連日の雨で湿った空気、今にも雨が降りそうな環境の中、人の通らない街外れの廃墟の前に来たのは、南条紫蓮だった。
黒のシャツの上に黒の羽織物を着崩し、パンク系のパンツ。胸には赤と黒の蝶つがいのペンダントが光り、右耳にも同じデザインのピアス。左手の中指にも同じデザインの指輪が嵌められている。約束通り、紫蓮は〝一週間後の金曜日〟この場所を訪れた。
廃墟は錆び付いていて、所々大きく欠けている。図体は意外に大きく、数多とある全南条邸総面積の十分の一ほどはある。だが、鉄の錆び付いた臭いと廃墟独特の臭いが鼻を突く。長年雨風に晒されていたせいか、今にも崩れてしまいそうな出で立ちだ。
「ここか…。」
この独特の雰囲気に飲み込まれそうだが、そう言ってもいられない。この場所に来れば両親の〝本当〟の死因が分かるというのだ。自分が知っている両親の死因は焼死。両親は火事の家の人を助けようと見知らぬ家に入り、炎に身体を蝕まれて死んだ。顔も判らないほど焼けていてやっと残った歯で歯形を調べ、両親であることが判った…と、これだけだ。
勿論、こんな理由をそのまま鵜呑みにしていた訳ではない。だからこそ、真実が知りたかった。雨雲がゆっくり北北西に進む中、紫蓮は決意を新たにした。ここは立ち止まるべき場所ではない、と。そして足を進めた。
廃墟の中に入ると外に居たとき以上に錆び付いた鉄の臭いがした。このきつい悪臭のせいで、既に鼻の感覚がない。辺りは見るからに廃墟というに相応しいものだった。この悪天候の中、灯りも点いていないため、廃墟の中は薄暗い。だが、一歩先が見えない訳ではない。最低限分かることもある。廃墟は横にも奥にも広い。高さもそれなりにはある。広く大きい横幅は全てを見渡すのに時間がいるほどだ。見渡してみると、辺りには硝子が割れて落ちているものがあった。よく見ると、その原形はフラスコや試験管のようで、元薬品会社という肩書きは嘘ではないらしい。奥はどこまでも続いている印象があり、先は暗がりの闇に覆われて見えない。ただ、扉があってもおかしくないところに扉はなく、わざと外してあるようにも見えた。柱も錆び付いていて、屋根も黒ずみ、ひび割れもある。外にいるときは気付かなかったが、中に入ると錆びに混じりまた違った異臭がする。薬品の臭いなのか、若しくは故意に放っている臭いなのか。鼻の感覚がないため、錆びと共にする臭いの正体が判らない。
いつも人の行動を観察する紫蓮は、人だけではなく辺りの建物や動植物にまで観察の眼を向けるようになった。その観察力が今、本当に活かされた自分をこんなところに誘った誘い主は何故この場所を指定したのだろうか。こんな廃墟、この地区に住んでいる人でも存在を知らない。そんな廃墟だ。この錆びきった古い廃墟の中に誘い込み、急に落ちて来た屋根の下敷きになれと言う気なのか。得体の知れない奴だ。いきなりそう言い、こちらを動揺させるつもりなのかもしれない。
いろいろと考えていると、前方先五十メートルの地点に人がいるのが見えた。観察力を養っている紫蓮にはそれが〝あの少女〟とは別人だと判別することが出来た。身長百五十センチ前後の痩せ型で浴衣を着ており、杖をついている老人。性別は男。これらのことを瞬時に頭の中に入れ、相手を見極めた。
こいつが莎子の言った爺様…〝黒い蝶〟か…。
そう思ったのも束の間で、紫蓮の予想以上に早く、老人ははっきりと視界に入って来た。老人の歩く歩幅は紫蓮が思っていた老人という枠の中から飛び出すものだったからだ。その老人は紫蓮の前方十メートル地点で止まり、早々に口を開いた。
「待っていたよ。紫の蝶。」
唐突に挨拶をされたが、それは挨拶と呼べるものではなく、紫蓮の不快感を誘うものだ。故意なのか自然に出たものなのかは定かではないが、紫蓮が反撃をするには充分の要素があった。紫蓮は露骨に嫌な顔をして前髪をかき上げながら言った。
「俺は〝紫の蝶〟ではなく〝南条紫蓮〟なんだが。」
この言葉に目の前の老人は紫蓮を嘲笑うかのように返答した。
「勿論分かっている。そしてお前が今日ここに来た理由は、」
「あんたが知っている俺の両親のことを包み隠さず全て話せ。」
老人の言葉を遮ってまで自分でその続きを述べた。
何よりも、自分の両親の秘密を知っているというのが気に入らない。両親は紫蓮にとって数少ない尊敬する存在だった。それに、紫蓮の両親は各界で知られた著名人、そんな両親をこの世から奪い去ったものが憎くて堪らない。
紫蓮に台詞を先読みされた老人は次の言葉を用意していたのか、紫蓮の行動に動じず淡々と話を進めた。
「まぁいい。教えてやろう。」
明らかに紫蓮より優位に立ったように振る舞う。この態度も紫蓮の怒りを逆撫でするのには充分過ぎた。紫蓮は怒りと苛立ちを押さえ切れなかった。
「お前が全て仕組んだことなのか!」
思わず口から出てしまった言葉。だが紫蓮はこの言葉を出したことを後悔はしていないし、むしろもっと言ってやりたいと思っているくらいだ。紫蓮の勢い付いた問いかけに老人はゆっくりと答えた。
「お前の両親を殺したのは儂だ。」
この一言で、老人が放ったたった一言で、紫蓮の思考回路は冷静沈着から素早く〝違うもの〟に切り替わってしまった。こんなことを言われて落ち着いて居られるほど、紫蓮は人間が出来ていない。普段の紫蓮はどこかに消えてしまっている。
そういう状態になることが相手の思う壺だとしても、何気なく放っていた手が拳になる。怒りが全身から溢れ出し、抑えが利かない。もう制御することが出来ない。
「お前が…、お前がっ!」
意味がないと解っていながらも、二人称を何度も続ける。両親を殺した奴が、今、目の前に。抑え切れない感情を無理矢理抑えつけ、獣が吠えるような低い声で言葉を放った。
「理由は何だ…!」
意味もなくだなんて言わせない。言わせるものか。金か、南条家の莫大な財産か。
だが両親が死んだ後、南条家の金が必要以上に動いたことはない。それに腑に落ちないのは両親が死んで四年も経っているということ。死後直後ならともかく、もう四年も経っている。何故今頃になってなのか、その意図が解らない。だが、そんなことに気をかけられるほど、紫蓮は冷静ではない。今にも目の前の老人に殴り掛かるかというときだった。老人が紫蓮の予想外のことを口走った。
「呪われた浴衣の話を聞いたのだろう?」
呪われた浴衣…?河村が言っていた…あの浴衣!
最初はこのことの意味を理解するのに少し時間が掛かった。だが、すぐにそれが祝の言っていた〝赤い蝶の浴衣〟のことだと解り、この話に反応する。
「あの浴衣は呪われた浴衣だ。」
老人がそう言ったのが、頭の中に強く残った。
「浴衣…赤い、蝶の、浴衣…。」
何か、引っ掛かる。何か。何処かで、赤い浴衣を…。
「あ!」
そう思った瞬間、思い出した。
赤い浴衣。あの日、〝赤い蝶〟と名乗った少女、莎子は赤い浴衣を着ていた。そして、莎子は自分のことを〝紫の蝶〟と呼んだ。莎子とこの老人に繋がりがあることは分かっていたはずなのに。そう思ったとき、この場に莎子がいないことに改めて気付く。
「あの娘(こ)は、莎子は!莎子はどうした!?」
大きく叫び散らしたことに老人が深く感心していたのが分かった。そして紫蓮を嘲笑うかのように笑い、紫蓮に言った。
「紫の蝶よ。赤い蝶は自分の名を名乗ったのか?」
その言葉の意味は聞かなくても分かる。この老人は紫蓮の両親が本業と共に探偵も兼業していたことを知っているのだ。
紫蓮の両親が初めて出会ったのは探偵としての会合があるときだったらしい。既に祖父の息子として各界に知られていた父は、各界の南条の仕事を必要以上にこなし、探偵業もしていた。南条という家の肩書きを捨ててでも探偵をしたいから。と祖父を説得したらしい。そして同じ探偵業をしていた母と出会い、結ばれたのだと聞いた。両親が探偵をしていたという事実から、紫蓮は探偵の心得を持っていて、尚且つ、探偵の知り合いもいる。
そのため、〝赤い蝶〟から莎子を導き出したのか。という意味だったのだ。
だが、そんなことはしていない。明らかに情報不足だったからだ。その事実を隠すつもりはなかったが、老人はそのことを先読みしていたらしく、含んだ笑みを見せていた。
「まあ、いくら南条でも情報が少な過ぎたか。」
最早、少な過ぎたという問題ではない。手掛かりすらないのだ。探せる訳がない。老人とのやり取りで、紫蓮の中に冷静ないつもの紫蓮が少しずつ戻って来る。
「…何が言いたい。」
そう凄みを利かせて言うと、老人はそれを軽く受け流した。やはり亀の甲より年の甲というだけあって、かなりの山場を乗り越えて来たのか、人生のいろはも知らない子供一人の凄みなど恐るるに足らん。と思っているのだろう。
「何でもないさ。」
と軽く嘲笑った。老人はそう言ったが、紫蓮にはとてもそうだとは思えない。すると老人は紫蓮の様子を観察し、言葉を放つ。
「莎子が着ているのは正真正銘、呪われた赤い蝶の浴衣だ。」
この言葉を聞いた紫蓮は莎子と初めて会ったとき、莎子が赤い浴衣を着ていたことを再度思い出した。あのときは夜で辺りも暗く、蝶の模様が判別出来なかったため、蝶の浴衣だとは知らなかった。あの呪われた浴衣。情報屋の祝ですら現在所在が分からないという浴衣を莎子が着ている。恐らく、莎子が着ている浴衣を留めている黒い帯も噂の黒い帯なのだろう。
ふと老人を見ると、先程からは想像もつかない悲しげな顔をしていた。そのときは何が理由なのか分からなかったが、その後すぐに聞いたあの言葉が真実なのだろう。とても悲しそうな顔の理由は。
「儂の息子が作った…な。」
「息子…?」
紫蓮が問いかけると、老人は一度紫蓮を睨むように見た後、静かに口を開いた。
「お前は南条の息子だ。全てを話してやろう。」
そう言い、老人は赤い蝶の浴衣のことを話した。まるで祖父母が孫に聞かせる、昔話のように。
赤い蝶の浴衣を作った浴衣職人は〝黒い蝶〟と名乗る老人の一人息子だった。
老人は息子が貴金属業者の娘と婚約し、結婚するのを心待ちにしていた。
だが、婚約者の女性が強盗の人質になり、理不尽な最期を迎えてしまった。そのため、浴衣職人である息子は怒り狂い、彼女との思い出が深く残った赤と黒の蝶を象った浴衣を作った。
何故、赤と黒の蝶なのか、それは彼女が貴金属を扱う職人として。初めて自分で造った貴金属の品が〝赤と黒の蝶〟というものだったからだ。まだ試作品でこの世にひとつしかないもので、彼女がその試作品を浴衣職人に見せた後、何者かに盗まれたのだという。
そのことから、本当は結婚したら自分用の黒の蝶の浴衣と彼女用の赤い蝶の浴衣を作り、二人で縁日に出掛けようと思う。と語っていたのだ。だが、婚約者である彼女が死んでしまい、生きる希望を失った浴衣職人は、彼女が死んでから想いを繋ぎ留めるために赤い蝶の浴衣を必死に作った。彼女が着るように。と。そのため、浴衣職人が死に浴衣が人手に渡ると、怨念が染み込んだ浴衣は災いを呼んだ。
その後、いろんなところを回った浴衣は、所有してから一ヶ月以内に持ち主を呪い殺す浴衣として有名になり、その直後行方が分からなくなっていた。
話を一通り聞き終わり、謎は全て解けたかのように見えた。だが紫蓮にはまだ解せないことがあった。深く考え込み、使える頭を精いっぱい回転させ、ゆっくりと言葉を放つ。
「まだ解らないことがある。何故着た者が次々死ぬ中、莎子は死なないのか。まさかまだ一ヶ月未満だからという訳じゃないだろう。それともう一つ、浴衣職人が自分の作品に付けるという印、あれは複製出来ない物だと聞いた。それは何故だ。」
紫蓮は少しの間も空けず、素早く疑問を突き付けたが、紫蓮のこの問いに老人はゆっくりと重い口を開く。
「複製が出来ないのは、血がついているからだ。」
老人のこの言葉に紫蓮は驚きを隠せなかった。血がどうした。という顔をしている。すると老人は続けてこう言った。
「印は、白い布を自分の血で染め、そこにサインの刺繍をし、それを作品に縫い付けていたのだ。」
血…血は世界中にいる全ての生物が違う血を持っている。同じ血を持つ者は居ない。その例外となるのは双子や三つ子といった、産まれながらに持つ自然型クローンだけとなる。そのただ一つの例外である自然型クローンがいなければ複製は不可能だ。
「DNA鑑定をすれば一発で判るということか。」
結論に達し、自分で口に出して言った後、今度は納得の意を表した。
「なるほど。DNAばっかりは誤魔化せないからな。」
血液系の遺伝子だけではなく染色体や身体全体に関わってくることだ。現在の最先端の技術を要しても誤魔化すことは出来ないだろう。だが、浴衣の件が分かっても、莎子が死なない理由はまだ分かっていない。紫蓮は放っていた手を上げ、腕を組む。
「じゃあ、莎子の件は。」
莎子の件が分からなければ、この話に終結はない。老人は返答を止まり、すぐに答えを表に出さなかった。だが、今更隠すこともないと思ったのか、溜め息混じりに言う。
「…莎子は息子の婚約者の妹だ。」
この発言に紫蓮は息を飲んだ。
息子の婚約者の―――。
「妹…!」
紫蓮の驚きとは裏腹に、老人は事情聴取の決定打を見せ付けたかのように言った。
「あの浴衣は彼女と同じ血が流れている莎子には、全く拒絶反応を起こさない。」
一拍置いて、核心を突く発言をする。
「そのため、莎子が死ぬことはない。…現に莎子は一ヶ月以上あの浴衣を着ているが死なない。」
そして、現在状況を含め結論付ける。だが、紫蓮にはまだ納得出来ないことばかりが残る。組んでいた腕を組み直し頭の中を整理する。
「…その話が全て本当だとしよう。じゃあ疑問が残らないか?」
頭の中を整理した結果、このことに気がついた。
「莎子はどうしてあんたと行動を共にしている。姉が死のうが生きようが両親と一緒に暮らせばいいことだろ。」
この老人と一緒にいる意味はない。況してや、姉が死んだショックで余計に両親を求めたりするものだ。そのことを突いてみると、老人は思いがけないことを口走った。
「莎子の両親は莎子が十のときに死んでいる。…莎子は姉である彼女と二人で暮らしていたのだ。」
数秒という間を空け、次の言葉を出したとき、紫蓮は莎子との繋がりを感じた。
両親が居ない。残されたのは自分だけ。
紫蓮の側には千代がいて、莎子の側にはこの老人がいたが、それでも埋められない悲しさや寂しさがあるものだ。紫蓮は元々一人っ子で兄弟が居ない寂しさがあり、莎子は莎子で姉妹として姉がいたにも関わらず、急に死んだ寂しさがある。
そう思っているときに、老人の顔付きが変わってきたのが分かった。顔だけではなく、眼までもが、何か夥しいものを感じさせる。何か、良くないものが来る。探偵をしていた両親の元で育ったためか、洞察力には優れている紫蓮だからこそ、分かった感覚かもしれない。老人が紫蓮を睨みつける。その眼は如何にも人を一人殺したような、恐ろしく冷たい眼をしている。
「そして、その彼女の試作品を盗んだのが、お前の両親だ。」
老人が放ったこの一言に動揺が隠せなかった。嘘だという可能性も充分にある。老人の言葉が全て真実とは限らない。だが、面と向かってそう断言されると、流石に苦しいものがある。頭の中で老人に言われたことが木霊する。
そして、口から飛び出した言葉は、老人の放った言葉を自分の立場に置き換えたものだった。
「俺の両親…!」
この言葉を聞いた老人は、ここぞとばかりに紫蓮を攻め立てる。鬼の形相で紫蓮を見ては、怒りをオーラとして醸し出している。
「そして、今、お前が身に着けているそれが彼女の造った試作品〝赤と黒の蝶〟だ。」
この言葉に紫蓮が今まで以上の反応を示す。
先程両親が盗んだと言われたものは、息子の婚約者が造ったという作品は、両親の遺品として、財産の一部として相続した、この赤と黒の蝶だったのか。つがいの赤と黒の蝶のピアスに、ペンダント、そして指輪。この蝶たちが。
そう思い、胸の前で組んでいた腕を自由にし、左手を目の前に持って来て、中指に嵌めてある指輪を見つめる。そして右手は右耳にしているピアスに触れさせる。そして改めて実感するのだ。
「赤…と、黒、の…、―――蝶…!」
この蝶たちが、赤と黒の蝶だということを。
この蝶たちが、両親の物だったということを。
この蝶たちが…―――!
パニックになりながら、身に着けている蝶たちを眺めていると、妙な感覚に襲われた。その感覚を感じたのは直感だったが、自分の直感には自信がある。探偵をしていた両親に鍛えられた直感だ。外れる訳がない。と。
その瞬間、老人が着ていた着物から即座にナイフを取り出した。本数は三本。そう認識した直後、老人は勢いよく振りかぶった。
「紫の蝶。その蝶たち、返してもらうぞ!」
そして紫蓮に向けて振りかぶったナイフを投げた。紫蓮は咄嗟の判断でその三本のナイフを避け、後方に飛び逃げる。老人が投げた三本の内、一本は捨て駒で最初から紫蓮に当たるはずがないものだったが、あとの二本は違った。その内の一本は確実に紫蓮の身体、心臓を狙っていた。そしてあとの一本は紫蓮の足を。
老人は若い頃にスポーツをしていたのか、咄嗟の判断で避ける力と両親に鍛えられた直感、そしてずば抜けた運動神経、この中の一つでも紫蓮に欠けていたら、紫蓮は負傷していただろうというほど、正確な投げ口だった。すぐに後退し、身を守った紫蓮だが、予期していなかったいきなりの事態に戸惑い気味だ。
だが、先方は紫蓮の気持ちなど考えてはくれない。すぐさま体制を立て直したそのとき、老人の叫ぶような声がこの広い廃墟に響き渡った。
「紫の蝶を殺せ!」
このとき、再び紫蓮を只ならぬ妙な感覚が襲った。それは、両親から何度も教わった、殺気立った気配。誰かが殺気を持ちながら自分を見ている。そんな気配がした。そして、先程の老人の叫ぶような言葉から一秒も経たないうちに、違う言葉が紫蓮の耳に入り込んで来た。
「莎子!」
この言葉に、必死に感覚と。両親に教え込まれた技術の部屋にいた紫蓮は一気に我に返ることとなった。最初に老人が出て来たこの部屋の向こう側とこの部屋との境界線に、殺気を立てた莎子が俯き、右手にはナイフを持ち紫蓮に姿を見せる。長い黒髪に赤い蝶の浴衣。莎子の身体は赤と黒で埋め尽くされている。部屋と部屋の境界線に立っているのが莎子であることを認識するのに、大して時間は掛からなかった。
「莎子…。」
紫蓮がそう呟くと、莎子は少しの反応を見せた。長い黒髪が廃墟の中に通る風で揺れている。すると莎子は俯いたまま一言呟いた。
「久しぶりだな。」
そして、俯いていた顔を上げ、紫蓮をじっと睨み、囁くような小さな声で言った。
「紫の蝶。」
それだけ言うと、莎子は紫蓮に向けて一直線に走り、ナイフの刃先を紫蓮の顔へ向けた。紫蓮はそんな莎子の攻撃を交わしながら後ろへ向けて後退りする。莎子は無差別に紫蓮を攻撃して、紫蓮の髪の毛先を切り落とし、服を切り裂いてゆく。莎子の無差別な攻撃に上手く対応して身は守っているものの、いつ怪我をしてもおかしくはない状態まで来ている。持久戦になれば、圧倒的に紫蓮の方が不利になる。ただでさえ、莎子はナイフを持っているが、紫蓮は身一つだけ。この状況でも圧倒的に不利なのは紫蓮の方だ。莎子の無差別攻撃を避けながら、余裕のない状態でも紫蓮は莎子に叫ぶ。
「止めろ!莎子!」
だが、その呼びかけが通じる相手ではない。莎子は今、紫の蝶を殺す。ということしか頭にない。それ以外のことが考えられないのだろう。莎子の眼は真剣そのもので、その眼にまで殺気が漂っていた。やっと口が開いたかと思えば言うことはたった一つ。
「死ね!紫の蝶!」
そう言う莎子を何とかするには、気を失わせて戦闘能力を無くさせるのが一番良い方法なのだが、紫蓮には莎子に手を出したくないがために逃げるだけの戦法しかない。だが、紫蓮はこのとき、莎子と戦いながらもある状況の変化に気付いた。
老人がいない。先程まで自分と話をしていた老人が、この場にいない。それと同時に老人と莎子が出て来た奥の部屋から先程までは感じなかった異臭がする。この独特な鼻につく臭いは、――――――!!
「ガソリン!」
異臭の正体が分かった紫蓮は思わずそう叫ぶ。これで老人の考えていることが解った。あの老人はこの錆びきった廃墟に大量のガソリンを撒き散らし、火を放つつもりなのだ。莎子を道連れにしてまで、紫蓮と心中する気なのだと。そんなこと、させる訳にはいかない。況してや自分たちだけならまだしも、莎子まで道連れにするなんて。そう考えているうちに老人はポリタンクを持ち、再び紫蓮と莎子のいるこの部屋に戻って来た。そしてポリタンクの中身を部屋中にぶち撒けていく。
「おい!止めろッ!」
莎子の無差別攻撃を交わしつつ、老人に向けて声を張り上げたが、老人は紫蓮の声が聞こえているにも関わらず、ポリタンクに入ったガソリンを部屋に撒くことを止めはしない。人の声が耳に入らない屍人形のように、ポリタンクを逆さにし、部屋中を駆け摺り回る。
「止めろっつってんだろーがっ!おい!」
言葉遣いが荒くなりつつも必至にそう叫び続ける紫蓮だが、老人に紫蓮の声は届かず、老人はこの状況の最も、最悪なパターンを選ぼうとしていた。
部屋中に撒き尽くしたガソリンの上で、老人は浴衣の袂からマッチ箱を取り出し、その箱の中からマッチを一本取り出す。そしてマッチ箱の背中でマッチを擦る。紫蓮が莎子の対応に追われ、莎子の相手をしているうちにここまでの作業が済んでいて、次に紫蓮が老人を見たとき、既にマッチの先には火が点いていた。この瞬間、紫蓮は全てを理解し、老人に向けて叫ぶ。
「止めろぉーッッ!!」
紫蓮のその言葉と共に、老人は火の点いたマッチをガソリンでいっぱいになった廃墟の床に落とした。
一瞬の出来事だった。
廃墟は一気に燃え上がり、辺り一面を火の海と化す程の燃え上がり方をする。南条邸の総面積の十分の一程ある、錆びきったこの廃墟を丸々燃やし尽くすのに一時間もかからないのではないか。と思える程の炎。
火を点けた張本人である老人は、壊れた人形のように大声で笑い、我を失っていた。最早、自分が何をしたのかも分からないのだろう。ただ燃え上がる炎の中、不気味に笑い続けている。
そしてこの炎の中でも莎子は紫蓮を狙い続ける。ナイフを振り乱しては至るところを切り裂いてゆくのだ。ただ、紫蓮がバランス良く避けているため、未だ致命傷となる大きな怪我や傷はなく、服と共に切り裂かれた肌が数多く存在し、赤く毒々しい血が流れるだけだ。無差別に振りかざす莎子の刃を掻い潜り、多くても切創(きりきず)だけで済むのは日頃訓練受けてきた紫蓮だからだろう。だが、炎が建物をどんどん蝕んでいくため、錆びきった廃墟はいつ崩壊するか分からない。それに燃え盛る炎の中では酸素も限られてくる。早くこの場から逃げないと、一酸化炭素中毒で死ぬという笑えない死に方をすることになるかも知れない。炎に蝕まれて死ぬなど、両親と一緒だ。考えたくはないが、紫蓮の頭にそのことがよぎる。
いち早くこの場から逃げようとするが、莎子はこの場から逃げるよりも紫蓮を殺すことに全神経を集中させている。そのせいか、上手く逃げられない。廃墟の角の方まで逃げるとフラスコや試験管の割れた硝子が落ちている。
「ちっ!」
この危険な廃墟に思わず舌打ちが出る。早くこの場を何とかしたい紫蓮だが、莎子の止まぬ攻撃に顔を歪めるばかりだ。角に行ったのは少しでも休息をするため。角を使って一定の距離感が生まれれば、それこそ攻撃がしにくくなる。そして紫蓮の思い通り、莎子は一定の距離感を持ち立ち止まった。二人が向かい合う。炎が燃え上がり、徐々に酸素が少なくなる。そうなると殺される前に死んでしまう。この状況を何とかするためには、紫蓮がどうしてもしたくなかったことをしなくてはならない。どうしてもしたくなかったが、覚悟を決めた。
「莎子!」
息を精いっぱい吸い込み大声で莎子の名を呼ぶ。莎子は呼ばれたことにより改めて紫蓮を殺すことに集中する。だが、莎子が全神経を紫蓮に集中させることよりも早く、紫蓮が莎子との間合いを縮め、莎子の腹部を拳で殴る。
「う…!」
莎子の呻き声が小さく聞こえ、そのまま莎子は眼を閉じた。そして力の抜けた莎子の身体を紫蓮が優しく包み込むように抱き、出口へと急ぐ。段々と呼吸がし難くなり苦しい。これは早くしないと本当に死にかねない。出口に向かい、廃墟から出ようとしたそのとき、後方から声が聞こえた。
「紫の蝶!」
その声は明らかに老人のもので紫蓮が振り返ると壊れたかのように叫び散らした。
「お前はここで死ぬのだ!」
だが、こんな所で死ぬ気もなければこの老人の言う通りにする気もない。莎子を抱えながら燃え盛る炎の中、紫蓮は老人に向けて、どうしても言いたかったことを言おうと思った。
紫蓮は狂いかけている老人に、冷たく鋭い眼を突きつけ、言葉を放った。
「俺の両親はあんたの思ってるような卑怯な人間じゃないんだ。」
そして、早く逃げた方がいい。とも言い残して燃え盛る廃墟を後にした。
苦しながらもやっとのことで廃墟を出ると、炎とは違った赤い消防車が見えた。そして、警察とロープで仕切られた向こう側には多くの人だかり。その人だかりの中に親友の河村祝の姿がある。祝は廃墟から出て来た紫蓮を確認すると、大声を上げて警察の制止を突っ切り紫蓮の元へ駆け寄った。
「紫蓮!!」
「河村…。」
名を呼んだと同時に紫蓮は地面に膝を付く。そして莎子をゆっくりと地面に寝かせる。再度息の切れた声で祝を呼ぶと、祝は心配の色と安心の色を見せた。そして紫蓮が抱き抱えている莎子に眼が行く。
「…紫蓮、この娘(こ)は…。」
紫蓮が知らない女の子をこの炎の中、どういう経緯で運んで来たのか、また、どうして女の子と一緒にこんな廃墟にいたのか、疑問は尽きない。だが、紫蓮は祝の多々ある疑問に答えることなく、着ていた上着を脱ぎ始めた。
「気絶しているだけだ。すぐに気が付く。」
紫蓮が上着を脱いでいるのを見ると、祝は急に何かを察したのか、勢いよく紫蓮の腕を掴む。
「紫蓮!まさか、中に入る気じゃないだろうな!?」
祝の言葉に違いはない。紫蓮はもう一度中に入るつもりだったのだ。あの老人を連れ出すために。廃墟にガソリンを撒き、火を放った張本人だが、まだ分からないことがある。自分の両親のことを悪く思われたまま死なせる訳には行かない。そう思い、あぁ、行く。とだけ返し、燃え盛る炎の元である廃墟に再び入ろうとしたが、すぐに制止の言葉が掛かった。廃墟に入ることを止めたのは、祝ではなくその場に来ていた消防士だった。
「君!何を言っているんだ!こんな火の海に行こうなんて!」
一般常識からいって、そう言う人の方が多いだろう。こんな炎の中に戻るなんて正気の沙汰とは思えない。
「今、救急車を呼ぶから、君もその娘(こ)も。」
消防士は紫蓮を見ていた眼を斜め下に持っていき、〝その娘(こ)〟に眼を移した。
その娘(こ)というのは地面に横たわっている莎子のことだ。莎子は紫蓮が気絶させたため、意識はないがどこも怪我はしていない。寧ろ莎子の無差別攻撃を受けて怪我をしているのは紫蓮の方なのだ。致命的な傷はないが、かなりの量の切創(せっそう)があり、血が出ているものもが数多くある。
だが、紫蓮の意思は変わらない。早く中に行かないと助からないかもしれない。況してやあの老人は正気を失っていた。あのままこの廃墟の中では焼死してしまう可能性も捨てきれない。
「中にまだ人がいるんだ!行かないと…!」
紫蓮がそう言い、廃墟を見上げると、消防士は紫蓮の前に立ちはだかった。
「駄目だ!中に入ることは許さない!」
「でも中に!中に人がいるんだ!」
「もうすぐ突入班が助けに行く!それまで待て!」
この言い争いの声で、紫蓮に腹部を殴られ気絶していた莎子が眼を覚ます。それに最初に気付いたのは祝だった。そしてすぐさま紫蓮に報告する。
「紫蓮!この娘(こ)が…。」
莎子が眼を覚ましたのを確認すると、寝ている体制から起き上がろうとした莎子の側に行き、莎子の様子を伺う。
「莎子、大丈夫か。」
「お前は…。」
紫蓮の姿を見た莎子は一言呟くと、自分の置かれている立場と状況が飲み込めたのか、燃え盛る廃墟を見上げて大声を上げた。
「爺様!」
その後辺りを見渡すが、老人の姿はない。このとき、すぐに莎子の直感がものを云った。
「まさか…!」
そう言い、近くにいた初対面の祝には眼もくれず、祝の側にいた紫蓮の服を掴んで叫ぶ。
「爺様はどうした!」
どうしたと言われても、老人はまだ燃え盛る廃墟の中だ。しかし、そんなことを言えば、莎子は後先を考えない行動を取るのだろう。そんなことが分かっている莎子に本当のことは言えない。
「答えろ!答えろ!!」
紫蓮が何も答えないため、莎子は何度も紫蓮に回答を促した。だが、紫蓮はずっと黙ったままだ。
答えられる訳がない。老人はまだあの中にいるなんて。
だが、莎子もそれ程馬鹿ではない。周りの状況を見て、物事を正確に判断することが出来る。先程の直感も外れているとは思えない。そんな莎子が、廃墟の中に老人がいるということに気付くのに、然程時間は掛からなかった。
「まさか、本当に…?」
自分の考えと直感を信じ、掴んでいた紫蓮の服を放し、廃墟の中に入ろうとした。莎子の考えと行動に即座に反応した紫蓮が、先程消防士にされたように、今度は莎子の前に立ちはだかる。
「駄目だ。莎子。」
紫蓮が莎子に制止の言葉をかける。だが、莎子はそのことに耳を傾けず、確認のためだけに紫蓮に話しかけた。
「…爺様は、この中にいるのか…?」
そこには、今までの強気な莎子とは違い、不安と恐怖に包まれた弱気な莎子の姿があった。今聞くことは、問いかけることは、それしかないというように。そのときの莎子はとても切なく悲しい顔をしていた。莎子にそんな顔をされたら、紫蓮も黙り続ける訳にも行かない。覚悟を決めて、莎子の問いに素直に答える。
「あぁ、まだ出てきていない。」
紫蓮の答えを聞き、自分の前に立ちはだかる紫蓮を煩わしく思ったのか、無理矢理退かせようとしたときだった。誰かの声がその場にいた全員の耳に入る。
「建物が崩れるぞ!」
誰が放ったか分からないその言葉で、その場はとてつもない混乱に陥る。逃げ惑う者、叫び散らす者、と様々だ。一応、野次馬である一般人は、警察によって施された間合いにより崩れても支障のない距離にいるが、紫蓮たちは違う。
紫蓮はこの言葉を聞いて、自分と祝、そして莎子と自分を止めに入った消防士を含む約四人が、崩れそうな廃墟の一番近くにいるのだと直感で認識し、目の前にいた莎子を抱き抱えて前方へ走る。そして近くにいた祝も、消防士もすかさず前方へと走る。しばらく走っていると、後ろから爆音に近い音が大きな音として聞こえて来た。恐らく、燃え盛る廃墟の柱が炎に耐えきれなくなり、崩れた音。走っているときに、廃墟を見ながら遠ざかった莎子だけが、大声を上げ、泣き崩れていた。
「放せ!爺様ッ!爺様ぁ!」
大勢の野次馬はこの莎子の声を正確に聞き取れただろうか。いや、混乱したこの場で、莎子の声が耳に届いた者がいたかどうかというところだろうか。それ程この場は野次馬と廃墟の崩れ去る爆音で乱れきっていた。
その後、無事消防士たちにより火が鎮火され、辺りは静まり返っていた。ただ鉄の焼ける臭いが鼻に付き、警察により野次馬を仕切るロープが立ち入り禁止の黄色いテープに変化し、張り巡らされているだけで、それ以外は何もない、ただの荒地だ。
この火災事件の当事者である紫蓮は、病院に治療を受けに行くことも、警察に任意で事情聴取を受けることもなかった。
「一体どんな手を使ったんだ?紫蓮。」
「…河村。」
かけられた言葉に反応して後ろを振り返るとそこには親友の祝がいて、祝は紫蓮の左横に並んで立った。
事件の翌日の早朝、まだ日も出ていないこんな朝早くに、一人で来たはずの跡地にいつの間にか祝がいて、二人で跡地を眺めていた。どんな手を使ったのか。と聞かれれば、南条の力を使ったと言うしかないだろう。
南条は日本有数の企業で大滝や浅草寺と共に各界ではずば抜けて名を馳せている。南条の名を使えば、大体のことは全て思い通りになる。実際は紫蓮の父が死んでからは紫蓮が南条家の当主であり、学生で未成年だからという理由で紫蓮が傲って来なかっただけで、南条全体を動かすのに紫蓮の一声があれば充分なくらいだ。だが、警察という国家機関は南条の名を使っても骨を折るものがある。そういうときには、少し悔しいが親の七光りを借りるしかない。紫蓮の両親は南条の家業を守りながら探偵をしていた凄腕の強者だ。探偵として警察に依頼され解決した事件も少なくはない。紫蓮は今回の事件で使えるものは全て使ったのだと言える。
祝の問いには、
「警視総監に連絡して『後日、こちらの問題が片付き次第、日を改めて任意の事情聴取に伺います。』と言っただけだ。」
と全てを言わず、軽く流すだけに留めた。たったそれだけで、祝は満足したのか、それとも紫蓮の語らなかった部分をちゃんと理解しているのか、微笑むように笑い、右横にいる紫蓮の首に右腕をかけた。
「珍しいじゃんか。俺の気配に気付かないなんて。」
そう言われると、改めて自分が呆けながら燃えきった廃墟を見ていたのだと思い知らされる。いつもなら半径十メートル以内にいる人の気配には気付くはずなのに、今日は半径十メートル以内どころか、話しかけられるまで気付かなかった。
「何か、吹っ切れたのか?」
吹っ切れた。確かにそうかもしれない。
両親のことを今まで以上によく考え、何かが吹っ切れた気がする。その吹っ切れたものが何なのかと聞かれると困るが、何かは何かだ。
「で、お前は何で、俺がここにいるって分かったんだ?」
笑いながら祝の方を向き、そう問いかけてみる。すると祝は紫蓮の顔をしっかりと見た後、満面の笑みを見せる。
「何でって、決まってるだろ。紫蓮のことだから、」
「何でも分かる。ってか?」
そう先取って言うと、祝は先程より満足げに笑い、ただ一言、
「あぁ。」
とだけ返した。そのときの祝は普段とは違う嬉しそうな顔をしていた。これを機にもう一つ驚かしてやろうと思いついた紫蓮は、祝の喜ぶことを言ってみた。
「…はじめ。」
久しぶりに親友の名前を呼んだ。名前を呼んだのは何年ぶりだろうか。両親が死んでからは人に関わらないようにしていたため、親友の祝すら名前で呼ぶのを止めていたのだ。祝はどんな顔をしているだろうか。見るまでもないだろうけれど、見てみようか。
祝を見てみると、眼をぱちくりとさせていた。予想はしていたけれど。
「…祝。」
紫蓮は再び祝の名を呼ぶ。二度目でやっと実感が湧いたのか、祝は今までにないほどの満面の笑みを紫蓮に向ける。その笑顔に紫蓮も笑顔を返す。
多分紫蓮は、これから親友のことを昔のように〝祝〟と名前で呼ぶのだろう。紫蓮たちのこれからが楽しみだ。
黒のシャツの上に黒の羽織物を着崩し、パンク系のパンツ。胸には赤と黒の蝶つがいのペンダントが光り、右耳にも同じデザインのピアス。左手の中指にも同じデザインの指輪が嵌められている。約束通り、紫蓮は〝一週間後の金曜日〟この場所を訪れた。
廃墟は錆び付いていて、所々大きく欠けている。図体は意外に大きく、数多とある全南条邸総面積の十分の一ほどはある。だが、鉄の錆び付いた臭いと廃墟独特の臭いが鼻を突く。長年雨風に晒されていたせいか、今にも崩れてしまいそうな出で立ちだ。
「ここか…。」
この独特の雰囲気に飲み込まれそうだが、そう言ってもいられない。この場所に来れば両親の〝本当〟の死因が分かるというのだ。自分が知っている両親の死因は焼死。両親は火事の家の人を助けようと見知らぬ家に入り、炎に身体を蝕まれて死んだ。顔も判らないほど焼けていてやっと残った歯で歯形を調べ、両親であることが判った…と、これだけだ。
勿論、こんな理由をそのまま鵜呑みにしていた訳ではない。だからこそ、真実が知りたかった。雨雲がゆっくり北北西に進む中、紫蓮は決意を新たにした。ここは立ち止まるべき場所ではない、と。そして足を進めた。
廃墟の中に入ると外に居たとき以上に錆び付いた鉄の臭いがした。このきつい悪臭のせいで、既に鼻の感覚がない。辺りは見るからに廃墟というに相応しいものだった。この悪天候の中、灯りも点いていないため、廃墟の中は薄暗い。だが、一歩先が見えない訳ではない。最低限分かることもある。廃墟は横にも奥にも広い。高さもそれなりにはある。広く大きい横幅は全てを見渡すのに時間がいるほどだ。見渡してみると、辺りには硝子が割れて落ちているものがあった。よく見ると、その原形はフラスコや試験管のようで、元薬品会社という肩書きは嘘ではないらしい。奥はどこまでも続いている印象があり、先は暗がりの闇に覆われて見えない。ただ、扉があってもおかしくないところに扉はなく、わざと外してあるようにも見えた。柱も錆び付いていて、屋根も黒ずみ、ひび割れもある。外にいるときは気付かなかったが、中に入ると錆びに混じりまた違った異臭がする。薬品の臭いなのか、若しくは故意に放っている臭いなのか。鼻の感覚がないため、錆びと共にする臭いの正体が判らない。
いつも人の行動を観察する紫蓮は、人だけではなく辺りの建物や動植物にまで観察の眼を向けるようになった。その観察力が今、本当に活かされた自分をこんなところに誘った誘い主は何故この場所を指定したのだろうか。こんな廃墟、この地区に住んでいる人でも存在を知らない。そんな廃墟だ。この錆びきった古い廃墟の中に誘い込み、急に落ちて来た屋根の下敷きになれと言う気なのか。得体の知れない奴だ。いきなりそう言い、こちらを動揺させるつもりなのかもしれない。
いろいろと考えていると、前方先五十メートルの地点に人がいるのが見えた。観察力を養っている紫蓮にはそれが〝あの少女〟とは別人だと判別することが出来た。身長百五十センチ前後の痩せ型で浴衣を着ており、杖をついている老人。性別は男。これらのことを瞬時に頭の中に入れ、相手を見極めた。
こいつが莎子の言った爺様…〝黒い蝶〟か…。
そう思ったのも束の間で、紫蓮の予想以上に早く、老人ははっきりと視界に入って来た。老人の歩く歩幅は紫蓮が思っていた老人という枠の中から飛び出すものだったからだ。その老人は紫蓮の前方十メートル地点で止まり、早々に口を開いた。
「待っていたよ。紫の蝶。」
唐突に挨拶をされたが、それは挨拶と呼べるものではなく、紫蓮の不快感を誘うものだ。故意なのか自然に出たものなのかは定かではないが、紫蓮が反撃をするには充分の要素があった。紫蓮は露骨に嫌な顔をして前髪をかき上げながら言った。
「俺は〝紫の蝶〟ではなく〝南条紫蓮〟なんだが。」
この言葉に目の前の老人は紫蓮を嘲笑うかのように返答した。
「勿論分かっている。そしてお前が今日ここに来た理由は、」
「あんたが知っている俺の両親のことを包み隠さず全て話せ。」
老人の言葉を遮ってまで自分でその続きを述べた。
何よりも、自分の両親の秘密を知っているというのが気に入らない。両親は紫蓮にとって数少ない尊敬する存在だった。それに、紫蓮の両親は各界で知られた著名人、そんな両親をこの世から奪い去ったものが憎くて堪らない。
紫蓮に台詞を先読みされた老人は次の言葉を用意していたのか、紫蓮の行動に動じず淡々と話を進めた。
「まぁいい。教えてやろう。」
明らかに紫蓮より優位に立ったように振る舞う。この態度も紫蓮の怒りを逆撫でするのには充分過ぎた。紫蓮は怒りと苛立ちを押さえ切れなかった。
「お前が全て仕組んだことなのか!」
思わず口から出てしまった言葉。だが紫蓮はこの言葉を出したことを後悔はしていないし、むしろもっと言ってやりたいと思っているくらいだ。紫蓮の勢い付いた問いかけに老人はゆっくりと答えた。
「お前の両親を殺したのは儂だ。」
この一言で、老人が放ったたった一言で、紫蓮の思考回路は冷静沈着から素早く〝違うもの〟に切り替わってしまった。こんなことを言われて落ち着いて居られるほど、紫蓮は人間が出来ていない。普段の紫蓮はどこかに消えてしまっている。
そういう状態になることが相手の思う壺だとしても、何気なく放っていた手が拳になる。怒りが全身から溢れ出し、抑えが利かない。もう制御することが出来ない。
「お前が…、お前がっ!」
意味がないと解っていながらも、二人称を何度も続ける。両親を殺した奴が、今、目の前に。抑え切れない感情を無理矢理抑えつけ、獣が吠えるような低い声で言葉を放った。
「理由は何だ…!」
意味もなくだなんて言わせない。言わせるものか。金か、南条家の莫大な財産か。
だが両親が死んだ後、南条家の金が必要以上に動いたことはない。それに腑に落ちないのは両親が死んで四年も経っているということ。死後直後ならともかく、もう四年も経っている。何故今頃になってなのか、その意図が解らない。だが、そんなことに気をかけられるほど、紫蓮は冷静ではない。今にも目の前の老人に殴り掛かるかというときだった。老人が紫蓮の予想外のことを口走った。
「呪われた浴衣の話を聞いたのだろう?」
呪われた浴衣…?河村が言っていた…あの浴衣!
最初はこのことの意味を理解するのに少し時間が掛かった。だが、すぐにそれが祝の言っていた〝赤い蝶の浴衣〟のことだと解り、この話に反応する。
「あの浴衣は呪われた浴衣だ。」
老人がそう言ったのが、頭の中に強く残った。
「浴衣…赤い、蝶の、浴衣…。」
何か、引っ掛かる。何か。何処かで、赤い浴衣を…。
「あ!」
そう思った瞬間、思い出した。
赤い浴衣。あの日、〝赤い蝶〟と名乗った少女、莎子は赤い浴衣を着ていた。そして、莎子は自分のことを〝紫の蝶〟と呼んだ。莎子とこの老人に繋がりがあることは分かっていたはずなのに。そう思ったとき、この場に莎子がいないことに改めて気付く。
「あの娘(こ)は、莎子は!莎子はどうした!?」
大きく叫び散らしたことに老人が深く感心していたのが分かった。そして紫蓮を嘲笑うかのように笑い、紫蓮に言った。
「紫の蝶よ。赤い蝶は自分の名を名乗ったのか?」
その言葉の意味は聞かなくても分かる。この老人は紫蓮の両親が本業と共に探偵も兼業していたことを知っているのだ。
紫蓮の両親が初めて出会ったのは探偵としての会合があるときだったらしい。既に祖父の息子として各界に知られていた父は、各界の南条の仕事を必要以上にこなし、探偵業もしていた。南条という家の肩書きを捨ててでも探偵をしたいから。と祖父を説得したらしい。そして同じ探偵業をしていた母と出会い、結ばれたのだと聞いた。両親が探偵をしていたという事実から、紫蓮は探偵の心得を持っていて、尚且つ、探偵の知り合いもいる。
そのため、〝赤い蝶〟から莎子を導き出したのか。という意味だったのだ。
だが、そんなことはしていない。明らかに情報不足だったからだ。その事実を隠すつもりはなかったが、老人はそのことを先読みしていたらしく、含んだ笑みを見せていた。
「まあ、いくら南条でも情報が少な過ぎたか。」
最早、少な過ぎたという問題ではない。手掛かりすらないのだ。探せる訳がない。老人とのやり取りで、紫蓮の中に冷静ないつもの紫蓮が少しずつ戻って来る。
「…何が言いたい。」
そう凄みを利かせて言うと、老人はそれを軽く受け流した。やはり亀の甲より年の甲というだけあって、かなりの山場を乗り越えて来たのか、人生のいろはも知らない子供一人の凄みなど恐るるに足らん。と思っているのだろう。
「何でもないさ。」
と軽く嘲笑った。老人はそう言ったが、紫蓮にはとてもそうだとは思えない。すると老人は紫蓮の様子を観察し、言葉を放つ。
「莎子が着ているのは正真正銘、呪われた赤い蝶の浴衣だ。」
この言葉を聞いた紫蓮は莎子と初めて会ったとき、莎子が赤い浴衣を着ていたことを再度思い出した。あのときは夜で辺りも暗く、蝶の模様が判別出来なかったため、蝶の浴衣だとは知らなかった。あの呪われた浴衣。情報屋の祝ですら現在所在が分からないという浴衣を莎子が着ている。恐らく、莎子が着ている浴衣を留めている黒い帯も噂の黒い帯なのだろう。
ふと老人を見ると、先程からは想像もつかない悲しげな顔をしていた。そのときは何が理由なのか分からなかったが、その後すぐに聞いたあの言葉が真実なのだろう。とても悲しそうな顔の理由は。
「儂の息子が作った…な。」
「息子…?」
紫蓮が問いかけると、老人は一度紫蓮を睨むように見た後、静かに口を開いた。
「お前は南条の息子だ。全てを話してやろう。」
そう言い、老人は赤い蝶の浴衣のことを話した。まるで祖父母が孫に聞かせる、昔話のように。
赤い蝶の浴衣を作った浴衣職人は〝黒い蝶〟と名乗る老人の一人息子だった。
老人は息子が貴金属業者の娘と婚約し、結婚するのを心待ちにしていた。
だが、婚約者の女性が強盗の人質になり、理不尽な最期を迎えてしまった。そのため、浴衣職人である息子は怒り狂い、彼女との思い出が深く残った赤と黒の蝶を象った浴衣を作った。
何故、赤と黒の蝶なのか、それは彼女が貴金属を扱う職人として。初めて自分で造った貴金属の品が〝赤と黒の蝶〟というものだったからだ。まだ試作品でこの世にひとつしかないもので、彼女がその試作品を浴衣職人に見せた後、何者かに盗まれたのだという。
そのことから、本当は結婚したら自分用の黒の蝶の浴衣と彼女用の赤い蝶の浴衣を作り、二人で縁日に出掛けようと思う。と語っていたのだ。だが、婚約者である彼女が死んでしまい、生きる希望を失った浴衣職人は、彼女が死んでから想いを繋ぎ留めるために赤い蝶の浴衣を必死に作った。彼女が着るように。と。そのため、浴衣職人が死に浴衣が人手に渡ると、怨念が染み込んだ浴衣は災いを呼んだ。
その後、いろんなところを回った浴衣は、所有してから一ヶ月以内に持ち主を呪い殺す浴衣として有名になり、その直後行方が分からなくなっていた。
話を一通り聞き終わり、謎は全て解けたかのように見えた。だが紫蓮にはまだ解せないことがあった。深く考え込み、使える頭を精いっぱい回転させ、ゆっくりと言葉を放つ。
「まだ解らないことがある。何故着た者が次々死ぬ中、莎子は死なないのか。まさかまだ一ヶ月未満だからという訳じゃないだろう。それともう一つ、浴衣職人が自分の作品に付けるという印、あれは複製出来ない物だと聞いた。それは何故だ。」
紫蓮は少しの間も空けず、素早く疑問を突き付けたが、紫蓮のこの問いに老人はゆっくりと重い口を開く。
「複製が出来ないのは、血がついているからだ。」
老人のこの言葉に紫蓮は驚きを隠せなかった。血がどうした。という顔をしている。すると老人は続けてこう言った。
「印は、白い布を自分の血で染め、そこにサインの刺繍をし、それを作品に縫い付けていたのだ。」
血…血は世界中にいる全ての生物が違う血を持っている。同じ血を持つ者は居ない。その例外となるのは双子や三つ子といった、産まれながらに持つ自然型クローンだけとなる。そのただ一つの例外である自然型クローンがいなければ複製は不可能だ。
「DNA鑑定をすれば一発で判るということか。」
結論に達し、自分で口に出して言った後、今度は納得の意を表した。
「なるほど。DNAばっかりは誤魔化せないからな。」
血液系の遺伝子だけではなく染色体や身体全体に関わってくることだ。現在の最先端の技術を要しても誤魔化すことは出来ないだろう。だが、浴衣の件が分かっても、莎子が死なない理由はまだ分かっていない。紫蓮は放っていた手を上げ、腕を組む。
「じゃあ、莎子の件は。」
莎子の件が分からなければ、この話に終結はない。老人は返答を止まり、すぐに答えを表に出さなかった。だが、今更隠すこともないと思ったのか、溜め息混じりに言う。
「…莎子は息子の婚約者の妹だ。」
この発言に紫蓮は息を飲んだ。
息子の婚約者の―――。
「妹…!」
紫蓮の驚きとは裏腹に、老人は事情聴取の決定打を見せ付けたかのように言った。
「あの浴衣は彼女と同じ血が流れている莎子には、全く拒絶反応を起こさない。」
一拍置いて、核心を突く発言をする。
「そのため、莎子が死ぬことはない。…現に莎子は一ヶ月以上あの浴衣を着ているが死なない。」
そして、現在状況を含め結論付ける。だが、紫蓮にはまだ納得出来ないことばかりが残る。組んでいた腕を組み直し頭の中を整理する。
「…その話が全て本当だとしよう。じゃあ疑問が残らないか?」
頭の中を整理した結果、このことに気がついた。
「莎子はどうしてあんたと行動を共にしている。姉が死のうが生きようが両親と一緒に暮らせばいいことだろ。」
この老人と一緒にいる意味はない。況してや、姉が死んだショックで余計に両親を求めたりするものだ。そのことを突いてみると、老人は思いがけないことを口走った。
「莎子の両親は莎子が十のときに死んでいる。…莎子は姉である彼女と二人で暮らしていたのだ。」
数秒という間を空け、次の言葉を出したとき、紫蓮は莎子との繋がりを感じた。
両親が居ない。残されたのは自分だけ。
紫蓮の側には千代がいて、莎子の側にはこの老人がいたが、それでも埋められない悲しさや寂しさがあるものだ。紫蓮は元々一人っ子で兄弟が居ない寂しさがあり、莎子は莎子で姉妹として姉がいたにも関わらず、急に死んだ寂しさがある。
そう思っているときに、老人の顔付きが変わってきたのが分かった。顔だけではなく、眼までもが、何か夥しいものを感じさせる。何か、良くないものが来る。探偵をしていた両親の元で育ったためか、洞察力には優れている紫蓮だからこそ、分かった感覚かもしれない。老人が紫蓮を睨みつける。その眼は如何にも人を一人殺したような、恐ろしく冷たい眼をしている。
「そして、その彼女の試作品を盗んだのが、お前の両親だ。」
老人が放ったこの一言に動揺が隠せなかった。嘘だという可能性も充分にある。老人の言葉が全て真実とは限らない。だが、面と向かってそう断言されると、流石に苦しいものがある。頭の中で老人に言われたことが木霊する。
そして、口から飛び出した言葉は、老人の放った言葉を自分の立場に置き換えたものだった。
「俺の両親…!」
この言葉を聞いた老人は、ここぞとばかりに紫蓮を攻め立てる。鬼の形相で紫蓮を見ては、怒りをオーラとして醸し出している。
「そして、今、お前が身に着けているそれが彼女の造った試作品〝赤と黒の蝶〟だ。」
この言葉に紫蓮が今まで以上の反応を示す。
先程両親が盗んだと言われたものは、息子の婚約者が造ったという作品は、両親の遺品として、財産の一部として相続した、この赤と黒の蝶だったのか。つがいの赤と黒の蝶のピアスに、ペンダント、そして指輪。この蝶たちが。
そう思い、胸の前で組んでいた腕を自由にし、左手を目の前に持って来て、中指に嵌めてある指輪を見つめる。そして右手は右耳にしているピアスに触れさせる。そして改めて実感するのだ。
「赤…と、黒、の…、―――蝶…!」
この蝶たちが、赤と黒の蝶だということを。
この蝶たちが、両親の物だったということを。
この蝶たちが…―――!
パニックになりながら、身に着けている蝶たちを眺めていると、妙な感覚に襲われた。その感覚を感じたのは直感だったが、自分の直感には自信がある。探偵をしていた両親に鍛えられた直感だ。外れる訳がない。と。
その瞬間、老人が着ていた着物から即座にナイフを取り出した。本数は三本。そう認識した直後、老人は勢いよく振りかぶった。
「紫の蝶。その蝶たち、返してもらうぞ!」
そして紫蓮に向けて振りかぶったナイフを投げた。紫蓮は咄嗟の判断でその三本のナイフを避け、後方に飛び逃げる。老人が投げた三本の内、一本は捨て駒で最初から紫蓮に当たるはずがないものだったが、あとの二本は違った。その内の一本は確実に紫蓮の身体、心臓を狙っていた。そしてあとの一本は紫蓮の足を。
老人は若い頃にスポーツをしていたのか、咄嗟の判断で避ける力と両親に鍛えられた直感、そしてずば抜けた運動神経、この中の一つでも紫蓮に欠けていたら、紫蓮は負傷していただろうというほど、正確な投げ口だった。すぐに後退し、身を守った紫蓮だが、予期していなかったいきなりの事態に戸惑い気味だ。
だが、先方は紫蓮の気持ちなど考えてはくれない。すぐさま体制を立て直したそのとき、老人の叫ぶような声がこの広い廃墟に響き渡った。
「紫の蝶を殺せ!」
このとき、再び紫蓮を只ならぬ妙な感覚が襲った。それは、両親から何度も教わった、殺気立った気配。誰かが殺気を持ちながら自分を見ている。そんな気配がした。そして、先程の老人の叫ぶような言葉から一秒も経たないうちに、違う言葉が紫蓮の耳に入り込んで来た。
「莎子!」
この言葉に、必死に感覚と。両親に教え込まれた技術の部屋にいた紫蓮は一気に我に返ることとなった。最初に老人が出て来たこの部屋の向こう側とこの部屋との境界線に、殺気を立てた莎子が俯き、右手にはナイフを持ち紫蓮に姿を見せる。長い黒髪に赤い蝶の浴衣。莎子の身体は赤と黒で埋め尽くされている。部屋と部屋の境界線に立っているのが莎子であることを認識するのに、大して時間は掛からなかった。
「莎子…。」
紫蓮がそう呟くと、莎子は少しの反応を見せた。長い黒髪が廃墟の中に通る風で揺れている。すると莎子は俯いたまま一言呟いた。
「久しぶりだな。」
そして、俯いていた顔を上げ、紫蓮をじっと睨み、囁くような小さな声で言った。
「紫の蝶。」
それだけ言うと、莎子は紫蓮に向けて一直線に走り、ナイフの刃先を紫蓮の顔へ向けた。紫蓮はそんな莎子の攻撃を交わしながら後ろへ向けて後退りする。莎子は無差別に紫蓮を攻撃して、紫蓮の髪の毛先を切り落とし、服を切り裂いてゆく。莎子の無差別な攻撃に上手く対応して身は守っているものの、いつ怪我をしてもおかしくはない状態まで来ている。持久戦になれば、圧倒的に紫蓮の方が不利になる。ただでさえ、莎子はナイフを持っているが、紫蓮は身一つだけ。この状況でも圧倒的に不利なのは紫蓮の方だ。莎子の無差別攻撃を避けながら、余裕のない状態でも紫蓮は莎子に叫ぶ。
「止めろ!莎子!」
だが、その呼びかけが通じる相手ではない。莎子は今、紫の蝶を殺す。ということしか頭にない。それ以外のことが考えられないのだろう。莎子の眼は真剣そのもので、その眼にまで殺気が漂っていた。やっと口が開いたかと思えば言うことはたった一つ。
「死ね!紫の蝶!」
そう言う莎子を何とかするには、気を失わせて戦闘能力を無くさせるのが一番良い方法なのだが、紫蓮には莎子に手を出したくないがために逃げるだけの戦法しかない。だが、紫蓮はこのとき、莎子と戦いながらもある状況の変化に気付いた。
老人がいない。先程まで自分と話をしていた老人が、この場にいない。それと同時に老人と莎子が出て来た奥の部屋から先程までは感じなかった異臭がする。この独特な鼻につく臭いは、――――――!!
「ガソリン!」
異臭の正体が分かった紫蓮は思わずそう叫ぶ。これで老人の考えていることが解った。あの老人はこの錆びきった廃墟に大量のガソリンを撒き散らし、火を放つつもりなのだ。莎子を道連れにしてまで、紫蓮と心中する気なのだと。そんなこと、させる訳にはいかない。況してや自分たちだけならまだしも、莎子まで道連れにするなんて。そう考えているうちに老人はポリタンクを持ち、再び紫蓮と莎子のいるこの部屋に戻って来た。そしてポリタンクの中身を部屋中にぶち撒けていく。
「おい!止めろッ!」
莎子の無差別攻撃を交わしつつ、老人に向けて声を張り上げたが、老人は紫蓮の声が聞こえているにも関わらず、ポリタンクに入ったガソリンを部屋に撒くことを止めはしない。人の声が耳に入らない屍人形のように、ポリタンクを逆さにし、部屋中を駆け摺り回る。
「止めろっつってんだろーがっ!おい!」
言葉遣いが荒くなりつつも必至にそう叫び続ける紫蓮だが、老人に紫蓮の声は届かず、老人はこの状況の最も、最悪なパターンを選ぼうとしていた。
部屋中に撒き尽くしたガソリンの上で、老人は浴衣の袂からマッチ箱を取り出し、その箱の中からマッチを一本取り出す。そしてマッチ箱の背中でマッチを擦る。紫蓮が莎子の対応に追われ、莎子の相手をしているうちにここまでの作業が済んでいて、次に紫蓮が老人を見たとき、既にマッチの先には火が点いていた。この瞬間、紫蓮は全てを理解し、老人に向けて叫ぶ。
「止めろぉーッッ!!」
紫蓮のその言葉と共に、老人は火の点いたマッチをガソリンでいっぱいになった廃墟の床に落とした。
一瞬の出来事だった。
廃墟は一気に燃え上がり、辺り一面を火の海と化す程の燃え上がり方をする。南条邸の総面積の十分の一程ある、錆びきったこの廃墟を丸々燃やし尽くすのに一時間もかからないのではないか。と思える程の炎。
火を点けた張本人である老人は、壊れた人形のように大声で笑い、我を失っていた。最早、自分が何をしたのかも分からないのだろう。ただ燃え上がる炎の中、不気味に笑い続けている。
そしてこの炎の中でも莎子は紫蓮を狙い続ける。ナイフを振り乱しては至るところを切り裂いてゆくのだ。ただ、紫蓮がバランス良く避けているため、未だ致命傷となる大きな怪我や傷はなく、服と共に切り裂かれた肌が数多く存在し、赤く毒々しい血が流れるだけだ。無差別に振りかざす莎子の刃を掻い潜り、多くても切創(きりきず)だけで済むのは日頃訓練受けてきた紫蓮だからだろう。だが、炎が建物をどんどん蝕んでいくため、錆びきった廃墟はいつ崩壊するか分からない。それに燃え盛る炎の中では酸素も限られてくる。早くこの場から逃げないと、一酸化炭素中毒で死ぬという笑えない死に方をすることになるかも知れない。炎に蝕まれて死ぬなど、両親と一緒だ。考えたくはないが、紫蓮の頭にそのことがよぎる。
いち早くこの場から逃げようとするが、莎子はこの場から逃げるよりも紫蓮を殺すことに全神経を集中させている。そのせいか、上手く逃げられない。廃墟の角の方まで逃げるとフラスコや試験管の割れた硝子が落ちている。
「ちっ!」
この危険な廃墟に思わず舌打ちが出る。早くこの場を何とかしたい紫蓮だが、莎子の止まぬ攻撃に顔を歪めるばかりだ。角に行ったのは少しでも休息をするため。角を使って一定の距離感が生まれれば、それこそ攻撃がしにくくなる。そして紫蓮の思い通り、莎子は一定の距離感を持ち立ち止まった。二人が向かい合う。炎が燃え上がり、徐々に酸素が少なくなる。そうなると殺される前に死んでしまう。この状況を何とかするためには、紫蓮がどうしてもしたくなかったことをしなくてはならない。どうしてもしたくなかったが、覚悟を決めた。
「莎子!」
息を精いっぱい吸い込み大声で莎子の名を呼ぶ。莎子は呼ばれたことにより改めて紫蓮を殺すことに集中する。だが、莎子が全神経を紫蓮に集中させることよりも早く、紫蓮が莎子との間合いを縮め、莎子の腹部を拳で殴る。
「う…!」
莎子の呻き声が小さく聞こえ、そのまま莎子は眼を閉じた。そして力の抜けた莎子の身体を紫蓮が優しく包み込むように抱き、出口へと急ぐ。段々と呼吸がし難くなり苦しい。これは早くしないと本当に死にかねない。出口に向かい、廃墟から出ようとしたそのとき、後方から声が聞こえた。
「紫の蝶!」
その声は明らかに老人のもので紫蓮が振り返ると壊れたかのように叫び散らした。
「お前はここで死ぬのだ!」
だが、こんな所で死ぬ気もなければこの老人の言う通りにする気もない。莎子を抱えながら燃え盛る炎の中、紫蓮は老人に向けて、どうしても言いたかったことを言おうと思った。
紫蓮は狂いかけている老人に、冷たく鋭い眼を突きつけ、言葉を放った。
「俺の両親はあんたの思ってるような卑怯な人間じゃないんだ。」
そして、早く逃げた方がいい。とも言い残して燃え盛る廃墟を後にした。
苦しながらもやっとのことで廃墟を出ると、炎とは違った赤い消防車が見えた。そして、警察とロープで仕切られた向こう側には多くの人だかり。その人だかりの中に親友の河村祝の姿がある。祝は廃墟から出て来た紫蓮を確認すると、大声を上げて警察の制止を突っ切り紫蓮の元へ駆け寄った。
「紫蓮!!」
「河村…。」
名を呼んだと同時に紫蓮は地面に膝を付く。そして莎子をゆっくりと地面に寝かせる。再度息の切れた声で祝を呼ぶと、祝は心配の色と安心の色を見せた。そして紫蓮が抱き抱えている莎子に眼が行く。
「…紫蓮、この娘(こ)は…。」
紫蓮が知らない女の子をこの炎の中、どういう経緯で運んで来たのか、また、どうして女の子と一緒にこんな廃墟にいたのか、疑問は尽きない。だが、紫蓮は祝の多々ある疑問に答えることなく、着ていた上着を脱ぎ始めた。
「気絶しているだけだ。すぐに気が付く。」
紫蓮が上着を脱いでいるのを見ると、祝は急に何かを察したのか、勢いよく紫蓮の腕を掴む。
「紫蓮!まさか、中に入る気じゃないだろうな!?」
祝の言葉に違いはない。紫蓮はもう一度中に入るつもりだったのだ。あの老人を連れ出すために。廃墟にガソリンを撒き、火を放った張本人だが、まだ分からないことがある。自分の両親のことを悪く思われたまま死なせる訳には行かない。そう思い、あぁ、行く。とだけ返し、燃え盛る炎の元である廃墟に再び入ろうとしたが、すぐに制止の言葉が掛かった。廃墟に入ることを止めたのは、祝ではなくその場に来ていた消防士だった。
「君!何を言っているんだ!こんな火の海に行こうなんて!」
一般常識からいって、そう言う人の方が多いだろう。こんな炎の中に戻るなんて正気の沙汰とは思えない。
「今、救急車を呼ぶから、君もその娘(こ)も。」
消防士は紫蓮を見ていた眼を斜め下に持っていき、〝その娘(こ)〟に眼を移した。
その娘(こ)というのは地面に横たわっている莎子のことだ。莎子は紫蓮が気絶させたため、意識はないがどこも怪我はしていない。寧ろ莎子の無差別攻撃を受けて怪我をしているのは紫蓮の方なのだ。致命的な傷はないが、かなりの量の切創(せっそう)があり、血が出ているものもが数多くある。
だが、紫蓮の意思は変わらない。早く中に行かないと助からないかもしれない。況してやあの老人は正気を失っていた。あのままこの廃墟の中では焼死してしまう可能性も捨てきれない。
「中にまだ人がいるんだ!行かないと…!」
紫蓮がそう言い、廃墟を見上げると、消防士は紫蓮の前に立ちはだかった。
「駄目だ!中に入ることは許さない!」
「でも中に!中に人がいるんだ!」
「もうすぐ突入班が助けに行く!それまで待て!」
この言い争いの声で、紫蓮に腹部を殴られ気絶していた莎子が眼を覚ます。それに最初に気付いたのは祝だった。そしてすぐさま紫蓮に報告する。
「紫蓮!この娘(こ)が…。」
莎子が眼を覚ましたのを確認すると、寝ている体制から起き上がろうとした莎子の側に行き、莎子の様子を伺う。
「莎子、大丈夫か。」
「お前は…。」
紫蓮の姿を見た莎子は一言呟くと、自分の置かれている立場と状況が飲み込めたのか、燃え盛る廃墟を見上げて大声を上げた。
「爺様!」
その後辺りを見渡すが、老人の姿はない。このとき、すぐに莎子の直感がものを云った。
「まさか…!」
そう言い、近くにいた初対面の祝には眼もくれず、祝の側にいた紫蓮の服を掴んで叫ぶ。
「爺様はどうした!」
どうしたと言われても、老人はまだ燃え盛る廃墟の中だ。しかし、そんなことを言えば、莎子は後先を考えない行動を取るのだろう。そんなことが分かっている莎子に本当のことは言えない。
「答えろ!答えろ!!」
紫蓮が何も答えないため、莎子は何度も紫蓮に回答を促した。だが、紫蓮はずっと黙ったままだ。
答えられる訳がない。老人はまだあの中にいるなんて。
だが、莎子もそれ程馬鹿ではない。周りの状況を見て、物事を正確に判断することが出来る。先程の直感も外れているとは思えない。そんな莎子が、廃墟の中に老人がいるということに気付くのに、然程時間は掛からなかった。
「まさか、本当に…?」
自分の考えと直感を信じ、掴んでいた紫蓮の服を放し、廃墟の中に入ろうとした。莎子の考えと行動に即座に反応した紫蓮が、先程消防士にされたように、今度は莎子の前に立ちはだかる。
「駄目だ。莎子。」
紫蓮が莎子に制止の言葉をかける。だが、莎子はそのことに耳を傾けず、確認のためだけに紫蓮に話しかけた。
「…爺様は、この中にいるのか…?」
そこには、今までの強気な莎子とは違い、不安と恐怖に包まれた弱気な莎子の姿があった。今聞くことは、問いかけることは、それしかないというように。そのときの莎子はとても切なく悲しい顔をしていた。莎子にそんな顔をされたら、紫蓮も黙り続ける訳にも行かない。覚悟を決めて、莎子の問いに素直に答える。
「あぁ、まだ出てきていない。」
紫蓮の答えを聞き、自分の前に立ちはだかる紫蓮を煩わしく思ったのか、無理矢理退かせようとしたときだった。誰かの声がその場にいた全員の耳に入る。
「建物が崩れるぞ!」
誰が放ったか分からないその言葉で、その場はとてつもない混乱に陥る。逃げ惑う者、叫び散らす者、と様々だ。一応、野次馬である一般人は、警察によって施された間合いにより崩れても支障のない距離にいるが、紫蓮たちは違う。
紫蓮はこの言葉を聞いて、自分と祝、そして莎子と自分を止めに入った消防士を含む約四人が、崩れそうな廃墟の一番近くにいるのだと直感で認識し、目の前にいた莎子を抱き抱えて前方へ走る。そして近くにいた祝も、消防士もすかさず前方へと走る。しばらく走っていると、後ろから爆音に近い音が大きな音として聞こえて来た。恐らく、燃え盛る廃墟の柱が炎に耐えきれなくなり、崩れた音。走っているときに、廃墟を見ながら遠ざかった莎子だけが、大声を上げ、泣き崩れていた。
「放せ!爺様ッ!爺様ぁ!」
大勢の野次馬はこの莎子の声を正確に聞き取れただろうか。いや、混乱したこの場で、莎子の声が耳に届いた者がいたかどうかというところだろうか。それ程この場は野次馬と廃墟の崩れ去る爆音で乱れきっていた。
その後、無事消防士たちにより火が鎮火され、辺りは静まり返っていた。ただ鉄の焼ける臭いが鼻に付き、警察により野次馬を仕切るロープが立ち入り禁止の黄色いテープに変化し、張り巡らされているだけで、それ以外は何もない、ただの荒地だ。
この火災事件の当事者である紫蓮は、病院に治療を受けに行くことも、警察に任意で事情聴取を受けることもなかった。
「一体どんな手を使ったんだ?紫蓮。」
「…河村。」
かけられた言葉に反応して後ろを振り返るとそこには親友の祝がいて、祝は紫蓮の左横に並んで立った。
事件の翌日の早朝、まだ日も出ていないこんな朝早くに、一人で来たはずの跡地にいつの間にか祝がいて、二人で跡地を眺めていた。どんな手を使ったのか。と聞かれれば、南条の力を使ったと言うしかないだろう。
南条は日本有数の企業で大滝や浅草寺と共に各界ではずば抜けて名を馳せている。南条の名を使えば、大体のことは全て思い通りになる。実際は紫蓮の父が死んでからは紫蓮が南条家の当主であり、学生で未成年だからという理由で紫蓮が傲って来なかっただけで、南条全体を動かすのに紫蓮の一声があれば充分なくらいだ。だが、警察という国家機関は南条の名を使っても骨を折るものがある。そういうときには、少し悔しいが親の七光りを借りるしかない。紫蓮の両親は南条の家業を守りながら探偵をしていた凄腕の強者だ。探偵として警察に依頼され解決した事件も少なくはない。紫蓮は今回の事件で使えるものは全て使ったのだと言える。
祝の問いには、
「警視総監に連絡して『後日、こちらの問題が片付き次第、日を改めて任意の事情聴取に伺います。』と言っただけだ。」
と全てを言わず、軽く流すだけに留めた。たったそれだけで、祝は満足したのか、それとも紫蓮の語らなかった部分をちゃんと理解しているのか、微笑むように笑い、右横にいる紫蓮の首に右腕をかけた。
「珍しいじゃんか。俺の気配に気付かないなんて。」
そう言われると、改めて自分が呆けながら燃えきった廃墟を見ていたのだと思い知らされる。いつもなら半径十メートル以内にいる人の気配には気付くはずなのに、今日は半径十メートル以内どころか、話しかけられるまで気付かなかった。
「何か、吹っ切れたのか?」
吹っ切れた。確かにそうかもしれない。
両親のことを今まで以上によく考え、何かが吹っ切れた気がする。その吹っ切れたものが何なのかと聞かれると困るが、何かは何かだ。
「で、お前は何で、俺がここにいるって分かったんだ?」
笑いながら祝の方を向き、そう問いかけてみる。すると祝は紫蓮の顔をしっかりと見た後、満面の笑みを見せる。
「何でって、決まってるだろ。紫蓮のことだから、」
「何でも分かる。ってか?」
そう先取って言うと、祝は先程より満足げに笑い、ただ一言、
「あぁ。」
とだけ返した。そのときの祝は普段とは違う嬉しそうな顔をしていた。これを機にもう一つ驚かしてやろうと思いついた紫蓮は、祝の喜ぶことを言ってみた。
「…はじめ。」
久しぶりに親友の名前を呼んだ。名前を呼んだのは何年ぶりだろうか。両親が死んでからは人に関わらないようにしていたため、親友の祝すら名前で呼ぶのを止めていたのだ。祝はどんな顔をしているだろうか。見るまでもないだろうけれど、見てみようか。
祝を見てみると、眼をぱちくりとさせていた。予想はしていたけれど。
「…祝。」
紫蓮は再び祝の名を呼ぶ。二度目でやっと実感が湧いたのか、祝は今までにないほどの満面の笑みを紫蓮に向ける。その笑顔に紫蓮も笑顔を返す。
多分紫蓮は、これから親友のことを昔のように〝祝〟と名前で呼ぶのだろう。紫蓮たちのこれからが楽しみだ。
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