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2026/04/05 00:49 |
赤と黒の蝶  其の壱 発端
血のように真っ赤な生地、暗闇のような黒い帯。
赤い生地の上には赤い蝶。そう、赤い蝶。

「赤い生地に赤い蝶の浴衣?」
少年が問いかけに疑問詞を投げかける。





***





この少年は親がおらず、現在莫大な財産と土地、そして屋敷を持っていて、その全てを一人で管理し生活している。少年の両親は訳あって家を空けた後、帰って来なかった。しばらくして家に届いたのは、両親の遺品と両親の知人だという者からの手紙だけ。その手紙の内容は両親の死の経緯を簡潔に書き出したメモ用紙が一枚だけだった。少年は両親の死に疑問を持ちながら、一人で大きな屋敷に住み、両親の死の原因と真相を調べている。
少年の姿形は、肩に触れないくらいの長さで保っている暗闇の中の漆黒のような黒い髪、身長百七十五センチ前後の痩せ型体系に、容姿は人並み以上で、異性に想いを告げられる回数も少なくない。昼休みがある週五日のうち多い時は四日の昼休みを告白という目的で奪われる。種類は直接や呼び出し、人伝(ひとづて)やラブレターと様々だが、少年は全て断っている。了承を貰えた娘(こ)は一人もいない。それでも告白の回数が減る事はない。逆に減るどころか増えているのだ。だが、告白の理由は容姿だけではない。容姿も去ることながら、そのルックスも眼を惹きつけるものがある。右耳だけにしている赤と黒の蝶のつがいのピアス。首に架けている銀の鎖の先には、ピアスと同じ赤と黒の蝶のつがいの付いたペンダント。左手の中指には同じ種類の指輪。この三つをセンス良く身に着けている。そして、それ以外に頭の良さも有名どころで、学校内で常に学年一位を保っている人物と言われれば、この少年を思い浮かべる他はない。独特の雰囲気を持つこの少年に興味を持つ者が多い。興味を持たない者がいない訳ではないが、その殆どが男子生徒であり。男子生徒にしても、少年の魅力に憧れ、慕う者たちがいれば、逆に妬みを持ち、目の敵にしようと思いつつ勝つ事が出来ずにいる者たちに分かれたりする。
この少年はそれほどすごい少年なのだ。
少年が今いるのは学校の教室。放課後のためか教室には、ほぼ誰もいない。いるのはこの少年とあとは先程教室に入ってきたもう一人だけ。
春の風に乗り桜の花びらが開いた窓から入り込み、教室の床に落ちた。
入学式やその他の行事も終え、新入生もやっと学校に馴染んできたという時期だろうか。皆(みな)、早々と部活に行き、新入生の勧誘や見学の用意に大忙しで、今、この教室に誰もいないのはそのせいもある。新入生を入れなければ、廃部にならざるを得ない部活があることも確かなのだ。だが、少年はそんなことはどうでもいい。何か部活に入っている訳でもなければ、新入生に知り合いがいる訳でもない。こういうことに無関心なだけだ。今、教室にいるのも単に暇だからいるだけで、対して意味はない。暇ならば宿題でもしようかと数学の教科書とノートを開き問題を解いている。眼に入るのは数学の数式と教室に居る自分以外の人物だけ。
茶髪の髪に学校指定の制服、左手には購買で買ったと思われる菓子パンが持たれている。先程用事を終えて教室に戻ってきた茶髪の少年は、自分の席の荷物を鞄に纏め、その鞄を持ち、少年が座る席の前の席を陣取る。すると、暇を持て余している少年に話しかけた。茶髪の少年はこの少年の親友である。
「お前さ、一日に約0.8回も告られてるのに彼女作んねーの?」
「…何だよ、その〝約0.8回〟って。」
目の前に来たかと思えば、そのまま頂けないことを言う親友に、少年は疑問を投げかける。
約0.8回というのは少年の一週間に告白される回数を平均したものであり、つまりは一日に一回には満たなくとも、少なからず告白されていることになる。この約0.8回という数字も貴重な昼休みを割いて出てきた数字だ。茶髪の少年はその事実を簡潔に少年に伝える。
「一日に告白されてる回数の平均がそれなんだよ。」
「は…?そんなの数えてたの、お前。」
簡潔に伝えると少年は少々呆れたような声と顔をし、よっぽど暇なんだな。と付け足した後、窓の外に広がる綺麗な桜に眼を向けた。
ある程度他愛のない話をして過ごしていると、突然少年が自分から言葉を出し、話を振ってきた。
「なぁ、そろそろ話してくれないか?」
桜に向けていた眼を親友に戻し、そして強くはっきりとした口調で言った。いきなりのことで眼を丸くするもう一人の少年を他所に、少年は更に言葉を続けた。
「お前の本題がそんなことじゃないことくらい分かってんだよ。」
「な、何を、」
惚(とぼ)けようとしている親友に対し、少年は鋭い眼で睨み付けた。すると、親友は参ったというかの如く溜め息を吐き、両手を挙げてただ一言、俺の負けだ。とだけ言い、菓子パンの最後の一口を口に運んだ。

「赤い生地に赤い蝶の浴衣?」
一度だけ文末に疑問部を付けて問いかけるように聞き返した。真っ赤な蝶の模ようの赤い浴衣なんて何処にでもあるのではないか。と思いながらも言葉にはせずその場は聞き流す。
「それに真っ黒な帯。」
真っ黒な帯。これも何処にでもあるのではないか。先程の問いかけに合わせて、同じような考えを頭の中に巡らせた。だが、自分に言うくらいなのだから、何か裏があっての事だろうと思い、冷静に次の言葉を出す。
「それがどうかしたのか?」
すると、この議題を持ちかけて来た親友は徐にポケットから飴を二つ出し、一つを目の前に居る少年に手渡し、もう一つは袋を開けて中身を自分の口に放り込んだ。少年は受け取った飴をそのまま制服のポケットに入れる。それを見届けた議題の少年は静かに口を開いた。
「…噂があるんだよ。」
その議題の少年は飴を食べながらもしっかりと前を見て、冷静に簡潔に述べる。
―――そう。目の前にいる少年に向かって。
「……噂…?」
少年は言われたことに対して顔を歪め、その単語を復唱し、再度確認のため語尾に疑問詞を付け、議題の少年に聞き返した。すると聞き返された議題の少年は
「あぁ、本当かどうかも分からない、ただの噂だ。正しい保証はない。」
聞き返されたことを肯定し、悪までも噂だという念を押す。
「で、どんな内容なんだ。お前の言う、その噂ってやつ。」
俺に言うくらいなんだから、ただの噂じゃねーんだろ。
少年はそう付け足して、議題の少年である親友を見た。議題の少年が信憑性のない噂を自分にするような男ではないということが分かっているからだ。すると議題の少年は眼を見開いた後、優しく笑い、分かってんじゃん。と言い、噂の続きを話す。
「なんでもその浴衣と帯はセットらしくて、二つを一緒にしないと効果がないらしい。」
「効果?恋占いの効果か?」
面白半分に鼻で笑う少年に対し、議題の少年はそれを咎めた。
話を進め、話に夢中になっている間にとっくに下校時刻は過ぎていて、見回りに来た担任教師に早く帰るようにと指導され、ここで話はお開きとなる。そのとき、少年は南条(なんじょう)、議題の少年は河村(かわむら)と呼ばれていた。下校時刻だからという理由で教室を出され、挙句の果てには校舎からも出されてしまい、学校に居られない以上、もう自宅に帰るしかないという結論に至ったため、二人共が帰宅することになった。
「じゃーな、紫蓮(しれん)。」
「あぁ、じゃーな。」
学校の敷地から出てしばらく歩き、角をいくつか曲がったとき、お互いに別れの挨拶を交わした。
〝紫蓮〟と呼ばれたのは黒髪の少年で、呼んだのは赤い蝶の浴衣の議題を出した茶髪の少年だった。〝紫蓮〟とは担任教師に南条と呼ばれていた少年の名前らしい。
別れの挨拶を交わした後、手で合図を送り、十字路を右へ歩いて行くのを見届けると、自分は歩いて来たときと同じように、十字路をそのまま前進した。紫蓮は先程まで教室で話していた話が気になっているのだ。担任教師が来てお開きになった話だが、話の内容は一通り聞き終えた後だったのだ。
議題の少年、河村祝(かわむらはじめ)からその〝噂〟の話を詳しく聞いた紫蓮は、そのことが頭から離れずに苦悩していた。その〝噂〟とは、赤い蝶の浴衣と黒い帯の噂で、オカルト系統の信じがたい内容だった。

ある一人の浴衣職人には愛する人がいた。互いが愛し合い、婚約までしていた。だが、その恋人が強盗の人質になり、連れ去られ殺された。後に死体となって発見された恋人は、全身が汚れ、とても痛々しい姿だった。恋人は強盗犯に性的暴行を受けていたのだという。このとき浴衣職人は怒り狂い、怒りながらも愛する人のために五日五晩をかけて浴衣と帯を作った。だが、浴衣職人はその浴衣と帯を作った後、間もなく死亡した。作った浴衣と帯はしっかりした桐の箱に入れられ、浴衣職人の側に綺麗に汚れる事なく置かれていた。浴衣職人が死んで、職人の作った作品は職人の親によって全て売られた。そして、その後日、赤い浴衣と帯を買った客が交通事故で亡くなった。その客が死んだ後、浴衣と帯は転々と居場所を変えていた。持ち主を死に至らしめる、呪いの浴衣と帯となって…。その浴衣と帯を手に入れたものは、着用未着用で多少の誤差はあるが、必ず一ヶ月以内に死亡しているという。それからしばらくして、浴衣と帯は別々に保管されるようになり、二つの所在は分からなくなったと云われている。

それが、最近になってこの近辺にあるのではないかという話になり、それが噂となった。その噂が何処まで真実かは分からないが、この噂があまりに広がったため、怖がる住民も少なからず居るらしく、紫蓮の学校でも、男女問わずその噂で持ち切りらしい。そして、紫蓮は親友で議題の少年でもある河村祝に一般生徒の知らない情報を、極秘扱いで聞かされた。

「…印?」
方程式を解いているシャーペンを持つ手を止め、ほんの少し間を置いて、ただ一言聞き返した。紫蓮のその一言を聞き終え、祝は紫蓮の解く問題を眺めつつ次の言葉を出す。
「ああ。その浴衣職人の作った作品には、全て同じ印が付いてるんだよ。」
その印は浴衣職人が自分の作品だと分かるように作った作品全てにつけたもので、何年も前の作品でも、いつ作られた作品でも、必ずどこかに印がついているという。
祝は紫蓮の筆箱からシャーペンを探り出し、問題を解く紫蓮のノートの余白部分に他愛もない落書きをする。
「どんなのなんだよ。その印ってやつ。」
紫蓮のこの言葉で止まっていた話を戻し、落書きをしていた祝が再び説明を始める。
「作品の裏地に自分のサインの刺繍の布を縫い付ける。」
たったそれだけのことなのか。と正直、唖然という感じの紫蓮だが、祝がそう言うのだからそうなのだろうと思い、それを受け止める。だが紫蓮は最後に一度だけ聞いた。
「それが印なのか?」
ただ一言そう言うと、祝は落書きを止め、シャーペンを机の上に置いた。そして真面目な表情で紫蓮を見て、またもや話を続ける。
「あぁ、それはその浴衣職人自家製のもので他人が真似て偽造することは、不可能に近い。いや、厳密に言えば不可能だ。」
不可能と言う祝に対し〝不可能〟と言い切れるのかと疑問に思う紫蓮は、次の瞬間、数式を見つつそれを言葉にした。
「そんなにすごい仕掛けでもしてるのか?」
この言葉に祝も少しながら反応した。腕を頭の後ろに持っていき、背伸びをするように腕の柔軟をする。そして紫蓮が待つ中、結論が入る次の言葉を出す。
「そうらしいな。俺も実物を見た事ねーから、なんとも言えねーけどさ。」
実物を見たことがない。その浴衣と帯ではなくとも、その職人の作った作品を見たことがないのだという。ならば、どうしてそのことを知っているのか。驚きを隠せない紫蓮だが、持っていたシャーペンを無造作にノートの上に置き、頬杖をつく。そして呆れながらもやっとのことで口から言葉を出した。
「……お前さ、どうやってその情報手に入れたの?」
〝極秘〟って言ってなかった?
そう付け足し、不思議そうな表情をした。その言葉に祝は柔軟を止め、机に腕を置き、机越しに紫蓮に近付く。
「何言ってるの。紫蓮チャン。俺の情報網を甘くみないでよ。」
と、言い左目を閉じ、右手ではピースをしていた。そして、机に置いたばかりの腕をもう机から放し、胸の前で腕を組み、今度は両目を閉じた。
「紫蓮チャンの知りたいことなら何でも調べてあげるよ。」
そう言った語尾には明らかにハートか、音符がついているだろう。この言葉に紫蓮はこいつに隠し事は出来ないと強く思い、胸に刻みつけた。まったく、行く末の見えぬ男だ。そうこうしているうちに、眼を開いた祝がいきなり言葉を出した。
「……なー紫蓮。」
あまりにも突然だったため、紫蓮には珍しく少し反応が遅れた。だが、それを感じない速度で答えた。
「…なんだよ。」
ぶっきら棒に答えた紫蓮に祝は自分を指差し、思いもよらぬ台詞を投げかける。
「俺のフルネーム言える?」
「………は?」
またしても、唐突な台詞に思わず漏れてしまった言葉。何を言っているのかと正直先が見えなくなった。紫蓮は冷静に記憶の中に入り、普段は使わない名前を探し出す。そして素早く見つけ、言葉にした。
「…河村祝…だろ?」
何を今更。と、正面を向いていた顔を横に向けた。視線の先は教室の外の咲き乱れる桜。すると、祝の口からまたもや、思いもよらぬ台詞が飛び出した。
「だって紫蓮、俺の名前呼ばないじゃん。」
俺は〝紫蓮〟って呼んでるぞ。
そう付け足し、紫蓮の横に向いた顔を無理矢理正面に向けた。
「名前呼ばねーって…呼んでるだろ。〝河村〟って。」
如何にも溜め息を吐くような雰囲気で言葉を出した紫蓮だが、そんな紫蓮に祝は食い付くように、次の言葉を口から飛ばす。
「だって紫蓮、昔は〝祝〟だったじゃんってこと。」
「そりゃ、かなり昔の話だな。」
昔は紫蓮も祝のことを名前で呼んでいたが、昔と違い、今の紫蓮は人と関わることをしなくなった。両親が家を出て、帰って来なかった頃からだろうか。いや、死んだことが分かったときかもしれない。そのため今、紫蓮に対等に扱われるのは、祝ただ一人である。
「別にどうでもいいだろ。俺が人をどう呼ぼうが。」
「えー!ボクちゃん悲しい~。」
紫蓮の言葉に祝は、からかうように、偽り風情の台詞を放った。その台詞に対し紫蓮は、何が〝ボクちゃん〟だ、アホ。とだけ返した。すると、祝はもー、乗ってもくれねーの。と、膨れっ面をする。
そんな他愛のない会話をしていると、紫蓮でも祝でもない第三者の声が聞こえた。それも、自分らの名を呼んで、こちらに近付いて来る。誰かと思えば、自分たちのクラスの担任教師だった。すると、その担任教師は驚いたようにこう言う。
「何をやってるんだ、お前らは。もう下校時刻だぞ。早く帰れ。」
それだけ言うと、担任教師は教室から立ち去った。気付けばもう下校時刻。正門を閉められる前に学校の敷地から出なくてはならない。紫蓮は急いで教科書とノート、それに筆箱などを鞄に入れ、祝は既に荷物が入っている鞄を持ち、教室を出ようとする。
教室には誰もいない。教室に周りにも誰もいない。いるのは教室の窓の外に静かに止まっていた、赤と黒の蝶が二匹いるだけだった。だが、二人は蝶の存在を知らない。そして、その二匹は紫蓮と祝が教室を出るのを確認した後、羽根を大きく広げ翻し、その場を後にした。そして何処かへ飛んで行く。


ここは誰も近寄らない廃墟。十年以上前に廃墟になってから、近所の誰も足を踏み入れない場所となってしまった。ただ、近所と言っても、人が住む民家はこの廃墟から少なくても一キロは離れている。この廃墟に変化が起ころうと、気付く者がいるはずもない。そして、その廃墟に二匹の赤と黒の蝶が入って行った。すると、二匹の蝶は一人の浴衣を着た少女の指に止まる。赤い浴衣に黒の帯を着けた少女だった。髪が長く、軽く腿を越えていて、その長い髪を結うこともなく、そのまま流し落としている。その少女はしばらく二匹の蝶を見つめてから蝶を放した。
「爺様。〝紫の蝶〟がこの浴衣の事知った。」
そう言った後、蝶に餌を与える。その最中に遠くの方から、低く潰れ、枯れた声が聞こえた。
「そうか、奴が知ったか。もうすぐだ。莎子(さこ)。」
枯れた声の主は少女を〝莎子〟と呼んだ。〝莎子〟と呼ばれた少女は何も言わず、ただ蝶に餌を与えているだけだった。

紫蓮が帰宅し、玄関の扉を開けると、玄関から年配の女性の声が聞こえた。
「お帰りなさいませ。紫蓮坊ちゃま。」
誰もいないはずの南条邸から、声が聞こえたことに少し驚いた紫蓮だが、納得がいく事柄を思い出し、安堵の表情が出た。そして言葉を出す。
「ただいま。そういえば今日からでしたね。」
声の主はこの家の使用人。現在では家政婦と呼ばれる者だ。今年で六十になり、南条家に仕えて早、五十年になる。名は千代(ちよ)。
生まれは戦後間もなくで生まれた頃にはすでに父は戦死しており、母は病に臥せていた。まだ幼い時分にその母も亡くし、母方の祖母に育てられていたが、その祖母も戦後ということと、年配だったということがたたり、千代が十になる前に死去した。
千代はその後、紫蓮から数え先々代の父、紫蓮の曾祖父に拾われ、十のうちから使用人として住み込みで南条家に雇われていた。当時、千代と同じ年頃だった先々代とは、家では子息と使用人、学び舎では友人として交流を深めていた。だが、所詮は友人。二人の仲が恋に発展することはなかった。互いが意識しなかったせいだろう。恋の対象に考えたことがなかったのだ。二人はいつまでも、何でも話せる友人だった。
そして、そんな千代も南条家の勧めで見合いをし、先方へ嫁いだ。だが、南条家の使用人を辞めるとは決して言わなかった。夫や舅、姑に反対されながらも、ここだけは譲れないと決して譲らなかったのだ。自分を拾ってくれた先々代の父に恩返しをしたい。と言い、嫁ぎながらも南条家に仕えていた。嫁いだ身としての弁えを知り、嫁ぎ先から毎日通いつめていた。以前は住み込みだったが、嫁いだのならば南条邸を出なければならない。だが、一度も弱音は吐かなかったし、その後何十年も南条邸に通っている。
そして、仕えてから今年で五十年。千代が知る中で紫蓮は三代目の〝坊ちゃん〟である。いや、紫蓮にはもう親はいない。紫蓮を当主として数えるならば、千代が仕えてきた中では四代目の〝当主〟で、別の意味の主人になる。
以前、ここから徒歩十分程の処に夫と二人で住んでいたのだが、先月夫が病魔に蝕まれ他界。いろいろあり、数週間ほど暇をもらっていた。紫蓮は家事炊事、共に人並みには出来るため、大して苦労はしないのだが、生まれる前から家に居た千代を、追い出そうとは思っておらず、調子が良くなればまた来てくれと言っていたのだ。
「今日からまた宜しくお願い致します。」
千代はそう言って紫蓮に向かい頭を下げた。すると紫蓮は少し慌てたように
「そんな、止めてください。」
と言い、千代の頭を上げさせる。頭を上げさせた紫蓮が玄関に上がり、スリッパに履き替えた後、自室に行こうと階段に足を向けたが、すぐその足を戻し、キッチンに向かおうとした千代を呼び止めた。その後、紫蓮が千代に言ったことは、千代にとって意外なものだった。
「また、この家に住み込んでもいいんですよ?」
嫁ぐ前みたいに。部屋ならいくらでもあります。
紫蓮は独り身になった千代にこう告げた。近くで、徒歩十分といえども、毎日通っている六十の千代には辛いものがある。紫蓮はそれを気遣って千代にそう言うと、千代は少し驚いたような顔をして笑った後、笑顔で言った。
「私独りで他に誰もいないとはいえ、私は嫁いだ身ですので、坊ちゃまのお気持ちだけ有難く頂戴致します。」
そう言い、千代は紫蓮の申し出を丁重に断わり、キッチンへと向う。紫蓮も階段を上がり、自室へと足を延ばした。

「莎子、どうした。」
珍しく笑っている莎子に枯れた声の主が声をかけた。笑っていると言っても、人には分からない程小さな笑みだった。すると声をかけられた莎子は静かにただ一言、
「…〝紫の蝶〟…殺してもいい…?」
と側にいた枯れた声の老爺に聞いた。すると老爺は微妙に笑いながら、
「あぁ、いいさ。〝紫の蝶〟が浴衣と帯の事を知ったのならな。」
と言い怪しい笑みを浮かべた。莎子は何が楽しいのか、珍しくその日だけは一日中笑っていた。

「南条紫蓮さま、…か…。」
自室のベッドの上で寝転がり、封筒を手にしながら一言呟いた。
紫蓮の手にあるのは一通の手紙。切手も消印もない手紙。
この手の手紙なら今までに数え切れないほど来ている。全てラブレターか果たし状という形で。この手紙も先程、千代が郵便受けに入っていたのだと紫蓮のところに持って来たものだ。
だか、今回の手紙は今までの手紙とは違った。切手も消印もない。そして、差出人の名前もない。今までと同じ手の手紙であれば必ず差出人の名前は書いてあるはずだ。本人が紫蓮に自分の名前を覚えてもらおうと必死だからだ。紫蓮は人と関わらないようにしているため、当然クラスの女子生徒とも話しはしない。紫蓮が覚えている女子生徒がいるかということ自体怪しいところだ。そして、今回のこの手紙。紫蓮は封を切る気にはなれなかった。普段の手紙も決して開けている訳ではないが、独特の雰囲気を持つこの手紙は何か嫌な予感がしたからだ。だが、心を決め、手紙の封を切った。すると中に入っていたのは一枚の手紙だった。正確には手紙しか入っていなかった。その手紙の内容を見て、紫蓮は言葉を失う。

お前の両親が死んだ本当の理由を知っている。
両親の死後送った手紙は嘘に過ぎん。
こちらがでっち上げたものだ。
最近呪いの赤い蝶の浴衣と黒い帯の事を知ったようだな。
そのことを忘れぬようにし、一週間後の金曜日、午後五時に街外れの元薬品会社に来い。
両親が死んだ理由の全てを教えよう。
老いぼれた黒い蝶

紫蓮はこれを見て瞬間的に頭を回転させる。以前自分のところに送られてきた手紙。両親の友人からとあったあの手紙。あの手紙が嘘。
だが、大して驚く事ではない。内容があまりにも信じがたい内容だったため、最初から信じてはいなかった。あの手紙は両親が亡くなって間もなく家に届いたもの。
紫蓮の両親は各界に名の知れた著名人だったため、式の弔問者は二千人を越すほどだった。だが、紫蓮はその誰にも両親の死の理由、手紙のことを話さなかった。〝何も知らない息子〟を演じ続けていたのだ。紫蓮のところに手紙が来たことも、誰にも何も話していない。そのため手紙のことを知っている者は誰もいないはずだ。だが、この手紙の差出人はそのことを知っている。ということは、前回の手紙の差出人と今回の手紙の差出人が同一人物だということになる。だが、それよりも紫蓮が気になったのは文章中に出てくる呪いの浴衣の部分である。何故この手紙の差出人、〝老いぼれた黒い蝶〟は浴衣の極秘事項を知っているのか。赤い〝蝶〟の浴衣、このことは極秘情報で紫蓮も祝に教えられ知ったことだ。祝が〝極秘〟と言ったのだ。このことを知っている者はごく少数の限られた者だけだろう。祝は学校一の情報屋で知らないことはないと言われる程の情報力を持っている。その祝が〝極秘〟だと言い切った情報だ。知っている者がそう何人も居るとは思えない。ならば何故この手紙の差出人はそのことを知っているのだろうか。それが最大の疑問だ。極秘情報であるにも関わらず、何故知っているのか…。
このことも一週間後の金曜日、あの場所に行けば分かるだろうか。それを信じて紫蓮は一週間後、指定の場所に行くことに決めた。自分が動き出さなければ何も始まらない。両親の死因を知るために、真実を知るために。そう誓ったあの日。その決意を無駄にしたくなくて。
そうこうしているうちに部屋の扉が三回鳴った。するとしばらくしてから千代の声が聞こえた。
「紫蓮坊ちゃま、お夕飯のご用意が出来ました。」
いろいろ考えているうちに夕食の用意が出来たらしく、そのため千代が呼びに来たのだ。すぐに行くと伝え、手紙を机の上に置き、部屋を出た。

夕食を食べ終わり、再び部屋に戻って来た紫蓮の頭の中は乱れきっていた。
何も考えられず、今日はもう寝ようと部屋のカーテンを閉め、風呂に行くつもりだった。だが、カーテンを閉めようと窓に向かった紫蓮の眼に映ったのは、紫蓮の身体の自由を奪う光景だった。
南条の敷地には入っていないが、黒く長い髪を結わず流し落とし、赤い浴衣に黒の帯をした少女が睨むように紫蓮を見つめていた。ただ無心に紫蓮を見つめていた。紫蓮にはその姿が赤い浴衣と黒の帯ということしか分からず、浴衣の柄が蝶であることには気付かなかった。だが、ただ純粋に紫蓮を見つめていることが分かった。身体の自由が利かなくなった紫蓮だが、何かを思い立ったように慌てて部屋を出て、家を出た。
すると、そこにいたはずの少女はそこにはいなかった。必死で辺りを見回すと急いで走り去って行くあの少女が目に入る。紫蓮は急いで少女を追いかけ走る。ある程度まで来ると少女は突然走るのを止め、立ち止まった。それにつられ紫蓮も走るのを止め、立ち止まる。
少女と紫蓮の間には一定の距離が出来た。紫蓮は自分が何故この少女を追って来たのか疑問に思っていた。少女が追って来いと言った訳でもなければ、誰かに追えと言われた訳でもない。自分の意思で少女を追って来たはずなのに、そのこと自体が不思議でならなかった。顔見知りという訳でも、知り合いという訳でもない。今日初めて会った初対面の少女なのだが、追わずにはいられなかった。
やはり自分の意思ではない。何故か気付いたら追いかけていた。ただそれだけの話のはずなのだが、それが不思議で仕方がないのだ。すると立ち止まった少女は紫蓮の方を向き、静かにただ一言呟いた。
「〝紫の蝶〟…見つけた。」
そう告げた後、浴衣に袖を通した手を口元に持って行き少しだけ笑い、紫蓮を見つめていた。そして再び口を開いた少女が言ったことは、紫蓮にとって予想もしていない言葉だった。
「〝紫の蝶〟…南条紫蓮………殺す。」
この言葉に紫蓮は驚きを隠せなかった。
〝殺す〟…今の若者はすぐにこの言葉を発する。そんな気など、力など、勇気など持っていないくせに、面白半分で日常的に口にする。
だが、この少女は違った。この少女は眼に偽りがなかった。すごく冷たい眼をしていて、本当に躊躇いもなく人を殺すような、そんなただならぬ眼をしていた。
そして、この場に来て分かったこと。少女の着ている浴衣と帯があの噂の浴衣と帯と酷似しているということ。浴衣の色は赤。赤い生地に〝蝶〟の柄。
そんな少女に紫蓮は問う。
「君は…何者なんだ…?」
何故自分を殺すというのか。何故家の前にいたのか。その他にも聞きたいことはある。だが、言葉が出て来なかった。言葉を出さなければ何も始まらない。そう思いながらも、言葉を出せない。そんな状態が続いた。

あれから、どれくらい経っただろうか。見つめ合ったまま、沈黙が流れ、時刻(とき)が流れた。しばらくして口を開いたのは、少女ではなく紫蓮の方だった。
「君は何者なんだ…?」
放った言葉は沈黙になる前にも一度言った言葉。先程少女はこの問いに答えてはくれなかった。だが、ずっとこのままでいても埒が明かない。そう思い、少しでも前進するために言葉を出したのだ。また答えてくれないかもしれない。だが、少女が答えてくれることを一縷の望みにかけて願ってみる。すると少女は紫蓮の問いに答えた。
「あたしは…蝶。」
少女の返答に紫蓮はもどかしくなる。どうしようも出来ない感覚が迫って来る。
〝蝶〟…また出てきた。何なんだ、〝蝶〟って!!一体何なんだ!!
そう思う紫蓮の心が謎を乱していく。謎は深まるばかりだ。その謎を解く事が出来るだろうか。自分が、両親が関係しているのなら、尚更知りたい。知らなければならいない。そう思っている間に少女から次の言葉が出た。
「赤い、赤い、…血まみれの蝶。」
少女が前言を発してから三秒も経っていないはずだ。紫蓮の中であれだけのことが巡っていたのにも関わらず。紫蓮は冷静になるよう自分に言い聞かせ、静かに言葉を出した。この状況に、いつもは出ない冷や汗が出るような感覚がする。
「君の名前は…?」
その問いに少女は答えるだろうか。そう思っているうちに少女の口が動くのが分かった。だが、少女の口から出たのは、やはり少女の名ではなかった。
「…赤い蝶。」
これが少女の名前の訳がない。必ず本当の名前があるはずだ。痺れを切らしそうな、何とも言えない感覚だった。冷静に、だが、真剣に少女と向き合った。
「違う。君の本当の名前だ。」
そう放った後、少女は紫蓮が真剣に言ったことが分かったのか、紫蓮から視線を逸らし、横を向いて俯いた。そして、消えるような小さな声で何かを呟く。
「……………さ、こ………。」
少女の小さい声が紫蓮に届いただろうか。少女の声はそれほど小さかった。周りで誰かが一声叫べば消えてしまいそうな程。だが、紫蓮にはしっかりと聞こえていた。少女の小さな声が。
「…さこ?」
紫蓮が確認を取ると、少女は小さく頷いた。今までとは違う少女の姿を見て、紫蓮は少し気分が変わる。少女に向けて笑いかけていた。笑いかけていたのだ、あの紫蓮が。この場に祝がいれば、奇跡が起きたなどと言うだろう。それほど紫蓮が笑いかけることは珍しすぎることだ。
珍しいといえば少女に対する呼び方もそうだ。いつも紫蓮はクラスの女子生徒を呼ぶ時も〝あんた〟と呼ぶ。だが、この少女に対しては違う。〝あんた〟ではなく〝君〟を使っている。これもかなり珍しいことだ。いや、初の出来事ではないのだろうか。紫蓮が女を呼ぶこと自体珍しいことだが、寧ろ、珍しいを通り越している。
紫蓮は少女の名前が〝さこ〟だと分かると再度微笑し、少女に訊ねた。
「漢字は?どう書くの?」
この問いと紫蓮の反応に、少女は眼を丸くして驚いたような顔をしている。紫蓮がそう言うとは思っていなかったのだろう。
少女は長い髪を持つことも結うこともせず、ゆっくりとしゃがみ込み、少し大きめの石を持ち、地面に何か書き始めた。長い髪が地面につく。だが、それを嫌がらない少女。こんなに髪を長くしているのに、髪に対するプライドがないようだ。そして、しばらくしてから少女が書いたものを見てみると〝莎子〟と書いてあった。紫蓮がそれを読む。
「莎子。」
これで〝さこ〟って読むんだ。と付け足し、また莎子に向けて笑いかけた。すると紫蓮は莎子同様にしゃがみ、近くにあった手頃な石を持ち、何かを書き始めた。書いたものは、
―――〝紫蓮〟だった。地面に自分の名前である〝紫蓮〟を書いた。
「俺は紫蓮っていうんだ。」
莎子は先程、紫蓮の本名をフルネームで言った。紫蓮は莎子が自分の名前を知っているのを分かっていて、莎子に名前を言ったのだ。紫蓮がそう言うと、莎子は紫蓮を見つめ、唇を動かした。
「違う。お前は〝シレン〟じゃない。」
莎子は〝紫蓮〟を〝シレン〟と発音した。だが紫蓮はそんなことはどうでもよかった。ただ言われたことの意味が理解出来なかった。自分の名は〝南条紫蓮〟で〝シレン〟で違いないのに。
紫蓮が不思議そうな顔をすると、莎子はそんな紫蓮に気付いたのか、理由を述べた。
「お前は〝紫の蝶〟だ。」
…―――〝紫の蝶〟…また出て来た。〝蝶〟…。
莎子に〝紫の蝶〟と言われる理由は分からないが、意味は分かる。莎子は最初、自分のことを〝赤い蝶〟と言った。何故〝赤〟なのか詳しいことは分からないが、自分が〝紫〟なのは分かる。自分が〝紫蓮〟だからだ。紫蓮だから〝紫〟なのだ。
だが、紫蓮は蝶ではない。人でちゃんとした名前がある。その意味を込めて、紫蓮は莎子に言った。
「俺は〝蝶〟じゃない。紫蓮だ。紫蓮。」
紫蓮は莎子にそう言い聞かせた。すると莎子は
「蝶だろうがシレンだろうが、どうでもいい。」
そう淡々と放つ。これ以上名前のことで言い合っていても仕方がない。それに紫蓮は自分が人に何と呼ばれようと気にはしない。だが、ここで会話が途切れる訳にはいかない。聞きたいことはまだある。紫蓮はそれを聞き出すために質問を繰り返す。
「君の年は?いくつ?」
「……お前と同じ…。」
「学校は?どこの学校?」
「……行ってない…。行く必要もない。」
「怪我は?大きな怪我をしたことは?ほら、階段から落ちるとか。」
「……ない。お前じゃないんだ。たかが三才でも階段から落ちることはしない。」
「家は?どこら辺?」
「……街外れ…。」
「家族は?何人家族?」
「………家族なんかいない…!」
その質問で、莎子は声を張り上げ、立ち上がった。
聞いていて、分かったこと…。莎子は独りだってこと。それと、同じ形式で質問を繰り返した結果、莎子はどの質問にも敏感に反応した。そして、どの質問の答えも口から出るのに時間が掛かったこと。莎子の様子を見れば、学校に行っていないことは一発で分かった。何よりもあの長い髪が物語っている。腿に行くまで髪を伸ばす子はそうそういるものではない。それに加え、あの髪には結った後がない。学校に通っているなら髪を結わなければならない。腿まであるなら尚更だ。どこの学校の校則でも禁じられているはず。
紫蓮は一目見ただけで相手の癖や特徴を認識する。これは幼き頃からの習慣がものをいう。そのため、人の第一印象や素振りで人間性を見分ける事も少なくはない。だが、流石の紫蓮も年が自分と同じくらいということしか分からなかった。何しろ、今は夜。街灯はあるものの、肉眼では足元しか見えないと言う方が正しい。先程地面に書いた名前もやっと見えたくらいだ。それに莎子の長い髪で顔はよく見えない。そのためか姿形で判断するしかなかったのだ。だが、予想通り、自分と同じ年だったとは。そして、分かったことで一番重要なこと…。
自分のデータが流れていること。
紫蓮は莎子との面識はない。だが、莎子が紫蓮のことを知っているということは調べたということだ。紫蓮は学校内では指折りの有名人。知らない者などいないという程だが、莎子は紫蓮の学校の生徒ではない。勿論学校外で紫蓮を知っている者はいるだろうが、学校外の人間で紫蓮の正確な情報を得るならば、それ相当の探りを入れなければ不可能だ。紫蓮が三才のとき階段から落ちたということは余程調べないと知ることは出来ない。いや厳密にいうと不可能に近い。このことを知っているのは両親と昔からの親友である祝、そして、現在の紫蓮の保護者だけだ。だが、紫蓮の現在の保護者は一般人が知れるものでもなく、情報を得るのはやはり不可能。そして、祝が紫蓮に黙って誰かに情報を漏らすことは、ほぼ百パーセントない。祝はかなりの情報屋で一般人が知らないこと、知る事の出来ないことを自慢の情報網を使って得ている。だが、無償で誰かに情報を渡すような奴ではない。況してや、それが紫蓮の情報ならば尚更だ。紫蓮の情報はたとえ有償であっても教えることはない。ということは、これらのことを含まえ考えると、莎子のこの情報は紫蓮の保護者でも祝ではない誰かから得たということになる。すると、益々分からなくなる。この情報を知る者など他にいないはずなのに、紫蓮の情報を誰かが漏らしているのだ。その誰かが誰なのか分からない。紫蓮のこんなことを知っている人物が他にいるのだろうか。
いくら考えても分からない紫蓮は、今、目の前にある現実に向き合った。何かを決心し、しゃがんでいた状態から立ち上がった。そして一言。
「じゃあ、最後の質問。」
―――〝最後〟…。紫蓮はそう割り切った。質問の内容は決まっていた。…迷うことなく。
一方の莎子は〝最後〟というのに苛立ちを覚えていた。自分は〝南条紫蓮〟というモノを、いや、〝紫の蝶〟というモノを殺しに来たのだ。質問に答えるために来たのではない。その気持ちがとても強かった。莎子は紫蓮の発言の後、すぐに口を開いた。
「あたしは質問に答えに来たんじゃない。」
お前を殺しに来たんだ。
そう放ち、紫蓮を力いっぱい睨み付けた。だが、只の睨みが紫蓮に利くはずない。紫蓮はその睨みを軽く流し、最後の質問を口にした。
「君と〝老いぼれた黒い蝶〟との関係は?」
これこそが紫蓮が莎子に本当に聞きたかったこと。
莎子が〝蝶〟を仄めかした時、紫蓮は確信を持った。莎子が赤、手紙の主が黒。紫蓮を取り巻く、赤と黒の蝶。赤い蝶と黒い蝶に関係があることは明白だ。だが、これは悪までも紫蓮の推測の域を出ない。更なる完璧な確信が欲しかったのだ。そのため、莎子に問う。そして莎子から返って来た答えは紫蓮にとって意外なものだった。
「〝老いぼれた黒い蝶〟…?…爺様のことか?」
〝爺様〟…。
莎子の言う人物が誰かは分からなかったが、その〝爺様〟という者が〝老いぼれた黒い蝶〟だということが分かった。これは紫蓮の勘だ。素振り、口調、視線の向きを見て分かる。莎子は問うように言ったが、紫蓮にはそれが確信になったのだ。莎子は嘘を吐き慣れていない。それは紫蓮が行った先程の質問でも立証されている。ということは莎子と〝老いぼれた黒い蝶〟には何かしらの接点があるということ。それだけ分かれば充分だった。あとは指定の日、指定の時間に指定の場所に行くだけ。紫蓮はこれ以上聞くことはないというかのように莎子にただ一言
「ありがとう。」
と告げ、自宅に帰ろうとした。だが、莎子はそれを許してくれなかった。紫蓮が踵(きびす)を翻したと同時に莎子は紫蓮を名ではない別の呼称で呼び止めた。
「待て!紫の蝶!」
紫蓮が振り向く前に莎子はどこからかナイフを取り出し、紫蓮の顔目掛け投げ付けた。紫蓮は振り返り自分に向かって来たナイフの刃先を躊躇いもなく指で挟み、掴み取るとその場に落とす。そして面倒臭そうに聞き返す。
「何?」
聞き返された莎子は紫蓮を睨み付け、叫び散らすように言い放った。
「言っただろう!お前を殺すと!」
莎子は声を必要以上に張り上る。
そう、確かに莎子は最初にそう言っていた。〝殺す〟と。莎子は紫蓮を殺しに来たのだ。莎子の言葉が本気なのは分かる。だが、紫蓮があっさり殺される訳がない。
「今の君じゃ、俺を殺せないよ。」
君の覚悟は認めるけど。
こう付け足した紫蓮は自宅の方を向き直し、迷うことなく足を進める。すると思い出したように足を止め、再度振り返り莎子に向けてこう言った。
「それと、俺の名前は〝紫蓮〟だ。紫の蝶じゃない。よく覚えとけ。」
莎子に向けてそう告げた紫蓮は、莎子を追って来た道を引き返して行った。さらに紫蓮は、今度は振り向かず右手を挙げて莎子に語りかける。
「一週間後の金曜日、五時に元薬品会社。楽しみにしてるよ。」
そして、莎子の視界から消えた。一方、獲物を逃がした莎子は紫蓮が見えなくなった少し後、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いていた。
「絶対、あたしの手で殺してやる…。」
拳を握り締め、強い口調で莎子はこの後、何度も何度も同じことを言う。
自分が紫蓮に負けたと思いたくない。〝老いぼれた黒い蝶〟は一週間後、紫蓮を手紙で呼び出しているが莎子が紫蓮を殺しに行くことは許した。それくらいで死ぬような奴ならば自分たちにとって願ったり叶ったりだと言うかのように。だが、莎子は紫蓮を殺せなかった。殺すつもりで逢いに来たのに、殺せなかったのだ。ナイフまで持って来たのに。
「次に逢った時は絶対、殺してやる…!」
莎子のこの呟きが暗く静かな夜の街に響き渡ることはなかった。


自宅に戻った紫蓮を迎えたのは千代だった。
いつもなら千代はもう自宅に帰っている時間だが、紫蓮が何も言わず家を飛び出したので心配で南条邸を離れることが出来なかったのだ。
紫蓮が玄関の扉を開け、中に入ると千代が大慌てで玄関にやって来た。そして紫蓮を見るなり素早く質問攻めにする。
「坊ちゃま、大丈夫ですか?お怪我はありませんか?一体どうしたんです?」
心配そうに見る千代に紫蓮は
「大丈夫ですよ。心配をかけてすみません。…ただいま。」
と笑顔を向けた。すると千代は慌てて頭を下げながら
「申し訳ございません、紫蓮坊ちゃま。お帰りなさいませ。」
と挨拶をする。
千代の行動に紫蓮は、そんなに改まらなくても。と言い、階段に足を向け、自室へと足を延ばした。
紫蓮の住むこの南条邸は戦後、先々代の父の、紫蓮の曾祖父の代に造られた。丁度、先々代が千代を拾った年に造り、出来上がったのだ。この家の特徴は、基本形は和風ながらも二階建て仕様で階段があるということ。戦争は終わったのだ。異国との交流も盛んになるであろう。一足先に取り入れるのも悪くはない。という曾祖父の意思だった。今でこそ二階建てが珍しくない世の中だが、戦争最中(さなか)のこの時代には一戸建てであっても一階建てが主流で二階建ての一般の家などないも同然だった。その中で当時の当主、紫蓮の曾祖父がこの場に家を建て、ここで暮らしていたのだ。大きさは普通の一般家庭と同じ大きさで、莫大な財産を持っているとは思えない大きさだが、紫蓮もそのことを知ってか古いこの家に住んでいる。築五十年と歴史のある家で、南条の所有する数ある家の中で一番小さく古い家だが、住めなくなるまでこの家に住もうという紫蓮の意思により、今も尚、曾祖父が建て、千代が育った当時の南条邸のままだ。以前、千代の部屋だった奥の部屋も未だに残っている。千代もそんな南条邸に愛着があるのだろう。
紫蓮は自室に戻った後、今までのことを思い出していた。自分を殺しに来たという莎子という少女のことを。何故自分を殺すというのか、紫蓮にはその理由が分からなかった。今まで面識があった訳ではない。告白を断った逆恨みという線が一番高かったが、それもないことが判明した。〝莎子〟は学校に通っていないと言った。嘘かもしれないと思うところだが、まずそれはない。あの娘は嘘を吐くことを知らない。身体全体の雰囲気で、瞳で、それが判った。あの瞳は、嘘を吐いたことのない、そんな瞳だった。あの娘が何者かは判らないが、その答えも一週間後の金曜日に分かるだろう。
待つのは一週間後の金曜日。
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2017/05/24 19:18 | 創作男女 / 赤と黒の蝶

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