓮は男から視線を逸らし、俯く。そして張っていた気を抜いたのか、軽く息を吐き、小さく笑い呟く。
「…流石、ですね。」
伊達に経験を積んではいない。南条を名乗る者なら、確実に身に付けておかなければならない技術だ。この技術は普段の会社勤めのときも役に立つ。だが、その教えは並大抵のものではない。男は紫蓮が放った言葉に当然の如く突っ返した。
「当たり前だ。俺だって兄貴に鍛えられたんだからな。」
「父は容赦ない人ですからね。兄さんだって父の従弟(いとこ)じゃなかったらもっと優しく教えてもらえたでしょうに。」
少し呆れるように言う紫蓮の顔には笑みが溢れていた。この言葉で男が紫蓮の父の従弟だということが分かった。紫蓮のいう兄が男のことで、男のいう兄が紫蓮の父のことなのだ。
男は手に持っていた〝いつもの〟を口元へと持って行き、口を湿(しめ)すほどに口にする。
「確かにそうかもな。でも、兄貴のお陰で今の俺があるんだ。兄貴には感謝することばかりさ。」
この男も紫蓮同様、幼いうちから探偵として鍛えられたのだろう。少ない期間で南条と探偵としての力を使い、莎子のことを調べ上げた実力は本物だ。
そして、男は反れていた話を元に戻す。
「…それで、どうするつもりだ。お前のことだからあの娘の意見を尊重するんだろ。」
莎子をどうするのか。養女にするにしても、ただ保護者になるにしても、当事者なのは紫蓮で男でもなく莎子だ。莎子の意見を尊重しなければ何の意味もない。
「莎子に聞いてみます。」
莎子がどう言うかは分からないし、南条に関わることを望まないかもしれない。施設に入ることやそのまま死ぬことを望むかもしれない。莎子の人生だ。莎子に決めさせてやるのが筋というもの。紫蓮は俯き、考え込むような素振りを見せた。全ては莎子に。
男もそんな紫蓮に気付いたのか、〝いつもの〟を飲み干すと立ち上がり、荷物を手に取った。
「そうか。じゃ、とりあえず俺は帰るからな。また何かあったら連絡して来い。」
優しく言われ、とても暖かい気持ちになる。久しぶりに温もりに触れたような、そんな優しい感覚。その感覚は両親の感覚に似ている。
「はい。」
紫蓮がそういうと、男は部屋を出て、近くで違う仕事をしていた千代に軽く挨拶をして南条邸を去った。紫蓮が連絡すればまたすぐに駆けつけるのだろうが、まずは片付けなければならないことを片付けてからだ。男が去ったため、部屋に残ったのは紫蓮一人になる。紫蓮は目に視点を持たず、千代がいれた〝いつもの〟を弄びつつ、ゆっくり飲み干すと、座っていたソファーから立ち上がりその部屋を出た。
先程までいた応接室を出た紫蓮は、そのまま二階に上がり、右手の二つ目の部屋の扉を数回叩くと部屋の中へ入った。部屋はフローリングの床の中央に正方形の赤い絨毯が敷かれている。そこには赤い蝶の浴衣ではなく、普通の浴衣を着た莎子が俯いて座っていた。
「莎子。」
紫蓮のノックに返事はしなかったが、紫蓮が名を呼ぶと、顔を上げて紫蓮を呼んだ。
「紫の蝶。」
紫蓮は〝紫の蝶〟と呼ばれたことには何も言わず、ただ一言、
「話があるんだ。」
とだけ言い、莎子に話をする。
まず、莎子の両親のこと、姉のこと、赤と黒の蝶のこと。
莎子の誤解を解き、真実を伝える。すると莎子はいとも簡単に納得し和解してくれた。老人に教えられたことを丸々鵜呑みにしていた訳ではなかったらしい。紫蓮が告げた真実をしっかりと胸に刻んだ。
そして、紫蓮が莎子に確かめなければならないこと。これからのこと。
引き取り手のない莎子を施設や他の家にはやらず、この南条で面倒をみたいということ。
両親のいない莎子の保護者に紫蓮の保護者がなってくれて、必要ならば養女になること。
保護者は紫蓮の親族で、南条で一番信じられる人物だということ。
住んでいるのは紫蓮だけで、この家に莎子にいてほしいということ。
学校にも話を通し、行きたければ行けるように努力すること。
考えられること全てを莎子に伝えた。そして最後に莎子の意思を問う。
「莎子は、どうしたい?」
紫蓮が問うと、莎子は驚くように眼を見開き、言葉を返した。
「お前と、ここで暮らす…?」
予想外の反応に紫蓮も眼を見開く。紫蓮の予想は、もっと違う反応をすると思っていたのだ。紫蓮は眼を元に戻し、莎子の意見を仰いだ。
「あぁ。嫌?俺なんかと一緒に暮らすのは。」
莎子は女で、紫蓮は男。そういう意味で不安なのは分かる。そして、つい先日まで敵対していた関係だ。そんな相手の家になど、住みたくないかもしれない。莎子は紫蓮の眼を見据え、静かに呟くように言った。
「…あたしには行くところがない。ここにいていいのなら、ここにいたい。あたしは、お前に興味がある。紫の蝶。」
莎子は自らの口でここにいたいと告げる。それを知った紫蓮は安堵の色を浮かべ、優しく笑う。
「じゃあ、決まりだな。…莎子。それと俺の名前は〝紫蓮〟だ。〝紫の蝶〟じゃないからな。」
最初に逢ったときにフルネームを呼ばれたきりで、それからは名前ではなく〝紫の蝶〟と呼ばれていた。そのことを改めて思い出し、莎子に釘を刺す。すると莎子は繰り返し紫蓮の名を呼び続ける。
「し、れん…?…シレン、しれ、ん………紫蓮。」
莎子は紫蓮を名前で呼び、最後には紫蓮を見つめ、優しく笑いながら名を呼んだ。それを見て、紫蓮も再度優しく笑い、満足気な顔をする。そして、莎子の黒く長い髪に触れる。
「そう、紫蓮。さて、他にもしなくちゃいけないことがいっぱいだけど、とりあえず、よろしく。莎子。」
紫蓮が髪を弄びながら言うと、莎子もそれに答える。
「…よろしく、紫蓮。」
そう言う莎子は、とても美しく、紫蓮が見惚(みほ)れるほど凛々しくもあった。その真っ直ぐな強い眼に、吸い込まれてしまいそうなくらい、紫蓮は莎子に囚われている。
「あぁ…そういえば、聞きたいことがまだあるんだ。…俺が三才のとき、階段から落ちたこと、どうして知ってるんだ?」
ずっと疑問に思っていたことを問うと、莎子はしばらく考え込み、記憶の中を旅する。
「落ちたこと…?………あぁ、あれか。」
問いかけの答えを見つけたのか、記憶を辿るように話す。
「あれは、お姉ちゃんがお前の両親に依頼を頼んだとき、あたしを見てお前の両親が漏らしたんだ。『同い年の息子がいて、三才のとき階段から落ちたんだ。』って。」
「そうか。」
今、生(せい)を受けている中では保護者と祝だけだと思っていたが、両親が生きていたうちなら話は別だ。探偵ならば個人情報を漏らすものではないと思うが、今思っても後の祭だ。
そう思っていると、南条宅のインターフォンが鳴り響いた。千代が対応しているが、訪ねて来た来訪者の正体は次の言葉で明らかになった。
「しれーん!」
この声は、明らかに情報屋をしている親友の、河村祝。紫蓮のことを名前で呼び捨てにする人物も、数限られている。
「祝だ。ちょっと待ってて。」
莎子を部屋に残したまま、廊下に出て階段を下りると、玄関先には祝がいて、にこやかに笑っていた。
「どうしたんだよ、祝。」
階段を下りきってから問いかけると祝はにこやかな笑みを変えることなく、
「会いに来たんだよ。紫蓮とあの娘(こ)、莎子チャンだっけ?二人に。」
と告げた。
「俺と莎子に?」
先程下りきった階段を今度は祝を連れて上り始め、問いかけるように言うと、祝は笑顔で答える。
「そぉそ、莎子チャンかあいいよねぇ~。」
〝かあいい〟は〝かわいい〟という意味らしく、祝がよく使う言葉で、紫蓮もよく言われている。実際、莎子はかわいいというより綺麗という分類なのだが、祝は綺麗よりかわいいという印象を得たのだろう。
「祝、莎子のこと、部外者には漏らすなよ。」
紫蓮が茶化すことなく真剣にそう言うと、祝はその気迫を感じたのか、真剣に答えた。
「解ってるよ。もちろん。」
階段を上りきり、莎子がいる部屋の扉を数回軽く叩き、返事が来る前に扉を開ける。それは、莎子が返事をしないと分かっているからだ。扉を開けると窓を見ていた莎子の視線が二人に集中する。
「莎子、河村祝。俺の親友だ。」
「こんにちは、莎子チャン。」
紫蓮が祝を紹介し、その紹介に乗じて祝が挨拶をすると、莎子はまた窓を見て、返事も挨拶もしない。心配になった紫蓮が莎子の名を呼ぶ。
「…莎子?」
紫蓮の声に莎子はただ一言、自分の気持ちを放った。
「あたしは、紫蓮以外の男と話す気はない。」
この言葉に驚いたのは祝だけではなかった。紫蓮ですら驚き、祝に至ってはショックを露にする。
「え!…俺、嫌われた…?」
明らかなショックを受けた祝は、今にも泣きそうな顔をしている。それを見かねた紫蓮は莎子の傍に行き、莎子の目線に合わせ、視線を合わせる。
「そう言うな、莎子。祝は俺が認めた男だ。逆に言えば、俺と祝、それから兄さん以外の男は信じなくていい。」
そう言うと、莎子は渋々了承をした。
「…分かった。」
莎子がそう言った同時に南条邸の電話が鳴り響いた。千代が電話に出て対応しているが、この家に住んでいるのは紫蓮一人のため、必然的に電話の宛人は紫蓮だろう。紫蓮がそれを察し、部屋を出て廊下に姿を現すと、それに気付いた千代が二階の廊下にいる紫蓮を見て上げる。
「紫蓮坊ちゃま、お電話でございます。花山さまと仰る方から…。」
受話器の口を手で覆い、〝花山〟という者からの電話だと伝えた。だが、千代は名前に覚えがないらしく、不安そうな顔をしている。
「花山?花山…?―――!」
紫蓮は名字を口にし、記憶の中を彷徨う。すると、思い当たる人物を見つけたのか、声を張り上げて名を叫ぶ。
「花山来夏!」
思い当たる人物を確信し、階段を使わずそのまま二階の廊下から飛び下り、一階廊下にある電話の受話器を千代から奪うように受け取り、冷たく鋭く話す。
「何の用だ。」
凄むような声を出した紫蓮に驚きながらも、千代は使用人の立場を弁え、その場からゆっくりと去る。電話の相手は紫蓮と然程変わらない年頃の少年のようだ。
『久しぶりだな。南条紫蓮。今回の件、俺の方からも手を回した。いくら南条の力を使っても、国家機関を操るには骨が折れる。こっちで言い包めておいた。これでその娘の転入も難なく可能になっただろう。』
相手の少年は国家機関を操ったかのような口振りで、紫蓮に有無を言わさず話を進める。痛いところを突き、紫蓮の反応を伺う。
「何故そのことを知っている。」
知る限りの機関や考えられる場合を考慮し、出来る限りの暗黙を行使した。少年が何故このことを知っているのか分からない。そういう意味を含み問いかけると、予想が出来た答えが返ってきた。
『俺を嘗めるな。あのとき、あの場所には大勢の野次馬がいた。あの状況からそれくらい知れて訳ない。』
確かにそうだ。この少年を嘗めてしまったのは紫蓮の過失。この少年は得体が知れない。それは紫蓮自身が一番分かっていたはずなのに。紫蓮は自分の失態に唇を甘噛みする。
「じゃあ、何故こんなことをする。頼んだ覚えはない。」
紫蓮がそう突き放すも、少年は動じることなく、ただ一言。
『貸しを作るためさ。』
天下の南条に貸しを作っておくのも悪くない。この貸しはいつか返してもらう。
その一言に言葉が出ない紫蓮は勝てないと思ったのか、妥協案を出した。
「…勝手にしろ。」
それだけ言うと、相手に挨拶もせず勢い良く受話器を置いた。二階から飛び下りたというのに、紫蓮は足を痛めた様子もなく、少々の苛々を隠しきれず、電話を見つめ舌打ちをする。
「紫蓮、今の誰?俺の知らない人だよな。」
二階の廊下から一階にいる紫蓮に問いかけたのは祝だった。紫蓮はその言葉に驚くことはなく階段へ向かい、そのまま祝に言い放った。
「あいつには関わるな。」
紫蓮がいつもとは違い、かなり苛つき、怒っていることが分かり、紫蓮の怒りに触れないために本心を述べた。
「紫蓮がそう言うなら詮索はしないさ。」
紫蓮がそういうなら、俺は従うよ。と言うかのような素振りを見せて、祝はその場を落ち着かせた。階段を上りきった紫蓮は祝と共に莎子のいる扉を開けた。
「莎子。」
そう呼びかけると、莎子は二人を見渡し、紫蓮に視線を向ける。
「紫蓮。」
祝には、今の二人はお互いしか見えていないということが痛いほど分かり、その場から退散することを決めた。
「じゃ、俺帰るな。二人に会いに来ただけだし。」
そういい、笑顔を見せる。
「あぁ、じゃ、」
「いいよ。莎子チャンの傍にいてやれ。じゃ、またな。」
紫蓮が送るという前に、祝はそれを先取り、必要ないと制止する。そして笑顔を残したまま部屋を去り、南条邸を後にする。しばらくは扉を眺めていた紫蓮だが、莎子の一言で我を取り戻す。
「紫蓮。」
呼ばれた瞬間に我を取り戻し、振り返り莎子を見る。そして、無意識のうちに莎子を呼ぶ。
「莎子。」
そして、莎子の傍に寄り、莎子に触れられる所まで近付き、一番近い所に座る。その瞬間、紫蓮の長袖口が揺れ、それにより莎子の眼に入ったものが、莎子の心をこの上ない程揺さぶった。
「これは…、あたしが付けた傷…。」
莎子の眼に映ったのは、あの廃墟で莎子が付けたナイフの切創(せっそう)の痕。それほど深くはないが、量が多く痛々しい。その一部に優しく触れ、なぞりながら聞くと、紫蓮は予想通りのことを言った。
「これくらい平気。」
平然とした顔で言い、余裕そうに笑みも見せる。その顔が、莎子に罪悪感を募らせる。
「…ごめ…ん、なさい。」
莎子は俯き、眼に涙が溢れ始める。紫蓮を殺そうとしたのはあの老人に言われたから。騙されていたのだと分かった今、紫蓮への申し訳ないという負い目で涙が溢れてくる。だが、紫蓮はそんなことを気にしてはいない。莎子には、あの老人しか縋る者がいなかったのだと、割り切っている。
「謝ることない。そうだ。これは莎子に返すよ。」
紫蓮は思いついたように首から架けていた赤と黒の蝶を外し、俯いていた莎子の顔を上げるように促し、顔を上げた莎子に見せる。
「これ…。」
莎子の姉が初めて造り、紫蓮の両親に譲った、赤と黒の蝶。ペンダントと指輪、ピアスの三点セットの作品の一つだ。
「莎子が持ってた方がいい。あと、これも。」
それに引き続き、左手の中指に嵌めていた指輪も外し、莎子に渡そうとする。
「紫蓮!」
莎子は名を呼ぶことで紫蓮を制止しようとした。だが紫蓮はその制止を押しきり、はっきりと告げる。
「いいんだ。でも、これだけはいいか?ないと落ち着かないんだ。莎子は穴開けてないし。」
髪が触れている右耳のピアスに指を添える。それを見た莎子は、紫蓮から眼を逸らすように横を向き、また涙を流す。
「紫蓮…あたしは、紫蓮を傷付けてばかりだ…。」
莎子の紫蓮に対する負い目が消えず、寧ろ強まってしまう。紫蓮が気丈に振る舞えば振る舞う程、罪悪感が生まれる。そんな感覚がとてつもなく嫌になる。泣きながら呟いた言葉に紫蓮は素早く反応し、莎子がこれ以上苦しむことのないように優しく諭す。
「莎子、今までのことは気にするな。新しくここから始めよう。」
その言葉に、莎子の中の何かが変化し、形を変えた。涙を溢れ流しながら紫蓮にしがみつき、長袖の裾を握り締めるように掴む。そして、子供のように泣いた。今までを全て捨てることは出来ないけれど、紫蓮の気遣いが何より嬉しかった。しばらく紫蓮の胸で声を出して泣き、泣き疲れた莎子は静かに眠っていた。紫蓮はそのまま浴衣姿の莎子を抱き抱え部屋のベッドに寝かせ、軽い掛布団を掛けて部屋を出た。部屋を出て、そのまま階段を下りると階段下には心配そうな顔をしている千代がいた。莎子の泣き声が聞こえたらしく、心配を隠しきれない。
「紫蓮坊ちゃま。」
心配そうな様子は紫蓮を呼ぶ声にも出ている程明らかだ。紫蓮は千代と一定の間隔を持った後、千代に言った。
「お願いが…あるんです。…もう一度、この家に住み込んでもらえませんか?」
突然の紫蓮の願いに、千代は呆然と、ただただ紫蓮を見ているだけで、言葉が出ない。紫蓮は今まで以上に真剣な顔をして、千代に正式な願い入れとして接した。真剣な眼差しをし、その眼差しは覚悟の眼差しだった。
「莎子には、あなたが必要なんです。あなたが昔使っていた部屋なら有ります。そこを自由に使っていただいて構いません。…俺じゃ出来ないこともある…。だから、」
紫蓮の真剣な言葉を聞き、千代は話の途中で紫蓮の言葉を遮る。紫蓮の覚悟を感じたのか、それからの言葉を止めた。そしてその言葉に対しての返答をする。
「紫蓮坊ちゃま。…分かりました。坊ちゃまがそこまで仰るのならば、またこの家にご厄介になります。」
そういい、千代は深々と頭を下げる。その行動に習い、紫蓮も深々と頭を下げた。そして礼の一言。
「ありがとうございます。」
互いに頭を上げ一息吐くと、先に言葉を放ったのは千代だった。
「紫蓮さま。…また一回り、ご成長なされましたね。」
その言葉に意表を付かれたかのように驚き、眼を丸くする。そして、千代の紫蓮に対する呼び方が〝紫蓮坊ちゃま〟から〝紫蓮さま〟になっていることに気付き、途端に嬉しくなる。
千代が呼び方を子供向けから一人前のように呼ぶのは、もう成人と認めてくれるからだと代々教わって来た。その千代が、紫蓮を新しく呼び直すことは、成人と認めてくれたということ。先代である紫蓮の父でさえ、二十を越えるまで直してもらえなかったという。この事実が嬉しく、ついつい、紫蓮の顔には笑みが溢れる。そして、振り返り、玄関へと歩き始めながら、千代に向けて言葉を放つ。
「いつまでも子供じゃいられませんからね。」
玄関の扉を明けて、大きく青い空と白い雲を見上げる。そして大きな庭を見渡し、花が列なる花壇の中に、小さくも健気に生きる花を見付ける。名前も知らない花だが、その花を眺めて再び笑みを溢す。
すると、その花壇の花の蜜を求め、蝶が二匹飛んでいた。その二匹の蝶を見て、紫蓮の顔には今まで以上の笑みが溢れる。蜜を求め飛んでいた二匹の蝶は、赤と黒の蝶だった。
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2017/05/24 19:27 | 創作男女 / 赤と黒の蝶

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